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【フローニンゲンからの便り】19127-19130:2026年8月15日(土)

  • 8月17日
  • 読了時間: 9分


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タイトル一覧

19127

フローニンゲンの最後の夏の終わりに/和声理解と即興

19128

今朝方の夢

19129

今朝方の夢の振り返り

19130

音が向かいたがる方向

19127. フローニンゲンの最後の夏の終わりに/和声理解と即興   

       

時刻は午前6時を迎え、今、小鳥たちの美しい囀りに耳を傾けている。フローニンゲンは、昨日と一昨日、最後の真夏日となり、今日から秋に入った感じである、最高気温は20度ぐらいであり、もうここからはそのような気温の日々が続く。昨日までの二日間は、夏という線香花火の最後の灯火だったかのようだ。


昨日、ブランダン・エイカー氏の文章を読みながら、クラシックギターの練習について少し考え方が変わった。これまで曲を弾くとき、自分はどうしても「次の音は何か」「次の指はどこへ行くか」という順番で音楽を覚えようとしていた。しかしエイカー氏が述べているのは、その一段下にある構造を見ることの重要性である。バッハの長い音列を和音へ還元すると、それまで一本の長い暗号のように見えていた旋律が、急に意味を持った文章として読めるようになるという。これはとても興味深い。音を一つずつ暗記することは、知らない街で曲がり角をすべて記憶して歩くことに似ている。それでも目的地には着けるが、一度道を間違えると途端に分からなくなる。一方、和声を理解するということは、その街の地図そのものを頭に入れることなのだろう。今どの和音の上にいて、どこへ向かおうとしているのかが分かれば、多少音を忘れても音楽の流れそのものを見失いにくくなる。特に印象に残ったのは、バッハ、ヘンデル、モーツァルトが即興を行っていたという指摘である。現代ではクラシック音楽というと、楽譜に書かれたものを正確に再現する芸術という印象が強い。しかし彼らにとって即興とは、ジャズのような特別なジャンルでも、適当に音を並べることでもなく、和声とフレージングを理解したうえでその場で作曲する行為だったという。つまり演奏と作曲は、本来今ほど切り離されていなかったのである。そう考えると、自分が今やっている基礎練習にも別の可能性が見えてくる。サグレラスの簡単な曲でも、ただ楽譜通りに弾くだけではなく、まず低音と和音を抜き出してみる。その和音の上で旋律がなぜこの音を通るのかを考える。さらに、その和音を保ったまま別の旋律を二、三音だけ作ってみる。そうすれば、一曲が「完成された作品」であると同時に、「音楽の仕組みを観察する実験室」に変わるのではないか。エイカー氏が「数音から始めればよい」と書いている点にも励まされる。即興と聞くと、指板を自由自在に駆け回る高度な技術を想像してしまう。しかし本質は速さではなく、選択なのだろう。ある和音の上で、次の一音を自分で選ぶ。その小さな決断の中に、和声理解、耳、フレージング、そして作曲感覚が同時に含まれている。これからは曲を覚えるとき、「次は何の音か」だけでなく、「なぜこの音なのか」と問いながら弾いてみたい。楽譜の表面をなぞるだけではなく、その下を流れている和声の川を見る。その流れが見えるようになれば、暗譜も解釈も即興も、実は同じ音楽的理解の枝なのだと少しずつ実感できる気がする。フローニンゲン:2026/8/15(土)06:14


19128. 今朝方の夢

                 

