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11370-11377: フローニンゲンからの便り 2023年11月21日(火)



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成人発達理論とインテグラル理論を楽しく学んでいただける「成人発達コラボラジオ」を2023年7月14日より始めました。

タイトル一覧

11370. 今朝方の夢

11371. 様々な哲学分野の自分なりの重要性/一なるリアリティの恩恵としての主観性

11372. 批判的実在論とサイケデリクス

11373. 問いについて知るための認識論の大切さ

11374. 自らに課せられたヒューマンエンハンスメント

11375. 具材としての知識と調理器具としての思考の枠組み/サイケデリクスの摂取に伴う4つの道の実践

11376. 意識の構築物としての知性や能力/サイケデリック科学を取り巻く現在の態度

11377. 時間とサイケデリック体験/ホワイトヘッドとヴィゴツキーの考えから


11370. 今朝方の夢


時刻は午前4時を迎えた。早朝のこの時間帯はとにかく静かである。静寂しかなく、パソコンを叩くタイプ音だけが聞こえてくるような状態である。今は暖房が自動で入っていないので、尚更静けさが際立つ。そんな中、今朝方の夢について振り返っている。

夢の中で私は、見知らぬ女性が運転する軽自動車の後部座席に座っていた。どうやらその女性は友人の誰かのお母さんのようだったが、そのお母さんについて知らないばかりか、その友人が誰かも思い出せなかった。しかし車内での会話は弾んでいた。ところが、そのお母さんには最近身内で不幸があり、本来は笑顔で話ができるような状況ではないはずだった。そうした状況にもかかわらず、無理をしながらも自分の前では明るく振る舞ってくれていたことが印象的だった。

気がつくと車は北海道の北の方にある大学の近くで止まった。そこで車を降りて、大学の博物館に向かった。博物館では日本の人形展が開催されていて、入り口のドアが開いていたので外から中を覗くと、そこには無数の日本人形が古いものから現代にかけておかれていて圧巻の光景だった。しかし私は数年前にもこの大学を訪れていて、その人形展も今この瞬間にどれだけ見たいかというとさほどでもなかったので、博物館には結局入らず、そのまま大学を後にした。キャンパスを少し散歩して、キャンパスの裏手にある立派なマンションの脇を通って駅に向かった。駅の姿が見えてくると、スマホの地図が現実世界の上にも表示され、とても便利に思えた。どの道を歩き、どこをどのように曲がればいいのかが現実世界の土地の上に表示されていたのである。その指示に従って駅に到着すると、気がつくと自分の上半身が裸であることに気付いた。そしてさっきまで背負っていたはずのリュックサックがないことに気付いたのである。おかしいと思って後ろを振り返ると、数メートルほど後ろにニヤニヤした男性が自分のリュックサックを持って走り去ろうとしている姿を捉えた。その瞬間私は彼を追いかけ、すぐさま彼に追いつき、リュックサックを返してもらうように叫んだ。叫ぶだけでは足りないと思ったので、力づくでもう奪い返そうとしていた。当然彼も反抗したので、すかさず私はジークンドーの蹴り技を彼の脚に入れて、彼の膝関節を折りにかかった。膝関節は簡単に折れて、彼はその場で崩れ、無事にリュックサックを取り返すことができた。そのような夢を見ていたのを覚えている。確かその他にも夢を見ていたように思うが、どのような夢だっただろうか。1つ前に見ていた夢は、特に波風のない穏やかなものだったようにも思うし、同時に何か汗を掻くような夢だったようにも思う。フローニンゲン:2023/11/21(火)04:12


11371. 様々な哲学分野の自分なりの重要性/一なるリアリティの恩恵としての主観性


今朝方も午前3時半に起床した。ここのところは午後9時半にはもう早々と就寝しており、その時間帯に寝ると睡眠の質がこれまでよりも上がっているためなのか、睡眠時間がこれまでよりも短くなっている。何時に寝るのかはその人によって理想な時間帯が違うと言われる一方で、ゴールデンタイムと呼ばれるような時間もある。どうやら午後9時半に就寝をすると、そのゴールデンタイムを完全に享受することができ、その時間に身体の回復が進み、結果として質の高い睡眠が確保されているゆえに早く起床できるのかもしれない。こうした時間に起きて活動し始めるというのはまさにウィルバーが長く行っていた生活習慣である。夕食後に読書をしていてもあまり捗らず、であればさっさと寝るに越したことはないという判断から就寝時間を早めた経緯があり、その判断は正解だったと思う。

