【フローニンゲンからの便り】19134-19137:2026年8月17日(月)
- 8月19日
- 読了時間: 10分

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タイトル一覧
19134 | チェスや将棋と即興演奏 |
19135 | 今朝方の夢 |
19136 | 今朝方の夢の振り返り |
19137 | サグレラスの教則本を解く楽しさ |
19134. チェスや将棋と即興演奏
時刻は午前6時を迎えた。夏が終わりを告げ、今朝は冷たい雨が降っている。日の出の時間も遅くなり、これからようやく辺りが明るくなってくる。こうして天から降り注ぐ雨を眺めていると、雨によって自分の内側の何かが浄化されながらも、同時にこの地で培ったものは流出していかないことを思う。そして、この雨によって自分はまた新天地に運ばれていくような感覚がある。
昨日、チェスや将棋に惹かれる理由を考えていると、それは単に勝敗のあるゲームだからではなく、限られた駒と規則の中から、ほとんど無限に近い可能性が立ち上がってくるからなのだと思った。盤面そのものは静かである。しかし一手指すたびに状況全体の意味が変わり、数手前には存在していなかった可能性が姿を現す。その感覚は、音楽の即興演奏と驚くほど似ている。即興演奏でも、自分は完全な自由の中で音を出しているわけではない。キーがあり、コードがあり、拍子があり、それまでに鳴らした音がある。たとえばCメジャーのコードの上でEを弾けば、そのEは単なる一つの音ではなく、その瞬間の文脈の中で3度として響く。そして次にFへ進むのか、Gへ跳ぶのか、Cへ戻るのかによって、先ほどのEの意味まで少し変わって聞こえる。これは将棋で一枚の駒を動かした瞬間に、他の駒の価値や働きまで変化することとよく似ている。そう考えると、即興演奏とは「音を使った先読み」なのかもしれない。ただし、チェスや将棋の先読みと違って、音楽では最善手を探す必要はない。むしろ面白いのは、次の一音を完全には決めずに、その瞬間に鳴った響きを聴きながら応答することである。ある音を鳴らしたところ、予想以上に美しい緊張感が生まれたなら、その緊張をもう少し引き延ばしてみる。逆に少し違和感のある音を出してしまっても、その次の一音によって、それを意図的な経過音へ変えることができる。失敗した一手を別の構想へ組み込むようなものである。将棋では、自分の一手が相手の応手を呼び、その応手がさらに次の局面を作る。即興でも同じことが起きている。ただし相手は必ずしも人間ではない。直前に自分が鳴らした音、コードの響き、楽器の残響、身体のリズム感覚などが「相手」となって次の音を要求してくる。即興とは、自分が一方的に音楽を作るというより、鳴り始めた音楽と対局している状態なのだろう。さらに興味深いのは、初心者ほど一手一手、一音一音を考える必要があるのに、熟達すると局面全体を塊として捉えられるようになる点である。棋士が盤面を64個や81個の独立したマスとして見ていないように、音楽家もやがて12音をばらばらの音としてではなく、コード、スケール、フレーズ、緊張と解決のまとまりとして感じるようになるのだと思う。ここに、音楽理論を学ぶ本当の意味もあるのかもしれない。ルールを増やして自由を狭めるためではなく、盤面をより大きなパターンとして見るためである。最近は、即興練習をするときにも「正しい音を探す」という意識を少し手放している。それよりも、自分が置いた一音によって音楽の盤面がどう変化したのかを聴き、その新しい局面に対して次の一手を返している。そうすれば即興は単なる音階練習ではなく、耳と指と知性を使ったリアルタイムの対局になる。チェス盤には駒があり、将棋盤には駒があり、音楽には音がある。しかし本当に面白いのは駒でも音でもなく、それらの「あいだ」に次々と生まれる関係なのだと思う。即興演奏を深めることは、音という駒を巧みに動かすこと以上に、刻々と変化する音の盤面そのものを読む力を育てることなのかもしれない。フローニンゲン:2026/8/17(月)06:22
