【フローニンゲンからの便り】18742-18746:2026年5月25日(月)
- 2 日前
- 読了時間: 11分

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
18742 | 即興演奏と脳に関する研究 |
18743 | 今朝方の夢 |
18744 | 今朝方の夢の振り返り |
18745 | 感情を込めて弾くことについて |
18746 | 英会話と即興演奏の類似性 |
18742. 即興演奏と脳に関する研究
ここ最近、即興演奏と脳に関する研究を調べてみて、とても面白い感覚を抱いている。以前は、即興とは単に「自由に弾くこと」だと思っていた。しかし神経科学の研究を見ていると、即興とは脳にとって極めて特殊な状態であり、しかも創造性の核心に近い現象らしいのである。特に印象的だったのは、ジャズ即興中の脳活動をfMRIで解析した研究である。研究では、即興演奏中には「自己監視」に関わる脳領域の活動が低下し、一方で自己表現や創造性に関係する領域が活性化する傾向が示されていた。つまり、即興では「間違えてはいけない」と監視する脳が静まり、「自然に表現したい」という流れが前面に出てくるのである。まるで頭の中の厳格な検閲官が一時的に席を外し、その隙に内面の声が自由に歩き始めるような状態なのかもしれない。さらに興味深かったのは、「フロー状態」との関係である。近年の研究では、熟練した即興演奏者ほど、脳の実行制御ネットワークを必要以上に使わず、むしろ効率化された状態に入る可能性が示されていた。これは「何も考えていない」のではなく、「考えすぎなくても全身が自然に統合されている」状態に近いのだろう。研究では、経験豊富な演奏者ほど創造的フローに関連する脳活動が顕著だったとも報告されている。また、即興演奏ではデフォルトモードネットワーク(DMN)と呼ばれる脳ネットワークも重要らしい。このネットワークは、空想、自己内省、自由連想などと関係している。最近の研究では、自由度の高い即興になるほど、DMNと実行制御ネットワークが同時に関わることが示されていた。つまり即興とは、「完全な自由」でも「完全な制御」でもなく、自由連想と構造制御が絶妙な均衡を取る行為なのだろう。これを読んでいて、自分が最近感じていたことと深く重なった。即興演奏をしていると、ときどき「考えて弾いている」という感覚が消える瞬間がある。指が先に動き、その後から意識が追いかけてくるような感覚である。最初は偶然だと思っていたが、研究を見ると、あれは脳の特殊な統合状態だったのかもしれない。さらに面白いのは、「想像上の即興」でも脳活動がかなり変化することである。実際に演奏しなくても、頭の中で即興をイメージするだけで、実演時に近い脳状態が生じる研究もあった。つまり脳にとっては、「実際に音を出したか」以上に、「創造的に音を生成したか」が重要なのかもしれない。最近は、即興演奏を単なる音楽技術ではなく、「脳を柔軟化する訓練」のようにも感じ始めている。譜面通りに弾く練習は、既存の道を正確に歩く訓練に近い。しかし即興は、森の中でその場その場の地形を感じ取りながら、新しい道を作る行為に近い。しかも、その道は毎回異なる。だからこそ脳は、予測、修正、創造、感情、身体感覚を絶えず統合し続けるのだろう。もしかすると即興演奏とは、「音楽を作る行為」である以上に、「自己と世界の境界が柔らかく変化する瞬間」を脳の中で体験する営みなのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/25(月)06:29
18743. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見知らぬ若い女性が髪の毛を結うのを手伝っていた。最初はその女性自らで髪を整えていこうとしていたが、ちょうど近くに自分がいたので手伝う必要があるかを尋ねたところ、手伝ってほしいとのことだったので手伝うことになった。しかし、いざ手伝ってみると、髪を結うのはなかなか難しくあまり役に立てていないように感じ、彼女も私も思わず笑った。そこから彼女が自ら髪を結うのを見守ることにし、何かあれば手伝うことにした。
次に覚えているのは、実際に通っていた小学校の綺麗な体育館で中学校のバスケ部のメンバーと一緒にバスケの練習をしていた場面である。自分はキャプテンで、みんなに号令をかけてまずは体育館の中を軽く走ることにした。その際にふと、自分たちが普段練習で使っているボールがとても古く、公式戦で使うボールとは随分と違うことに改めて気づいた。試合で使うボールの感触と違うものを使ってばかりいると、試合のパフォーマンスに支障が出ることは明らかだったが、それに気づいているのは自分だけのようだった。これはまずいと思い、顧問の先生にお願いして早急に新しいボールを10個ぐらい買ってもらうことにした。これまで自分たちのチームが試合でなかなか勝てなかった要因の一つは、普段の練習でおかしなボールを使っていたことにあるのではないかと思った。今日は試しに小学生が使っているボールではあるが、中学生の公式ボールと同じ綺麗なボールを使ってみることにした。フローニンゲン:2026/5/25(月)06:39
