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792. 愛と死を通じた日々へ


起床直後、窓の外の世界に意識を向けてみると、小鳥の鳴き声が聞こえてきた。それはとても小さく優しい鳴き声である。同時に、意味深長な響きでもある。

一昨日のクネン先生とのミーティグの中で、もう少しで春が来そうだという話をしていた。その時にちょうど、早朝に聞こえてくる小鳥の鳴き声に対して、クネン先生も日々意識を向けていると述べていた。

私も以前から、早朝に小さく鳴り響く小鳥の声に関心を持っていたので、偶然ながら先生と同じ関心を持っていることがわかった。私は、小鳥の鳴き声から自然と意味を見出し、その小鳥も何らかの意味を込めて鳴き声を発していたように思えて仕方ない。

昨日から考えさせられていたのは、成長や発達そのものを追いかける生き方は間違っているのではないかということだ。人間は、成長や発達をするために生きているわけではない。

成長や発達などよりも大切なことがあるということを思い出さなければならない。絶えず、成長や発達の先を見なければならない。そのようなことを強く思うのだ。

私たちの人生において、成長や発達よりも大切なこととは、意味を見出すことそのものなのではないか、という考えが再び強くなっている。意味を見出す過程の中で、私たちは生きることの充実感を覚えるのではないだろうか。

こうした充実感は、成長や発達という現象そのものよりも遥かに重要であり、結局のところ、意味から生まれた充実感がなければ、成長や発達など起こりようがないと思うのだ。そのように考えると、日々の生活の中で意味を見出すということは、なおさら大切なことのように思えて仕方ない。

数日前に突如として、愛と死という人間が生きる上で最も重要であろう二つの主題について考える萌芽のようなものが、私の内側に現れた。これは依然として萌芽に過ぎないのだが、愛と死という主題が自分の内側に突如として芽生え始めたことは驚きであった。

愛と死は、決して日常から切り離してはならないものだろう。愛と死の中で、あるいは愛と死を通じて日々を生きるためには、それらに対する自分なりの意味というものが不可欠である。

これまでの私は、それらに対して何らの意味を付与することができていなかったがゆえに、日常から愛と死が切り離されてしまっていたように思う。私が最近強く意識している真善美というのは、愛と死と密接に繋がっている気がしてならない。

少しずつではあるが、自分の内側で様々なものが緩やかに繋がりつつあるのを確かに感じている。私の中で、愛と死を離れた生き方は、もはや否定されるべきものになり始めている。

愛と死の中に意味を見出し、そこから再び自分の人生を歩んでいく必要がある。愛と死という現象が普遍的なものであるならば、私たちは独自の意味をそこに見出していかなければならない。これは逆説的だが、確信を持って言えることだ。

愛と死に対して私たちが意味を見出すことが難しいのは、それらが普遍の極みだからである。普遍性の究極的な姿である愛と死に対して意味を見出すためには、独自の意味を紡ぎ出していくことが何よりも大切なのだ。

それをしなければ、私は一生かかっても、愛と死のなんたるかを知ることはないだろう。愛と死が普遍の極みであるということ、愛と死の中で日々を形作るところに辿り着くためには、徹底的なまでに個的な意味を積み重ねていく必要があるだろう。

そのような気づきは、今の私にとって極めて大きな意味を持つことであった。2017/3/1

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