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【フローニンゲンからの便り】19146-19148:2026年8月20日(木)

  • 14 時間前
  • 読了時間: 7分


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タイトル一覧

19146

即興演奏と縁起

19147

今朝方の夢

19148

今朝方の夢の振り返り

19146. 即興演奏と縁起

                                        

昨日、即興演奏の魅力について考えていて、これはもしかすると「縁起」を身体で感じる営みなのではないかと思った。あらかじめ完成された曲を再現する演奏とは違い、即興では次の音がまだ存在していない。いま鳴らした一音が次の一音を呼び、その音を耳で聴いた自分の心がわずかに変わり、その変化した心がさらに別の音を選ぶ。その連鎖を眺めていると、一音一音が孤立した粒として存在しているのではなく、前後の無数の条件によって生まれていることがよく分かる。たとえば何気なく弾いた一つの和音が予想以上に美しく響いたとする。その瞬間、自分の注意はその響きへ引き寄せられる。すると次の音を急いで出したくなくなり、ほんの少し沈黙を長くする。その沈黙によって身体の呼吸まで変わり、その呼吸の変化が次のフレーズを穏やかなものにする。つまり、最初の和音が次の音を直接「命令」したわけではない。和音、耳、注意、感情、身体、呼吸、指の位置、そして沈黙が互いに関係しながら、次の出来事を生み出したのである。これは仏教でいう縁起の感覚にかなり近いように思う。「これがあるとき、かれがある」という関係が、演奏中には数秒どころか一秒以下の単位で展開している。一つの音が原因で次の音が結果になるという単純な直線ではない。むしろ網の目の一点を揺らすと、その振動が別の場所へ伝わり、そこからまた新しい振動が返ってくるようなものである。そして、その網の中には演奏者である自分自身も含まれている。ここが特に面白い。普通は「自分が音を作っている」と考える。しかし即興していると、ときどき逆に「音によって自分が作り変えられている」と感じる瞬間がある。ある旋律を弾いたことで少し寂しい気分になり、その寂しさが次の和音を選ばせる。その和音によって今度は思いがけない明るさが生まれる。自分が音を生み、音が自分を変え、その変化した自分がまた音を生む。作曲者と作品という境界が、そこで少しずつ溶けていくのである。さらに考えると、即興における「失敗」も縁起的である。意図しない音を弾いてしまったとき、固定された楽譜があれば誤音になる。しかし即興では、その音を次の音との関係によって意味あるものへ変えることができる。間違った一音そのものに「失敗」という本質が備わっているわけではない。次にどのような関係を結ぶかによって、それは失敗にもなれば、転調の入口にもなり、新しいモチーフの種にもなる。この感覚は、物事には独立した固定的な意味があるのではなく、関係によって意味が生じるという考え方を、非常に具体的に教えてくれる。だから即興演奏では、「次に何を弾こう」と考えすぎないほうが面白いのかもしれない。いま生じている音をよく聴き、それによって変化した自分の心身を感じ、その瞬間に成立している条件から次の一音を受け取る。すると演奏は、自分が未来を支配して進める行為ではなく、刻々と変化する条件との対話になる。考えてみれば、即興演奏には完成された作品が存在しない。あるのは、音が生まれては消え、自分の心身も変化し、それらの関係からまた新しい音が立ち上がる流れだけである。その意味で即興とは、音楽によって無常を表現するというより、無常と縁起そのものを音として生きてみる行為なのかもしれない。鍵盤や弦の上に現れる一音一音は、小さな出来事である。そして自分もまた、その出来事を外から眺める者ではなく、絶えず変化する大きな連鎖の一部なのである。フローニンゲン:2026/8/20(木)05:38 


19147. 今朝方の夢

           

