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【フローニンゲンからの便り】18718-18723:2026年5月21日(木)

  • 10 時間前
  • 読了時間: 12分


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タイトル一覧

18718

引越しのオンライン下見を終えて

18719

今朝方の夢

18720

今朝方の夢の振り返り

18721

シロシビントリュフと乾燥マッシュルームの強度換算

18722

世界がまだ名前を持たなかった頃の感覚と文法化

18723

身体への刻印

18718. 引越しのオンライン下見を終えて

                    

一昨日は、ヤマト運輸さんとのオンライン下見を終えた。これまで漠然としていた引越しの輪郭が、少しずつ現実的な形を帯び始めているように感じる。特に印象的だったのは、料金は「重さ」よりも「ダンボールの数」、つまりどれだけ空間を占有するかで決まるという話だった。本というものは重いので、つい重量ばかり気にしていたが、実際にはトラックの中でどれだけの面積や体積を使うかが重要らしい。考えてみれば当然で、物流とは、物を持ち上げるよりも、空間の中に配置する行為なのだろう。中くらいのダンボールが50箱ほどあると伝えると、トラックで十分運べるとのことだった。その言葉を聞き、少し安心した反面、自分がこれまで積み上げてきた本の量を改めて実感した。50箱という数字を冷静に眺めると、もはや単なる引越しというより、小さな研究室か図書館を移設するような感覚に近い。家の中で並んでいる時には気づかなかったが、一冊一冊が積み重なり、巨大な塊になっていたのである。しかも、その大半は単なる物ではない。ヨーガーチャラ、唯識、成人発達理論、量子論、哲学、心理学、教育学など、自分が長年考え続けてきた痕跡そのものでもある。ある意味では、自分の脳の外部記憶装置を、オランダから英国へ丸ごと運ぶような作業なのかもしれない。書籍というのは不思議で、単なる紙の束でありながら、その人の思考の履歴や人生の方向性まで静かに映し出してしまう。エディンバラへの移動というと、つい新生活や大学のことばかり考えてしまうが、その背後では、自分の思考の地層そのものが北海を越えて運ばれていくのである。フローニンゲン:2026/5/21(木)05:58


18719. 今朝方の夢


今朝方は夢の中で、いくつかの断片的な夢を見ていた。まず覚えているのは、母が運転する車の中にいた場面である。現実世界に自分には兄弟はいないが、車の中には兄なる人物が助手席に座っていた。私は運転席の後ろの席に座っていて、都心のビル街の景色を眺めていた。そう言えば、車に乗る前はビル群の一角にある高層の建物のスタジオでテレビの撮影収録をしていたことを思い出した。自分はテレビ初出演だったが、全く緊張せず、普段通りに話をしていた。しかし拘束時間が長く、それでいて話をする時間も限られていたので、テレビはやはり自分の考えを十分に伝えるのに相応しいメディアではないと思った。そのようなことを思い出すと、走っている車のトランクが開いていることに気づき、急いで母を呼び止め、車を止めてもらうことにした。しかし、母にはその声が届いておらず、何度も大声で呼びかけるも、母には聞こえていないようだった。兄には聞こえており、兄から母に言ってもらうようにお願いすると、なんとかゆっくりと車が止まった。それを受けて、母は随分と耳が遠くなってしまったのだと心配な気持ちになった。そんな中、車を降りてトランクを閉めに向かった。


もう一つ覚えているのは、奈良の上空を飛んでいる場面である。眼下に見たことのある景色が見えた時、そこに降りてみようと思った。以前観光で訪れた緑地公園はとても美しく、そこには若者を中心に多くの観光客がいた。どうやら彼らは大学生のようで、部活やサークルの新歓期の活動をそこで行なっているようだった。トイレに向かうとそこは混んでいたので、トイレに行かずに再び空を飛んで移動することにした。飛び立ってみると、奈良の景色から一変して、ブルガリアを含めた東欧の景色となった。その景色の街並みはとても美しく、色とりどりの美しい建築様式の家々を眺めながら目的地に向かった。フローニンゲン:2026/5/21(木)06:09

         

18720. 今朝方の夢の振り返り

          