18744. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の中で「介入する力」と「見守る力」が、より精妙に分化しつつあることを象徴しているように思われる。見知らぬ若い女性の髪を結う場面は、他者の内的秩序や自己表現が形を取ろうとする過程に、自分がそっと関わろうとしている姿であるとも解釈できる。髪は、その人の生命感、印象、感情の流れ、あるいはまだ言葉にならない自己像のようなものである。そこに手を添えようとすることは、他者の成長や変容を支援しようとする姿勢を示しているのかもしれない。しかし、実際に手伝ってみると容易ではなく、あまり役に立てていないように感じる。この滑稽さの中には、支援とは相手の髪を代わりに結ってあげることではなく、相手が自ら結えるようになるための空間を守ることなのだ、という洞察が含まれているようである。笑いは失敗の印ではなく、支配的な援助から関係的な援助へと移行する柔らかな合図だったのではないか。続く体育館の場面では、舞台が個人の髪からチームの練習へと移っている。小学校の綺麗な体育館で中学校のバスケ部のメンバーを率いているという設定は、自分の過去の基礎的な学びの場に戻りながら、そこに現在のリーダーシップ課題を重ねているように見える。小学校は原初的な学習の場であり、体育館は身体と集団が響き合う器である。そこにキャプテンとして立つ自分は、単にプレイヤーではなく、環境そのものの質を見抜き、整える責任を引き受けているのだろう。古いボールへの気づきは、この夢の核心であるように思われる。チームが勝てない理由は、努力不足や才能不足だけではなく、普段触れている道具の質、すなわち練習環境の基準そのものにあったのではないか、という発見である。これは人生に置き換えれば、自分が成果を出せないと感じるとき、問題は能力の不足ではなく、日々の訓練で用いている前提、言葉、教材、習慣、フィードバックの質にある可能性を示しているのだろう。古いボールは、いつの間にか標準だと思い込んでいた古い感覚の比喩である。手になじんでいるがゆえに、その歪みには気づきにくい。だが、試合では別の感触が求められる。つまり、人生の本番で必要な感覚と、日常の練習で身につけている感覚との間にズレがあるなら、そのズレは静かに結果を蝕むのである。この夢における自分は、他者を直接変えようとする段階から、場の条件を整える段階へと移行しているように見える。髪を結う場面では、手を出しすぎずに見守ることを学び、バスケの場面では、個々人を責めるのではなく、チーム全体を支える道具と環境の質を問い直している。これは、庭師が花びらを無理に開かせるのではなく、土、水、光の条件を整えることに意識を向け始めるような変化である。人生における意味として、この夢は、自分の役割が「直接うまくやる人」から「人と場が本来の力を発揮できる条件を見抜き、整える人」へ移りつつあることを示しているのかもしれない。成長の鍵は、さらに頑張ることだけではなく、どの感触を日々の標準として身体に覚え込ませるかを選び直すことにあるのだろう。フローニンゲン:2026/5/25(月)07:38
18745. 感情を込めて弾くことについて
音楽に「感情を込めて弾く」という行為について改めて考えている。以前は、感情表現とは単なる演奏上の装飾のように思っていた。強弱をつけたり、テンポを揺らしたり、音色を変えたりする技術的な要素の延長だと思っていたのである。しかし脳科学や心理学の研究を見ていると、感情を込めて演奏することは、単なる表現技法ではなく、脳全体の状態そのものを変化させる行為なのではないかと思い始めている。特に興味深かったのは、感情を伴った演奏では、運動野だけでなく、扁桃体や前頭前野、報酬系まで広く活動する傾向があるという研究である。単に正しい音を再現するだけの演奏よりも、「悲しさ」「緊張」「解放感」などを感じながら演奏する方が、脳はより統合的に動くらしい。つまり感情を込めるとは、音に色を塗ることではなく、脳全体を共鳴状態に入れることなのかもしれない。実際、自分自身も感情を込めて演奏している時には、不思議な没入感が生まれることがある。特にクラシックギターでは、右手の角度や爪の当たり方ひとつで音色が変わるため、「どのような感情を乗せるか」が直接音に反映される感覚がある。機械的に弾く時には音が平面的に感じられるが、感情を伴うと、同じ和音でも奥行きや温度を持ち始める。