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213. 存在のダイナマイトに火をつけて


面白いもので、毎日やって来る朝はいつも質的に異なったものとして感じられる。例えば、今朝の起床直後は何やら重たいものが全身にまとわりついているような感じでありながらも、それは不快な重さではなかった。

重力のようなどこか心地よい負荷と自分に安定感をもたらすような重さだった。毎朝欠かさずに行っている一連の実践を終えると、そうした重さはどこかに消え、昨日と同じような流れの中に入る。

「向かってはならぬものに自分は向かいつつあるのではないだろうか?」とここ最近毎日のように思う。そこにひとたび足を踏み入れると、戻ってこれないただならぬ何ものかに向かいつつあるのを実感している。

ヨーロッパなる摑みどころのないものに自己を投げ入れる日まで残すところ一ヶ月ほどである。ヨーロッパという存在はそれとして大きなものであるが、自分が向かいつつある常軌を逸したその何かは、ヨーロッパという存在とは異なる気がしている。

昨夜、自分の中で何かが爆発したのを感じた。自分の中の何かが炸裂し、弾け散ったのだ。これは確かだった。

正直に打ち明けると、「人間の発達は死と再生のプロセス」という言葉にこれまで違和感を覚えていた。より正確には、その言葉に欠けている強烈な何かが発達プロセスの中にあると常々思っていたのだ。

確かに、「死と再生」という言葉にも十二分な重みがある。だがそこには何か重要なものが欠落している、という悶々とした思いにこれまで包まれていた。

しかし、昨夜の体験を経ることによって、その欠落したものが何であるかが分かった。人間の発達において安楽死はありえない。そして、穏やかな誕生もありえないということだった。

あり得ることは二つしかなかった。爆発して死ぬということ。そして、爆発から生まれ変わるということ。人間の発達の根底にあるのは、爆発的な死と爆発的な再生なのではなかろうかと気づいたのだ。

「今よりも成長したいんです」「より成長することを日々希求しています」と言う人やそう思う人に対して、私はいつも安堵感を覚える。なぜなら、それらの人は確実に成長しないからだ。確実に。

それらの人が成長に伴うあの爆発的な死と爆発的な再生を経験しないで済むことに対して、私は胸を撫でおろすのだ。単なる言葉や思いから成長を望む者に成長を授けないというのは、成長を司る創造主の極めて優しい配慮だと思う。

真の意味での成長が起こるのは、人知を超えた何ものかに取り憑かれ、自分の内側でのたうち回る蠢めく何かに対して、藁にもすがる想いで祈りにも似たコトバを内側から発する時なのではないかと思うのだ。自分の内側からそうしたコトバが出ざるを得ない極限に至った時、人は遅かれ早かれ確実に成長する。確実に。

「今よりも成長したいんです」という言葉は、成長を創造する人知を超えた存在を召喚しない。それはあまりにも召喚力のない言葉なのである。

一方、藁にもすがる想いから生まれた祈りのコトバは、存在のダイナマイトの導火線に火をつける。ひとたび導火線に火がつけば、いずれや成長という爆発的な事件と必ず遭遇する。

そんなことを思うのだ。

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