昨夜、サイケデリック哲学の探究において各種の哲学分野の自分なりの意義について考えていた。それは対象をサイケデリクスに限定せずとも当てはまることである。まずは、自分がいかなるリアリティを生きているのかを知るという意味で形而上学を探究することの重要性を感じている。形而上学はリアリティとは何かについて考えさせてくれ、リアリティの性質について考察を深めることを助けてくれる。それではそのリアリティが存在しているというのはどういうことかについては存在論を学ぶ必要があり、そうしたリアリティを知るというのはどのようにして可能なのかについて考えるために認識論が不可欠となる。また、この考えている自分のマインドとは何かを考える上で心の哲学を学ぶことが重要になる。それらの意味があるから哲学探究を細々とこれまで進めてきた自分がいるのだと気付いたし、それらの問題意識を絶えず持っているから哲学をこれまで自分なりに学んできたのだと気付いた。哲学にはもちろん倫理学や美学を含めて、自分を惹きつけるその他の分野がある。倫理学や美学もまたサイケデリクスを対象とするならば非常に重要な役割を果たす。前者については数日前に書き留めた通りであり、後者についてはすでにサイケデリック美学に関する学術書が出版されていて、他の学者も注目をしているようだ。サイケデリクスが開く美的感覚と、その日的感覚を通じて知覚される美的世界、及びそこから創作活動に乗り出した場合に生み出されるサイケデリックアートなど、研究項目はいくらでもある。

それらの項目を含め、哲学探究においてはこれまで様々な哲学者が残した考察を辿りながらも、自分の一人称的な、すなわち主観的な思考をとにかく大切にしなければならない。哲学について学ぶだけなら学者が述べたことを追いかければいいのだが、哲学を自ら行うとなると自分の主観的な考えを大切にして、そこを出発点にして考察を深めていかなければならない。そもそもこの世界を知るに際しては、世界と自己が究極的には一致していて、自己とリアリティは1つなのであるから、尚更主観的な考えは馬鹿にできない。リアリティが開示してくれたものが自分のマインドに投影されたものが自らの思考なのである。その思考をなぜ大切にしないのか。そしてなぜそれをこの世界に表明しないのか。世界のものは世界に。リアリティのものはリアリティに。そのような考えを採用すれば、世界から、すなわち一なるリアリティから与えてもらった自らの思考をリアリティに恩返しするという意味での思考の表明は決定的に重要なことではないだろうか。自分はそこに強い問題意識を持つ。今日もまた旺盛な読書を通じて得られたことをもとに様々な事柄に対して考察を深めていこう。そして降ってきたものの中で言葉の形になることを望んでいるものは逐一、リアリティへの返礼として書き留めておきたい。フローニンゲン:2023/11/21(火)04:36


11372. 批判的実在論とサイケデリクス


時刻は午前5時半を迎えた。早朝の読書をゆっくりと開始する中でふと、心の哲学や形而上学とサイケデリクスを佳境させていくだけではなく、ロイ·バスカーの批判的実在論ともサイケデリクスを佳境させていきたいという思いが湧いた。以前にはバスカーの批判的実在論やクァンタン·メイヤスーの思弁的実在論に関する講座を開催していたぐらいに両者の思想体系には関心を持っていた。とりあえずは思弁的実在論を含んだ形での形而上学研究をサイケデリクスと絡めて行っていきながら、バスカーの批判的実在論と絡めた形でサイケデリック研究を進めていこう。

