【フローニンゲンからの便り】18764-18769:2026年5月29日(金)
- 20 分前
- 読了時間: 17分

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
18764 | テロリズム論に関する論文を読んで |
18765 | 今朝方の夢 |
18766 | 今朝方の夢の振り返り |
18767 | 右手の小指の独立の価値 |
18768 | 意味づけの発達に関する興味深い研究 |
18769 | マイケル・コモンズの階層的複雑性モデルに関する論文を読んで |
18764. テロリズム論に関する論文を読んで
一昨日読んでいたテロリズム論の論文が非常に印象的だった。特に面白かったのは、「暴力が強さの証拠ではなく、むしろ権力や正統性の崩壊の兆候である」という議論である。普通、自分たちは国家や軍事力を力そのものだと思いやすい。しかしこの論文では、ハンナ・アーレントの議論を踏まえながら、「本当の力とは、人々が自発的に従い、協力し、共同行為を形成できる状態である」と整理されていた。つまり、暴力に頼らなければならない時点で、その権力はすでに内部的には弱っているというのである。これは非常に逆説的だが、考えてみると深い。暴力は一瞬で人を従わせられる。しかし、それによって本当の意味での信頼や正統性は生まれない。むしろ暴力が増えるほど、「なぜここまで強制しなければならないのか」という疑念も増していく。まるで強く握り締めるほど砂が指の隙間から零れ落ちるように、暴力は短期的支配を可能にする一方で、長期的正統性を蝕んでいくのである。また、この論文では「構造的暴力」という概念も重要視されていた。テロというと爆破や銃撃を想像しがちだが、著者は、貧困、差別、教育格差、都市の荒廃などもまた、間接的な暴力として機能しうると論じている。特に印象に残ったのは、アメリカのインナーシティの子供たちが、日常的銃撃や殺人の恐怖の中で育っている描写だった。著者は、それもまた「見えにくいテロ」である可能性を示唆していた。ここで感じたのは、人間は劇的な暴力には敏感だが、慢性的暴力には鈍感になりやすいということである。一度の爆発には世界が震撼する。しかし、何年も続く貧困や差別には徐々に感覚が麻痺していく。だが当事者にとっては、後者の方がむしろ毎日続く恐怖なのかもしれない。さらに興味深かったのは、ネルソン・マンデラの議論だった。マンデラは武装闘争を選びながらも、テロリズムと破壊工作を慎重に区別していた。彼は、無差別に民間人を狙うことを避けようとしていたのである。つまり、暴力そのものより、「何を目的とし、どのような境界を保つか」が政治的倫理において重要になる。読んでいて感じたのは、政治とは結局、人間がどのように共存するかという極めて根源的問題なのだということである。暴力は、対話や正統性が崩れた地点で現れる。しかし同時に、暴力の背後には、長年蓄積された不満、屈辱、排除、恐怖も存在する。その意味で、テロリズムは単なる狂気ではなく、壊れた関係性の噴出なのかもしれない。そして最後に強く残ったのは、アーレントの言葉だった。「銃口からは服従は生まれる。しかし、権力は生まれない」。これは政治だけではなく、人間関係全般にも通じる気がする。恐怖によって人を沈黙させることはできる。しかし、信頼や共鳴はそこから決して育たない。真の力とは、おそらく他者を押さえつける力ではなく、他者と共に世界を作れる力なのだろう。フローニンゲン:2026/5/29(金)06:23
18765. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない屋内プールにいた。そこで前職時代の元上司の女性と一緒に泳ぐ練習をすることになっていた。元々オフィスでふと水泳の話になり、その方が泳ぐのが得意ではないということだったので、こちらから泳ぎ方を教えることになったのである。プールに到着すると、すでに民間の利用者が何人もいた。そんな中、すでに上司のその方はもう泳ぎ始めていたので驚いた。ゆっくりとではあるが、事前に思っていた以上に泳げたので、こちらから教えることはあまりないのではないかと思った。とはいえお手本を見せて欲しいと言われたので、飛び込み台から飛び込んでまず50mをさっと泳いだ。泳いでみて気づいたが、自分の飛び込み台が他の人よりも随分と高くなっていたので、少し下げてより飛び込みやすくした。もう一度その状態で50mを泳いでみたところ、同じレーンで先に泳いでいた2人の男性を追い抜き、かなり早いペースで泳ぎ切った。自分は50mほどであれば息継ぎを一度もせずとも泳ぎ切ることができるので、その点で呼吸を何度もしなければいけない他の人よりも早く泳げるのだと改めて思った。