今朝方は夢の中で、見慣れない街の屋外にいた。そこに壁のない不思議な建物があり、その一階で、小中学校時代の2人の友人(KM & HY)と一緒に天井に向かって垂直跳びをしていた。天井に手を当てるために高く飛ぶコツを3人で話し合っていたのである。友人の1人は身長が高く、腕のリーチも長かったので、その恩恵を受けて天井に手をつけることができた。彼のそうした身体的利点を差し引いても、彼のジャンプから学ぶことがあると思われたので、彼に色々とコツを聞いてみた。次に自分が挑戦しようと思って、助走を始めたところ、突然その建物の外にいて、ある1人の見知らぬ若い女性から話を聞いていた。彼女は先ほどおぞましい光景を目撃したらしく、恐怖で体を震わせながら語ってくれた。どのような光景を目撃したのかというと、3人の小さい男の子のうちの1人が、突然魔法か呪いの力によって、体が真っ二つにされてしまったとのことだった。その残虐な話を聞いて、私も恐怖心を抱いたが、自分の役割は、その子を殺した存在を排除することだと気づいた。


次に覚えているのは、小中高時代のある友人(TK)が英語で執筆した博士論文の話をしている場面である。彼のその論文はとてもよく書けていて、編集を加えたら書籍としても出版できるレベルだったし、日本語に翻訳して出版する価値のある内容だと思った。テーマは、成人発達理論とコーチングで、この分野は日本でも注目集めているので、論文の書籍化によって、多くの人に手に取ってもらえるのではないかと彼に伝えた。ただし、その論文はどういうわけか、本文中の引用の箇所が全て、著者名と出版年をあえて記載しておらず、その箇所が黄色で塗られていた。おそらく全ての文章を完成させてから、その箇所を埋めていこうと考えていたのだろう。いずれにせよ、彼の論文は英語と日本語での書籍化に資する内容だと思ったので、彼には引き続き励ましの言葉を送っていこうと思った。フローニンゲン:2026/8/15(土)06:28


19129. 今朝方の夢の振り返り 

                 

今朝方の夢は、自分が「より高く到達すること」と「何かを切断しなければならないこと」と「知を社会へ送り出すこと」という三つの課題を、ひとつの変容過程として経験していることを示しているのかもしれない。冒頭の壁のない建物は、自分がいま立っている学びや成長の場が、閉じた制度ではなく、外界へ開かれた構造になっていることの象徴であるように思われる。その一階で天井に向かって垂直跳びをしている場面は、自分が現在の足場を離れ、これまで届かなかった高さへ手を伸ばそうとしている姿を映しているのだろう。興味深いのは、単に競争しているのではなく、KMやHYと「どうすれば高く跳べるか」を相談している点である。ここには、成長とは孤独な跳躍ではなく、他者の身体知や経験から技法を借りながら、自分なりの跳び方を見つける営みだという無意識の理解が表れているのかもしれない。長身の友人の有利さを認めつつ、それを差し引いても学べるものを探している姿勢は、自分が他者の成果を羨望ではなく、構造分析の対象として見始めていることを示唆するようである。ところが、自分がいよいよ助走を始めた瞬間、場面は突然外部へ移る。この断絶は重要である。高く跳ぶ前に、自分はまず別の仕事を引き受けなければならないのかもしれない。震える若い女性が語る、少年の身体が真っ二つにされる光景は、未成熟な可能性が外的な力によって暴力的に分断されるイメージであるように思われる。三人の少年は、まだ統合されていない自分の複数の可能性を表している可能性もある。その一人が呪いによって切断されるという展開は、自分の内側で何かを成長させようとするとき、それを分断し、生命力を奪う古い恐れや習慣、あるいは価値観が存在していることを象徴しているのかもしれない。そして自分が「犯人を排除する役割」に気づく場面は、単なる被害者ではなく、今後は自分の成長を損なう力に対して主体的に境界線を引く段階に入ったことを示しているようである。これは、庭を育てる者が水を与えるだけでなく、根を食う害虫も取り除かなければならないのと似ている。最後のTKの博士論文は、この夢全体を知的な次元へ引き上げる場面である。完成度の高い英語論文を、さらに英語・日本語双方の書籍へ展開できると見る自分の視線は、知識を「完成品」として眺めるのではなく、翻訳し、編集し、社会へ循環させる媒介者としての自分を象徴しているのかもしれない。成人発達理論とコーチングという題材も、成長そのものを研究対象にしている点で、冒頭の垂直跳びと呼応しているようである。ただし引用箇所だけが黄色く残され、著者名と出版年が未記入であることは意味深い。これは、自分の大きな構想はすでに形になりつつある一方、その構想を支える細部、根拠、接続関係にはまだ埋めるべき空白が残っていることを示しているのかもしれない。黄色は警告であると同時に、未完成部分を見失わないための光でもある。夢全体は、自分がいま「高く跳ぶ技法を学ぶ者」から、「成長を妨げる力を除き」、「未完成の知を完成へ導く者」へと役割を変えつつあることを語っているように思われる。天井へ伸ばした手、切断された身体、黄色い引用欄は、一見ばらばらでありながら、すべて「統合」という一点で結ばれているのかもしれない。フローニンゲン:2026/8/15(土)07:23


