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11378-11384: フローニンゲンからの便り 2023年11月22日(水)



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タイトル一覧

11378. 今朝方の夢

11379. 先日のボストン旅行から思い出した大切なこと

11380. 今の自分の言葉と世界の限界を提示してくれるサイケデリクス/「英雄の旅」とサイケデリクス

11381. 音楽性に満ちた言葉と音楽性が欠落した言葉

11382. 学習の本質/存在論の書籍の追加購入

11383. 社会に対する慈善活動としての取り組む

11384. サイケデリクスと宗教について


11378. 今朝方の夢


時刻は午前4時を迎えた。今朝方もまたいつものように午前3時半に起床した。ここ最近は午後9時半頃にはベッドの上で横になっていて、朝の3時半に起床する良いリズムが形成されている。エネルギーの減退を感じる前に早々と寝ることは、疲労を蓄積させないためにも有益のように思えるし、何よりそのおかげで朝早くに起床することができ、そこから一日中旺盛に自分の取り組み従事できていることが利点である。今後もできるだけこの生活リズムを維持していきたいと思う。このリズムが崩れないようにすることも大事で、基本的に夜に何か予定を入れることはないが、今後も夜に予定をできる限り入れないようにしたい。

今朝方はそれほど記憶に残る夢を見ていなかったが、2つほど場面を覚えている。1つは、修学旅行の最中に訪れていた木でできた少し大きめな小屋の中にいた場面である。その小屋には結構な数の生徒がいて、私は小中高時代の親友(SI)と話をしていた。私たちの近くには数人の大人しめな女子がいた。親友と私はしばらく2人で談笑していたのだが、ある時にふとお互いに服を交換しようということになった。季節は冬だったので、結構な枚数の服をお互いに来ていて、互いの服の一番上のものを交換しようということになった。どちらが提案したのかは不明だが、話の流れで突然そのようなことになった。実際に服を交換し、早速お互いに服を来てみた。お互いに嫌な匂いではなかったが、それぞれの体臭が服にほんのりと染み付いていて、服を着てみると別人になったような感覚があった。私は彼の服を着ようとしている時に、頭の部分が引っかかってしまい、頭を出すことがなかなか難しくなってしまった。それは少し狙ってやったところもあったが、頭の大きさが大きく、服の穴が小さかったので仕方なくそうなったところも多分にあった。頭が穴に引っかかっている様子は、まるで亀が甲羅から必死に頭を出そうとしているような様子であった。その様子を見て、近くにいた大人しい女子たちもクスクス笑っていた。そのような場面があった。

もう1つ覚えているのは、これまた修学旅行中の宿泊施設の中にある体育館が舞台になっているものだった。そこでは生徒がいくつかの列を成して整列していた。整列している中で、私の前には背の高い友人(YK)がいて、本来の背の順であれば彼は私の後ろに立つべきなのだが、どういうわけか私の前に立っていた。そう言えばここ最近までは自分の方が背が高かったが、彼が急激に背を伸ばしたので背が抜かれてしまったのだと思い出した。私は彼の背中を後ろから軽く突いて、お互いの背の話をし、彼の方が背が高いので立ち位置を交換することを提案した。彼はにこりと笑って、「それもそうだね」と述べてゆっくりと足を進めて私の後ろに立った。すると、なんだか私の心もすっきりした。背の高い彼が自分の前にいるのではなく後ろにいる方が妙な安心感というか心地良さがあった。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/11/22(水)04:13


11379. 先日のボストン旅行から思い出した大切なこと


静けさと闇に包まれた朝の世界。午前5時に向かおうとしている今の気温は1度と低い。どうやら正午までほぼ気温が上がらず、正午の段階でも気温は2度ほどのようだ。しかし今日はそこから明日の朝にかけてゆっくりと右肩上がりに気温が上がっていくという形状を取る。明日も午前3時半に起床することができたら、その時の気温は10度ほどなので今朝とは随分と違う。

