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【フローニンゲンからの便り】18736-18741:2026年5月24日(日)

  • 55 分前
  • 読了時間: 14分


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タイトル一覧

18736

論理世界の外側へ連れ出してくれる即興演奏

18737

今朝方の夢

18738

今朝方の夢の振り返り

18739

眠っていた右手の小指の漸次的覚醒

18740

日本語で読めるサイケデリクス関連の専門書を調べて

18741

ピアノとクラシックギターが脳に与える影響についての研究

18736. 論理世界の外側へ連れ出してくれる即興演奏 

                       

最近、即興演奏について考えていると、それは単なる音楽技法ではなく、論理の外側へと降りていくための通路なのではないかと思うようになった。普段の生活では、どうしても言葉や概念を通して世界を理解しようとしている。何かを説明し、整理し、位置づけ、因果関係を見つけることで安心しようとしている。しかし、即興演奏をしている時だけは、その秩序だった世界の外側に身を置く感覚がある。もちろん、完全に無秩序というわけではない。むしろ、長年の練習や身体化された技術が深層で静かに働いている。しかし演奏している意識そのものは、「次に何を弾くべきか」を論理的に計算しているわけではない。音は、思考よりも少し早い場所から立ち上がってくる。その感覚は、暗い湖面の下から泡が自然に浮かび上がってくる様子にどこか似ている。掴もうとすると消えるが、身を委ねると次々に現れる。興味深いのは、その状態では時間感覚も変化することである。過去と未来を計算している感覚が薄れ、「今」の厚みだけが増していく。しかも、その「今」は単なる現在時刻ではなく、どこか永遠性を帯びた瞬間であるように感じられる。だから即興演奏をしていると、自分が音を作っているというより、音の流れの中に一時的に参加させてもらっている感覚になることがある。おそらく、この感覚が「超越的世界」に触れているということなのだろう。ここで言う超越とは、空の彼方にある神秘世界という意味ではなく、普段の自我の制御を越えた深層の秩序のことである。言葉になる前の感情、まだ概念化されていない直観、身体の記憶、無意識のリズム、それらが音として現れてくる。即興演奏は、その深層と対話する儀式に近い。しかも不思議なのは、即興演奏によって「感じ直す」だけではなく、「生き直す」感覚が生まれることである。日常では抑え込まれていた感情や、言葉にならなかった経験が、旋律や響きとして外へ流れ出る。すると、過去の出来事そのものが少し違った意味を持ち始める。まるで、人生という文章を、音によって再編集しているような感覚である。クラシックギターという楽器は特に面白い。一本一本の弦が独立した声を持ちながら、同時に全体として調和を作る。その構造は、人間の内面そのものにどこか似ている。理性、感情、身体感覚、記憶、欲望、それぞれ別の声を持ちながら、一つの存在として響こうとしている。即興演奏とは、それらを無理に統制するのではなく、互いの声を聴き合いながら、一瞬ごとに新しい均衡を作り続ける営みなのかもしれない。だから最近は、即興演奏をしている時間こそ、自分が最も深く生きていると感じる時間の一つになっている。論理によって世界を理解することも大切である。しかし、人間は論理だけでは世界の全体に触れられない。音楽、とりわけ即興演奏は、その論理の外側に広がる豊かな海へ、小舟のように静かに漕ぎ出していく行為なのだと思う。フローニンゲン:2026/5/24(日)06:11


18737. 今朝方の夢

 

今朝方は夢の中で、目撃者の意識を通じてハイテクな工場の中を眺めていた。その工場では選りすぐりの優れた研究者たちが仕事に邁進していた。優秀な研究者の中でもとびきり優秀な工場長クラスの男性が、工場の上の方の階で喜びの声を上げた。どうやら長年の研究が実り、世紀の大発見をしたようだった。彼の近くに他の研究者たちが集まってきて、それを祝った。その研究者の男性は、この大発見を記念して、それが見つかった場所に神聖な名前をつけることにした。その名前の発表は昼食後に行うとのことで、一旦解散となった。その際に彼は他の研究者に、これより上の階には勝手に行かないようにと釘を刺した。そもそもその発見があった場所からさらに上の階に行くためには、断絶した通路を飛び越えて行かなければならず、仮に下に落ちたら即死の高さだったので、誰も勝手には向こう側に行かないと思われたが、彼は一応念を押した。そのやり取りを聞きながら、さらに上層階には何があるのかとても気になる自分がいた。天空に近い場所に向かうためには、さらに日々の研究と研鑽が必要なのだろうと思わされた。


