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タイトル一覧
12229. 仏道修行と奉仕としての唯識思想に関する講座の提供に向けて
12230. 今朝方の夢
12231. 今朝方の夢の続き
12232. サイケデリクスと仏教とのつながり
12233. サイケデリクス・唯識思想・発達心理学の架橋に向かって
12234. 釈迦が悟りを開いたときに摂取した可能性のあるサイケデリクスについて
12235. 「仏教とサイケデリクス」講座の提供に向けて
12236. 母校一橋大学の入試問題を通じての自己形成に関する振り返り
12237. 「サイケデリクスと仏教」に関する読書会の草案
12229. 仏道修行と奉仕としての唯識思想に関する講座の提供に向けて
時刻は午前3時半を迎えようとしている。昨日はジムで充実したトレーニングをしていたことから入眠はすこぶる速やかで、熟睡することができた。午前3時に目が覚めたときにはすっきりとした目覚めがあり、今日もまた唯識思想の研究に打ち込めるという考えが即座によぎり、それを受けて喜びの感情が溢れ出して来た。最近はこのようにして唯識思想について学習を前に進められることへの喜びを通じて目を覚まし、そして1日を終えるというサイクルが完全に出来上がっている。このサイクルに従って日々を充実した形で過ごしていけば、それはいつか自分を遠いところまで運んでくれるに違いない。毎日の学習と実践は善行を積むことでもあり、それが阿頼耶識に積み重なっていき、いつか諸縁を通じてそれが果実をもたらすだろう。その果実も自分だけを喜ばすものではなく、他の多くの人を喜ばせるものであって欲しい。そんな願いが芽生える朝だ。
昨夜、今後毎週末のゼミナールの中で唯識思想を扱うことについて考えていた。それは以前からあったアイデアで、今のところ5月の中旬からそれを予定している。直感的に、そこから長きにわたって唯識思想に特化する形でゼミナールを運営していくように思える。それだけ今の自分にとって唯識思想は大事なものであるし、ゼミの受講生の皆さんにも唯識思想の実践的な叡智を共有したいという思いが強いのだとわかる。5月中旬からどれだけの期間唯識思想を扱うのかはやってみないとわからないが、可能な限り長く唯識思想を扱ってみて、自分自身の中での学びの深まりと受講生の中での学びの深まりを観察してみたいと思う。継続は力なりという言葉があるように、継続して同じテーマについて学んでみるとどうなるかを改めて見てみたいのだ。ゼミの場は他者と共に学ぶ最善の場であり、その場を通じて自分の中での唯識思想に対する理解がどれだけ深まるのかを楽しみにするのと同時に、受講生の中での理解がどれだけ深まるのかも楽しみにしたい。また、ゼミナールで唯識思想を扱うことは、きっと今後欧米の大学で唯識思想に関する講座を受け持つことの最良の準備になるだろう。今の自分は欧米の大学院で唯識思想に関する講座を受け持つことにとても前向きで、ぜひそれを実現したいと思っている。唯識思想に関する講座を受け持つことは自分にとって仏道修行に他ならず、仏教的教えの共有実践に他ならない。それは社会への奉仕活動でもある。ゼミナールと欧米の大学で唯識思想に関する講座を積極的に提供していくことに向けて、今日もまた学習を着実に前に進めていこうと思う。フローニンゲン:2024/3/1(金)03:33
12230. 今朝方の夢
先ほどの日記の中で、将来欧米の大学で唯識思想に関する講座を受け持ちたいという思いについて綴っていたように思う。まさにそれを象徴するような夢を今朝方に見ていた。夢の中の私は、見慣れない外国の町にある大学で唯識思想に関する講座を担当していて、数人の外国人学生に唯識思想についてレクチャーをしていた。学生が数人しかいなかったのはその講座が学部向けではなく、大学院生用のものだったからだろう。人数が少ない分、そこでは密な対話が実現されていた。最初に私の方から少し時間を取って、その日の課題図書をもとにしたレクチャーを提供した。そして後半からは、課題図書の内容とレクチャーの内容に基づいて対話をしていく形で進んでいった。