19135. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない空間にいた。そこには壁はなく、ただ学校の机だけがポツポツと置かれていた。そのうちの一つの席に着いて、先生風の女性から出されたお題に取り掛かっていた。それは各自に与えられたお弁当箱サイズのキーボードを使って、その瞬間の自分の内側から湧き上がってくるリズムを表現し、録音するというものである。1人1人が発表していく中で、他の人たちは全員興味深くその人の演奏を聴いていた。私の前に小中高時代のある女性友達(YY)が演奏をし、彼女はピアノを習っていたのか、見事な演奏を見せた。次に自分の番がやって来た時、どういうわけか突然席を移動し、その空間の左の方の席に移った。左隣には見慣れない若い男性がいて、先ほど演奏した彼女と自分の関係性について尋ねてきた。別に私たちは付き合っているわけではないが、彼は冷やかしの言葉を述べてきたので、煩わしく思い、手に持っていたクリームのお菓子を彼の目に擦り付けるようにしてぶつけた。当然彼は驚いたが、自分に対して反撃してくることはなく、むしろ自分に対して幾分恐れを感じているようだった。そんな彼に対して謝ると、彼も不適切な発言について謝った。彼との関係が修復されると、ふと自分は前の方の席に移動していた。そこは周りの席とちゃんと空間が確保されており、息苦しくなく、ようやく思う存分に呼吸ができる感覚があった。呼吸を味わっていると、後ろに座っていた女性がその様子をウケていた。彼女の方を見ると、その女性は先日知り合った協働者の会社のメンバーの1人であり、とても優しそうで雰囲気が良く、一度話をしてみたいと思っていたので、そこから少し雑談をすることにした。フローニンゲン:2026/8/17(月)06:33
19136. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分がこれから「外から与えられた正解」ではなく、その瞬間の自分の内部から生まれるものを、他者のいる場で表現していこうとしている心理的な移行を象徴しているのではないかと思われる。壁のない空間に学校の机だけが点在しているという構造は象徴的である。学校という評価や学習の記憶を残しながら、その周囲を囲っていた壁だけが消えている。これは、自分がこれまで身につけてきた知識や訓練を保持しつつ、それを従来の制度や枠組みから解放しようとしている状態なのかもしれない。そこで与えられる課題が、小さなキーボードによって「いま自分の内側から湧いてくるリズム」を録音することである点はさらに興味深い。巨大なピアノではなく弁当箱ほどの楽器であることから、夢は高度な技巧や壮大な作品よりも、限られた条件の中で瞬間的に生まれるものへ注意を向けているように見える。これは、最近自分が感じている即興演奏の感覚とも呼応し、音楽を「作る対象」ではなく、心身と環境の接点から芽を出す植物のようなものとして捉え始めている可能性を示しているのではないだろうか。YYの見事な演奏が自分の直前に置かれていることは、表現の前に比較や過去の記憶が立ちはだかる構図とも読める。幼少期からの知人という存在は、自分の過去そのものを背負って登場しているようでもある。ところが自分の番になると、演奏せずに席を移動してしまう。ここでは「表現する」という課題が、突然「他者との距離をどう取るか」という課題へ変形している。夢は、自分にとって創造性の問題と人間関係の問題が、実は別々ではないことを示唆しているのかもしれない。左隣の男性との衝突は、その象徴性が強い。彼は自分とYYとの関係に勝手な意味を付与しようとする。他者によって自分の関係性や物語を定義されることへの抵抗が、クリーム菓子を目に擦り付けるという過剰で滑稽な攻撃として現れた可能性がある。「目」を狙っていることも意味深であり、自分を勝手な枠組みで「見る」相手の視線そのものを一時的に遮断しようとしたとも解釈できそうである。しかし、その後には相互の謝罪が起こる。これは自分が境界線を引くだけでなく、衝突後に関係を修復する力まで獲得しつつあることを表しているのかもしれない。そして関係が修復された直後、自分はより広い席へ移動し、ようやく深く呼吸できるようになる。この場面こそ夢全体の中心ではないかと思われる。他者との適切な距離を確保することによって、自分の身体に「空間」が戻ってくるのである。呼吸とは、外界を身体へ取り込み、また身体から外へ返す最も基本的な交換である。ここでは人間関係の境界が壁になるのではなく、むしろ呼吸を可能にする余白として現れている。さらにその呼吸を面白がる女性が、最近知り合った協働者側の人物であることも示唆的である。夢の前半では過去の友人と見知らぬ男性が登場し、後半では未来につながりそうな新しい人物が現れる。