次に覚えているのは、世界の様々な国をまたにかけて活躍した元日本代表のサッカー選手が南米時代に過ごした一軒家を見せたもらうことになった場面である。見せてもらうとは言え、自分は目撃者の意識としてそこにあり、彼が家を説明する様子を眺めていただけである。家には横断幕やそこを訪れたファンのスニーカーが残っていた。家の紹介を終えると、今度は広い庭を案内してもらった。中央には立派な池があり、池の横にはおみくじができる場所があった。そこで番をしているのは初老の日本人女性で、その選手はこの家に住んでいるときにことあるごとにおみくじを引いていたそうだ。今回もおみくじを引いてみたところ、大吉が出てその方は喜んでいた。しかし気になったのは、1回500円という値段である。おみくじの横には日本人の初老の男性の市長さんが座っていて、彼は涙ながらに価格の高さを嘆いていた。これまで無数の子供や大人がおみくじを引きにやってきて、価格が高いことによって彼らがおみくじを引けなかったこともあることを悲しんでいたのである。するとおみくじの番をしている女性は、「そんなことを言うと場がしらけてしまうじゃない」と述べて、別の場所にさっと移動した。
最後に覚えているのは、自分が作った学術論文や専門書の解説動画がとてもわかりやすいという好評を得ていた場面である。自分はそれを自らの学習のために作って公開していたのだが、それを見てくれる人が想像以上に多く、思わぬ形で彼らの学習に貢献できていることを知って嬉しくなった。これからも引き続き自分の学習のためではあるが、解説動画を次々と作って公開していこうと思った。フローニンゲン:2026/5/29(金)06:36
18766. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の中で「教える者」と「学ぶ者」の位置が静かに入れ替わりつつあることを象徴しているように思われる。見慣れない屋内プールは、まだ完全には慣れていない新しい実践領域であると考えられる。そこは水という無意識的な素材を扱う場であり、しかも屋内であるため、感情や身体感覚を一定の構造の中で訓練する空間であるように見える。前職時代の元上司に泳ぎを教えるという設定は、かつて自分が評価される側、導かれる側にいた関係性が、今では別の形で反転していることを示しているのかもしれない。しかし、実際にプールに着くと、その元上司はすでに泳いでいる。これは、自分が教えなければならないと思っていた相手にも、すでに独自の力や歩みがあることへの気づきであろう。つまり夢は、教育や支援とは、相手を無から引き上げることではなく、すでに動き出している流れに寄り添うことだと告げているようである。自分が飛び込み台から泳ぐ場面は、今度は自分の能力を示す局面である。しかし、その飛び込み台が他の人よりも高すぎたことに気づき、少し下げる。この部分は重要である。高すぎる台は、自分の知性、専門性、表現の抽象度を象徴しているのではないだろうか。高所からの飛び込みは鮮やかだが、見る者にとっては遠く、真似しにくい。そこで台を下げることは、自分の能力を落とすことではなく、他者が入りやすい高さへと翻訳することである。これは、深い水に入るための梯子をかけ直すような行為である。50メートルを息継ぎなしで泳ぎ切る場面は、自分の集中力と内的持久力を象徴していると思われる。息継ぎをしないということは、外界から頻繁に承認や刺激を取り込まなくても、一定距離を自力で進める力があることを示しているようである。ただし同時に、これは一つの警告でもあるかもしれない。速く泳げるのは強みであるが、呼吸しない泳ぎは長距離には向かない。自分の人生においても、短距離的な集中力だけでなく、適切に息を吸い、他者とのリズムを合わせる呼吸法が必要になっている可能性がある。次のサッカー選手の家は、世界を渡り歩いた人間の足跡として現れているようである。横断幕やファンのスニーカーは、移動し続けた人生の中に残された記憶、応援、帰属の痕跡であろう。自分はそこに目撃者として存在しているため、この場面は自分自身の未来を直接生きているというより、これからありうる国際的な人生の模型を眺めているように見える。南米の一軒家に日本的なおみくじが置かれていることは、異国で活動しながらも、日本的な運命感覚や精神的習慣を携えていく姿を表しているのかもしれない。