それであればまずすぐさま閃くのは、サイケデリック体験をバスカーの3階層モデルで説明することである。私たちがサイケデリクスを摂取すれば、そこに固有の体験が生まれる。それは経験領域(the empirical domain)の体験となり、他者にはアクセスできない。厳密には、他者が同じ経験をすることはできないと述べたほうが正確だろう。というのも、対話を通じてであればその領域にアクセスできるからである。サイケデリック体験だけに絞って話を進めると、自分には体験できないサイケデリック体験があるというのは、まさにそれらの体験が現実領域(the actual domain)に存在しているということを指す。それでは自分の固有の体験やそれらの自分には体験できない体験を生み出している構造やメカニズムはなんだろうかと考えたときに、そうした構造やメカニズムが存在しているのが実在領域(the real domain)となる。あるいは、自分と体験も他者の体験も超えた超越的な体験世界を実在領域と捉えることも可能である。それは私たちの知覚作用によって部分的にアクセスできたとしても全体を把握することはできにあ。それは私たちの認知を超えた領域なのである。例えばこのような形でバスカーの批判的実在論の概念の1つを活用することができる。批判的実在論の用語集が600ページかそれくらいに渡るほどに分厚いことからわかるように、批判的実在論は豊穣な概念体系を持つ。それらを1つ1つサイケデリクスに絡めていくと、独自の貢献が可能なように思えてくる。

また個人的に思弁的実在論よりも批判的実在論を優先させたのは、批判的実在論が本質的には社会変革を志す哲学思想かつ社会学思想だからである。サイケデリクスを取り巻く社会変革とサイケデリクスを通じた社会変革を実現させていく際に、批判的実在論の枠組みは極めて重要になる。批判的実在論は、ケン·ウィルバーのインテグラル理論と合わせて世界三大メタ理論の1つと呼ばれていて、メタ理論性にも多分に惹かれるところがある。それは単なる知的な意味での好奇心ではなく、サイケデリクスという対象がそもそもメタ的な扱いを要求することによる。そうした要求に応える形で、この冬は批判的実在論の書籍も全て読み返していきたいと思う。

ここ最近は本当に奇妙である。それは非常に肯定的な奇妙さである。この8年の間に大量購入してきた書籍のことごとくがサイケデリック研究につながっていくのである。この現象をなんと説明したらいいのかわからないぐらいだ。この現象そのものへの感謝の念を持ちながら、ひたすらに旺盛に読書を進めていくことをまず行っていきたい。 フローニンゲン:2023/11/21(火)05:53


11373. 問いについて知るための認識論の大切さ


「問いについてもっと知らなければならない」「問いについてもっと深く考えなければならない」そのような言葉が夜明け前の真っ暗な世界からやって来た。

問いの性質と問いの立て方について探究し、より良い問いを生成し、その問いと向き合っていくために認識論が必要なのである。自分なりに認識論を学ぶ意義がかなり明確になった。

例えば、数日前から自身のサイケデリック体験で得られた洞察を出発点として意識のハードプロブレムに向き合う中で、心の哲学者たちの出発となる問いに対して疑問を持っている自分がいた。哲学もその他分野と同じく相当に細分化されていて、ひょっとしたら心の哲学者と言えども認識論の最先端的な議論について学んでいる人は少ないのかもしれないと思った。いずれにせよ、「意識がなぜどのように現れるのか?」という問いの奇妙さは、意識がそもそも現れたり、現れなかったりするという前提にある。認識論の枠組みの中に、自身の信念や仮説に関する話があり、これはおそらく自分自身の未検証かつ仮説なのだが、意識はそもそも立ち現れたり、立ち消えたりするものではなく、常にいかなるときにも存在し続けている。立ち現れたり、立ち消えたりするのはあくまでも意識状態に過ぎない。昨夜はふと、発達理論を学んできた自分自身が暗黙的に前提としていた「意識は発達する」ということさえ疑った。「リアリティを遍く形で満たしている一としての意識そのもは発達せず、意識から生じる意識現象としての構造は発達する」というのが今の自分の考えである。「意識の発達理論」という言葉が存在するが、意識とはなんぞやということを改めて問い、心の哲学の先端的な議論やサイケデリック体験を経てみると、その言葉のおかしさが見えてくる。繰り返しになるが、今の自分は意識そのものは発達せず、意識から立ち現れる各種の意識現象が生み出す構造が発達するという立場を取りたい。

