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303. 思考の螺旋運動と意味の総体


昨夜は珍しくなかなか寝付けなかった。昨日は欧州小旅行に向けて、各国の電車やホテルの予約にあれこれと頭を使っていたため、旅のイメージが一挙に出来上がり、巨大なイメージの総体が自分に押し寄せてくるかのようだった。

旅のイメージが自分にやってくるのと並行して、ある種の高揚感のようなものが自分の中で沸き上り、それが寝付きを悪くさせていたのかもしれない。それにしても奇妙だったのは、欧州小旅行における最初の滞在地であるライプチヒは音楽の街として有名であり、その街の特性が早くも自分を捉えようとしていたのである。

どのようなことが自分に起こっていたかというと、幾つかの代表的なクラッシック音楽の楽曲が重なり合い、就寝しようと思っていた私の耳に地鳴りのような幻聴として聞こえてきたのだ。轟音とも形容できるこの幻聴には随分と驚かされたが、全くもって不快な音ではなかったことも興味深い。

確かに昨夜の寝付きは良くなかったが、一夜明けてみると、すっきりとした目覚めと共に今日という一日を始めることができた。起床直後、昨日考えていたテーマについてまたあれこれと思考が運動をし始めた。

昨日掴もうとしていたテーマについて今日も再び考えている自分を見るにつけ、私たちの関心事項というのはつくづく輪転するものなのだと思わされる。つまり、私たちは毎日違うようなことを考えていると思っていながらも、それらを一段高い所から眺めて分類すると、ほとんど同じカテゴリーに属するテーマについて繰り返し考えていることがわかるのではないか、ということだ。

これはダイナミックシステム理論の観点からも納得の行く性質だと思った。どういうことかというと、私たちの思考という動的なシステムの挙動は、ある臨界点を超えるまでは同じ階層内をぐるぐると動き回るのである。

ただし、重要なこととして、思考テーマがいかに堂々巡りのように思えても、思考の円転運動によって新しい意味がそこに開かれていく可能性があることを忘れてはならない。結局のところ、私が日々の思念や感情に言葉を当てようとしているのは、こうした旋回するテーマを確実に捉え、そこに新しい意味を付与しようとしていることに他ならないのではないかと気づかされた。

それはさながら、繰り返し現出する一つのテーマという意味の総体に対して、新しい意味を徐々に付け加えていく作業に他ならない。こうした作業は一夜で成し遂げられるものではなく、決して一足跳びに新たな意味の総体を築き上げていくことはできないのだ。

こうした意味の総体こそ、特定領域における知性発達の産物と言えるだろう。私たちはある知性領域において、徐々に新たな意味を付け加えることによって一つの大きな体系(システム)を築き上げていくのだ。そのように考えると、意味の総体を構築していくというのは、思考の円転運動によってというよりも思考の螺旋運動によってである、と述べた方がより的を得ているだろう。

そしてこのような意味の総体を築き上げていくときに重要になるのは、いかに思考テーマが同一のものに思えたとしてもそれに臆することなく、新たな意味を付与する可能性を探りながら思考運動に従事することだと思う。

往々にして私たちは、日常生活の中でふと湧き上がってくる考えを取るに足らないものだとみなしがちだが、実はそこに意味の総体をより堅牢にするための材料が眠っていると思うのだ。こうした建築材料と向き合うことによって、私たちはより強固な意味の総体を構築することができるのではないだろうか。

また何よりもこうしたプロセスこそが、システム構築的な特性を帯びた知性発達の肝なのである。螺旋運動を行う思考や感情を確実に捉え、それらに絶えず言葉を与えていくこと。そうした実践の先に、まだ見ぬ巨大な意味の総体が現れてくると思うのだ。

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