しかし、そこで問題になるのは一回500円という価格である。大吉は出る。つまり、運命は祝福しているように見える。だが、その祝福にアクセスするための価格が高すぎる。涙する市長は、自分の中の公共性、倫理、教育者としての良心を象徴しているようである。知や希望や啓示が、限られた人にしか届かないものになってしまうことへの悲しみである。一方、番をしている女性は、場の空気や商業的な成立を守ろうとする力を表しているのだろう。ここには、価値あるものを有料化することと、それを広く開くことの葛藤が映っているように思われる。最後の解説動画の場面は、この葛藤に対する一つの解答であるように見える。自分の学習のために作ったものが、結果的に他者の学びに役立つ。ここでは、知識は高額なおみくじではなく、井戸から汲まれた水のように共有されている。しかも、それは自己犠牲ではない。自分が学ぶほど、他者も学べるという循環が生じているのである。人生における意味として、この夢は、自分がこれから進むべき方向をかなり明確に示しているように思われる。自分は高い飛び込み台から見事に跳ぶ能力を持っているが、これから重要になるのは、その台を少し下げ、多くの人が水に入れるようにすることである。専門知を独占的な大吉にするのではなく、学びの池へ誰もが近づける橋に変えること。そこに、自分の次の仕事、教育、発信、そして人生の役割が開かれているのではないだろうか。フローニンゲン:2026/5/29(金)07:36
18767. 右手の小指の独立の価値
右手の薬指と小指がかなり独立しているプロのクラシックギタリストは、おそらく決して少なくはないが、同時に多数派とも言い切れないように思われる。というのも、クラシックギターの標準的な右手奏法では、親指p、人差し指i、中指m、薬指aが中心であり、小指は通常の発音指としてはほとんど使われないからである。実際、右手小指は通常の演奏では稀にしか使われず、使う場合も和音や特殊効果、あるいは高度な技法に限られることが多いと説明されている。それでも、プロの中には右手小指を意識的に鍛える人がいるようである。たとえばラファエル・アギーレのような奏者は、右手小指の訓練が右手全体のバランスを改善し、技術全体を底上げしうると教えている。また、右手小指の緊張や不必要な固定は、薬指や手全体に余分な緊張を生むとされるため、小指を発音に使うかどうかとは別に、小指を自由にしておくこと自体が重要なのだろう。右手の薬指と小指の独立性というのは、表舞台に立たない脇役が、舞台全体の照明を静かに整えているようなものかもしれない。小指はほとんど音を出さない。観客からすれば、そこに存在することすら意識されない。しかし、その小指が薬指に張りつき、硬直し、あるいは勝手に反り返っていると、薬指の動きはどこかぎこちなくなる。薬指が弦に触れる瞬間に、見えない糸で後ろから引っ張られているような感覚が生じるのである。思わぬ効能は、単に小指で弾ける音が増えることではないように思われる。むしろ、小指が独立してくることで、薬指が本来の薬指として目覚めるのである。薬指はクラシックギターの中で、和音、アルペジオ、旋律の高音部、トレモロなどに深く関わる。ところが薬指は構造的に小指と連動しやすい。だから小指が硬いままだと、薬指はいつも隣人の都合を気にしながら動いているような状態になる。小指が少しずつ自立すると、薬指はようやく自分の足で立ち、自分の呼吸で弦に触れ始めるのではないだろうか。その効能は、音色にも現れる可能性がある。小指が余計に力んでいないと、右手全体のアーチが柔らかく保たれ、薬指の入射角や抜け方が安定しやすくなる。すると高音弦の音が細く尖るのではなく、芯を持ちながらも丸くなる。これは、一本の枝だけを矯正しているのではなく、樹全体の重心が整うことに近い。枝先の震えが収まると、葉の一枚一枚が風を受けやすくなるのである。さらに、小指の独立はスピードにも関係するように思われる。速いアルペジオやトレモロでは、実際に動いている指だけでなく、動いていない指の静けさが重要になる。小指が不安定に跳ねたり、薬指に巻き込まれたりすると、右手全体に小さなノイズが生まれる。逆に小指が静かに自立していると、薬指・中指・人差し指の交替が滑らかになり、動きの回路が詰まりにくくなる。これは、交通量の多い交差点で、使われていない脇道がきちんと整理されているだけで本線の流れまで良くなるようなものである。ただし、小指を無理に発音指として使おうとする必要はあまりないだろう。むしろ大切なのは、小指を使える指にする以前に、邪魔しない指にすることではないかと思う。