【フローニンゲンからの便り】19123-19126:2026年8月14日(金)
- 8月16日
- 読了時間: 10分

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タイトル一覧
19123 | 昨日の書籍の買取を振り返って |
19124 | 今朝方の夢 |
19125 | 今朝方の夢の振り返り |
19126 | 指板という土地を自由に歩くために |
19123. 昨日の書籍の買取を振り返って
昨日の書籍の梱包によって、腕が筋肉痛になっている。1階からセオさんの車まで段ボールを持って何往復もしたことによって、思わぬ筋トレになっていたようである。今回の書籍の買取を終えてみて、まず感じたのは、結果として引越し代をほぼカバーできたという安堵である。大量の本を抱えたまま引越しをすることを考えれば、運搬費も手間も相当なものになる。そう考えると、書籍を減らしながら、その売却代金で引越し費用を相殺できたというのは、かなり実用的な着地だったと思う。一方で、正直なところ、思っていたほどの値段はつかなかった。これまで自分が時間をかけて集めてきた本、とりわけ学術書には、それぞれに購入時の価格以上の重みがあった。研究のために必要だった本、ある時期に集中的に読んだ本、今の自分の考え方に少なからず影響を与えた本もある。そうした本をまとめて査定に出すと、どうしても自分の中では、一冊一冊に積み重なっている時間や意味まで含めて価値を想像してしまう。しかし、中古市場で評価される価値は、それとはまったく別物なのだろう。いくら定価の高い学術書であっても、専門性が高ければ高いほど買い手は限られる。新版が出れば旧版の需要は下がり、外国語の専門書や特定分野の研究書であれば、必要としている人に届くまでにも時間がかかる。自分にとっては重要な一冊でも、市場から見れば、売れるかどうか分からない在庫の一冊にすぎない。その現実を、今回かなり具体的な金額として見せられた気がする。少し面白いのは、本には少なくとも二つの値段があるということである。一つは市場で売買される価格であり、もう一つは、その本を読んだ人間の中に残る価格である。前者は数ユーロ、場合によってはほとんど値がつかないこともある。しかし後者は、読んだ時間、得た知識、考え方の変化として、すでに自分の中に回収されている。そう考えると、今回売った本の本当の価値は、買取金額だけでは測れないのだと思う。むしろ今回の出来事は、本という物体と、自分がそこから受け取ったものとを切り離す機会になったのかもしれない。本棚から本が消えても、そこから学んだことまで消えるわけではない。これまで知識を保管していた巨大な倉庫を整理し、必要なものだけを自分の中に持って次の場所へ移るような感覚である。今回手放した本たちは、最後にもう一度、自分を次の場所へ運ぶための資金になってくれた。そう考えると、これは単なる古本の売却ではなく、これまでの蓄積を少しずつ身軽な形に変換していく作業だったようにも感じられる。フローニンゲン:2026/8/14(金)06:22
19124. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、ある有名なインターネットメディアで新企画を立ち上げることになり、MCの方、そして自分を含めた3人の登壇者と一緒に企画についての打ち合わせをオンラインではなく、リアルな場で行っていた。今回の企画は元々、自分が発案したものだったので、その趣旨と内容について話をしたところ、全員から賛同を得られ、無事に企画が実現する運びとなった。この企画は一連の流れを持っており、その流れを作る主導権を握っているのは自分なので、コンテンツの事前準備には抜かりがないようにしようと思ったし、その準備から得られることがたくさんあることを思うと、楽しみでしょうがなかった。登壇者のそれぞれが固有の専門性を持つので、それをうまく引き出しながら、良いコンテンツを世に送り届けることができたらと思った。
次に覚えているのは、見慣れない日本の駅を舞台にした場面である。そこで私は、命がかかった鬼ごっこをしていた。鬼に捕まれば命を奪われるというかなりシビアなルールだったにもかかわらず、自分は平静としており、全く焦ることなく駅の中をうまく逃げ回っていた。鬼に見つかったとしても逃げ切れる自信があったのだろう。地下のプラットホームに降りると、そこで小中高時代の2人の男女の友達(HY & NI)と遭遇した。彼らは自分に気付きながらも、引き続き2人で楽しそうに話している姿を見て、彼らに声をかけることをせず、その場を立ち去ることにした。すると、どうやら鬼がちょうどそのプラットホームにやって来たようで、早々とその場を立ち去って良かったと思った。そこからまたリラックスした形でエスカレーターで上に上がっていき、駅直結の本屋に入ることにした。本屋の入り口付近は洋書コーナーになっていて、地面にも書籍が平積みされていた。その一角に足をぶつけてしまい、書籍の山が崩れそうになったが、なんとか崩れずに済み、山の形を元に戻して本屋の奥に向かって行くことにした。こうして自由気ままに1人で行動するのは、やはり自分の性に合っており、命がかかった鬼ごっこの最中ではあるが、なんとも言えない至福さを感じていた。フローニンゲン:2026/8/14(金)06:33
19125. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の中で「他者と協働して社会に何かを生み出す力」と「誰にも依存せず、自分の感覚だけを頼りに進む力」とが、いま同時に成熟しつつあることを象徴しているのではないかと思う。最初のインターネットメディアの場面で印象的なのは、自分が単なる登壇者ではなく、企画そのものの発案者であり、さらに一連の流れを設計する立場にいることである。これは、既存の舞台に招かれて役割を果たす段階から、自分が舞台そのものを設計する段階へ移りつつあることの象徴かもしれない。しかも、自分一人の専門性を前面に出すのではなく、他の登壇者が持つ固有の知を引き出し、それらを一つの流れへ編み上げようとしている。自分はここで演奏者であると同時に指揮者でもあり、さらに楽曲の構成者でもある。知識を所有することより、異なる知を配置し、互いに響かせることへの関心が強まっているのだろう。