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【フローニンゲンからの便り】19110-19113:2026年8月11日(火)

  • 8月13日
  • 読了時間: 10分


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タイトル一覧

19110

音楽の背後にある論理に耳を澄ませること

19111

今朝方の夢

19112

今朝方の夢の振り返り

19113

即興演奏のためのサグレラスの教則本

19110. 音楽の背後にある論理に耳を澄ませること

                                     

昨日、ブランダン・エイカー氏の音楽に関する文章を読んでいて、演奏というものをどこまで「理解している」と言えるのかについて考えさせられた。楽器を学んでいると、まずは楽譜に書かれたものを正確に再現することに意識が向く。音を間違えないこと、適切な運指を選ぶこと、リズムを整えること、フレーズを自然につなぐこと。どれも欠かすことのできない基礎であり、ここを飛ばして音楽的な自由だけを求めても、結局は足場のない建物を建てるようなものなのだと思う。しかしエイカー氏が強調しているのは、その先にもう一段階の理解があるということだった。それは「何が書かれているか」だけではなく、「なぜこのように書かれているのか」を聴き取ることである。たとえば一つの旋律を見ても、音符はただ横に並んでいるわけではない。隣り合う音へ滑らかに進む部分があり、ときには小さな跳躍によって和音の構成音が浮かび上がる。同じ旋律音であっても、その下で鳴っている低音や和声が変われば、その音の意味まで変化する。ある音は不協和によって緊張を生み、その次の音がそれを解放する。短調の世界から近親調の長調へ進み、しばらく光が差し込んだあと、再び元の場所へ帰ってくることもある。こうして考えると、楽曲とは完成された石像のようなものではなく、むしろ作曲家の思考が時間の中を歩いていった足跡なのだと思う。楽譜を読むとは、その足跡を一つずつ辿りながら、どこで方向を変え、どこで立ち止まり、なぜそこへ向かったのかを推測することなのかもしれない。エイカー氏が語る言語との比較も非常に分かりやすかった。外国語を学び始めた頃は、文章をそのまま覚えて繰り返す。しかし文法が分かってくると、なぜその語順なのか、なぜその表現なのかが見えるようになる。さらに進めば、同じ原理を使って自分で新しい文章を作ることができる。音楽も同じなのだろう。曲の背後にある文法が見えてくれば、単なる模倣から理解へ、そして理解から創造へと進んでいくことができる。これは演奏表現にも直接つながると思う。ある音を強調する理由が「先生にそう言われたから」ではなく、その音が緊張を生み、次の音へ向かおうとしているからだと分かれば、表現には必然性が生まれる。フレーズの頂点や終着点も、感覚だけでなく構造として捉えられるようになるはずだ。エイカー氏の文章から改めて感じたのは、音楽を学ぶとは正しい音を出せるようになることだけではないということである。楽譜の表面をなぞるだけでなく、その下を流れている論理に耳を澄ませる必要がある。「何を弾けばよいのか」という問いの先に、「なぜこれが音楽として機能するのか」という問いがある。そして、この「なぜ」を持ち続けることこそ、演奏者を単なる再現者から、音楽の思考を追体験する人へ変えていくのだと思った。フローニンゲン:2026/8/11(火)05:58


19111. 今朝方の夢

                        

今朝方は夢の中で、欧州の国々を走る列車の中の席に座っていた。そこで私は、前の席に座っている小中学校時代のある友人(YK)と話をしていた。彼と顔を合わせながらの会話ではなく、彼は前を向いたまま後ろから聞こえてくる私の声に耳を傾けていた。しばらくすると、彼もまた自分と同じように英国留学をしたいと思っているらしく、実際に彼はすでに英国で2つの修士号を取得しているようだった。さらにもう一つ修士号を取得するか、それとも博士課程に進学するかを迷っているとのことだった。彼であれば十分に博士課程に進学できると思ったし、以前と同じく自らのビジネスを行うことも十分に可能だと思った。


