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【フローニンゲンからの便り】19114-19117:2026年8月12日(水)

  • 8月14日
  • 読了時間: 10分


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タイトル一覧

19114

サグレラスの教則本と数学の学習段階の対比

19115

今朝方の夢

19116

今朝方の夢の振り返り

19117

サグレラスの教則本の先取り学習

19114. サグレラスの教則本と数学の学習段階の対比 

                                 

昨日、サグレラスの教則本1巻から6巻までの流れを、数学の学習段階に重ねて考えてみた。こうして並べてみると、サグレラスは単なる練習曲集ではなく、かなりよく設計された発達的なカリキュラムなのだと改めて感じる。まず、1巻は中学数学に近い。音符を読み、右手と左手を協調させ、基本的な旋律や和音を扱う。数学でいえば、方程式や関数、図形を学びながら、数学という言語そのものに慣れていく段階である。今では比較的滑らかに弾ける曲も増えてきたが、だからといって1巻を卒業済みの過去として扱う必要はないのだと思う。むしろ即興演奏という観点から見れば、最も基本的な音楽語彙が詰まった宝箱である。次に、2巻は高校数学I・Aに相当するように感じる。旋律を浮き立たせたり、伴奏とのバランスを考えたり、ポジション移動やセーハなどを組み合わせたりする必要が出てくる。一つの技術だけを実行するのではなく、複数の要素を同時に処理する。数学で公式を覚えるだけの段階から、それらを組み合わせて問題を解く段階に進むこととよく似ている。3巻は高校数学II・BからIII・Cあたりだろう。トレモロなど、より専門的な技術も登場し、それぞれの技法を独立して鍛える必要が出てくる。ここまで進むと、単なる初心者ではなく、クラシックギターという体系の内部へ本格的に足を踏み入れた感覚が生まれそうである。4巻は大学学部前半、5巻は学部後半、6巻は大学院修士程度と考えると面白い。巻が進むほど、新しい技法を覚えること以上に、すでに身につけた技術を統合する力が求められる。旋律、低音、内声、和声、音色、リズムを同時に扱いながら、曲全体の構造を自分で判断していくのである。これは数学で、公式を当てはめる学習から、対象の構造そのものを理解する学習へ移っていく過程に似ている。そう考えると、6巻を弾けるようになることは「難しい曲が弾ける」というだけではないのだろう。譜面を見て、自分で問題を発見し、自分で解決方法を考え、音楽を組み立てられるようになることなのである。その先のAdvanced Techniqueは、博士課程のように技術をさらに細分化し、専門的に磨いていく領域なのかもしれない。そして今の自分にとって大切なのは、先へ急ぐことだけではない。数学者が高度な数学を学んでも初等的な数式を自在に扱うように、サグレラス1巻や2巻の単純な旋律や和声を何度も味わい直すことには大きな意味がある。そこから旋律を変え、和音を変え、続きを即興してみる。そうすれば、教則本で学んだものが少しずつ自分自身の音楽語彙へ変わっていくはずである。サグレラスを1巻から6巻まで進むことは、教科書を順番に終わらせることではなく、音楽という一つの学問を基礎から専門研究へ向かって深めていく旅なのだと思う。フローニンゲン:2026/8/12(水)05:55


19115. 今朝方の夢

        

今朝方は夢の中で、ひょんなことから小中高時代のある親友(NK)と一緒にシロシビン・ドリンクを作っていた。その原材料は、もちろんシロシビン・マッシュルームだった。シロシビン・ドリンクを作ることに関して、私は豊富な知識と経験があり、彼にその方法を教えながら作っていた。シロシビンが含まれるマッシュルームは、地球上に実に様々に存在するが、自分は特に含有量の多いものを好んでいて、含有量の上位の品種を数種ほど混ぜてドリンクを作ることにした。どういうわけか、そのドリンクを作るためにシロシビン・マッシュルームを煮ている鍋にたくさんの野菜も入っていて、ある程度煮たらマッシュルームと野菜を分け、野菜は後ほど食べることにした。気がつくと、見慣れない和食専門店の前にいた。そこは店に席がなく、持ち帰りのみのメニューを提供していた。私はそこで、新鮮そうなマグロと納豆を注文し、それらを混ぜた丼を食べようと思った。自宅に戻れば、先ほど煮ていた野菜もあるので、それで良いバランスが取れるだろうと思った。