まるで白黒だった風景に、少しずつ色彩が流れ込むような感覚である。心理学的にも、感情表現を伴う演奏には自己調整効果があるらしい。音楽療法研究では、感情を音として外化することが、ストレス軽減や情動統合につながる可能性が指摘されていた。言葉で整理できない感覚が、旋律やリズムを通して外へ流れ出ることで、心の内部に滞っていた感情が少し整理されるのだろう。考えてみれば、人は悲しい時に自然と静かな音楽を弾きたくなったり、逆に活力を求める時に力強いリズムへ向かったりする。あれは単なる趣味ではなく、脳が自らの状態を調律しようとする本能的な営みなのかもしれない。即興演奏になると、その作用はさらに強くなるように感じる。楽曲演奏では、既に存在する構造の中で感情を注ぎ込む。しかし即興では、感情そのものが音の流れを生み出す。つまり、「感情を表現する」のではなく、「感情がそのまま音として形になる」のである。その時、自分の内側にある微細な感覚に耳を澄ませ続ける必要がある。少しでも無理に格好つけようとすると、音の流れが急に硬くなる。逆に自然に身を委ねられた時には、指が自分より先に動き始める感覚がある。最近は、感情を込めて演奏するということは、「上手く聴かせる」こととは少し違うのではないかと思い始めている。むしろ、自分の内部にある曖昧な情動を、音という振動へ翻訳する行為に近い。そしてその翻訳作業を繰り返すことで、脳は感情と身体と知覚を少しずつ再統合していくのだろう。もしかすると音楽とは、感情を表現する芸術である以前に、「感情を安全に循環させるための神経的な装置」なのかもしれない。演奏後に心が静かになることがあるのは、音が空気に消えたのではなく、脳の奥に滞っていた感情が、ようやく流れ始めたからなのだろう。フローニンゲン:2026/5/25(月)08:34
18746. 英会話と即興演奏の類似性
最近ふと、英会話と即興演奏は驚くほど似ているのではないかと感じている。英語力を高めるためには、単に単語帳を覚えたり文法問題を解いたりするだけでは不十分であり、結局のところ「今の自分が本当に話したいこと」を実際に言葉にしようとする過程を繰り返して初めて、自己表現としての英語が育っていく。同じように、即興演奏もまた、その瞬間に自分の内部で揺れている感覚や情動を、音として外に出そうとし続けることで少しずつ深まっていくものなのかもしれない。もちろん、最初は非常に不自由である。英会話では、自分の頭の中には複雑な感覚や考えが存在しているにもかかわらず、それを適切な語彙や文法で表現できない。すると、言葉はどこか借り物のようになり、自分の内面と発話との間に薄い膜が張ったような感覚が生まれる。しかし、何度も実際に話そうとするうちに、その膜が少しずつ薄くなっていく。言葉が「知識」から「身体感覚」に変わり始めるのである。即興演奏にも、まったく同じことが起きているように思う。最初はスケールやコード進行を知っていても、実際に自由に弾こうとすると、音がどこか外面的で、内面の感覚と接続していない。しかし、その時々の呼吸、緊張、感情、景色の印象のようなものを無理にでも音へ変換しようとし続けると、少しずつ「音が自分の内部から出てくる感覚」が生まれてくる。まるで、これまで閉ざされていた地下水脈が、長い時間をかけて岩盤に小さな亀裂を作り、そこから静かに水を湧き出させるようである。おそらく、自己表現とは正しさを積み上げた先に突然現れるものではなく、不完全でも実際に外へ出し続けることで形成されるものなのだろう。子どもが最初から流暢に話せないように、即興演奏も最初から美しくはならない。しかし、言葉にしても音にしても、「自分の内部にある何かを現実世界へ翻訳しようとする行為」そのものが、少しずつ回路を育てていくのだと思う。だからこそ最近は、即興演奏においても上手く弾こうとするより、今の自分は何を感じているのかを丁寧に聴こうとしている。すると不思議なことに、技術的には未熟であっても、時折ふと、自分の感覚と音が一致する瞬間が訪れる。その瞬間の演奏には、完璧さとは別種の生命感が宿っている気がする。英会話も即興演奏も、結局は「外側にある正解」を再現する営みではなく、自分という存在を世界へ滲み出させる練習なのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/25(月)09:07
Today’s Letter
I knew that improvising in my head is even effective for activating the brain. I will not judge my improvisation. Instead, I’ll let myself follow the flow of my inner music. Groningen, 5/25/2026
コメント