その場にいたのが大学院生であったこともあり、彼らのコメントや質問は大変鋭く、こちらも大いに刺激を与えてもらいながら有意義な時間を過ごしていた。その時間があまりにも有意義だったので、唯識思想に関して講座を持つことはこれから一生続けていきたいと思った。その講座は単に学術研究目的で唯識思想を扱うのではなく、それを私たちの心の成長につなげていく実践的な側面もあり、研究と実践の双方が含まれた非常にユニークな講座だと自分でも思ったし、唯識思想はまさに心について深く理解することを可能にしてくれるのと同時に心を成長させてくれるこれ以上にない優れた思想体系なのだと改めて思った。仮に毎年同じ課題図書を扱ったとしても、それが唯識思想の経典や論集であれば、毎年新たな顔ぶれになる学生たちの鋭いコメントや質問によって、こちらも新しい発見が永続して得られる楽しみに授かれるだろうと思われた。そのような印象的な場面があった。
それ以外にも覚えている夢としては、日本人の見知らぬ小柄な若い女性から、ヨーガのパンフレットが詰まったバインダーをプレゼントされたことである。私は彼女のことを知らなかったが、彼女は私のことを知っているようで、気がつけば私たちはまるで友人であるかのように話をしていた。話の最後に彼女が、3人の有名なヨーガ学者及びヨーガ行者が出版した一連の書籍を紹介してくれ、それぞれの人が出版した4冊の書籍の解説パンフレットが収まったバインダーをプレゼントしてくれたのである。そのバインダーはとてもしっかりしていて、それだけでもかなり高価なように思えたが、彼女はこちらに何も見返りを期待することなくそれを渡してくれた。そのような場面があった。
その他にも、大型客船から欧米人の女性が何か大切なものを海に落としてしまう場面もあったように思う。彼女が大切なものを海に落とした直後に海底から何かが海面に浮上して来た。見ると、大きなペットボトルとペンキ缶のようであり、どちらも海を汚染するゴミだった。それらのゴミが現れて来たことを受けて、なんとかして海を浄化することはできないだろうかと思った。人間の手で汚した海を、人間の手で再び綺麗にすること。それはきっと人間の責任だろうと思ったし、今この瞬間にも悲鳴を上げている海を救うためにも、そして未来の人たちのためにも海の浄化は不可欠だと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/3/1(金)03:50
12231. 今朝方の夢の続き
早朝の呼吸法とアニマルフローの実践、そして朝の創作活動もひと段落したので、ここから唯識思想の研究に取り掛かろうと思う。今はまだ朝の4時半なので昼まで十分に探究活動に従事することができる。そのことにただただ感謝したい。こうして自分の日々は唯識思想と共に楽しさと喜びに包まれた形でこれからも進行していくだろう。人生の中で出会う全ての出来事が修行の機会なのであり、それがどんなものであったとしても自分は自らの心の成長機会としてそれを受け止めていく。唯識思想がそばにあれば万事安泰という絶対的な安心感がもはや揺るぎない形で存在している。
先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれらについても振り返っておきたい。まず覚えているのは、日本のどこかの町と欧州のどこかの町が混ざり合ったかのような町の小高い丘の上の住宅地にいた場面である。そこでは祭りが行われていて、数人の友人たちと一緒に祭りに参加していた。祭りといっても日中のものではなく、夜限定で開催されているものだった。屋台がある辺りはとても明るかったが、道を一本外れると外灯が点っておらず、とても暗かった。そんな場所を友人たちと一緒に歩いていると、突然用を足したくなった。しかし、トイレが近くになく困った。外国の町によっては立ち小便をすると罰金を払わないと行けない場所もあったり、下手をすると死刑になる国もある。今自分がいる町は立ち小便を許可する場所なのかどうかとても気になった。