先日ボストン旅行に出掛けた際の機内では、基本的にクラシック音楽を聴いていた。しかし機内食が出された時に音楽を離れてドキュメンタリーでも見ようと思ってモニターをいじっていると、そこにMITのジョン·カバット·ジン教授がマインドフルネス瞑想について紹介しているシリーズがあった。彼の貢献は、彼自身が分子生物学の博士号をMITで取得しているということもあって、西洋科学と仏教の行法を統合したことにある。その功績は讃えられるべきものだが、彼のドキュメンタリーを見ていると、幾分違和感があった。そしてその違和感から途中でドキュメンタリーを見るのをやめてまた音楽に戻ってきたという出来事があった。あの時の違和感の正体は、本来彼は禅を学んでいたはずなのだが、瞑想の本質的な体験の話をすることはほとんどなく、瞑想がどのようなメカニズムでどのように役に立つのかということを科学言語でしか語っていないことに違和感があったのである。もちろん科学言語で語るからこそ多くの人に訴求できたことは間違いないが、科学言語だけでの説明は本質を骨抜きにし、瞑想の奥深さをむしろ感じさせてくはくれず、非常に味気のないものにしてしまう可能性が高い。そこからふと、自分自身がなぜ哲学·科学·神学の3つを大切にするのかが見えてきた。端的には、カバット·ジン教授が陥っている過ちを避けるためなのだ。サイケデリクスについて語ること、とりわけその体験を語ることは瞑想の体験について語ることと同じぐらいに難しい。それらはいずれも主観領域の現象だからである。本来主観領域に立ち現れる主観的経験を科学言語だけで説明しようとするのが最初から限界があるのだ。それに自覚的になった時、主観的経験を自らの言葉で語ることを作法に則れば許されている哲学に魅力を感じたのも納得できる。だがここでも問題にぶつかった。哲学で使われている言語体系は、やはり超越的な言語ではなく、論理的なものに留まる。サイケデリック体験はそもそも論理的な言語で語れる領域だけで構成されているのではなく、むしろウィリアム·ジェイムズがその体験の特徴を定義したように、言語を超えたものが多分にあるのである。そうした言語を超えたものをなんとか言葉にする試みに着手する時に、哲学の言語体系では弱いのである。そうした哲学の力不足補う上で神学の言語体験に注目したのであった。とりわけ神学の中に内包される神秘主義の言語体系は、サイケデリック体験をなんとか人間の言葉で迫っていく時に有用な体系を有していると気づいたのである。

ふと先日のボストン旅行のことを思い出し、機内で視聴していたドキュメンタリーからそのような自分にとって重要な気づきがあったことを思い出した。科学·哲学·神学の三位一体を忘れず、それらの均衡関係と相互作用を大切にしながら、今日もまたサイケデリクスを通じた自己と世界の探究に乗り出していく。フローニンゲン:2023/11/22(水)05:03


11380. 今の自分の言葉と世界の限界を提示してくれるサイケデリクス/

「英雄の旅」とサイケデリクス


時刻はゆっくりと午前5時半を迎えようとしてる。ちょうど今、モーニングコーヒーを淹れたところであり、フレンチプレスでコーヒーが漉されているのを待っている状態だ。この日記を書き終えたら、朝のコーヒーを味わいながら、マーカス·ガブリエルの書籍を読み返すことから今日の探究活動を本格的に始めたい。実は昨日からすでにガブリエルの書籍を読み返していて、以前には気づけなかったことや洞察を数多く得られている。それは兎にも角にもサイケデリクスおかげであり、この分野の研究に乗り出したおかげかと思う。こうやって自分がサイケデリクスと出会い、サイケデリクスの研究に強く惹かれた理由について少し考えてみた。ちょうど早朝に書き留めていた日記が呼び水となり、サイケデリック体験そのものとサイケデリクスの研究の魅力は言葉を超えることにあるのだとはたと気づかされた。自分の言葉を超えるというのは、自分の世界を超えることを意味する。今の自分の言葉を超え、今の自分の世界を超えた境地を垣間見せてくれる機会をサイケデリクスは提供してくれる。サイケデリクスを研究することの最大の魅力もそうである。自分の言語の限界と自分の世界の限界を如実に突きつけてくれるのである。そして限界を教示してくれるだけではなく、限界の先の世界を垣間見せてくれることによって、そちらの世界に一歩足を進めてくれる働きかけをしてくれるのである。研究上においては、科学言語、哲学言語、神学言語の全ての言語の限界を試される。そして科学世界、哲学世界、神学世界の限界もまた試される。そうした限界挑戦的な試みを提供してくれるのがサイケデリクスであり、サイケデリクス研究なのだ。今の自分の言葉を超えていくことは、今の自分の世界を超えていくこと。そうして自分自身はさらなる飛躍を遂げ、成長を実現し、また新たな世界に向かっていく。そうした一連の絶え間ない変容の旅に誘ってくれるのがサイケデリクスとその研究なのである。