19130. 音が向かいたがる方向

                                     

今朝方、メロディック・マイナーを弾きながら、上行するときには第7音を半音上げると自然なのに、下行するときまでその音を高くしたままにすると、なぜか少し落ち着かなく聞こえることについて考えていた。よく考えると、これは単なる「そういう音階だから」という決まりではなく、音がどちらへ進みたがっているのかという、音楽の重力に関係しているように思える。まず古典的なメロディック・マイナーでは、厳密には上行時に第6音と第7音の両方を半音上げる。たとえばAマイナーなら、上行はA-B-C-D-E-F♯-G♯-Aとなり、下行ではA-G-F-E-D-C-B-Aと自然短音階に戻る。この非対称性が最初は少し不思議に感じられる。しかし耳で聴いてみると、むしろその方が旋律の動きとして自然なのである。鍵になっているのは第7音である。AマイナーならG♯はAのわずか半音下に位置している。このG♯を弾いた瞬間、耳はほとんど磁石に引かれるようにAを期待する。G♯はその場に安住する音というより、「あと半歩だけ上へ行きたい」と身体を傾けている音なのである。だから上行する旋律ではG♯からAへ進むことで、この緊張が美しく解決する。坂道を登っていて頂上が目前に見えたとき、最後の一歩を踏み出す感覚に近い。第6音までF♯に上げるのも、この流れを滑らかにするためだと考えると分かりやすい。FのままG♯へ進むと増2度という大きな隙間が生まれ、旋律が突然跳躍したように聞こえる。そこでFをF♯に上げ、F♯-G♯-Aという全音、全音、半音の滑らかな階段を作る。メロディック・マイナーという名前の通り、和声理論だけではなく「旋律として歌いやすくする」ための工夫がそこにあるのである。ところが下行すると事情が変わる。AからG♯へ降り、そのままF♯へ進むと、G♯は本来Aへ上がりたがる導音であるにもかかわらず、逆方向へ引き離されてしまう。言ってみれば、北を指しているコンパスを持ちながら南へ歩くような感覚が残る。間違いではないのだが、耳の中に小さな抵抗が生じるのである。そこで下行時にはG♯をGへ、F♯をFへ戻す。するとA-G-F-Eという流れには「どこかへ解決しなければならない」という強い緊張がなくなり、旋律が自然に下降していく。上行が主音へ向かう求心的な運動だとすれば、下行は主音から離れて地面へ降りていく弛緩の運動なのかもしれない。こう考えると、メロディック・マイナーは単なる音階の暗記事項ではなく、旋律の方向によって音そのものの役割が変化する好例なのだと思う。音楽では同じ音でも、どこから来てどこへ向かうかによって意味が変わる。第7音を半音上げる理由も、「規則だから」ではなく、その音が主音へ帰りたがっているからなのである。音階を指で覚えるだけでなく、一音一音がどちらを向いているのか耳で感じられるようになると、和声と旋律が急に生き物のように見えてくる気がする。フローニンゲン:2026/8/15(土)09:42


Today’s Letter 

Each musical note has a life of its own. I can feel its élan vital. Once I surrender to it, the music comes alive with a vitality all its own. Groningen, 8/15/2026

 
 
 

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