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650. 「それ」の正体と涙について


きっとあるに違いない。そのようなことを確信させる出来事であった。前々から気づいていたのであるが、毎日書き留めている日記は日々の雑感に他ならないにもかかわらず、理由の定かではない涙が込み上げてくるような文章があるのだ。

その涙は、昨年日本でブームになった『君の名は。』の中で、主人公が流す涙と性質を同じにしているかのようである。自己を超越した存在に私たちが触れる時、自己は大いに揺さぶられ、その振動が私たちの奥深くから涙を湧き上がらせているのではないか、と思わずにはいられない。

自己を超越した存在は、自分とは異質の存在である場合もあるだろうし、今の自分を超越した大いなる自己の場合もあるだろう。いずれにせよ、私たちが自分自身を遥かに凌駕した存在と内面世界で出会う時、理由が確かではない涙が自然と流れてくるのではないだろうか。

先日、日本に一時帰国している最中、日本橋を歩いている時に、込み上げてくるものがあった。また、隅田川をかける橋を渡っている時にも得体の知れない込み上げてくるものがあったのだ。これらの現象に共通していることは、疑いようもなく、自己を超えた存在との邂逅であった。

振り返ると六年前に母国を離れて以来、私は頻繁に内側から込み上げてくるものを知覚するようになっていた。実際に、人目をはばからず涙を流すこともあり、同時に、一人で涙を流していることが頻繁にあった。

それは予期せぬ涙であり、きっかけはいつも些細なものなのだ。何気なく道を歩いている時であったり、人との何気ない会話の最中に、「それ」は突然やってくる。

もしかすると、自己を超越した存在は、自己を超越しているがゆえに、自己のすぐそばにいつも寄り添っている気がしてならないのだ。ただ単に、私たちがその存在を認識できないだけなのかもしれないと思う。

日常の何気ない活動を通じて、それと触れ合い、それを感じることができるというのは、私たちが人間として深く生きていく上で非常に大きなことのように思う。そして、それとの邂逅によって自然と流れてくる涙は、自己を超越した存在との出会いの証であり、大いなる存在と触れた証なのだと思うのだ。

その時に湧き上がる感情は、最も原始的なものでありながらも、最も高潔なもののように私には思える。自己と自己を超越したものとのつながりから生み出される感情は、私が最も大切にしたい感情の一つだと言える。

自分の過去のたわいのない日記を読み返してみると、文章を執筆する過程で涙を流していることがある。同時に、そうした文章を読み返してみても、ごまかしようのなく込み上げてくるものがあるのだ。

なぜ自分が紡ぎ出した言葉に対して、私自身が感極まることがあるのか不思議でならなかった。その理由の一つは、上記で言及したように、文章を執筆している最中の自分が自己を超越した存在と触れ合っているからなのだろう。

そして、もう一つ大事な理由がある気がしてならない。自己を超越した大いなる存在は、概念が生み出される世界よりも一段深い世界に私たちを誘うような気がしている。

それは言葉の故郷とも言えるようなものであり、概念の故郷と呼んでもいいかもしれない。いずれにせよ、それは言葉の世界よりも深い世界であり、その世界の感覚や感情が言葉の形として誕生するその瞬間に、私たちは感極まるのではないかと思うのだ。

それは産みの苦しみを超越した産みの喜びと感謝の念に近い。それは、自分の子供が誕生した時に込み上げてくるあの感情に近いのかもしれない。

そうしたことからも、この感情は、人間として生きる私たちにとっての普遍的な性質を帯びているように思うのだ。私たちが何かに打たれる時、大いなる存在と触れ合う時に込み上げてくるその感情は、言葉よりも深く、言葉の故郷から生み出されるものなのだろう。

私が真に望むことは、絶えずそれを通じて日々の生活を送ることであり、それを何らかの形で表現していくことである。この想いが、私の全ての探究と仕事を根幹から支えてくれるものなのだと思う。2017/1/12

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