プロの多くも、実演上は小指を常用しているというより、小指が右手全体を乱さないように洗練させているのではないだろうか。つまり、小指の訓練とは小指のための訓練ではなく、薬指を自由にし、手の重心を整え、音色と速度と脱力を同時に改善するための、きわめて間接的な訓練なのである。今日このことを考えていると、右手の小指は、普段は黙っているが家全体の空気を左右する小さな窓のように思えてくる。その窓が少し開くだけで、部屋の空気が入れ替わる。小指が独立するとは、演奏に新しい指を一つ足すことではなく、右手全体に新しい風の通り道を作ることなのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/29(金)08:35
18768. 意味づけの発達に関する興味深い研究
一昨日に読んでいたクネン(フローニンゲン大学時代の論文の指導教官)とボスマの論文がとても面白かった。テーマは「意味づけ(meaning making)の発達」で、人がどのように世界を理解し、自分自身を組み立てていくのかを、ダイナミックシステム理論で説明しようとする試みである。単なる「発達段階」の説明ではなく、「なぜ人は変わるのか」「なぜ変われないのか」というプロセスそのものを描こうとしている点が印象的だった。特に興味深かったのは、「発達は葛藤によって駆動される」という考え方である。人は普段、自分なりの意味づけによって安定して生きている。しかし人生の中で、自分の現在の世界理解では処理できない要求や状況に出会う。その時に葛藤が生まれる。例えば、仕事、人間関係、親密性、社会的役割などが、自分の現在の器を超え始めるのである。すると古い意味づけでは耐えきれなくなり、変容が必要になる。論文ではこれを、環境からの要求と意味づけ構造との「ズレ」として整理していた。この考え方に触れると、人間の発達はまるで弦楽器のチューニングのようだと感じる。弦は適度に張力がかからなければ響かない。しかし張力が強すぎれば切れてしまう。葛藤も同じで、少なすぎれば人は変わらず、多すぎれば崩壊する。発達とは、耐えられるぎりぎりの緊張の中で、古い自己構造が少しずつ再編成されていく運動なのかもしれない。さらに面白かったのは、人は葛藤に直面した時、必ずしも発達するわけではないという点である。論文では、人間の反応を大きく三つに分けていた。ひとつは「同化(assimilation)」で、今の枠組みのまま問題を処理しようとすること。もうひとつは「調節(accommodation)」で、自分自身の意味づけ構造そのものを変えること。そして最後に、「撤退(withdrawal)」である。つまり、人は耐えられない葛藤に対して、環境や関係そのものから離脱することもある。この「撤退」が理論の中に組み込まれている点が非常にリアルだった。いくつかの発達理論ではしばしば、まるで人間が一直線に成熟していくかのように描かれる。しかし現実には、転職、人間関係の断絶、アルコール依存、社会的回避など、人は成長ではなく、逃避を選ぶことがある。しかも論文によれば、一度撤退を選ぶと、次も撤退を選びやすくなる。つまり、意味づけの歴史そのものが、未来の選択傾向を形作っていくのである。また、この論文は「発達は直線ではなく、非線形である」と強調していた。小さな出来事が人生全体を大きく変えることもあれば、大きな事件が一時的な揺れで終わることもある。これはダイナミックシステム理論の発想であり、人間発達を固定された階段ではなく、複数の要因が相互作用し続ける流れとして捉えている。この視点はとても腑に落ちる。人生を振り返ると、本当に重要な変化は、必ずしも劇的事件によって起きたわけではない。何気ない対話、ある本との出会い、ある音楽、ある失敗、そうした小さな揺らぎが、後になって巨大な方向転換になっていたりする。逆に、当時は人生が終わったように感じた出来事が、数年後にはほとんど痕跡を残していないこともある。論文の最後で特に印象に残ったのは、「安定した段階」というもの自体が、本当に固定的なのかという問いだった。著者たちは、実際には多くの人が中間状態に長く留まっている可能性を示唆している。つまり人間は、完全に段階3でもなく、完全に段階4でもなく、そのあいだを揺れ動きながら生きているのかもしれない。この考え方にはとても共感した。人間の内面は、完成された建築物というより、常に改築中の都市に近い。古い通路を壊しながら、新しい道を作っている。しかし完全に工事が終わることはない。発達とは、安定した完成ではなく、揺らぎを含みながら自己を再編成し続けるプロセスなのである。フローニンゲン:2026/5/29(金)08:54
