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1001. 差異と差異、そして究極的な意味


気づかないうちに、いつの間にやら書き留めていた日記の数が1000を超えた。その数字そのものに意味はないのだが、それらが積み重ねてきた小さな差異の連続には、思わず立ち止まって考え込んでしまうような大切な何かがある。

米国の文化人類学者グレゴリー・ベイトソンが残した名言にあるように、差異が差異を生み、差異は私たちに大きな違いをもたらすのだ。日々の生活の中で、毎日絶えず小さな差異がそこに存在していることに気づかせてくれたのは、日記の存在であった。

また、そうした差異に気づきを与えれば与えるほど、新たな差異が自分の目の前に開かれていくような感覚があった。そして、そうした感覚の積み重ねが、自分自身の中で差異を生み出し続けることにつながっていたのだと知る。

それを絶えず支え、内と外の差異を媒介してくれていたのが日記だった。発達心理学者のハインツ・ワーナーが指摘するように、発達とは差異化と統合化のプロセスなのだ。

差異化がなければ、統合化は起こらない。それは、生物の進化の過程を見れば明らかであり、細胞分裂によって臓器の形成があり、生物全体が形成されていく。

それと同様のことが、私たちの内側にも起こっている。内側の成熟には、差異化というものが不可欠なのだ。

1000ほどの日記を書く中で、様々な差異化が自分の中に起こっていたことに気づく。日記全体を通してそのように思うし、何より、1000の日記の一つ一つが差異に満ち溢れたものであることに驚きを隠せない。

これは以前の日記で取り上げていたように、私たちは全く同一の日記を書くことができないのだ。これは驚くべきことではないだろうか。

そして、これは私たちが常に変化していることを強く示す現象だと思うのだ。日記を通じて、差異に気づき、差異を捕まえることによって、新たな差異が生まれていく。

その様子を見ていると、私たちは絶えず差異の中で生きることを宿命づけられているように思える。私にとって、この宿命と真摯に向き合う一つの手段が日記を書くということなのだろう。 昨日、行きつけの古書店に向かうため、自宅のドアを開けた。ドアに鍵をかけ、螺旋階段を下りながら、絶えず表現することの究極的な意味とその行為を通じて生きることの究極的な意味に触れた。

三階から一階に降りる間中、私は、自分の内側のものを外側に表現することと、人間として他者と共に生きることの究極的な意味に触れていた。この究極的な意味があるから、私は毎日生きることができ、何かを絶えず創出していこうという意思が生まれるのだとわかった。

意味が持つ力は果てしなく大きい。内面宇宙が外面宇宙を飲み込みんでしまうことからも、人間の意味が持つ力は無限を飲み込む無限性を持ったものなのだと思う。

究極的な意味に触れた感覚が、言葉を超えた形で今この瞬間も自分の内側に流れているのを感じる。これから午前中の仕事に取り掛かりたい。2017/4/28

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