今朝方は夢の中で、実際に通っていた小学校の中庭にいた。学校にいる生徒たちはみんな体格は大人だった。最上学年の自分たちだけではなく、後輩たちもそうであった。中庭では、数人の友人たちとテレビゲームやカードゲームの話をしていた。中でもカードゲームに関しては、お互いの最新のデッキについての話で盛り上がり、最新のデッキを用いて対戦してみようという話になった。実際に対戦を始めてみると、自分の脳裏には緑のデッキのカードがいくつも想起され、それらのカードを場に出してみたいという思いが募っていった。すると突然チャイムが鳴り、校内アナウンスがあった。どうやら今からモロッコに関する問題が配布されるとのことで、至急教室に戻るようにとのことだった。一瞬、社会の問題としてモロッコについての問題が出されるのかと思ったが、どうやら現代文の問題らしいと直感的にわかった。それであれば自分は問題を解く自信があり、多くの生徒たちが慌てて教室に戻る中、自分の心はとても穏やかだった。フローニンゲン:2026/8/20(木)05:51


19148. 今朝方の夢の振り返り

                 

今朝方の夢は、自分がこれまで育ててきた知性や技能を、もっとも原初的な学びの場へ持ち帰り、そこで新しい統合を始めようとしていることを象徴しているように思われる。舞台が実際に通っていた小学校であることは重要である。小学校とは、自分にとって知識を獲得する以前に、「学ぶとは何か」「友人と競うとは何か」「世界をどう分類するか」といった認識の基本形が作られた場所であったはずである。ところがそこにいる生徒たちは皆、大人の体格をしている。これは、過去へ退行しているのではなく、現在まで成長した自分が、かつての学習の土台そのものを再訪していることを示しているのではないか。古い校舎の中に成人した身体が収まっている光景は、昔作られた器の中へ、現在の大きくなった精神をもう一度入れてみる実験のようである。中庭で語られていたテレビゲームやカードゲームは、単なる娯楽というより、規則の中で可能性を組み合わせる知性を表しているのかもしれない。特に「最新のデッキ」を互いに見せ合う場面には、自分が絶えず更新している知識、技法、概念の組み合わせが投影されているように見える。デッキとは、手持ちの資源をただ集めるものではなく、何を残し、何を捨て、どのカード同士を結びつけるかによって力を発揮する体系である。その意味で、自分の現在の知性も、一冊一冊の知識を所有する段階から、必要なものを自在に組み合わせて働かせる段階へ移りつつあるのではないか。とりわけ緑のデッキが脳裏に次々と浮かぶ点が印象的である。緑は成長、生命、再生、自然な展開を連想させる色である。自分の内側では今、新しい知識を外から追加すること以上に、すでに蓄えられたものを発芽させたい欲求が強まっているのかもしれない。カードを「場に出したい」という感覚は、潜在している能力や着想を現実の活動へ展開したい衝動の象徴とも読める。種子が土の中に眠っているだけでは森にならないように、自分の中の可能性も、実際の場へ出され、他の要素と関係を結ぶことで初めて生き始めるのであろう。そこへ突然鳴るチャイムは、遊戯的探究から公的な課題への切り替えを告げる鐘であるように思われる。そして課題の対象がモロッコであることは、まだ十分には馴染みのない文化や世界への越境を示している可能性がある。興味深いのは、自分が最初に社会科の問題だと思いながら、直感的に現代文の問題だと理解することである。ここには夢全体の核心があるように感じられる。つまり、これから問われるのは「モロッコについて何を知っているか」ではなく、「未知の対象をどのように読み、意味を汲み取り、文脈の中で理解するか」なのではないか。世界を事実の集積として扱う知性から、意味の織物として読む知性への移行である。多くの生徒が慌てて教室へ戻る一方、自分だけが穏やかである場面も象徴的である。その静けさは、問題の答えをすでに知っているという自信というより、未知の問いに出会っても、自分には読み解く方法があるという深い信頼を表しているのかもしれない。夢の自分は、正解という岸辺を必死に探す者ではなく、文章という川の流れを読みながら渡れる者になりつつあるのであろう。小学校という出発点、更新されたデッキ、緑のカード、異文化としてのモロッコ、そして現代文という読解課題は、すべて「蓄積した知識を越えて、未知の世界を意味として読み解く力」へ向かう一本の線で結ばれているように思われる。フローニンゲン:2026/8/20(木)06:41


Today’s Letter 

Nature cherishes my whole being. The gentle morning atmosphere soothes and purifies my mind. Groningen, 8/20/2026

 
 
 

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