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628. 名園と名画の共演:足立美術館へ訪れて


島根・鳥取旅行の二日目は、足立美術館を訪れた。この美術館も、七年前の社員旅行の際に足を運んだことがあるのだが、当時は時間の都合上、ゆっくりと展示されている作品を閲覧することができなかった。

七年振りにこの美術館を訪れてみて、大きな感銘を受けた。足立美術館が持つ庭園はどれも格別であり、そのあまりの美しさに足を止め、そこでしばらく立ち尽くしていたのだ。

特に、「枯山水庭」は、ひときわ美しさを放っている。いや、途轍もない美しさを内に秘め、鑑賞者の内面的な成熟に呼応する形で美を表出してくれる、と表現した方が正確かもしれない。

庭そのものが一つの作品として形作られているのは間違いないが、何よりも打たれるのは、庭と美術館を取り巻く景観が一つの調和を成しながら極限の美を生み出していることである。足立美術館から見える雄大な山々と庭園が醸し出す美が、一つ次元の異なる領域で出会う時、このような美が顕現するのだと思わされた。今回の訪問は、年末の冬の時期であったが、他の季節に見せる表情を是非とも拝みたいと思った。

感銘を受けた二つ目は、横山大観の作品である。繊細さと迫力を兼ね備えた数々の名作は、紛れもなく自分に衝撃を与えていた。足立美術館には、横山大観の作品が初期のものから晩年に至るまで、およそ120点が所蔵されているそうだ。

大観の内面の深まりとともに少しずつ変化していく作品の様子を伺うことができ、これもまた私にとっての励ましの一つであった。大観の作品の現物をこの目で間近に見ることができたのは、とても幸運であったと同時に、今日見た作品を今後も繰り返し眺めたいという強い思いが湧き上がってきた。

そのため、大観の画集を購入し、オランダに持って帰ることにした。大観の作品を真に咀嚼するまでに相当の時間を要するであろうが、彼の作品が私の内面の成熟を支えてくれることは間違いない、という確信を持っている。

上記の庭園にせよ横山大観の作品にせよ、それらは美術館の本館にある。本館をゆっくりと見て回っていると、すでに昼食の時間になった。昼食を館内のレストランで済ませ、午後からは陶芸館をじっくりと見て回った。

ここには、北大路魯山人(1883-1959)と河井寛次郎(1890-1966)という日本を代表する二人の陶芸家の作品が展示されている。私は陶芸作品については疎いので、展示されている作品をただ眺めているだけであった。

しかし、彼らが芸術活動を通じて残してきた数々の言葉もそこに展示されており、それらには多大な感銘を受けた。今の自分が持っている思想と態度を貫いていくことは、間違いではないことを確信させてくれるような言葉であった。

北大路魯山人と河井寛次郎という二人の偉大な表現者が残した数々の言葉を見たとき、それらの言葉に内包されている深みを目の当たりにしたように思った。同時に、表現者の思想の深さが作品の深さに色濃く表れるということも改めて痛感させられた。表現者の内面的成熟とその人が残す創造物の深さとの間には、拭い去ることのできない一本の線が通っているのだ。

そして最後に足を運んだのは、現代日本画の名作が展示されている新館である。ここに展示されている作品も非常に素晴らしかった。どの作品も巨大なキャンバスに描かれており、それらの作品が訴えかけるものには凄まじいものがあった。

ここに展示されている多くの作品が、私の足を止め、それらの作品と対話をしたいと思わせてくれた。全館を通じて、両親と一緒に意見交換をしながらゆっくりと鑑賞を楽しんでいたため、新館に到着する頃には帰りの時間が迫っていた。

最後は少し駆け足で新館を見ることになってしまったため、ここに展示されていた作品が載っている画集を購入し、それもオランダに持ち帰ることにした。それぐらい素晴らしい日本画がこの新館に展示されていたのだ。

結局、この日の観光は足立美術館だけとなったが、それぐらい時間をかけて堪能する価値のある美術館だと思う。今年の夏に訪れたパリのルーブル美術館よりも、足立美術館の方が、私の心を捉えて離さない作品が多数所蔵されていたのは疑いようのない事実である。

この美術館の創設者である足立全康氏には大変感謝している。私にとって足立美術館は、名園と名画が織りなす調和の中で私をくつろがせてくれる美術館であり、日本の粋を感じたい時には必ず戻って来るべき美術館となった。2016/12/29

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