しかし、トイレの我慢の限界が近いと思ったので、人通りの少ない公園に行って、公園の影で立ち小便をした。すると、その様子を見にやって来たある友人が、「すごい量の小便だね!5リットル近くあるんじゃない?」と笑いながら述べた。さすがに5リットルもないだろうとは思ったが、確かにそれくらいに思われても仕方ない量だった。無事に用を足し終えてすっきりしたところで、公園内になぜかコーヒーを自分たちで挿れられるキッチンスペースがあったのでそこでコーヒーを淹れた。コーヒーには利尿作用があるので、またトイレに行きたくなるかもしれないなと思ったが、先にコーヒーを淹れていた友人のコーヒーがとても美味しそうに思えたので自分もコーヒーを淹れることにした。そのような夢を見ていた。
この夢の場面ではトイレに関するシンボルが現れたが、実は起床直前の夢でもまたトイレがシンボルとして現れた。そこでは小便ではなく、大便をしようとする自分がいた。どうやらそこは外国のどこかの町の建物の中にあるトイレのようで、男女兼用のトイレだった。個室に入ろうとすると、2人の女性の背中が見え、彼女たちが先に個室に入った。個室は4つあり、中が連結式になっていて、個室内で横に移動することができた。もちろんその隣の個室を誰かが使っている場合には移動できないようになっていたが、面白い作りになっているトイレだなと思った。私は空いている個室に入ったところ、そこが和式便所だったので場所を変えようと思った。ちょうど左隣から人が出て来たので、そちらに入ろうと思った。左隣の個室から出て来たのは、182cmぐらいの大きなオランダ人女性だった。彼女が出た後のトイレに入ったところ、そこも和式だったが、もう洋式と和式を問うてはいられないと思ってそこでトイレをすることにした。その瞬間に目覚めた。
トイレが何を象徴するのかはとても気になるところだが、小便にせよ大便にせよ、不要なものを外に出すという点で言えば、今の自分は断捨離をしようと考えている。それは引っ越しに向けて不要になった物を捨てていくということでもあるし、精神的な意味での断捨離も意味する。後者に関しては、現在の関心事項である唯識思想の研究に専念するために、できるだけ脳内での不要な考え事を排除していく実践をしてみようと思っている。特に人間関係の見直しは非常に重要で、自分の研究に専念でき、その研究を前に進めていくことに資する人間関係を当面は大切にしていこうと思う。フローニンゲン:2024/3/1(金)04:54
12232. サイケデリクスと仏教とのつながり
昨夜と同様に、午前5時を迎えた今、猫が鳴き声を上げた。ここ最近は猫が何かを訴えるような鳴き声を上げているので少し気になる。威嚇するような声ではなく、少し悲痛さがあるような鳴き声なので尚更心配なのだ。
昨日の午後にふと、サイケデリクスと仏教とのつながりを解説した“Secret drugs of Buddhism: Psychedelic sacraments and the origins of the Vajrayana (2nd ed.)”と“Psychedelic Buddhism: A user’s guide to traditions, symbols, and ceremonies”という書籍を読み返していた。どちらの書籍も同じ著者が執筆しているものなのだが、サイケデリクスと仏教の双方に関心を持っている自分からすると、どちらも実に面白い。日本の宗教研究者や宗教家は幾分蚊帳の外になっているかもしれないが、現在の欧米ではサイケデリックルネサンスの流れを受けて、世界の主要な宗教とサイケデリクスに関する研究がかなり進んでおり、関連書籍が充実している。仏教とサイケデリクスの関係について解説した書籍の中でも、上記の2冊は非常に興味深い調査と考察をしている。特に前者が仏教の歴史とサイケデリクスを絡めて非常に洞察の深い研究成果を紹介している。ゴータマ・シッダールタは毒キノコを食べて死んだとされる逸話が残っているが、それは毒キノコではなく、サイコアクティブな物質が含まれたマッシュルームだったのではないかという説が有力であり、釈迦はそれを食して死んだのではなく、それを食して涅槃状態に入ったと解釈する説がある。