こうした形で過去自分が信じて来たことが良い意味で覆され、さらに深い認識を獲得することができるのも認識論を学ぶ重要性のように思える。より広く深い認識を獲得する上で、やはり認識論の探究は不可欠のようだ。認識論に関してはオックスフォード大学出版のハンドブックシリーズだけではなく、ルートリッジ出版のそれも購入しようか。そうなってくるとおそらく自分が今いるリアリティについてもより深く知りたくなるであろうから、それを実現する上でも最先端の形而上学研究がどうなっているのかは追わなければならない。そうなると、認識論と同じく、オックスフォード大学出版のハンドブックシリーズだけではなく、ルートリッジ出版のそれも購入した方が良いことが見えてくる。おそらくケンブリッジ大学出版はそれらの分野に関する論文集を出版していないかもしれない。一応確認してみて、イギリスの三大学術出版社がそれぞれ認識論と形而上学についての論文集を出版していたら、それらは全て購入しておきたいと思う。

最後にまとめておくと、とにかくここからはこれまで自分が信じて来た各種の考え方や概念、そして信念を見つめていこう。それをしなければ新たな考えも概念も、そして新たな信念も生まれてこない。それらの脱皮を促す意味で、知るとはなんぞやということと、問いについて深く探究する認識論をじっくり学んでいこう。フローニンゲン:2023/11/21(火)06:18


11374. 自らに課せられたヒューマンエンハンスメント


自分は自らにサイケデリクスを通じてヒューマンエンハンスメントを課している。それについては前々から薄々気づいていたが、それが明確な言葉の形になって認識空間に浮かんだ。トランスヒューマニズム界隈ではヒューマンエンハンスメントはよく議論され、その倫理的な問題や社会的な帰結を含めて否定的に捉えられることがよくある。しかし自分はサイケデリクスを通じて積極的かつ肯定的な形でのヒューマンエンハンスメントを自らに課していこうと思っていることに気づいたのだ。端的には、自らが協創と共創し、社会課題を解決していくに際して、今の自分の力は未熟以外の何物でもなく、社会との協創と社会課題の実現に向けて知性が低すぎるという問題を抱えている。これは他者との比較ではないのである。自分の中の絶対基準と照らし合わせた時にないものはないし、低いものは低いのである。力と知性の未成熟さが現在自分に突き付けられている最大の課題であり、その課題をまずは克服していかなければならない。

自分が実現しようとしている社会の姿を想像し、自分が取り組むべき社会課題を考えてみたときに、そこから逆算する形で求められる知性領域は明らかになって来ているし、力の種類もわかって来ている。それは幸いなのだが、それらを獲得し、伸ばしていく手段はこれまでの自分の中であまり明確になっていなかった。これまで実に多様な実践をして来たように思う。それらは確かに遠回りだったかもしれないが、それをして来たおかげで今の自分に必要な実践手段が何なのかがありありとしたものになったのである。それがサイケデリクスであった。手段はサイケデリクスであり、実践の形としてはサイケデリクスそのものに関する研究とそれと紐づく各種の学問分野の研究である。

自分にとってサイケデリクスは、最良のヒューマンエンハンスメントの手段である。トランスヒューマニズムに反対する人はこの物言いを嫌うだろう。しかし自分は、自らのヒューマンエンハンスメントに伴う倫理的な問題や社会的な影響を考慮した上でサイケデリクスを自らのヒューマンエンハンスメントの手段として活用していく。いずれの社会課題も誰かが必ず取り組まなければならないのである。それに気づき、それに責任感と使命感を燃やした者の宿命として、自分が取り組むべき社会課題の構造的·深層的解決に向けて、そしてより良い社会の実現に向けてであれば、他の人間とはまるっきり違う知性や力を獲得してしまうことへの恐れはもうない。自らの使命から目を背けるヨナコンプレックスを抱えている自分はもういないし、高次元の存在になってしまうことを恐れるフォボスもない。今の自分にあるのはどこまでも高みに向かっていこうするとエロス、そこで獲得された力と知性を社会のために発揮するというアガペーのみである。どこまでも高いエロスとどこまでも広く深いアガペーを享受するという意味で自分はこれからもサイケデリクスを定期的に摂取していかなければならないのである。ヒューマンエンハンスメントの伴うそんな宿命を自分が追っていることに気付かされた朝である。フローニンゲンの夜明けはまだだが、自分の魂とスピリットは夜明けを必要としないぐらいに常に輝いている。フローニンゲン:2023/11/21(火)06:57


