【フローニンゲンからの便り】18758-18763:2026年5月28日(木)
- 3 時間前
- 読了時間: 15分

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
18758 | シロシビンやLSDの興味深い性質 |
18759 | 今朝方の夢 |
18760 | 今朝方の夢の振り返り |
18761 | サルヴィアの興味深い意識変容作用 |
18762 | クラシックギターの身体化のプロセス |
18763 | 交差再帰定量化解析について |
18758. シロシビンやLSDの興味深い性質
最近改めて興味深く感じているのは、シロシビンやLSDが「脳を興奮させる物質」というより、むしろ脳内の固定化された秩序を一時的に緩める作用を持っているらしいという点である。特に印象的だったのは、デフォルトモードネットワークと呼ばれる、自我感覚や自己物語を支えているネットワークの活動が和らぐという話だった。普段の意識は、まるで巨大な鉄道網のように決まった路線に沿って動いているのかもしれない。しかしサイケデリクス状態では、その線路の拘束が緩み、森の中に無数の小道が突然現れるように、脳内の遠く離れた領域同士が自由につながり始めるらしい。考えてみれば、人間は普段、あまりにも「いつもの自分」を繰り返している。同じ感情反応、同じ意味づけ、同じ不安、同じ世界観。それは安定を与える一方で、認知の柔軟性を少しずつ失わせてもいるのだろう。サイケデリクス研究では、そうした硬直した自己構造が一時的に緩み、脳全体のネットワーク結合性が増大すると言われている。これは単なる幻覚というより、「認知の重力」が弱まる現象に近いようにも思える。特に面白いのは、通常はあまり結びつかない感覚・記憶・感情・抽象思考などが互いに接続されやすくなる点である。これは即興演奏とも少し似ている気がする。普段の演奏では、どうしても既存の音楽文法や慣れた運指に従ってしまう。しかし即興では、それまで接続されていなかった感覚や記憶が突然つながり、思いがけない音の流れが生まれることがある。まるで脳内の閉ざされた部屋の壁が一時的に薄くなるような感覚である。また、サイケデリクスが神経可塑性にも関係している可能性があるという点も印象的だった。脳は固定された機械ではなく、経験によって絶えず形を変えている。だとすれば、人間の成長とは、単に知識を増やすことではなく、「脳の接続可能性」をどう広げるかという問題なのかもしれない。もちろん、こうした状態は常に肯定的に働くわけではないだろう。秩序が緩むということは、洞察と同時に混乱も生じうるということである。それでも、普段の自己が絶対的なものではなく、一時的な構成物にすぎないという感覚は、どこか唯識や現象学とも響き合っているように感じられる。脳とは、固定された城塞というより、絶えず流れを変えながら自己を編み直している巨大な河川網なのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/28(木)06:30
18759. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、ある友人と見知らぬ店の中を探索していると、地下道があることに気づき、そちらに降りてみた。するとそこは広い洞窟になっていた。洞窟の奥に進むと、入り口から何か動物がやってくる気配があった。なので私たちは速やかに洞窟の奥の大きな岩の奥に隠れることにした。やって来たのはチーターの親子だった。どうやら父親はいないらしく、母親のチーターが子供たちを先導してまず現れた。母親のチーターは感覚が鋭く、すぐさま私たちがいることに気づいたが、こちらを威嚇すると子供たちが興奮したり、怯えたりするかもしれないと察したのか、私たちをそっとしておいてくれた。私たちの方を見て、まるで優しく微笑んでいるかのような表情を見せ、再び子供たちを連れて洞窟の外に出ていった。
次に覚えているのは、見慣れない超高層ビルの屋上にいた場面である。そこで私は、小中高時代のある友人(YU)と一緒に、ある講師から出題されたお題に取り組んでいた。それは、手元の一枚の紙に描かれた教会がある方角を答えるというものである。描かれた教会らしきものはすぐに見つかり、自分はその方角は東だと思った。しかし、友人の彼は南だと答えた。そこからお互いになぜその方角だと思ったのかを述べ、最終的な決断を下そうとした。すると、屋上でサッカーをして遊んでいる友人たちの姿が目に入った。小中高時代の男女の友人が数人楽しそうにサッカーボールを蹴って遊んでいたが、この屋上にはなんと柵がなく、ボールや人が落ちたら大変だと思って眺めていた。何度もボールがきわまで転がっていき、こちらとしてはヒヤヒヤしていた。キーパー役を務めていたある友人(YU)がボールを落としそうになり、ボールは壁際に引っかかった。彼は無謀にもそのボールを取りに行こうとし、ロッククライマーのように壁を進み始めた。私はそれを必死に止めようと叫んだが、彼はもう動き出していて、もし彼が超高層ビルから落ちてしまったら、すぐさま空を飛んで彼を救出しようと思った。