18769. マイケル・コモンズの階層的複雑性モデルに関する論文を読んで
一昨日、マイケル・コモンズたちの「Model of Hierarchical Complexity(階層的複雑性モデル)」についての論文を読んだのだが、とても刺激的だった。この理論は、人間の発達を単なる年齢や知識量ではなく、「どれほど複雑な行為を統合できるか」という観点から捉え直そうとしている。しかもその発想が、単なる心理学ではなく、数学や物理学、行動分析、情報処理理論などを横断しながら形成されていったことに驚かされた。特に面白かったのは、コモンズ自身が若い頃にアシモフの『Foundation』を読んで、「人間社会の発展を数学的に理解できるのではないか」と感じたことだったらしい。そこから発達理論へと向かっていく流れには、どこか壮大なロマンを感じる。普通、発達理論というと教育学や児童心理学の延長のように見える。しかし彼の場合は、むしろ宇宙論やシステム理論に近い直感から始まっている。また、ピアジェ理論への態度も印象的だった。コモンズは、ピアジェの段階論には真理があると感じていた。しかし同時に、「論理」を中心に据えすぎている点には違和感を持っていたらしい。人間は論理だけで世界を理解しているわけではない。むしろ、世界を単純化することで、ある種の幻想を作りながら生きている。コモンズはそこに注目していた。この部分を読んでいて、人間の認識とは、まるで複雑な森の中に道を作る作業のようだと思った。世界そのものは圧倒的に複雑で、無限の関係性に満ちている。しかし人間は、そのままでは生きられない。だから道を作る。つまり概念を作る。だが、その道は便利であると同時に、森全体を見えなくする。発達とは、新しい道を増やすことでもあるが、同時に「自分が歩いている道もまた人工的な構造にすぎない」と気づいていくことなのかもしれない。論文の中で特に印象に残ったのは、「高次の行為とは、低次の行為を非恣意的に統合したものだ」という定義である。つまり、発達とは単なる量的増加ではない。より複雑なレベルで、複数の要素を意味ある形で統合できるようになることなのである。例えば、単純な足し算ができることと、代数的関係を理解することは違う。さらに、異なる理論体系同士を比較し、その前提構造を見抜くことは、また別の次元の複雑性を要求する。この理論では、それらを「階層的複雑性の次数」として整理している。しかも興味深いのは、これを人間だけでなく、動物、社会組織、コンピュータにも適用できると考えている点である。つまり、この理論の根底には、「発達とは、世界のより大きな関係性を扱えるようになること」という発想があるように感じる。低次の段階では、物事を個別に見る。しかし高次になるほど、複数のシステム同士の関係を扱い始める。さらに進むと、異なるパラダイムそのものを横断し始める。そこでは、単なる知識量ではなく、「構造を見る力」が問われている。また、コモンズたちが「ポスト形式的段階」を提唱した背景も面白かった。ピアジェの形式的操作段階を超えた発達が存在するのではないか、という問題意識である。つまり、論理的推論が完成したあとにも、人間の発達は続くのではないかという問いである。社会では、論理的に考えられる人を「成熟した大人」と見なしがちである。しかし実際には、その先がある。論理そのものの限界を見る段階。異なる価値体系を統合する段階。矛盾を保持したまま思考できる段階。さらには、パラダイムそのものを再構成する段階。それらをコモンズたちは数学的モデルとして扱おうとしていた。読んでいて感じたのは、人間の発達とは「より賢くなること」というより、「より複雑な世界に耐えられるようになること」に近いということである。単純な答えに飛びつかず、多層的な関係性を保持し続ける力。それは時に苦しい。しかし、その複雑性を抱えられるようになった時、人は以前よりも広い世界を生きられるのだろう。フローニンゲン:2026/5/29(金)09:13
Today’s Letter
Music comes naturally from within me. This phenomenon suggests that music is always flowing within us. By expressing it, we are able to nurture and cultivate our being. Groningen, 5/29/2026
コメント