11375. 具材としての知識と調理器具としての思考の枠組み/

サイケデリクスの摂取に伴う4つの道の実践


重要なことはその対象や分野に関する土地勘としての圧倒的な知識と、その対象や分野の問題を解決していくための思考の枠組みの錬磨である。現在の自分の究極的関心としてのサイケデリクスで言えば、 サイケデリクス関係の書籍や論文を読破し、それを何度も読み返すことによって前者は満たされる。後者に関して言えば、サイケデリクスとは直接関係しない学問分野、とりわけ思考の作法を扱う意味で哲学を学ぶことは非常に重要である。サイケデリクスを通じて何をこの社会で実現したいのか、社会のどんな問題を解決したいかによって選択するべき哲学分野が変わってくる。今の自分が最優先するべきは、心の哲学、形而上学、認識論、存在論であり、将来的には倫理学と美学を深く探究していく。具材としての知識がないと何も始まらないし、具材があっても調理器具としての知識操作の枠組みがなければ何も始まらない。ゆえに自分が絶対的な関心を持った対象については、具材を広く深くかき集め、その具材を調理するための知的操作の枠組みの活用に修練してく必要があるのである。

時刻は午前7時半を迎えようとしていて、今、1羽の小鳥が一度だけ鳴き声を上げた。それはたった1回であったが、ここからまた鳴き声を届けてくれるだろう。

昨日の協働ミーティングの中で、サイケデリクスについての話題が出た。その時に自らへの自戒も込めて重要なことを自分は指摘していたように思う。端的にはどうもサイケデリクスを活用する人たちはそれを単なるレクリエーションで活用するか、ウィルバーで言うところのせいぜい“Waking Up”の道でしか活用できていないと思ったのである。中には“Waking Up”の道からの“Growing Up”に繋げている人も散見するが、意識状態としての目覚めを垂直方向の質的·構造的な成長に繋げている人は少ない。もっと少ないのは、“Showing Up”と“Cleaning Up”の道を歩む人の存在である。サイケデリクスを通じて意識状態としての目覚めや高度な発達段階に向かっていくだけではなく、自らの無意識の闇を覗き、シャドーワークをしていくという意味での“Cleaning Up”に従事する人は極めて少ない。また、サイケデリクスは本来学びの宝庫であり、それは実に多くの学びを提供してくれるのだが、その学びを咀嚼するための学習を怠っているためか、知識と体験咀嚼の枠組みがなく、サイケデリクスが自己や世界に対して様々な気づきをもたらしてくれているのに、その学びを多角的に行える人は少なく、その点で“Showing Up”の道の実践としてサイケデリクスを摂取している人も稀なのである。このあたりにサイケデリクスの摂取者を取り巻く病理が見える。こうした病理を可視化してくれたのはウィルバーが提唱した概念モデルであり、こうした概念モデルを1つ1つ丁寧に学んでいくことそのものが全ての道の実践になりうるし、発見した課題や病理の解決に繋がっていく。そのようなことを考えていた。 フローニンゲン:2023/11/21(火)07:29


11376. 意識の構築物としての知性や能力/サイケデリック科学を取り巻く現在の態度


自我もそして知性や能力も、それらはいずれも意識そのものが生み出す構築物なのだ。意識そのものは構築物を生み出すリアリティそのものなのであり、それに関して発達という言葉を当てることはできない。発達という言葉が当てられるのは、あくまでも構築物の方である。現代社会において喧伝される限定的な知性や能力は、まず社会側が知性や能力が発露する道を狭めている。しかし本来は、私たちの意識は無限の可能性を持つリアリティそのものなのであるから無限の可能性を持っていて、多種多様な知性や能力を構築できる力を持っている。だが残念なことに、現代社会では酷く限定的な知性や能力がもてはやされ、多くの人たちはそれらの知性や能力を磨くことに躍起になっている。また問題なのは、社会が評価する知性や能力を低く扱ったり、排除する方向に向かうことである。本来無限に多様な構築物を生み出す意識の性質を最大限に引き出すべく、現代社会を取り巻く知性や能力に関するディスコースを健全化していく営みに従事していこうという思いを改めて持つ。より多様な、より豊かな構築物で溢れた社会を自分は見たいし、そうした社会で生きたい。