次に覚えているのは、見慣れない広く大きな建物の一階で、腕立て伏せのトレーニングをしている場面である。どういうわけか、小中高時代のある友人(HY)が自分の腕立て伏せに関して指導をしてくれていた。最初、随分と狭い腕の間隔で意図的に腕立て伏せを行っていたところ、彼からはもっとワイドに腕立て伏せをすることを勧められた。間隔を狭くすることによって鍛えられる部位もあるし、広くすることによって鍛えられる部位もあるので、それら両方を試すことは理にかなっているように思えた。彼の助言に従ってワイドで行ってみた後に、自分の大胸筋が確実に進化していることを実感した。気がつくと、水が入っていない大きなバスタブの中にいて、そこでバスタブ掃除をしていた。大学時代のサークルのある友人(KF)もそこにいて、彼が壁の横断幕に油性ペンでサインと言いながら落書きをしたらしく、それを消すことになった。油性ペンの性質を逆手に取り、その油を浮かび上がらせる液体を使えれば綺麗になりそうだと思った。他にも数人ほど掃除に従事している友人がいたが、自分が一番真面目に、そして没頭した形で掃除に取り組んでいた。フローニンゲン:2026/8/12(水)06:08


19116. 今朝方の夢の振り返り 

                         

今朝方の夢は、自分の内側で進んでいる「意識の変容」と「身体の再編」、そしてその過程で生じた余分なものを洗い流す作業が、一つの長い錬金術として描かれていたのではないかと思われる。夢全体を貫いているのは、何かを強く取り込み、それを適切に配合し、最後には不要な痕跡を除去するという流れである。まるで自分という器の中で、古い素材を溶かし、新しい自分を精製する実験が行われているかのようである。冒頭のシロシビン・ドリンクは、文字通りの薬物というより、通常の認識枠組みを越えて世界を見る力の象徴ではないかと思う。しかも自分は初心者ではなく、NKに作り方を教える側にいる。これは、自分がこれまで蓄積してきた哲学的・精神的探究が、単に学ぶ段階から、他者に伝えられるほど体系化されつつあることを示しているのかもしれない。含有量の多い複数種を混ぜるという場面も興味深い。一つの思想だけに依存するのではなく、複数の強力な知的資源を統合し、より深い変容を引き起こそうとする現在の自分の姿勢が投影されているように見える。しかし鍋には野菜まで入っている。ここには重要な補正があるように思う。意識を高く遠くへ飛ばすものだけではなく、身体を養う素朴な食物も同じ鍋で煮られているのである。続くマグロと納豆も同様であり、夢は精神的探究だけでなく、身体という地面への着地を求めているのかもしれない。しかも野菜と合わせればバランスが良いと自分自身が判断している。深い思想、日常的な栄養、身体感覚という異なる領域を、一つの生活の中で統合しようとしている姿がここにあるように思われる。その統合は、次の腕立て伏せでさらに身体化される。狭いフォームからワイドなフォームへ移行することは、自分がこれまで一つのやり方に集中して鍛えてきた段階から、異なる角度を取り入れる段階へ移っていることを象徴しているのではないか。HYは外部の指導者というより、自分の中にある「別のやり方を試してみよ」という補完的知性の代理人であるように見える。大胸筋の進化を実感する場面は、精神的な理解だけでなく、それを受け止める器そのものが強くなっている感覚なのだろう。一本の道を深く掘るだけでなく、肩幅ほどに視野を広げたことで、新しい力が目覚め始めているのである。最後の空のバスタブと掃除は、この夢の結論に近い。バスタブとは本来、水に浸かり、汚れを落とす場所である。しかしそこには水がない。つまり今必要なのは、流されることではなく、自分の手で意識的に汚れを落とす作業なのかもしれない。KFが残した油性ペンの落書きは、過去の人間関係や過去の自分が残した「消えにくい痕跡」の象徴とも考えられる。しかも自分は力ずくで擦るのではなく、油の性質を理解して、それを浮かせる方法を考えている。これは実に象徴的である。過去を否定して消すのではなく、その成り立ちを理解することで自然に手放そうとしているのである。そして誰よりも没頭して掃除している自分の姿には、現在の移行期の核心が表れているように思う。新しい土地、新しい研究、新しい生活へ向かう前に、自分の内側に残された古い書き込みを一つずつ消しているのである。この夢は、意識を拡張する「錬金術師」、身体を鍛える「修練者」、過去を清める「掃除人」という三つの自分を連続して登場させている。その三者が統合されたとき、自分は単に新しい場所へ移るのではなく、これまでとは異なる密度を持った存在として次の章へ入っていくのではないかと思われる。フローニンゲン:2026/8/12(水)07:03