まるで自分が過去との比較、他者からの余計な解釈、境界線の調整を通過したあとで、初めて新しい関係へ自然に開かれていく構造である。今回の夢全体は、一つの即興演奏のようでもある。課題、比較、逸脱、衝突、和解、呼吸、出会いが、予定された筋書きではなく次々と前の出来事から生まれている。夢は、自分に対して「よい表現とは、最初から完成された演奏を披露することではなく、自分の内側のリズムと他者との距離を感じながら、その都度もっとも自然な次の一音を選ぶことなのではないか」と示しているのかもしれない。壁のない教室とは、これから自分が入っていく世界そのものなのであろう。そこでは席も関係も固定されず、自分が十分に呼吸できる場所を探しながら、新しい人との間に新しい音楽を生み出していくことになるのではないだろうか。フローニンゲン:2026/8/17(月)07:39
19137. サグレラスの教則本を解く楽しさ
今日は、サグレラスの教則本を「ギターの基礎練習」としてではなく、青チャートを一問ずつ攻略するような感覚で楽しめないかと考えてみた。サグレラスを練習していると、どうしても「きれいに弾けるまで反復する」という単調な発想になりやすい。しかし青チャートを解いていた頃を思い返すと、面白さは単なる反復にはなかった。問題を見て、何が問われているのかを分析し、使えそうな道具を選び、試行錯誤して、最後に解法が一本の線としてつながる。その小さな発見の連続が楽しかったのである。ならば、サグレラスの一曲一曲も「演奏する曲」ではなく「解く問題」として眺めてみればよいのではないか。たとえば新しい練習曲を開いたら、いきなり弾き始めず、まず問題文を読むように譜面を観察する。今回の出題テーマは何だろう、と考えるのである。アルペジオなのか、右手の指の独立なのか、ポジション移動なのか、それとも旋律を保ちながら伴奏を処理する能力なのか。青チャートで「これは場合分けの問題だ」と見抜くのと同じように、「この曲は右手の交互運指が核心だ」と見抜ければ、その時点で練習に知的な輪郭が生まれる。さらに面白そうなのが、一曲に対して「自力でどこまで解けるか」を試すことである。最初から模範演奏を聴くのではなく、運指やフレージングを自分なりに推測してみる。うまくいかなければ、なぜ失敗したのかを考える。左手の移動が遅いのか、右手が次の弦を予測できていないのか、それとも頭の中の拍が曖昧なのか。この原因分析こそ、数学で途中式を検討する作業に近い。弾けなかった小節は「苦手な場所」ではなく、「まだ解法を発見していない問題」と考えると、妙に気が楽になる。そして練習後には、その日の「解法」を一言だけ記録しておきたい。たとえば「左手を速く動かすのではなく、一つ前の音を弾いている間に次の形を準備する」「アルペジオは指ではなく和音の形として見る」といった具合である。こうして蓄積された言葉は、自分専用のサグレラス版解法集になっていくはずである。以前解いた曲に戻ったとき、「ああ、このタイプの問題だったな」と瞬時に構造が見えるようになれば面白い。さらに青チャートらしく、曲に自分なりの難易度をつけてもよさそうである。ただし上手い下手を採点するのではなく、「初見で構造が分かった」「解法は分かったが身体が追いつかない」「まだ核心が分からない」というように理解度を測るのである。そう考えると、サグレラス全体が巨大な問題集に見えてくる。ページを進めること自体が目的なのではなく、問題を解くたびに右手、左手、耳、リズム感という道具箱の中身が少しずつ増えていく。こうして考えると、クラシックギターの練習も受験数学とかなり似ている。難しい一曲に出会うことは、行き止まりではなく、まだ知らない解法に出会ったということである。サグレラスを最初から最後まで「何曲弾けたか」で見るのではなく、「何種類の問題を解けるようになったか」で眺めてみたい。そうすれば毎日の練習は、指のトレーニングというより、ギターという楽器を使った小さな知的探検になりそうである。フローニンゲン:2026/8/17(月)15:05
Today’s Letter
Inner serenity emerges and permeates the external world. Here, the boundary between the inner and outer worlds disappears. Groningen, 8/17/2026



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