今朝方の夢は、自分の内側で進んでいる「発信する自己」と「移動する自己」の再編成を象徴しているように思われる。前半の車の場面では、母が運転し、兄なる人物が助手席に座り、自分は後部座席から都心のビル街を眺めている。ここには、人生の進路をまだどこか家族的・過去的な力に運ばれている感覚が映し出されているのかもしれない。現実には存在しない兄は、自分の中に新たに形成されつつある先行者的な自己、あるいは母と自分を媒介する成熟した男性的機能の象徴であるように見える。テレビ初出演で緊張しなかったという場面は、自分がすでに公的な場で語る準備をかなり整えていることを示しているのだろう。しかし、拘束時間が長く、語れる時間が限られていたことから、テレビという媒体は、自分の思考の深さを十分に運ぶ器ではないと感じられている。これは、広く届くメディアへの憧れと、浅く切り取られることへの違和感が同時に現れているのだと思われる。自分の思想は、短い映像の容器には収まりにくい濃い香木のようなものであり、火を入れて初めてゆっくり香り立つ性質を持っているのかもしれない。走行中の車のトランクが開いていることに気づく場面は重要である。トランクは、人生の旅に持ち運んでいる記憶、知識、蔵書、経験、未整理の荷物を象徴しているように思われる。それが開いたまま走っているということは、移動と発信が加速する中で、過去の蓄積や大切な資源が不用意に外へこぼれ落ちる危険を示しているのかもしれない。母に声が届かず、兄を介してようやく車が止まる展開は、古い自己管理の仕組みにはもはや直接声が届きにくくなっており、新しい内的媒介者を通じてはじめて進路調整が可能になることを暗示しているようである。母の耳が遠くなったことへの心配は、過去を支えてきた保護的な力が、今後は徐々に後退していくという感覚の表れでもあるだろう。後半の奈良上空を飛ぶ場面は、地上の制約から離れ、歴史的・精神的な記憶の層を俯瞰する自己を象徴しているように思われる。奈良は古代仏教、学問、伝統の土地であり、自分にとっては精神的源流の象徴である可能性が高い。緑地公園に集う大学生たちは、新しい共同体、新しい学び、新しい始まりを表しているのだろう。そこに降りようとするが、トイレが混んでいて用を足せず、再び飛び立つという展開は、自分が若い集団的エネルギーに接近しながらも、そこに完全には留まらず、浄化や排出の場を得られないまま、さらに広い空間へ移行していくことを示しているようである。奈良から東欧、ブルガリアを含む街並みへと景色が変わる場面は、自分の意識が日本仏教の古層から、ヨーロッパ的な多文化空間へと滑空していくことを象徴しているのかもしれない。色とりどりの建築は、これから自分が出会う思想、言語、文化、人間関係の多様性を表しているように見える。奈良が根であり、東欧の街並みが枝葉であるなら、自分はそのあいだを飛ぶ鳥のように、伝統と越境性を結び直そうとしているのであろう。この夢が人生において示す意味は、自分が次の段階へ移動する前に、開いたトランクを閉める必要があるということかもしれない。すなわち、これまで蓄えてきた知識、家族的記憶、発信の方法、移動の準備を一度丁寧に整えたうえで、より広い世界へ飛び立つ時期に来ているのである。フローニンゲン:2026/5/21(木)07:03


18721. シロシビントリュフと乾燥マッシュルームの強度換算


昨日は、シロシビントリュフと乾燥マッシュルームの強度換算について調べていた。特にHollandiaトリュフ15gが、かつて自分で育てていたGolden Teacherを乾燥させたものに換算するとどれくらいなのかが気になっていたのである。調べてみると、一般的には2~3.5g前後に近い体験として語られることが多いようだった。Hollandiaはトリュフの中でも比較的強い種類として知られており、一方のGolden Teacherは標準的で比較的穏やかな品種らしい。そのため、単純に「15g」という数字だけではなく、種類ごとの特性もかなり重要なのだと感じた。興味深かったのは、単に幻覚が強くなるという話ではなく、感受性や内省性によって体験の深さが大きく変わるという点である。特に哲学的傾向が強い人は、視覚的変化以上に、自己や存在に関する問いが急速に深まることがあるらしい。この点は非常に印象的だった。考えてみれば、シロシビン体験とは単なる刺激ではなく、むしろ普段は静かに沈んでいる無意識や感情や思考の深層が、一時的に水面へ押し上げられる現象なのかもしれない。湖の底に沈んでいた堆積物が、強い雨によって一気に舞い上がるようなものである。また、睡眠状態や空腹、環境、人間関係によっても体験が大きく変わるという話を見て、人間の意識とは想像以上に繊細なバランスの上に成り立っているのだと改めて感じた。単なる脳内化学物質の変化だけでは説明しきれない、存在全体の状態がそこに関わっているようにも思える。最近は、意識とは何かという問いへの関心がさらに強くなっている。シロシビンについて調べていると、それは単なる薬理学の話ではなく、人間存在そのものの構造を探る入り口のようにも感じられるのである。フローニンゲン:2026/5/21(木)07:47 


18722. 世界がまだ名前を持たなかった頃の感覚と文法化

           