ここでふと、昨日ジョゼフ·キャンベルの「英雄の旅(hero’s journey)」のモデル図を何気なく眺めていた時のことを思い出した。キャンベルのモデルでは、旅の最初に主人公は超常的·超自然的(supernatural)な何かに出会うところから出発する。旅の主人公はその力を借りて既知の世界から未知の世界に旅立っていくのである。超自然的な助けには色々なものが考えられるが、そこにサイケデリクスを当てはめることができる。自分の深層的な旅はそうして始まったのである。今も継続する自分の旅。この旅にはサイケデリクスが不可欠であった。そしてこれからの新たな旅においてもサイケデリクスは超自然的な力を自分に授けてくれるだろう。このようにして自分は絶えず未知なものを既知にし、既知の世界から無限の未知の世界へ旅を続けていくのだというビジョンが浮かび上がってきた。今日もまたその旅の大切な1日となる。この旅は常に未知に開かれた終わりのなきものであり、そこには絶えず自分の言葉と世界の限界を試してくれる最良の機会で満ち溢れている。それが自分の旅の輝きの正体である。フローニンゲン:2023/11/22(水)05:33


11381. 音楽性に満ちた言葉と音楽性が欠落した言葉


日々こうして綴っている日記は自分の音楽に他ならない。そのような気づきがやって来た。きっとそうなのだろう。こうして自分の内側から自発的かつ創造的に湧き上がる言葉の1つ1つが1つ1つの音符なのであり、それが音楽を形成しているのである。本来言葉は音ではなかったか。人間が言語を獲得する前に存在していたのは歌だったと聞く。言葉の前に音楽があり、言葉はまた音楽でもあるのだ。そのことを現代人は忘れてしまっているか、気づいていないのではないかと思う。ここで綴られている言葉を自分自身のその瞬間に湧き上がる音楽だと捉えてみると、自分が日記を読み返す際にも字面に囚われて意味を考える必要はなく、音楽としてその響きの中にいることを通じて意味を身体的に掴んでいけばいいのである。そのようなことを考えながら、おそらく現代社会で蔓延している言葉には音楽性が欠落しているのだろうと思った。日々の仕事の中でも家庭の中でも、音楽性が欠落したある種の形骸化した言葉が蔓延しているのである。現代人の心を苦しめ、魂を窒息させている背景には、彼らの生活の中に音楽がないからなのではないかと思う。ここで述べている音楽というのは繰り返しになるが、J-POPだとかクラシック音楽だとかジャズだとか、そのようなものを指しているのではない。己の言葉と己が触れる言葉に内包された音楽性のことを指している。「音楽のない生活は生きるに値しない」とかつて哲学者か作曲家の誰かが述べていたような気がする。まさにそうだろう。もう少し厳密に言えば、音楽のない生活では私たちは充実した形で生きられないと述べた方が正確だろうか。言葉の中にある音楽性に気づくこと。それに気づき、それを大切にし、それを育むこと。それが現代人が患う音楽欠乏症による心魂の病を治癒する重要なファーストステップかと思う。

昨日、30代からサイケデリクスを摂取し始め、十分なサイケデリック体験のあるブラジル生まれのオランダ人哲学者バーナード·カストラップのほぼ全ての書籍である11冊の書籍を購入することにした。それらに加えて、形而上学と認識論に関する論文集を数冊新たに購入し、合計で17冊書籍を注文した。数日前にも書籍の買い足しを行っていたので、今月も結局かなりの学術書を購入したことになるが、これで年末までの時間を知的に有意義に過ごせるだろう。年末にかけて、あるいは年を跨ぐかもしれないが、心の哲学、形而上学、認識論、存在論の4つの哲学分野については最低限の知識を身につけ、最先端の研究動向を把握しておきたいと思う。それがこの後のサイケデリック哲学の研究における大きな跳躍を導いてくれるだろう。