釈迦が人間に対して極めて深い洞察を持ち、悟りに至っていたことは十分に確からしいが、仮にそうであったとしても人間には多様な知性領域があり、キノコについての知識をさほど釈迦が持っておらず毒キノコを食べてしまったというのはあり得ることかもしれない。しかし、サイコアクティブなキノコを象徴する古代の仏教芸術作品が多数発見されている様子からも、釈迦は毒キノコを食して死んだとするよりも、サイコアクティブなキノコを摂取して、こちらの世界に戻ってこれないぐらいに深い意識状態に入って肉体の停止をしたとする方がより現実的な見方かと思う。まさにオルダス・ハクスリーが死ぬ直前に妻にLSDを投与してもらってあの世に行ったように。
上記の“Secret drugs of Buddhism: Psychedelic sacraments and the origins of the Vajrayana (2nd ed.)”のp.70を見ると、そこに1枚の興味深い写真が掲載されている。それは800年に作られた石像とのことで、その石像は苦行をして餓死状態にあったシッダールタにキノコを与えているスジャーターを描いている。逸話によると、シッダールタが苦行を放棄したのはスジャーターから乳粥を施してもらったからだとされており、そこにサイコアクティブなキノコが混入していた可能性や、あるいはその石像が描くように、サイコアクティブなキノコの飲み物を飲んで悟りを開いた可能性が十分にある。6年間も継続していた苦行をやすやすと放棄することができたのは、サイコアクティブなキノコによる深い精神変容体験があったからではないかという可能性が十分にあるだろう。サイコアクティブなキノコを摂取すれば、苦行が馬鹿馬鹿しく、あまりに遠回りなものに思えるのは当然であるし、サイコアクティブなキノコを摂取して体験される意識状態を定着させたり、再現するために瞑想実践に打ち込むのは納得できるし、とても自然な流れのように思える。釈迦がどうであったかはもう彼は生きていないのでわからないが、少なくとも自分が辿ったプロセスはそのような内容である。心の成長に向けてありとあらゆる実践をしながら、最終的に行き着いたのがサイケデリック実践であり、そこでの体験を咀嚼・定着させるために瞑想実践と唯識思想の探究があると位置付けている。いずれにせよ、仏教の背後にサイコアクティブな物質が存在していたであろうことは考古学的な証拠資料からも否定することはできず、チベット密教においてはその名残はまだ見られるようだ。フローニンゲン:2024/3/1(金)05:31
12233. サイケデリクス・唯識思想・発達心理学の架橋に向かって
昨日のジムでのパーソナルトレーニングの際に、パーソナルトレーナーのエリーザから、「ハーバードの結果が出るのもあともうすぐだね」と言われたのをふと思い出した。親友のメルヴィンだけではなく、エリーザや別のトレーナーのエレンなどにもハーバード神学大学院(HDS)に出願したことを話しており、みんなから応援してもらっていることの有り難さを感じる。結果が出るのは再来週になると思うが、仮に合格をしていた場合には本当にやりたいことがたくさんある。HDSで取り組みたいことは山ほどあるが、種類としては限定されている。というよりも活動を限定をしないと、HDSを含めたハーバード全体はお隣のMITとの協働関係も含めて無限の学びの場に放り込まれる形となり、自分の専門性を深めることが逆に難しくなってしまう可能性がある。かつて師事をしていた発達心理学者のサスキア・クネン教授が提唱した概念で言えば、「探求(explore)と関与(commit)」のどちらを優先させるべき時期に自分がいるのかを冷静に見極める必要があるだろう。今の自分はもう4つ目の修士号を取得するところまで広く探求するプロセスは進み、サイケデリクスと唯識思想という深くコミットするべき対象をもう見つけている。執着ではないが、もう離すことができないほどに深く関与したいと思わせてくれる対象との出会いをようやく果たせたのだ。