もう一つ覚えているのは、学校の教室でクラスメートが6つのグループに分かれ、それぞれが仮説的な面白い問いを2つ出し、その仮説の結果を推論する遊びを行なっていた場面である。私はその場にいるようで、同時に目撃者の意識としてその場を観察しているような半身的存在だった。6つのグループが出した仮説的問いはどれも面白く、他では聞いたことがない斬新かつ創造的な問いだったので、その検証結果がとても楽しみだった。フローニンゲン:2026/5/24(日)06:21


18738. 今朝方の夢の振り返り

                    

今朝方の夢は、自分の内側で「研究する知性」と「見守る意識」が、ひとつの精妙な配置を取り始めていることを象徴しているように思われる。ハイテクな工場は、単なる職場ではなく、自分の精神内部にある高度な生成装置であると考えられる。そこでは、経験、学問、音楽、瞑想、語学、執筆など、これまで積み重ねてきた多様な営みが、無数の機械や研究室のように働き、ひとつの新しい発見を生み出そうとしているのだろう。夢の中の優秀な研究者たちは、自分の中に育ってきた専門的知性、分析力、探究心、そして長期的な研鑽の象徴であると思われる。その中でも工場長クラスの男性が世紀の大発見をする場面は、自分の内側でひとつの大きな統合が起こりつつあることを示しているのかもしれない。それは単なる知識の獲得ではなく、これまで別々に見えていた領域が、地下水脈のようにつながり始めた瞬間である。成人発達、唯識、音楽、哲学、教育、リーダーシップが、別々の部屋に置かれた機械ではなく、同じ工場の中で連動するひとつの巨大な装置として見え始めているのだろう。大発見に神聖な名前をつけるという行為は、その発見が単なるアイデアではなく、自分の人生における聖域のような意味を帯びていることを示しているようである。しかし、発見の場よりさらに上の階には、まだ行ってはならない領域がある。ここが重要である。上層階は、より高次の認識、より深い非二元的洞察、あるいはまだ言語化されていない未来の使命を象徴しているように思われる。そこへ行くには断絶した通路を飛び越えなければならず、落ちれば即死であるという構造は、精神的成長には飛躍と危険が同時に伴うことを示しているのだろう。橋のない裂け目は、未成熟な好奇心だけでは越えられない発達上の閾である。そこは、梯子をかけるように日々の研究と実践を重ね、身体と知性と倫理が十分に鍛えられたときにのみ渡れる場所なのかもしれない。もう一つの教室の場面では、6つのグループがそれぞれ2つの仮説的問いを出している。これは、自分の内側にある複数の思考様式が、創造的な実験を始めていることを象徴しているようである。6つのグループと12の問いは、知性が単線的に進むのではなく、多方向に枝分かれしながら世界を探究する姿であると思われる。しかも、その問いがどれも斬新であるということは、自分の精神が既成の枠組みをなぞる段階から、未知の問いそのものを創造する段階へ移りつつあることを示しているのだろう。問いは答えの前に置かれた種子であり、やがて思考の森を生む。ここでも自分は、参加者でありながら目撃者でもある半身的存在として現れている。これは、自分が経験の中に没入しつつ、同時にそれを観察する位置にも立てるようになっていることを示しているのかもしれない。いわば、自分は舞台上の演者であると同時に、劇場の奥から全体の照明を見ている観客でもある。この二重性は、成熟した探究に不可欠な構えである。完全に巻き込まれれば見失い、完全に離れれば生きた意味を失う。その中間に、創造と洞察のもっとも豊かな場が開かれるのだろう。人生における意味として、この夢は、自分がすでに重要な発見の入口に立っていることを告げているように思われる。ただし、次の上層階へ急いで飛ぶのではなく、日々の研鑽によって内的な橋を架ける必要があるのだろう。自分の使命は、斬新な問いを生み出し、それを学問、実践、表現へと結晶化させることである。夢は、自分の人生がいま、研究所から聖域へ、教室から創造の実験場へと変わりつつあることを示しているのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/24(日)07:11