その意味で、準備そのものを楽しみにしている点も重要である。夢の中の自分にとって準備は本番のための苦役ではなく、それ自体が発見の場になっている。これは、成果よりも生成過程そのものに喜びを感じる心理状態を示しているのかもしれない。企画とは外に出すコンテンツであると同時に、自分自身を更新する炉でもあるのである。後半の駅は、人生の移行地点を象徴しているように思われる。駅とは、どこかに留まるためではなく、次の場所へ移るための構造である。その場所で命がけの鬼ごっこが行われているのは、現在の移行が自分の深層心理にとってかなり大きな賭けとして感じられている可能性を示す。しかし興味深いのは、自分が全く怯えていないことである。危険が消えたのではなく、危険の中でも身体感覚と判断力を信頼できるようになっているのであろう。鬼は恐怖そのものというより、古い生活様式や過去の自己に自分を捕まえ戻そうとする力なのかもしれない。地下のプラットホームで旧友2人に出会いながら声をかけない場面も象徴的である。過去との関係を否定しているのではなく、懐かしさに足を止める必要がなくなったことを示しているように思う。2人が楽しそうに話している姿を確認し、自分は自分の道へ進む。その直後に鬼が現れることを考えると、もし過去への親しみからその場に留まり続けていれば、何かに捕まっていた可能性を夢が暗示しているのかもしれない。そして最後に現れる本屋は、自分にとって避難所というより「本来の居場所」に近い象徴であろう。命がけの逃走中でさえ、本を眺めながら自由に歩くことに至福を感じている。洋書の山に足をぶつけても、崩壊させず自ら整え直して奥へ進む場面は、これまで蓄積してきた知の体系を乱暴に捨てるのではなく、少し組み替えながら次の知的領域へ進む姿を思わせる。この夢全体は、巨大な駅を舞台にした「知的な脱皮」の夢なのではないかと思う。自分は他者と共に大きな企画を生み出せる一方で、最終的な移動は1人で行う。その孤独は寂しさではなく自由であり、危険は恐怖ではなく生命感へ変換されている。外では複数の専門家を束ね、内では誰にも束ねられずに歩く。その二つが両立し始めたところに、現在の自分の新しい成熟の形が表れているのではないだろうか。フローニンゲン:2026/8/14(金)07:26
19126. 指板という土地を自由に歩くために
今朝、サグレラスの第1巻の前半にある基礎的な練習曲を、楽譜に指定された場所だけではなく、別のポジションへ移して弾いてみることについて考えていた。同じ旋律なのだから、ポジションを変えても音楽そのものは変わらない。しかし実際に試してみると、これは単なる運指変更以上の意味を持っているように思う。むしろ、ギターの指板を「場所の集まり」としてではなく、一つにつながった音の空間として理解するための、とても良い訓練なのではないだろうか。初めて曲を覚えるときには、どうしても「この音はこの弦のこのフレット」という形で記憶してしまう。すると曲と指の動きが強く結びつき、少し場所を変えただけで、知っているはずの旋律が突然知らない曲のように感じられる。これは、音楽そのものを覚えているというより、運指の経路を覚えている状態に近いのかもしれない。パソコンでいえば、文章の意味を理解することよりも、特定のキーを押す順番だけを暗記しているようなものである。そこで、第1巻前半のようにすでに余裕を持って弾ける曲を別のポジションに移すことには大きな価値がありそうである。曲そのものが難しくないため、注意力を新しい左手の配置、弦の選択、音程関係へ向けられるからである。たとえば開放弦で弾いていた音を第5ポジション付近で探してみる。すると同じEやAでも、これまでとは違う場所から現れる。指板の中に点在していた音が少しずつ線で結ばれていき、やがて地下鉄の路線図のようなネットワークが浮かび上がってくるのではないかと思う。さらに面白いのは、同じ音高であっても弦やポジションが変われば音色が変化することである。開放弦の明るい響き、高音弦の透明感、太い弦の上方ポジションで得られる柔らかな響き。同じ旋律が違った表情を見せ始める。ここまで来ると、ポジション変更は単なる指板暗記ではなく、音色を選択する訓練にもなる。将来的に曲を解釈するとき、「弾ける場所」ではなく「どの響きを選びたいか」という理由からポジションを決められるようになるのだろう。そして何より重要なのは、視線と左手の依存関係が少しずつ変化することである。同じ旋律を複数の場所で弾けるようになると、指板に対する身体的な地図が形成されていく。指はフレット番号を一つずつ確認するのではなく、音程の距離やポジション全体の形を感じ始めるはずである。それは、街を歩くたびに地図を確認していた人が、いつしか身体感覚だけで目的地へ向かえるようになる過程に似ている。だからサグレラス第1巻の基礎曲は、終わった教材としてしまうのは大変勿体無い。むしろ技術的に簡単になった今だからこそ、移調ではなく「同じ音を別の場所で弾く」という新しい課題を与えることで、別の教則本として蘇る。同じ一曲の中を何本もの道で歩いてみる。その積み重ねによって、いつの日か指板を見るのではなく、頭の中で鳴った音へ指が自然に向かう感覚が育っていくのではないか。サグレラスの初歩的な曲は、指板という土地を自由に歩くための、小さくも優れた地図になり得るのである。フローニンゲン:2026/8/14(金)11:17
Today’s Letter
Yesterday, I sold more than 1,000 books. For me, it was a sacred ritual of relinquishing my attachment to accumulated knowledge. Afterward, I felt intellectually liberated, as if a weight had been lifted from my mind, allowing me to think beyond established frameworks and to think more deeply and freely. Groningen, 8/14/2026



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