最後に覚えているのは、ドイツの名門サッカーチームのキーパーを務めて試合に出場している場面である。先週末には、ある日本人のフィールドプレイヤーもまた別の名門チームでキーパーとして出場したらしく、ドイツでは話題になっていた。そこに私も活躍を期待されて、急遽キーパーとして抜擢されて試合に出場することになった。自分はどんなポジションもこなせる自信があり、色々なポジションで試合に参加することは自身の成長につながると思っていたので、試合がとても楽しみだった。フィールドには偶然にも大学時代のサークルの一学年上の仲の良かった先輩がいて、その先輩の誕生日を答えるクイズを先輩自ら試合中に出してきて、それを必死に考えた。自分は11/1だと思ったが、正しくは11/15で2週間ほどずれていたが、誕生月はあっていたのでひとまず安心した。フローニンゲン:2026/5/28(木)06:44
18760. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内面における「地下への下降」「高所での判断」「ゴール前での役割引き受け」という三層構造を示しているように思われる。最初の見知らぬ店は、日常生活の表層的な選択肢や社会的な活動領域を象徴しているのかもしれない。その奥に地下道があり、さらに広い洞窟へ降りていく展開は、自分がいま、表面的な思考や役割の奥にある、より原初的で本能的な領域へ降りていることを示しているようである。洞窟は、理性の光が届きにくい場所であると同時に、生命の古い記憶が眠る胎内のような場所でもある。そこに現れたチーターの親子は、速さ、鋭敏さ、保護本能、そして野生の優雅さを象徴しているように見える。興味深いのは、チーターが攻撃者としてではなく、子を守る母として現れる点である。母チーターは自分たちの存在に気づきながらも、威嚇せず、むしろ微笑むような表情を見せて去っていく。これは、自分の中にある鋭い本能や野生的な感受性が、もはや危険な衝動としてではなく、成熟した保護力として現れ始めていることを示しているのかもしれない。かつてなら恐れるべき内的エネルギーが、今は静かな守護者として通り過ぎていく。まるで森の奥で出会った獣が、自分を敵ではなく、同じ大地を歩く存在として認めてくれたようである。次の超高層ビルの屋上は、洞窟とは対照的に、極度に高い意識の場所である。ここでは、教会の方角をめぐる課題が出される。教会は、精神的中心、信念、祈り、あるいは人生の方向性を象徴しているように思われる。自分は東と答え、友人は南と答える。東は日の出、新しい始まり、知的覚醒を連想させる。一方、南は温かさ、生命力、情動的な豊かさを連想させる。つまりこの場面では、自分が進むべき方向を、知性の光として捉えるのか、生命の温度として捉えるのかが問われているのかもしれない。その直後に、柵のない屋上で友人たちがサッカーをする場面が現れる。これは、自由と危険が隣り合わせになった発達状況を示しているようである。柵がないということは、保護された環境が消え、自分や他者がより大きな自由の中で振る舞っていることを意味する。しかし、その自由には落下の危険も伴う。友人が壁際のボールを取りに行く場面で、自分は必死に止めようとし、必要なら空を飛んで救出しようと考える。ここには、自分の中の救済者的な衝動が表れているようである。他者の無謀さを見過ごせず、危機が起これば超人的な力でも救おうとする。これは慈悲であると同時に、他者のリスクまで自分が引き受けようとする傾向を映しているのかもしれない。最後のドイツ名門チームのキーパーとして出場する場面は、前の屋上サッカーの危険を、より公的で成熟した競技の場へ移し替えたもののようである。屋上では他者が危うい遊びをしていたが、ここでは自分が正式にゴールを守る立場に立っている。キーパーとは、最後の防衛線であり、全体の失点を防ぐ責任を負う存在である。自分がどのポジションもこなせると感じ、急な抜擢も成長の機会として受け取っている点には、役割の柔軟性と自己効力感が表れているように思われる。人生という試合の中で、自分はもはや一つの固定ポジションに閉じ込められず、必要に応じて守り、支え、判断し、場の均衡を保とうとしているのである。試合中に先輩の誕生日を問われる場面は、他者との記憶や関係性をどれほど正確に保持しているかを問う小さな試験のようである。11月は合っていたが、日付が2週間ずれていたという展開は、自分が関係性の核心には近づいているものの、細部にはまだ調整の余地があることを示しているのかもしれない。完全な正解ではないが、大きく外してもいない。この微妙なずれは、現在の自分の発達状態そのものを映しているようである。方向は見えている。だが、具体的なタイミングや距離感は、なお繊細に合わせていく必要がある。この夢が人生において示している意味は、自分がいま、内なる野生を恐れず受け入れ、高所から人生の方角を見定め、同時に他者や場を守る役割へ移行しつつあるということである。洞窟のチーターは本能の成熟を、屋上のサッカーは自由と危険の境界を、名門チームのキーパーは責任ある実践の場への抜擢を示しているように思われる。人生は今、地下の洞窟から屋上へ、そして試合のフィールドへと移っている。自分に求められているのは、誰かを無理に救うことではなく、必要な場所に立ち、必要な瞬間に動けるしなやかな守護者になることなのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/28(木)07:37