サイケデリクスと唯識思想についての探究をどこまでも深く行うための機会としてHDSへの留学がある。サイケデリクス単体を学ぶだけなら世界にはその他にも良い大学があるし、唯識思想単体を学ぶだけなら世界にはその他にも良い大学がある。しかし、両者を掛け合わせた形で探究できる場は世界で唯一HDSだけである。それは広範に渡る調査をして得られた結論でああったし、実際にHDSの世界宗教センターに足を運んで何人かの研究者にインタビューして思ったことである。その点を志望動機書にしっかり明記し、最終選考面接の中でもその点を強調した。今の自分はもうサイケデリクスと唯識思想からは微塵も離れたくないのである。それは我欲に基づくものではなく、自他の解放と幸福に基づく大欲に立脚した思いである。サイケデリクスと唯識思想に関する研究と実践に関与することは、もはや自分が世界に果たす義務であり、使命なのだ。そんな思いが日増しに強くなる。
そのようなことを考えた後にふと、これまで自分が探究して来た発達心理学の観点からサイケデリクスと唯識思想を捉えることも大切にしたいと思った。これまで自分が蓄積して来た発達心理学の知識を基盤にしてサイケデリクスと唯識思想を紐解くことは自分にしかできない貢献だと思っている。実際に、そのような研究や情報発信をしている人は今のところ世界には1人もいない。サイケデリクスも唯識思想も目指す場所は完全に重なっていて、それは心の成長なのだ。心の成長に関するプロセスとメカニズムを記述した発達心理学の知見は、必ず両者に対しても良い影響を与えるだろう。これまで学んできたこととこれからさらに深く学んでいくことを絶えず架橋させる意識を強く持ちたいものだ。そうすれば、自分にしかできない形でこの世界に貢献できる日がやってくるに違いない。フローニンゲン:2024/3/1(金)05:49
12234. 釈迦が悟りを開いたときに摂取した可能性のあるサイケデリクスについて
釈迦が悟るきっかけを作ったスジャーターの功績について改めて注目している。サイケデリック研究で得られた知識を通じて、改めて釈迦とスジャーターのエピソードを眺めてみると、色々と面白いことに気づくし、仮説としていくつかのことが考えられる。
6年の過酷な苦行によって心身共に危機的状態にあったシャカを救ったのがスジャーターだった。スジャーターは、釈迦に乳粥を提供したらしいのだが、そこに「滋養素(Oja)」というものが加えられていたことが原始仏教経典の『スッタニパータ』に記述があるらしい。その滋養素が何であるかは特定されておらず、“Secret drugs of Buddhism: Psychedelic sacraments and the origins of the Vajrayana (2nd ed.)”という書籍の中でもその可能性として幾つかの物質が取り上げられている。興味深いのは、スジャーターから何かしらの滋養素が含まれる乳粥を提供してもらった後の釈迦の行動とその結果である。釈迦はあれだけ苦行をしても悟りを開くことはできなかったが、その乳粥を飲んだ後に心を落ち着かせて近隣の森の大きな菩提樹の下で瞑想をした。そして、6年の苦行でも得られなかった悟りがそこで得られたのである。もちろん発達心理学の観点からすれば、6年間の苦行の積み重ねが発酵され、乳粥を飲んでリラックスして非線形的な発達的跳躍を通じて悟りを得たとも解釈できるが、如何せんその乳粥には何かしらの滋養素が含まれていて、それを飲んで瞑想をして悟り得たことを考えてみると、その滋養素はやはりサイコアクティブな物質だったのではないかと思われる。王族の王子として料理とは無縁であったであろう釈迦がキノコについての知識を持っていたとは考えられず、アーユルヴェーダ的な薬学的知識とまでは言わないまでも、民間に伝わる薬理作用をもたらす物質についてスジャーターが生活を通じて知識を持っていた可能性は高い。そんなスジャーターが提供した乳粥を飲んで近くの森に行って菩提樹の下で寛ぎ、その状態で瞑想をしたことによって悟りを得たというのは、サイケデリクスの物質特性と瞑想との掛け合わせの観点から言えば妙に合点がいく。