19117. サグレラスの教則本の先取り学習 

 

サグレラスの教則本を数学の学習段階に対応させて考えたことから、先取り学習について少し考えてみた。1巻を中学数学、2巻を高校数学I・A、3巻を高校数学II・BからIII・C、4巻以降を大学数学にたとえるなら、必ずしも一つの巻を完全に仕上げてから次へ進む必要はないのではないかと思う。むしろ、少し先の世界を覗いておくことには大きな意味がある。たとえば1巻を練習している段階で2巻や3巻の曲に触れてみれば、今練習している技術が将来どのように使われるのかが見えてくる。数学でも、中学数学を勉強しながら高校の二次関数や微分の考え方を少し知ると、現在学んでいる方程式や関数が単独の知識ではなく、さらに大きな体系への入口であることが分かる。それと同じように、サグレラスでも先の巻を見ることで、現在の練習に方向感覚が生まれるのだろう。先取り学習には、未来から現在を照らす灯台のような働きがあるのだと思う。セーハ、ポジション移動、声部の弾き分けなども、それだけを練習していると単なる技術課題に感じられる。しかし上級の曲の中でそれらが音楽として使われている姿を見れば、なぜ今これを練習しているのかが理解できる。目的地を一度見ておくことで、目の前の坂道を登る意味が分かるのである。ただし、先取りには注意も必要だと思う。未来を覗くことと、現在の基礎を飛ばすことは全く違う。難しい曲をなんとか最後まで弾くことだけに意識が向くと、音色、リズム、脱力、旋律と伴奏のバランスといった基礎が粗くなりやすい。数学で微積分の公式だけを先に覚えても、代数計算や関数の理解が弱ければ、後になって必ず壁にぶつかるのと同じである。だから、自分に合っているのは「縦に進みながら横に戻る」学習なのだと思う。基本的には今の巻を丁寧に弾き込みながら、ときどき次の巻へ探検に出る。そして難しさに出会ったら、現在の巻へ戻って、その難しさを支えている基礎をもう一度磨く。先取りした曲が、逆に基礎練習の意味を教えてくれるのである。さらに即興演奏を目標にするなら、この往復は特に重要だろう。先の巻で複雑な旋律や和声を知り、初期の巻に戻って単純な形の中からその原型を探してみる。そうすれば教則本は一本道ではなくなる。1巻から6巻までが互いに照らし合う一つの地図になるのである。先取り学習とは、早く上級者になるための競争ではないのだと思う。少し先の景色を見ることで、今いる場所の意味を深く理解するための方法なのである。遠くまで見渡しながら、足元の一歩を丁寧に踏む。その二つを同時に続けることが、結局はいちばん確実に遠くまで進む方法なのかもしれない。フローニンゲン:2026/8/12(水)07:50


Today’s Letter 

I envision my new life in Edinburgh as bright and meaningful. It will enrich the quality of my life and deepen my academic work. I hope the new environment will bring me wonderful, unexpected encounters with people, ideas, and experiences. Groningen, 8/12/2026 

 
 
 

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