18761. サルヴィアの興味深い意識変容作用
サルヴィアについて調べていて強く印象に残ったのは、LSDやシロシビンとは根本的に異なる方向で意識を変容させるらしいという点である。一般的なサイケデリクスは、色彩や感情、意味感覚を増幅させる方向へ意識を拡張する印象がある。しかしサルヴィアは、それとは少し違い、世界を成立させている座標軸そのものを揺るがす方向へ働くらしい。特に興味深かいのは、サルヴィアが5-HT2A受容体ではなく、κオピオイド受容体に強く作用するという点である。つまり、脳内で起きていること自体が古典的サイケデリクスとはかなり異なるのである。そのせいか、体験談を読むと、単なる幻視というより「現実構造の崩壊」に近い描写が非常に多い。例えば、自分が突然「物」になる感覚。椅子や壁紙や歯車の一部になる感覚。あるいは世界全体が巨大な紙のように折り畳まれたり、ページのようにめくられたりする感覚。これは通常の夢ともまた違う奇妙さを持っているように思える。夢はまだ「自分が人間である」という前提を保っていることが多い。しかしサルヴィアでは、その前提自体が消えてしまうらしい。まるで舞台の背景が変わるのではなく、舞台を支えている重力や空間そのものが突然別の法則へ切り替わるような感覚である。この点は非常に哲学的でもある。普段、自分は「この身体を持った一人の人間である」という感覚を絶対的なものとして生きている。しかし実際には、その自己感覚も脳内の高度な構成作用によって保たれているにすぎないのかもしれない。サルヴィア体験では、その構成作用が急激に崩れることで、「人間である」という前提が外れてしまうのだろう。また面白いのは、こうした体験がしばしば「こちらの現実より本物だった」と感じられることである。通常、私たちは現在の世界を唯一の現実だと思っている。しかし脳の状態が変わるだけで、その確信は驚くほど簡単に揺らぐのかもしれない。現実とは岩盤ではなく、むしろ極めて精巧に張り巡らされた知覚のテントのようなものなのだろう。その支柱が一本抜けるだけで、世界の形は一変する。もちろん、サルヴィアは非常に急激で強烈な変容を引き起こすため、恐怖や混乱を伴うことも多いらしい。だから単純に楽しいというものではなさそうである。それでも、意識とは何か、自己とは何かという問いを考える上で、極めて特異な鏡のような存在に思える。普段の意識が整然と舗装された都市だとすれば、サルヴィアはその地下深くにある、まだ地図化されていない迷宮を一瞬だけ照らし出す光なのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/28(木)08:40
18762. クラシックギターの身体化のプロセス
クラシックギターが身体化していく過程は、単に運動技能が向上するというより、楽器が外部対象から身体拡張へ変化していく過程であるように思われる。最初は木材の塊として存在していたギターが、ある地点から自分の神経系の延長のように感じられ始める。この変化は直線的ではなく、累計練習時間ごとに質的飛躍を伴いやすい。累計0~50時間程度では、ギターはまだ完全に外部物体である。左手と右手は互いに独立せず、視覚依存も強い。指板は抽象的な座標空間にすぎず、音楽よりも運動処理が意識の大半を占める。この段階では、脳は運動野・前頭前野を強く使いながら、ぎこちなく神経回路を構築しているのだろう。歩き始めた幼児のように、一音一音が重い。100~300時間ほどになると、基本フォームが安定し始める。右手のアポヤンドやアルアイレ、左手のポジション移動が少しずつ自動化される。興味深いのは、この頃から音より先に指の感触で次の動きを予測し始める点である。つまり、視覚中心だった演奏が、触覚・固有感覚中心へ移行し始める。ギターがまだ道具ではあるが、徐々に身体の周縁へ接続され始める段階である。500~1000時間付近では、多くの人が最初の大きな壁と突破を経験するように思われる。技術的にはある程度弾ける。しかし同時に、自分の限界も見え始める。テンポの不安定さ、脱力不足、音色の浅さ、右手と左手の同期不全などが明確化する。この段階では、弾いている自分を強く観察している状態であり、演奏主体と観察主体がまだ分離している。しかし1000~2000時間を超える頃から、ギターは徐々に操作対象ではなくなる。