18739. 眠っていた右手の小指の漸次的覚醒 


ここ最近、右手の小指の訓練を続けながら、人間の身体というものは想像以上に眠っている領域を抱えているのだと感じている。クラシックギターでは右手の小指は基本的に使わない。そのため、長い間、小指は演奏体系の外側に置かれたままであった。しかし、だからこそ逆に、その指には未開拓の余白のようなものが残されていたのかもしれない。訓練を始めた当初は強い違和感があった。まるでサッカーで利き足ではない側だけを使ってボールを蹴り続けるような感覚である。頭では「動かそう」と思っているのに、身体のどこかがそれを拒否している。指というより、神経回路そのものが戸惑っているようだった。特に右手は、i,m,aを中心に高度に最適化されてきたため、小指だけが古い地図から取り残された辺境の土地のようになっていたのである。しかし興味深いのは、その違和感が少しずつ薄れてきていることである。最初はぎこちなかった動きが、最近ではわずかに「自分の動き」になり始めている。もちろん、まだ自由自在とは程遠い。それでも、小指が以前より独立して反応する瞬間が確かに増えている。その変化は劇的というより、雪解け水が少しずつ川幅を広げるような変化である。おそらく、これは単なる筋力の問題ではない。脳の運動地図そのものを書き換えている過程なのだろう。人間は、使わない部位を存在しないものに近い形で扱ってしまう。しかし、注意を向け、反復し、感覚を送り続けることで、そこに新しい神経的領土が形成されていく。まるで霧に覆われていた土地に、少しずつ道が通り始めるようである。そして、この訓練が面白いのは、単に小指が動くようになること以上の意味を持っている点である。これまで演奏体系の外側にあったものを、意識的に統合していく作業は、自分自身の未使用領域を開拓していくことにどこか似ている。音楽の練習でありながら、同時に身体認識の拡張でもある。将来的には、この小指が実際の演奏に大きく関わるかどうかはまだ分からない。しかし、たとえ直接使わなかったとしても、その存在感が右手全体の安定性や自由度に影響を与える可能性は高いように思う。一本の指が独立性を獲得すると、他の指までどこか解放される感覚があるのである。まるで閉じていた部屋の窓を一つ開けたことで、家全体の空気が変わるような感覚である。最近は、このような小さな変化を観察する時間そのものが楽しい。派手な成果ではなくても、昨日よりほんの少し自由になった感覚があるだけで、身体の未来に対して静かな希望が湧いてくる。人間の成長とは、もしかすると「できなかったこと」ができるようになる瞬間よりも、「不可能だと思っていた感覚が少しずつ自然になっていく過程」そのものに宿っているのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/24(日)07:53    

     

18740. 日本語で読めるサイケデリクス関連の専門書を調べて

          

改めて日本語で読めるサイケデリクス関連の専門書を調べてみたが、日本ではまだこの分野の書籍数そのものが少ないことを実感した。とはいえ、その限られた文献群を眺めていると、逆にこの領域がようやく静かに地下水脈のように広がり始めていることも感じる。かつては危険ドラッグやカウンターカルチャーとしてのみ語られていたものが、今では精神医学、脳科学、宗教学、現象学、さらには存在論にまで接続され始めている。その変化は、暗闇の中でぼんやりと光る菌糸のネットワークのようである。特に印象的だったのは、デヴィッド・ナットの書籍である。LSDやシロシビンが、単なる幻覚物質ではなく、うつ病やPTSD、依存症に対する新たな治療可能性として真剣に研究されていることを知ると、現代精神医学が正常と異常の境界線そのものを再検討し始めているようにも思える。脳を固定された機械としてではなく、柔軟に再編成され得る動的システムとして見る視点は、ダイナミックスキル理論や唯識思想ともどこか響き合っている気がする。また、文化人類学や宗教学の観点からサイケデリクスを扱った書籍にも惹かれるものがある。西洋近代は意識をあまりにも理性中心に整理してきたが、シャーマニズムや宗教儀礼の文脈では、変性意識状態そのものが世界理解のための窓であった。そこでは意識は閉じた箱ではなく、海流のように周囲と接続され、揺らぎ、浸透する。そう考えると、サイケデリクス研究とは単に脳内化学物質を調べる学問ではなく、「人間とは何か」という問いを、近代合理主義の外側から照らし返す試みなのかもしれない。一方で、日本では依然として法規制が極めて厳しいことも改めて認識した。そのため、この分野を日本で探究する際には、実践や消費としてではなく、哲学・医学・宗教学・意識研究として慎重に向き合う必要があるのだろう。むしろ自分にとって重要なのは、物質そのものよりも、それを通して浮かび上がる「意識の構造」の方である。人間の知覚や自己感覚はどこまで可塑的なのか。自己とは本当に固定された中心なのか。その問いは、唯識の阿頼耶識や、現象学、さらには量子論的な観測問題とも不思議な共鳴を起こしているように感じる。フローニンゲン:2026/5/24(日)08:33


