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639. フローニゲンからの再出発


昨夜、日本からフローニンゲンに帰ってきた。フローニンゲン駅に到着した時、もはや安堵感を超えた帰郷感が私を襲った。

到着したのは夜の十時前であった。駅から一歩外に出た時、視界に広がっていたのは白銀世界であった。私がフローニンゲンの街を離れたのは、今から二週間前のクリマスイブの日であり、その時にはまだ雪は積もっていなかった。

この二週間前の間に、私がいないところでフローニンゲンの季節は確かに進行していたことを知る。相変わらず寒く厳しい冬がフローニンゲンの街を覆っているが、今の私にとって、日照時間の少ない鬱蒼としたフローニンゲンの冬に愛情を持たずにはいられない。

こうした暗く厳しい冬の中で毎日を形作っていくとき、私は精神の静かな境地に降り立っていき、人間本来が持つ動物的な感覚が研ぎ澄まされるのを確かに感じる。そうなのだ。この街を取り囲む冬は、間違いなく私の精神や感覚を鍛え上げているのだ。

私の精神や感覚の育て親であるがゆえに、私は厳しい冬に対して愛情を持っているのだと思う。

昨夜は自宅に到着後、すぐに就寝をしたため、今朝も早朝の六時頃には目が覚めていた。しかし、結局起き上がることをせずにそのまま八時近くまで半覚醒状態を維持しながらベッドの上で過ごしていた。

ベッドから起き上がり、午前中は荷ほどきをゆっくり行っていた。荷ほどきは、私にとって、旅に一区切り入れるための儀式のような役割を果たしていることに気づいた。

スーツケースから荷物を一つずつ取り出し、自宅の元の場所に戻す作業の中で、なんとも言えない気分になった。それは旅を懐かしみ、旅を慈しむ気持ちと形容しても問題はあるまい。

この気持ちを抱きながら、年末年始に四年振りに日本に帰ることができて、本当に良かったと思っている。自分の人生が自分の理性を超えたところで動いている確かな実感を得ることができ、今回の一時帰国によって、不動の精神を獲得できたように思う。

不退転の覚悟の中で探究活動を進めていた頃の自分はもはやいない。不退転の覚悟を通り抜けた覚悟の中で、日々の活動を継続していこうという思いで今は満たされている。

この体験の中にも、「覚悟」という言葉とそれが生み出す感覚の多様な階層を見て取ることができる。同時に、自分の中に蓄えられてきた既存の言葉が、表面上の形式的な意味を超えて、新たな意味を展開し、その展開が新たな感覚を生み出すという一連の流れに対しても、もはや驚きの感情は湧いていない。

つまり、「発見」という言葉の意味とそれが生み出す感覚が私の中で変わってきたということを、今日のこの瞬間に確かに掴んだと言える。内側で絶えず進行を続ける諸々の変化に気づくことが発見なのではなく、そうした変化が自分の存在そのものを表すものだという気づきの中で、それらの変化が自己に組み込まれている一部始終を見届けることが発見なのだと思う。

この二週間の一時帰国は、昨年の夏の欧州小旅行に匹敵するほどの精神的変容を促す旅であった。二週間前の自分はもはやここにはいない。その別れは必然のものであり、ここからの出発もまた必然なものである。2017/1/8

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