次に覚えているのは、ドラゴンクエストの最新版のゲームの世界に入り込んでいる場面である。最初私は、ゲーム屋で最新版のソフトを見つけ、その横にある攻略本と共に眺めていると、不思議とそのゲームの世界の中にいた。野山を駆け巡っていると、ある河口に辿り着いた。その河口はさほど流れは早くないが、落ちたらどうなるかわからず注意していると、なんと自分の母と介護の女性が共に河口に落ちてしまった。最初に母が落ち、母を救いに介護の女性が飛び込んだ形なのだが、それを見て私は2人を助けに自分も飛び込もうと思ったら、自らの命の危険を察知し、一旦様子を見ることにした。もしかしたら河口は浅く、すぐに2人が浮上してくるかもしれないと思ったのである。すると、少し遠くの方の岸辺に2人が上がっていったのを見て一安心した。それも束の間、河口の下から海面に大勢の若い男性たちが浮上し始め、次々と陸に上がり始めたのである。彼らは全員無事のようだが、河口は無数の人でごった返しており、それに巻き込まれて溺れる危険性があったので、細心の注意を払ってその場を後にしようと思った。


最後に覚えているのは、見慣れない駐車場に停まっている車の中にいた場面である。運転席には小中高時代のある友人(TK)がいて、今からどこかに向かって出発するようだった。そういえば先ほど、お土産を買うことを強制してくる売店の外国人の男性がいて、彼が車の方にやって来るのがミラー越しに見えたので、運転席の友人に早く車を出してもらうことにした。駐車場を出発したところで、彼が突然、最近地元の山間で若者による拳銃を用いた殺人事件が多発していると聞いた。地元の治安の悪化を憂いながら、日本で拳銃が容易に手に入るようになってしまった背景について考えを巡らせていると夢から覚めた。フローニンゲン:2026/8/11(火)06:12


19112. 今朝方の夢の振り返り

                                    

欧州を走る列車から始まる今朝方の夢は、自分の人生そのものがすでに大きな移動過程に入り、ひとつの土地や役割に根を張る段階から、複数の世界を横断しながら自らの道を形成する段階へ移行していることを示しているのかもしれない。列車は自分で操縦する乗り物ではない。決められた線路を走りながらも、その先には多くの駅が存在する。その姿は、人生には一定の制度的な軌道がありながら、どこで降り、どこまで進むかは自分に委ねられているという現在の感覚を映しているようである。前席のYKが英国で複数の修士号を取得し、さらに修士か博士かを迷っているという設定も興味深い。彼は実在の友人であると同時に、自分自身のある可能性を映す「先行する分身」のような存在なのではないか。しかも互いに顔を見ながら話していない。自分は彼の背後から語りかけている。この構図には、過去の仲間を通して未来の自分を眺めているという時間的なねじれがある。彼に対して「博士課程に進める」「ビジネスもできる」と感じている言葉は、そのまま自分自身に向けられた内的な承認でもあるのかもしれない。そこから突然ドラゴンクエストの世界へ入る展開は、人生が「進路を考える場所」から「実際に冒険する場所」へ切り替わったことを示しているように見える。攻略本を眺めていた自分が、いつの間にかゲーム世界に入っている点が重要である。地図や理論を読む時期から、未知の世界そのものを歩く時期への移行である。攻略本は知識である。しかし現実の冒険では、攻略本に書かれていない出来事が次々に起こる。河口は、とりわけ強い象徴であろう。川は過去から流れてきた時間であり、海はまだ形の定まらない未来である。その境界に母が落ちる。自分は即座に飛び込まず、一度状況を観察する。この判断は冷淡さではなく、むしろ「救うこと」と「巻き込まれること」を区別する力が育ってきたことを示しているのかもしれない。かつてなら感情に押されて飛び込んでいた場面で、自分は流れの深さを測っている。これは人生の河口に立つ航海者が、愛情を失わずに距離を獲得している姿にも見える。さらに水中から大量の若者が浮上してくる場面は、無意識の深層から膨大な生命力や可能性が一斉に現れている象徴とも考えられる。ただし可能性は多ければ良いわけではない。群衆は力であると同時に、自分を呑み込む濁流にもなる。ここで再び自分は「巻き込まれないこと」を選んでいる。今回の夢には一貫して、何かを救うこと、参加すること、関与することと、自らの生命線を守ることとの境界が描かれているのである。最後の車は、列車とは対照的である。今度は決められた線路がない。しかも運転するTKは昔からの友人である。幼少期から続く自己の基盤を伴いながら、新しい道へ走り出そうとしているのかもしれない。強制的に土産を買わせようとする人物から離れる場面も、過去の義務や他者から押し付けられる価値を置き去りにする動きとして読める。しかし、その先で拳銃事件の話が現れる。拳銃とは、小さな道具によって突然生命を奪える「凝縮された暴力」である。それが故郷の山間にまで浸透しているという設定は、これまで安全だと思っていた世界も永遠には安全ではないという認識を表しているのかもしれない。今回の夢全体は、故郷、家族、友人、欧州、英国、未知の冒険を一本の長い橋で結んでいる。その橋を渡る自分に求められているのは、恐れず飛び込む勇気だけではない。流れを読み、危険を見極め、必要なら距離を取り、それでも前進する知性なのであろう。今の自分は、人生というゲームの攻略本を閉じ、いよいよ自分自身の地図を書き始めているのかもしれない。フローニンゲン:2026/8/11(火)07:04