上記の書籍でリストアップされている滋養素としての候補となる物質を眺めてみたときに、インドの熱帯的な気候から考えると、カンナビスを含めた何かしらの植物起源の物質だった可能性と、シロシビンを含むキノコだった可能性が高い。ベニテングタケはカムチャツカ半島や北欧地域で摂取されていたことからも、寒い地域でよく生息する印象があり、釈迦が摂取したのはベニテングタケではなさそうだと考えている。ベニテングタケと共生する樹種がシラカンバやモミ属のような寒冷地域に生息する樹種であることを考えたときに、インドのような温暖な地域でそれが生息されていた可能性は低いのではないかと思う。むしろインドの気候に適するのは牛の糞から生息するシロシビンが含まれたキノコ群であり、ヒンドゥー教において牛は神聖なものとして崇められており、その神聖な牛の糞から採れたキノコを料理に使うというのは十分に考えられる。いずれにせよ、シロシビン・マッシュルームと瞑想実践をいつも組み合わせている自分の直接体験をもとにすると、釈迦はスジャーターからシロシビン・マッシュルームかカンナビスを含めた植物起源のサイケデリクスが含まれた乳粥を飲んで悟りを開いた可能性が実に高い。さもなければ、インドやチベットの仏教芸術作品の中であれだけたくさんキノコをモチーフにした作品が存在していることを説明できないし、唯識思想の緻密かつ網羅的な心の分析を見てわかるように、悟りに向かう心に関する詳細な探究地図を制作できたことも説明がつかない。フローニンゲン:2024/3/1(金)06:12
12235. 「仏教とサイケデリクス」講座の提供に向けて
再来週の合格発表を受けて、もしハーバード神学大学院(HDS)とご縁があったときに自分がやりたいこと、それは兎にも角にもサイケデリクスと唯識思想についての研究に打ち込むことである。とりわけ後者については博士課程への進学を見越しての研究を進めていきたい。ハーバード大学とMIT以外にもボストンエリアには名門大学がいくつもあり、それらは全て提携をして単位互換をしている。その点を踏まえると、ボストンでの学びには無限の可能性がある。そんな中で、自分はもうサイケデリクスと唯識思想に絞って探究を深めていく意気込みを持つ。他には目もくれない形で探究を深めていきたい。それは極端な思えるかもしれないが、自分にとってはサイケデリクスと唯識思想という互いを補完し合う関係のある2つの道を幸いにも歩むことができ、2つの道が織り成す中道を進むことができると考えている。探究の道が1つしかないと極端に走りやすく、探究が行き詰まる可能性が増す。しかし、お互いがお互いを補完し合うような2つの道がある場合、その中道を歩むことができれば、2つの道は無限に深まりを見せ、両者が生み出す統合的中道は限りなく深まっていくであろう。そんな予感がある。
先日の最終選考面接の中でも言及したことでもあるし、志望動機書に盛り込んだことでもあるが、HDSに進学することができたら、HDSコミュニティーへの貢献として読書会を運営しようと思っている。そこで取り上げる内容はそっくりそのまま今後自分が欧米の大学で受け持つ講座になり得るようなものだ。すでにHDSには、世界宗教センターのサポートを得て、世界の他の大学にはない読書会グループが立ち上がっている。昨年の秋に世界宗教センターに足を運び、そこで面談をさせてもらったラッセル・パウエル博士曰く、その読書会は最も成功している読書会とのことだった。その読書会には、HDSに在籍するサイケデリクスに関心のある大学院生だけではなく、化学学科や生物学科の大学院生や、引退した大学教授たちも参加しているようであり、大いに盛り上がっているようなのだ。自分はその読書会を引き継ぐ役割を担いたいと思っている。現在の読書会はサイケデリクスについて非常に幅広い観点で取り上げていることが課題図書リストからわかる。この読書会を運営するリーダーのポールにもキャンパスで話をさせてもらい、自分はHDSの学生ではないが、すでに読書会のメーリングリストに登録してもらっていて、毎回どのような論文や書籍を読んでいるのかについての情報がある。