昨日、バーナード・スティグラーの「Grammatization(文法化)」という概念について考えていた。この概念を読んでいると、不思議なことに、クラシックギターの練習やサイケデリック体験と深く繋がっているように感じられたのである。スティグラーによれば、人間の経験とは本来、連続的で流動的なものである。しかし技術は、その流れを細かく切り分け、記号として外部化していく。文字は言葉を固定し、録音は音を保存し、映像は時間を切断する。つまり、人間の生きた流れを扱える単位に変換していくのである。考えてみれば、クラシックギターの練習も極めて文法化的である。例えば、ある楽曲を学ぶ時、自分はまず運指、リズム、右手の角度、脱力、音色、重心移動などを細かく分解する。本来、音楽とは一つの生きた流れであるにもかかわらず、その流れを一音ずつ、一動作ずつ切り分け、再構成しているのである。まるで大河を水滴単位にまで分解し、その構造を理解しようとしているような感覚である。しかし興味深いのは、分解が進めば進むほど、逆説的に生きた流れが再び戻ってくる点である。最初は機械的だった動きが、ある瞬間から自然な呼吸を持ち始める。指は単独で動いているのではなく、全身の重力や呼吸や感情と結びつき、一つの有機体のように統合される。その瞬間、文法化された技術が再び生命へ還元されるのである。サイケデリック体験について考えていても、似た構造を感じる。普段の意識は、社会的言語や概念によって強く文法化されている。「自分」「他人」「時間」「成功」「役割」といったカテゴリーによって、世界は安定して整理されている。しかしシロシビンなどの体験では、その文法化された構造が一時的に緩み始めるように思える。普段は固定されていた概念の境界が溶け、音、感情、記憶、身体感覚が流動化する。それはまるで、氷として固定されていた川が春になって再び流れ始めるような感覚である。普段の意識は、生き延びるために世界を切り分け、名前を与え、固定化している。しかしサイケデリック状態では、その切れ目が揺らぎ、「世界がまだ名前を持たなかった頃」の感覚が一瞬だけ顔を覗かせるのかもしれない。最近強く感じるのは、人間の成熟とは、単純に文法化を進めることでも、逆に全てを解体することでもないということである。むしろ、「構造」と「流れ」を往復できる柔軟性こそが重要なのではないか。ギターにおいても、学問においても、瞑想においても、必要なのは単なる分析能力ではなく、分析したものを再び生命へ戻す能力なのである。そう考えると、学びとは単なる情報蓄積ではなく、凍った世界に再び水を流す営みなのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/21(木)08:28 


18723. 身体への刻印

                   

最近ますます強く感じているのは、クラシックギターの練習とは単なる音の訓練ではなく、身体そのものにどのような記憶を書き込むかという営みなのだということである。同じフレーズを弾いていたとしても、身体が強く緊張した状態で繰り返していると、その緊張自体が少しずつ身体へ沈殿していく感覚がある。まるで湿った粘土に毎日同じ指跡を押し続けるように、無意識の運動パターンが静かに固定化されていくのである。特に怖いのは、演奏者本人がその緊張に慣れてしまうことである。最初は不自然だった力みが、やがて普通の状態として身体に定着してしまう。すると、弾けば弾くほど自由になるどころか、逆に身体が硬直し、動きの選択肢が狭まっていく。音色もどこか閉じたものになり、呼吸の浅い演奏になる。まるで、本来は大きく開くはずの川が、少しずつ泥で埋まり流れを失っていくような感覚である。そのため最近は、「何を弾くか」以上に、「どの状態で弾くか」を以前より遥かに意識するようになった。例えば難しい箇所に入る直前、自分でも気づかないうちに肩が上がっていないか、顎に力が入っていないか、右手指先だけで無理やり音を出そうとしていないかを観察する。少しでも身体が固まり始めたら、一度動きを止め、深く息を吐き、重力へ身体を返すような感覚を持つ。すると不思議なことに、音まで柔らかく変化する。最近感じるのは、リラックスとは単なる脱力ではないということである。完全に力を抜くだけでは、むしろ音は弱く不安定になる。本当に必要なのは、「必要な力だけが静かに存在している状態」なのだろう。竹がしなるように柔軟でありながら、芯は失われていない状態である。そして興味深いのは、そのような身体状態で長く弾いていると、演奏を離れた日常にも変化が及ぶことである。以前より歩き方や呼吸が穏やかになり、焦りが減り、人と話す時の身体感覚まで変わってくる。逆に緊張状態でばかり弾いていると、演奏後もしばらく神経が過剰に興奮し続ける。考えてみれば、身体とは単なる道具ではなく、毎日の行為によって少しずつ彫刻されていく存在なのかもしれない。練習とは、音楽を身体へ教え込む作業であると同時に、「どのような存在として生きるか」を身体へ刻印していく営みでもあるのである。フローニンゲン:2026/5/21(木)09:03


Today’s Letter 

Value, beauty, and consciousness captivate my interest. They form a trinity that I’d like to explore further. My future academic work will center on this trinity. Groningen, 5/21/2026 

 
 
 

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