手持ちの300冊を超すサイケデリクス関係の書籍のうち、じっくり腰を据えて知的格闘をするべき書物と情報を得るために読むべき書物が随分と選別されてきた。来月から数ヶ月間は、もちろん新しく届く哲学関係の書籍の初読を進めていながら、それに並行する形で知的格闘を要求する書物とじっくり向き合っていく。2023年の終わりと2024年の最初の過ごし方はそのようになるだろう。日々楽しみがあるが、近い未来に目を向けても、自分の目の前にはこんなに楽しみがあることを改めて喜び、改めて深く感謝する。フローニンゲン:2023/11/22(水)06:14


11382. 学習の本質/存在論の書籍の追加購入


学習とは既存の問題を解決することというよりも、新しい問題を引き込んでいくことだという考えが芽生えた。現在においては問題解決型教育という言葉がもてはやされているが、それは本当に学習の本質を突いたものなのだろうか。確かに私たちを取り巻くこの世界には問題が山積みであり、個人の内面世界においてもたくさん問題を考えているのが私たち人間である。しかし、直近の問題を解決することを志向するあまり、学習の本質というのを見失ってはないだろうか。学習の本質には私たちを成長させてくれるという特徴があり、既存の問題解決を通じて成長されるのは私たちの表面的な部分であり、深層的な成長を実現させてくれるのは新しい問題を引き込むその瞬間にあるのではないかという考えが芽生えたのである。学習の一側面として、表面的な側面として知識を獲得したり、目の前の問題を解決したりすることは存在するが、学習の本質はそうしたものではないのではないだろうか。学習の本質は、私たちを絶えず新たな問題に開き、新たな問題と直面させることにあるように思えてくる。ゆえに学習する存在というのは、絶えず知識を獲得していくとか、目の前の問題を解決していくとかではなく、絶えず新たな問題に開かれている在り方を体現した存在のことを言うのだろう。

存在。そう言えば、ここ数日間で購入した哲学書の中に存在論に関するものはあったかと改めて購入記録を調べてみたところ、存在論に関する最新書は購入していないようだった。なので、優れた学術書を出版しているブルームズベリー出版とポリティ出版から“Ontology and Metaontology: A Contemporary Guide”と“An Introduction to Ontology”という存在論関係の書籍を追加で購入することにした。存在論とサイケデリック哲学を絡めると、超越的なリアリティは存在するのかしないのか、存在するとすればそれはどのような性質を持っているのかを探究したいし、存在しないと述べるのであれば、それはいかなる理由からかを探究したい。また、意識が存在するか否かについても存在論の観点から是非とも検討したいと思う。今のところ存在論の用語体系が自分の中に十分になく、存在論を活用する方法論がまだ十分に獲得されていないので、それら2つの書籍はそのニーズを満たしてくれると判断したので購入することにした。こうしてサイケデリクス研究に関して次から次に湯水の如く新しい問題が浮上しているのも、自分が学習する存在として生きているからなのだろう。フローニンゲン:2023/11/22(水)07:54


11383. 社会に対する慈善活動としての取り組む


時刻は夕方の午後4時を迎えた。今日は早朝からやはりかなり冷えていて、午前中にオーナーのフレディさんが家の扉をノックし、何かと思ったら、郵便受けに入っていた書籍を持って来てくれたのだが、扉を開けた時に外の冷たい空気を感じたのを覚えている。午前3時半の起床からここまで読書に没頭し、読書だけではなく、協働者の方との毎月1度の対話会と午後にはラジオの収録があった。毎月1度の対話会とラジオで共通しているのは、そこで取り上げる話題がサイケデリクスがメインになっていることに加えて、それらの活動が自分にとってボランティアであるということだ。そこには金銭的報酬が発生せず、社会に対する慈善活動として自分の知識や考えを共有する活動としてその2つがある。多様な領域で多様な実践をすることによるクロストレーニングの重要性はインテグラル·ライフ·プラクティス(ILP)が説く教えであるが、まさにこうしたボランティア活動としての営みは自分のILPにとってなくてはならないものなのだと実感する。これまでの自分の取り組みはどこかに極端に偏る傾向があり、逆に偏ることを通じて伸ばすことができたものもたくさんあるが、偏ることによる脆さも経験して来た。多様な領域で多様な実践に営むことは、学びと実践の生態系に多様性をもたらし、多様性を通じた健全さが確保されるという利点がある。精神を崩すこともなく、心身良好な状態で日々学びと実践に取り組めているのは、学びと実践の多様性が確保された健全な生態系が自分の内側にあるからである。特に金銭的な報酬を得ないボランティア的な取り組みは今後も継続していきたいし、現在行っているゼミナールのようなコミュニティ活動にも引き続き従事していきたい。仮に来年から留学が実現すれば、そこでは読書会を主導する立場として、そこでもまたコミュニティ活動に取り組んでいきたいという思いを持っている。