18741. ピアノとクラシックギターが脳に与える影響についての研究


ピアノとクラシックギターが脳に与える影響についての研究を読み進めていると、楽器練習とは単なる趣味ではなく、脳そのものを静かに再設計する行為なのだと改めて感じる。特に印象的だったのは、ピアニストの脳では左右半球をつなぐ脳梁が発達しているという研究である。左右の手が全く異なる動きを同時に行うため、脳は絶えず二つの世界を往復しながら情報を統合しているらしい。まるで二つの大陸を巨大な橋で結び、その上を絶え間なく列車が行き来しているような光景である。ピアノ研究では、特に「両手協調」が重要視されていた。右手で旋律を歌わせながら、左手でリズムや和声を支えるという行為は、脳にとって極めて高度な処理らしい。しかも、それを視覚情報、聴覚フィードバック、タイミング予測と同時に行っている。研究では、ピアノ訓練が運動制御だけでなく、注意力や実行機能にも影響する可能性が示されていた。つまり、ピアノとは単に指を動かす訓練ではなく、「複数の時間軸を同時に生きる脳」を育てる営みなのかもしれない。一方で、クラシックギターに関する研究を読むと、そこにはまた別種の複雑さがあることに気づく。ギターは鍵盤のように音が固定されていない。右手の角度、爪の当たり方、左手の圧力、指先の位置が少し変わるだけで音色が変化する。研究では、クラシックギター演奏は「微細運動制御」と「運動適応」の塊のような行為として扱われている。特に興味深かったのは、ギタリストが無意識のうちに「関節を極端な位置に置かないよう調整している」という研究である。つまり熟練者ほど、力任せではなく、身体全体の重心や角度を使って最適化しているらしい。最近、自分自身も左手親指の位置を少し変えただけで演奏が驚くほど軽くなった経験があったが、それは偶然ではなかったのだと思う。身体は単なる筋肉の集合ではなく、脳と共同で動きを計算し続ける知的システムなのだろう。さらに面白いのは、ピアノもクラシックギターも、長期訓練によって脳の可塑性を高める可能性がある点である。研究では、幼少期からの音楽訓練が白質接続や運動野に影響する可能性が繰り返し示されていた。つまり音楽とは、耳で聴く芸術である以前に、「脳を編み替える時間芸術」なのかもしれない。最近は、基礎練習をしている最中に、脳の奥で新しい神経回路が少しずつ配線されていくような感覚を持つことがある。すぐに成果は見えない。しかし、毎日の反復は、まるで森の中に細い獣道を作る作業に似ている。最初は草に埋もれているが、何度も通るうちに道が生まれ、やがてそこを自然に歩けるようになる。ピアノもクラシックギターも、結局は「音楽を弾く」以上に、「脳がどのように世界を統合するか」を学んでいる行為なのだと感じ始めている。フローニンゲン:2026/5/24(日)09:07


Today’s Letter 

I’ve recently been enjoying improvisation as a form of phenomenological self-exploration. It rehabilitates my sense of beauty, which had been tuned primarily to tonal music. It also enables me to expand my awareness of the infinite sphere of music. Groningen, 5/24/2026

 
 
 

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