19113. 即興演奏のためのサグレラスの教則本

                             

最近、サグレラスの教則本を練習するときの意識が少し変わってきた。ただ楽譜どおりに正確に弾けるようになることだけを目標にするのではなく、その曲の中に埋め込まれている「音楽の作り方」を身体に染み込ませたいと思うようになった。最終的には、そこで学んだ語彙を即興演奏の中で自由に使えるようになりたい。そのためには、一曲を完成品として眺めるだけでは足りないのだろう。サグレラスが、なぜここでこの音を置き、なぜこの和音へ進み、なぜこの場所で旋律を上昇させたのかを感じながら弾く必要がある。文章を読むとき、単語だけでなく文法や語順を知らず知らず学んでいるのと同じである。教則曲もまた、音楽という言語で書かれた短い文章なのである。特に注意したいのは旋律の輪郭である。一音一音を覚えるのではなく、どこから出発し、どこへ向かい、どこで緊張が高まり、どこで着地するのかを感じたい。上行するのか、下降するのか。同じ音の周囲を揺れ動くのか。大きく跳躍した後に順次進行で戻ってくるのか。こうした輪郭をつかめば、即興するときにも「この音の次は何の音か」ではなく、「ここからどのような形の旋律を描くか」と考えられるようになるはずである。ハーモニーについても同様である。コード名を判定するだけではなく、和声によって生まれる重力を耳で覚えたい。安定している場所、少し外へ出ていく場所、緊張が高まる場所、そして帰ってくる場所。それらを身体感覚としてつかめれば、即興演奏でも和音を理論から選ぶのではなく、「そろそろ帰りたい」「ここではもう少し宙吊りにしておきたい」という感覚から音を選べるようになるだろう。和声とは地図である以上に、音楽空間に働く重力場なのだ。さらに、一つの短いフレーズを弾いた後、その楽譜から少し離れて遊んでみたい。同じリズムのまま音程を変える。同じ旋律を別のポジションで弾く。最後の二小節だけ自分で続きを作る。伴奏型を残して旋律だけ変える。逆に旋律を残して低音を変える。こうした小さな変奏を加えることで、模倣と創造の間に橋を架けることができるだろう。そして何より重要なのは、サグレラスを「暗記する」のではなく「内面化する」ことなのだと思う。何度も弾いているうちに、ある旋律の動きや和音の響きが、意識しなくても指から現れるようになる。その段階まで来れば、それはもうサグレラスから借りてきた言葉ではなく、自分の音楽語彙の一部になっている。即興とは、完全な無から音楽を生み出す行為ではないのだろう。これまで耳にし、弾き、身体に沈めてきた無数の音楽的経験が、その瞬間に新しい組み合わせを作る営みである。だとすれば、サグレラスを弾き込む時間そのものが即興の準備なのである。一曲一曲を練習曲として消費するのではなく、旋律、和声、リズム、声部の動きという種子を拾い集めていく。それらが十分に自分の中へ沈殿したとき、いつの日か楽譜を閉じても、サグレラスから受け取った音楽の感覚が、自分自身の新しい旋律として自然に芽を出すのではないかと思う。フローニンゲン:2026/8/11(火)07:39


Today’s Letter 

My mind is always concerned with world peace. My first name itself signifies its realization. I need to constantly ask myself whether everything I do contributes to cosmic peace. Groningen, 8/11/2026

 
 
 

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