ボランティアは何か見返りを期待して行うものではないと思うが、今取り組んでいるボランティアとしての活動の先に素敵なご縁や出会いがあれば嬉しく思う。これまで自分が蓄えて来たこと、そして今現在リアルタイムで獲得している知識や洞察を絶えず社会に無償で共有していく試みを通じて、自分の人生のまた何か新しい扉が開きそうな予感がしている。フローニンゲン:2023/11/22(水)16:13


11384. サイケデリクスと宗教について


充実感の中で今日もここまでを迎えた。早朝から夕食の準備を始めようかというこの時間帯になって、改めて今日全体の充実感を全身に浴びて感じている。時刻は午後5時を迎え、辺りはもうほぼ真っ暗である。そんな中、「サイケデリック保守主義」の立場を現在採用している自分の眼差しと、伝統的な宗教に対して持っている眼差しが非常に似ていることにはたと気づいた。端的に言えば、古典的なサイケデリクスも、伝統的な宗教も、長大な時間をかけて進行して来た歴史の風に耐えて来たという事実があり、それに対する敬意とそれゆえの価値を見出しているのだと思ったのだ。

現在でも欧米の若者の間で根強い人気を持つMDMAは、1912年にドイツの製薬会社のメルク社で初めて合成され、LSDは1938年にスイスの化学者のアルバート·ホフマンによって最初に合成された。興味深いのは、歴史的にはMDMAの方がLSDよりも古いにも関わらず、MDMAは古典的サイケデリクスには含まれず、LSDはメスカリン、シロシビン、DMTと並んで古典的サイケデリクスに含まれることである。確かに現在は、とりわけ古典的サイケデリクスとしてのLSDからも派生物がいくつも作られ、それらのリスクが顕在化しているが、デザイナーズドラッグや脱法ハーブのような新種の得体の知れないものよりはその心身への影響におけるリスクは少ない。いわんや古典的サイケデリクスは心身への影響や中毒のリスクは極めて低い。端的には、新種のドラッグは総じて危険なものが多く、古典的なサイケデリクスはその科学的な調査の堆積と科学的な調査に耐えて来たという歴史がある。ゆえに自分の中では、そうした古典的サイケデリクスに敬意を表し、それを研究し、それを摂取することはあっても、新種の得体の知れないものには手を出さないという意思決定基準がある。

何かこの考え方は宗教に対しても当てはまるように思う。確かに伝統的な宗教も各種のスキャンダルが生じているような世の中だし、歴史的にも絶えずそうしたことがあったが、そうであったとしても伝統的な宗教は数千年の歴史の風に晒され、教義を磨き、実践共同体を築き上げて来たという事実がある。それに対して続々と現れる新興宗教は歴史が浅く、それらもまた新種のドラッグ同じく得体の知れなさとリスクの未知さが多分に存在している。現在の科学テクノロジー社会においては、どうも新しいものが良いものであり、価値のあるものだと信奉されている風潮があり、その風潮はサイケデリクスを含めたドラッグ全般に対してや、宗教に対しては見つめ直す必要のあるものだと思われる。 現在製薬会社やベンチャー企業が新種のサイケデリクスの開発に日夜着手しているが、果たしてそれが古典的なサイケデリクスを様々な面で上回るかは不明であり、これから生まれる新興宗教が伝統的な宗教を超えるかどうかは不明である。もちろん人間と社会の進歩は可能性に満ちているので、そうしたサイケデリクスや新興宗教が生まれる可能性はある。そもそも古典的な、とりわけ合成系のサイケデリクスも最初は新種のサイケデリクスだったのであるし、 伝統的な宗教のいくつかはその時代における新興宗教だったのだ。そのようなことをつらつらと考えていた。フローニンゲン:2023/11/22(水)17:17

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