サイケデリック科学を取り巻く現在の態度は、「科学物質主義(scientific materialism)」と呼ばれるものに括れるだろうか。その主義について学ぶだけではなく、改めて物質主義の性質とその問題点についても精査したい。確かに現在サイケデリクスが脳に対してもたらす現象が色々と明らかになっているのは素晴らしい側面がある。それが精神医療に繋がる点は肯定的に受け止めている。しかし、サイケデリック科学を脳内現象や脳内活動にだけ留めてしまうのはとてももったいなく思う。インペリアル·カレッジ·ロンドンやUCLA、さらにはイェール大学の研究部隊はいずれも神経科学の専門家であり、彼らの研究の成果はやはり物質主義的なものに留まっているし、彼らに続く形でその他の大学で行われているサイケデリクスの科学研究もまた同じ範疇のものである。サイケデリック哲学が果たす役割の1つには、サイケデリック科学の営みを建設的に批判しながら、サイケデリック科学をさらにより良いものにしていくことにあるように思える。その初手としては、現在サイケデリック科学のコミュニティーが陥っている発想の罠を指摘することと、彼らを取り巻いているパラダイムの問題について指摘すること、さらには脳内現象や脳内活動以外にサイケデリック科学がどのような研究分野で貢献できるのかを示すことにあるだろう。そのような試みにサイケデリック哲学者として従事したい。フローニンゲン:2023/11/21(火)08:18


11377. 時間とサイケデリック体験/ホワイトヘッドとヴィゴツキーの考えから


先ほど、オックスフォード大学出版の“The Oxford handbook of philosophy of time”という書籍を2年ぶりに読み返していたのだが、時間とサイケデリック体験というのは非常に興味深い哲学トピックである。書籍を読みながら自身のサイケデリック体験に伴う時間への洞察や時間感覚を振り返ることが促されているし、そもそも時間とは何か及びその性質について理解が深まっている。今後のサイケデリック·セッションの際には、事前に哲学的なトピックをいくつか準備し、それらのトピックに関する洞察を得られるようなセットをしておきたい。もちろんサイケデリック体験は常にこちらの意図や期待を超えていくものなのでどこまでうまくいくか分からないが、サイケデリック体験を哲学探究に繋げていく意味でもそれを行いたい。当面は、それぞれの哲学分野における自らの問いをリストアップすることを行い、セッションの前にそれを参照することを心掛けたい。

ホワイトヘッドはかつて、哲学とは自らの主観性を出発とした主観性に対する意識を通じた自己矯正であると述べていた。まさに自分が哲学に期待するのはそれであるし、哲学に惹かれるのはその点である。哲学はやはり主観性から出発しなければならず、自らの意識を通じて絶えずそれを自己矯正していき、普遍的高みに向かっていくための営みなのである。サイケデリック体験というのは主観性の極みであるから、その性質をうまく活用すれば本質的な哲学的営みが実現されるであろうし、その他の手段には代替できないような形で普遍性に到達できる可能性がある。

発達心理学心理学者のヴィゴツキーはかつて、ソーシャルリアリティはマインドを通じて内面化されると述べていた。この着想にハッとさせるものがあり、私たちのマインドには確かに内面化という作用があって、その作用を高度なリアリティ次元に適用してみると興味深いことが見えてきたのである。サイケデリック体験を通じて知覚される超越的リアリティはマインドを通じて内面化され、その瞬間にはリアリティはマインドとなり、マインドはリアリティとなることに気づいた。これはオランダ人の哲学者バーナード·カストラップの指摘ともつながる。カストラップと同じ洞察をヴィゴツキーの発想と自らのサイケデリック体験の振り返りから得られたことは興味深く、やはり主観性を出発にし、楽思想家の考え方を絶えず学ぶことの大切さを実感させられた次第だ。今日はまだまだ時間があるので、引き続き読書に励み、その過程の中で絶えず自己矯正を通じた思想の進化と深化を実現させたい。フローニンゲン:2023/11/21(火)10:44

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