それを見る限り、ある特定の宗教の観点からサイケデリクスを扱うことはせず、科学や哲学の観点から包括的にサイケデリクスを扱っていることが伺える。当初の自分はその方向性に大変共感していた。しかし、その方向性を採用する形で読書会を運営していくことにもはや動機付けができない自分がいる。やはり自分の最大の関心は唯識思想なのであり、仏教なのだ。その観点で言えば、視点を仏教に限定して、仏教を通じてサイケデリクスについての理解を深めていく読書会を開催したいと思っている。現在の読書会が成功しているのはきっと、ポールやもう1人のリーダーのジェフェリーの人柄と広範な観点を採用した読書会の方向性が主たる要因だろう。しかし自分はあえて人が減ったとしても、自分の関心に嘘をつくことはできず、仏教のレンズに限定する形でサイケデリクスに深く光を当てていきたい。世界宗教センターのディレクターを務めるチャールズ・スタング教授とも話し合って決めなければならないだろうが、「仏教とサイケデリクス」というタイトルが入った読書会の運営を自分はHDSで行いたい。そしてそれは今後世界のどこかの大学で受け持つ講座のタイトルにもなるだろう。フローニンゲン:2024/3/1(金)06:30
12236. 母校一橋大学の入試問題を通じての自己形成に関する振り返り
つい今し方、朝の瞑想実践を終えた。このところは朝と夕方の瞑想実践も完全に板につき、シロシビン・セッションの体験の咀嚼と定着に大きな役割を果たしている。瞑想実践中には唯識思想の実践でも重視される止観の双方を意識している。瞑想中に生じる内的ビジョンに囚われることなく、それを万華鏡を眺めるかのように純粋に観察している自分がいる。
瞑想実践の前に、毎年この時期なると行うある楽しみに興じていた。それは、母校の一橋大学を含めたいくつかの国立大学の入試問題を見ていくというものである。母校以外の国立大学については数学の問題だけを眺め、母校に関しては英数国社の全ての入試問題を眺める楽しみがある。それぞれの大学の数学の問題だけを見ていても、そこに込められたメッセージからどのような学生を求めているのかがわかる。母校の英数国社の問題を眺めていると、改めて母校への感謝の念が溢れてきた。唯識思想と絡めるのであれば、母校が提供してくれた教育が阿頼耶識に染み渡り、それによって今の自分の知的基盤が構築されていると気づいたのである。中高生時代に自分がそもそも母校の何に魅力を感じたかというと、その入試問題に如実に現れているようにとにかく記述させるという点に尽きる。記述量が日本でも一番多いと思われるぐらいの入試問題を課すことが自分にとっての最大の魅力であった。小学校1年生の時から日記を書き始め、ゼロベースで自分の体験や考えを綴っていくことに無上の喜びを感じている自分にとって、日本で一番と言ってもいいほどに記述を課してくる一橋大学の問題に感銘を受けた自分が幼少期にいたのである。もちろん父が一橋大学を卒業しているということが自分の大学選択に影響を与えたことは間違いないが、日本で最も記述量を課す大学での教育はどのようなものなのだろうと思いを馳せていた高校生の頃の自分が懐かしい。実際に大学に入ってみると、その入試問題通りの記述を大切にする成績評価で驚いたが、むしろ入試問題と大学での教育で課すことが一致しているのだなと思ってひどく納得感があったのを覚えている。
一橋大学は人文・社会科学系の大学であるから、英語の入試問題の問題文もその分野からの出題となり、入試問題と大学での教育で読む英文とに分野上の差がないことも好感を持てる。また、社会の記述問題についても、政治経済や歴史と絡めた論述問題は大学での授業で課題として出される問題と性質を同一にしている。国語の要約問題などは、今の自分が文献を読むときの思考の働かせ方そのものであり、文献の要旨を掴み、それを人に話したり、自らの論文に盛り込んでいく際の下地になっていることがわかる。本日改めて母校の英数国社の問題を眺めることによって、高校1年生から本格的に始めた入試対策を通じて培われた自分の思考特性と、実際に母校に入学してそこでの教育を通じて培われた自分の思考特性が今の自分の思考特性を形作っていることがわかり、懐かしさと共に深い感謝の念を持った。自分がどのような教育を受けたのかを振り返る意味で、大学入試がちょうど終わったこのシーズンに母校の入試問題を眺めてみるのは良い自己探求実践になるのではないかと思う。フローニンゲン:2024/3/1(金)08:58
