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395. 問いと答えの不思議な関係


今朝起床して少し時間が経ってから、少しばかり思考の動きが鈍いことに気付いた。今日は土曜日であるから、一週間分の疲労が見えないところで蓄積していたのかもしれない。

あるいは、フローニンゲンに到着してから何もしないでゆったりと過ごすことを一度もしてこなかったため、少しばかり休息を自分に与えた方がいいというシグナルなのかもしれない。

とはいえ、今の私にとって最良の休息は、その時の気分に合致した専門書か論文を読むこと、または文章を書くことだと思うので、結局何もしないということにはなかなかなりえない。それでもそうした最良の休息を脇に置き、今日の午後はゆっくりと映画鑑賞でもしようと思う。

動きの鈍い思考を引きずりながら、今朝は知人の方が送ってくれた文章を読んでいた。その文章を読むと私が以前考えていたことと類似する指摘がなされていた。それは「問いと答えは一体である」という考え方である。

送っていただいた文章は三つの問いを出発点として、禅の思想が体現された「十牛図」を非常にユニークな視点で読み解いている。知人の方の洞察溢れる解釈そのものにも大きな価値があると思ったが、分析内容以上に驚かされたのは、知人の方の思考プロセスであった。ご自身で立てられた三つの問いを出発点として、思考がどんどん展開していく様子が見て取れたのだ。

問いを立てることによって暫定的な答えが生み出され、その暫定的な答えが一段と深い答えを導いていく様には考えさせられることが多々あった。私たち人間が思考を用いて知ることのできる範囲と限界を探究する「認識論(epstemology)」という哲学領域を私は少しずつ開拓しており、問いという存在は私たちの認識範囲と深さを拡張させるような働きを内在的に持ち合わせている、と改めて思った。

認識論はその他にも、私たちの認識や知識の起源を探っていくものであるが、認識や知識を拡張・深化させる問いの起源にも関心を持った。「私たちの問いはどこから生まれるのか?」という問いは実に難解なものであり、この問いに対して自分なりの回答を持つことができた時、人間の認識世界を開拓する方法が見えてくるような気がしている。

問いの起源に関して、今の私は自分で納得のいく回答を提出することができていない。しかし、問いというのは日々私たちの生活の中であらゆる瞬間に生まれており、それらの問いを見過ごしていることにまた別の問題があるように思うのだ。

問いというのは答えと一体であるという性質に加えて、「機会(チャンス)」と同様に私たちの手からこぼれやすいという性質を持っているように思う。

つまり、問いは生まれた瞬間に捕まえておかなければ、いとも簡単に私たちの認識世界から逃げ出そうとするのである。もう少し正確に言い直すと、私たちは問いを適切に捕まえることによって初めて、答えが得られる可能性が生まれ、問いを捕まえることをしなければ、問いは雲散霧消し、私たちの認識世界は現状から拡張することも深化することもないのではないか、ということである。

ひょっとすると、問いというのは次々と生まれたがるというよりも、適切に捕まえられることを望んでいるのかもしれないと思わされる。往々にして私たちは、問いが持つそうした想いとは裏腹に、問いを真剣に捕まえようとすることは少ないだろう。

そういえば、私は書籍や論文を読む中で生まれてきた問いを必ず余白に書き込むようにしており、日々の生活の何気ないところで問いが生まれたらノートに書き留めるようにしている。もしかしたら、これは問いを尊重し、問いと真剣に向き合おうとする自分の意志が現れているのかもしれないと思わされた。

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