特にクラシックギターでは、右手爪の角度、左手親指の重心、微細な脱力などが神経系へ深く埋め込まれていく。この頃になると、音を出す前に身体全体で音色を予感する現象が起こりやすい。演奏は指で作るというより、姿勢・呼吸・重心・注意の流れ全体で生成され始める。3000~5000時間付近では、指板地図がほぼ内在化する。これは単なる暗記ではない。C音を「5弦3フレット」として認識するのではなく、空間的・音響的・身体感覚的ネットワークとして知覚する段階である。ちょうど母語話者が文法を意識せず話すように、運指も半ば無意識化する。また、この段階から即興や表現の自由度が急激に高まりやすいはずだ。なぜなら、脳の処理資源が運動制御から解放され、音楽そのものへ向かうからである。つまり、楽器が透明化するのだ。それはまるで熟練運転者がハンドル操作を意識せず道路状況へ集中するのと似ている。10000時間を超える頃には、ギターはもはや持つものではなく、知覚様式へ近づくのかもしれない。世界を見る際にも、音程関係、共鳴、テンション、沈黙、時間伸縮などを身体レベルで感じ始める。演奏とは、音を並べる行為ではなく、時間の流れへ触覚を与える行為へ変化する。特にクラシックギターは、ピアノ以上に身体との距離が近い。胸郭、爪、皮膚、呼吸、骨格振動が直接音へ反映されるため、長年の演奏によって身体そのものの聴覚化が起こるのだろう。まるでギターが身体へ同化するというより、身体の方が徐々に楽器化していくのである。フローニンゲン:2026/5/28(木)09:00
18763. 交差再帰定量化解析について
昨日、フローニンゲン大学時代に研究で活用していた「Cross-Recurrence Quantification Analysis」という分析手法について調べていたのだが、日本語では「交差再帰定量化解析」と訳されるらしい。この名前を最初に見た時は非常に数学的で硬い印象を受けたが、内容を理解するにつれ、むしろ極めて人間的な分析手法なのではないかと思い始めている。通常の統計分析は、「Aが増えるとBも増える」といった静的関係を見ることが多い。しかし再帰定量化解析は、それより遥かに流動的なものを見ている。特に交差再帰定量化解析では、「二つの存在が時間の中でどのように呼応し合っているか」を見るのである。これは単なる一致率ではない。むしろ、互いのリズムがどのように接近し、離れ、再び交わるのかという、関係の軌道を観察しているように見える。例えば会話でもそうである。人と話している時、完全な同時性はむしろ少ない。相手が笑った数秒後にこちらが笑うこともあるし、片方のテンポ変化にもう片方が徐々に引き込まれることもある。交差再帰定量化解析は、こうした「時間差を伴う共鳴」を捉える。これはまるで、二つの波が海面上で互いに干渉しながら新しい模様を生み出していく様子を数理化しているようである。この発想は、最近感じている即興演奏の感覚にもどこか近い。即興では、音は単独で存在しているわけではない。直前の音の余韻、身体感覚、次に生まれそうな流れが、時間差を伴いながら互いに影響し合っている。あるフレーズが数秒後の演奏全体を変え、その変化がさらに次の音を呼び込む。音楽とは固定物ではなく、再帰的に自分自身へ戻り続ける流れなのだろう。さらに興味深いのは、この分析が発達心理学やセラピー研究にも応用されている点である。親子関係、教師と学習者、セラピストとクライアント。その関係性の質は、単なる発話量や表情回数では測れない。重要なのは、「どれほど深く互いが相互調整しているか」だからである。これは人間関係を、固定された人格同士の接触ではなく、動的な共振現象として見る視点なのかもしれない。考えてみれば、人間の成長そのものも再帰的である。同じテーマへ何度も戻り、そのたびに少し異なる理解へ到達する。まるで螺旋階段を上るように、同じ場所へ戻ったように見えながら、実際には少し高い地点へ移動している。交差再帰定量化解析とは、そうした「時間の中で繰り返される変化の呼吸」を捉えようとする試みなのだろう。最近は、人生そのものもまた巨大な再帰過程なのではないかと思うことがある。過去の記憶、習慣、感情、他者との関係。それらは消えていくのではなく、形を変えながら何度も戻ってくる。人間とは、一度きりの直線ではなく、自己へ戻り続けながら少しずつ変容していく存在なのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/28(木)09:13
Today’s Letter
I practice every day so that the classical guitar becomes part of my body. My nervous system is gradually extending into the instrument. One day, the guitar and I may become one. Groningen, 5/28/2026
コメント