12237. 「サイケデリクスと仏教」に関する読書会の草案
今週は少し小雨が降る日が多かったが、今日から1週間は雨が降らず、天気が良い日が続くようなので何よりである。明日と明後日までは最高気温は10度を超えるが、来週の月曜日からはまた10度を下回るような気温になるらしい。とは言え、もう氷点下になることはないようなので何よりである。
先ほど改めて、ハーバード神学大学院(HDS)にご縁あったらコミュニティへの貢献として行いたい読書会の開催について考えていた。HDSでの留学が始まれば、各セメスターで履修するべき4つのコースとそれに加えてサンスクリット語のコースを合わせると、1週間に5つの授業を受講する必要がありそうだ。最初はそのペースを掴むことに焦点を当てたいが、それに並行して読書会を積極的に開催したいと思っている。少し欲張りかもしれないが、サイケデリクスと仏教を絡めた読書会と唯識思想に特化した読書会の2つをリーダー役を務める形で開催したい。現在HDSの世界宗教センターのサポートをもとに開催されている読書会を見ると、いずれも隔週で開催されているようなので、それであれば2つの読書会を隔週で開催することを通じて毎週どちらかの読書会を運営していくことは可能かもしれない。読書会の準備を含めてやることは多いが、今からその準備を進め、実際の読書会の開催前に週末のゼミナールの場で扱う書籍の内容を解説する教材を作成したり、ラジオの場で語っていけば、実際にHDSでの留学が始まってからの読書会の開催の負担が随分と軽減するのではないかと思う。どのような負担があってもそれを跳ね除けるだけの情熱が今の自分にはある。サイケデリクスと仏教、そして唯識思想の2つを扱う読書会は、今後欧米の大学で自分が教鞭を執る講座の内容と直結する可能性があり、将来を見越しての楽しさが含まれた活動の場になりそうである。
すでにいずれの読書会において取り上げたいと思う文献の候補は決まっているが、「サイケデリクスと仏教」で言えば、“Secret drugs of Buddhism: Psychedelic sacraments and the origins of the Vajrayana (2nd ed.)”、“Psychedelic Buddhism: A user’s guide to traditions, symbols, and ceremonies”、“Altered states: Buddhism and psychedelic spirituality in America”、“Zig zag zen: Buddhism and psychedelics”の4冊のどれか、あるいは全てを取り上げていきたいと思う。サイケデリクスと仏教との歴史的関係性についての理解を深める目的であれば最初の書籍を、とりわけ密教の儀式作法に則ってサイケデリクス・セッションを組み立てていくという実践に焦点を当てるのであれば2番目の書籍を、アメリカにおける仏教の歴史的受容の過程を概観しながらアメリカのサイケデリック・スピリチュアリティについて考察を深めていくのであれば3番目の書籍を、アメリカにおける禅仏教の思想的・芸術的影響を概観しながらサイケデリクスを仏教の実践の観点からどのように活かしていくかについて理解を深めていくのであれば最後の書籍を扱いたい。1番目と3番目の書籍がより学術研究に寄っており、2番目と4番目の書籍がより実践に寄っていると分類できるだろうか。このあたりは読書会への潜在ニーズを勘案してどの書籍をどのように取り上げていくかを今後検討したい。フローニンゲン:2024/3/1(金)09:36
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