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【フローニンゲンからの便り】19027-19029:2026年7月19日(日)

  • 7月21日
  • 読了時間: 8分


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タイトル一覧

19027

今朝方の夢

19028

今朝方の夢の振り返り

19029

音に性格を与える演奏へ

19027. 今朝方の夢

           

今朝方は夢の中で、オランダのプロサッカーチームFCズヴォレに入団することになった。夢の中の自分は元々はプロサッカー選手ではなく、学者としての仕事に従事していた。しかし、日々のトレーニングを継続しており、ひょんなことからFCズヴォレのスカウトの目にとまり、チームに加入することになった。日本人の若いスタッフが契約内容について説明してくれ、練習場に通うための車を支給してくれるとのことだった。しかし、私は車を運転することは好きではなく、そもそも日本の免許が失効しているということを伝えると、チームの若手に迎えに来てもらうように手配すると述べてくれた。驚いたことに、その若手の選手は、かつての進学塾の教え子だった。彼はサッカーではなくテニスに熱中していたはずであり、どのタイミングで競技を切り替えたのだろうかと考えた。いずれにせよ、彼ともまた時を超えて再会できることをとても楽しみに思った。


次に覚えているのは、大勢の観客がいる体育館で、中学校時代のバスケ部の一学年上の先輩たちと紅白戦をしている場面である。いつもは先輩たちに負けていたが、今回は応援の力もあってか、なんと先輩たちに圧勝することができた。特に自分のプレーの調子がとても良く、普段以上の力を発揮することができ、先輩たちを圧倒していた。誰にも止められないプレーにえも言わぬ心地よさを感じており、今後もこうした気持ちを味わいたいと思った。


もう一つ覚えているのは、大学時代の2人の友人(KF & TY)と一緒に謎解きをしていた場面である。3人で知恵を持ち寄りながら、少しずつ謎が解明されていくことに喜びを覚えていると、気づけば私だけが豪華なリゾート地にいた。そこはリトリートの地として有名で、ちょうど自分もしばらく後にリトリートの参加の予約をしていた所だった。夕暮れ時の美しい赤紫色の空を眺めていると、小中高時代のある友人(HY)がやって来て、一緒に観光案内所に行った。そこには自分が参加予定のリトリートの写真が告知広告と一緒に掲載されていた。すると彼は、その写真に釘付けとなり、我を忘れてずっとそれを眺めていた。自分がそのリトリートに参加することをあえて彼に伝えず、彼が自発的にリトリートに参加することを待つことにした。彼の目を見ていると、きっとそのリトリートに参加するであろうという確かな予感があった。フローニンゲン:2026/7/19(日)08:04


19028. 今朝方の夢の振り返り

                

今朝方の夢は、自分の中で長く別々に育ってきた知性、身体性、対人関係、精神的探究が、いよいよ一つの舞台へ集まり始めたことを示しているのかもしれない。夢全体には、過去の自分が未来の自分を迎えに来るような構造があるように見える。FCズヴォレへの入団は、学者としての自己像を失うことではなく、それだけでは表現しきれない生命力が、新たな職能として招集されたことを象徴していると思われる。スカウトとは、自分自身もまだ十分に評価していない能力を発見する内なる眼であろう。日々のトレーニングが偶然の契機によって職業へ変わる展開は、地中で伸びていた根が、ある朝突然、地表に芽を出す姿に似ている。学問、音楽、身体訓練、瞑想など、直接には結びつかないように見える営みが、ある時点で一つの才能として認識される可能性を夢が予告しているのかもしれない。車を支給されながら運転を望まず、若手選手に迎えを頼む場面は、自分が今後の移行を単独で制御する必要はないという示唆であろう。車は意志による自己操縦の象徴だが、その運転を手放すことで、かつての教え子が案内役として現れる。これは、過去に自分が他者へ与えた教育や影響が、時間を巡って自分を次の場所へ運ぶ乗り物になることを意味しているように思われる。しかも彼はテニスからサッカーへ競技を変えている。一本道に見えた人生も、実際には地下水脈のように別の場所へ流れ込みうるということだろう。自分自身の転身もまた、不自然な逸脱ではなく、生命の方向転換として肯定されているのかもしれない。中学時代の先輩との紅白戦では、過去に超えられなかった序列が反転している。先輩は、年齢や経験によって自分の上位に置かれていた権威の象徴であろう。大勢の観客の応援を受けて圧勝することは、他者から見られることが重圧ではなく、力を増幅する共鳴箱へ変わったことを示しているように思われる。誰にも止められない感覚は、誇大な万能感というより、長く抑えられていた身体的自信が解放された瞬間ではないか。自分は今後、静かな研究室だけでなく、人前で実力を発揮する競技場へも進みたいと感じ始めているのだろう。友人たちとの謎解きは、人生の意味が孤独な思索だけでなく、対話によって解かれていくことを象徴していると思われる。しかし途中から自分だけがリゾート地へ移るのは、共同探究の先に、誰にも代わってもらえない内的変容の領域があることを示しているのだろう。夕暮れの赤紫色の空は、一つの時代が終わり、まだ名づけられない次の時代が始まる境界の色であろう。リトリートの広告を見つめるHYに参加を勧めず、沈黙して待つ態度には、他者の成長を操作しない成熟が表れている。自分はもはや答えを教える教師ではなく、扉の存在だけを静かに示す者へ変わりつつあるのかもしれない。この夢は、学者、選手、教師、友人、探究者という複数の自己が、ばらばらな仮面ではなく、一人の存在を演奏する異なる楽器であることを告げているように思われる。自分の次の段階では、知性が身体を導き、身体が知性を目覚めさせ、過去の縁が未来への送迎車となるのであろう。フローニンゲン:2026/7/19(日)08:19


19029. 音に性格を与える演奏へ 

                 

先ほど、ブランダン・エイカー氏の言葉を読みながら、ギターという楽器の小ささの中に、どれほど大きな世界が折り畳まれているのかを考えた。アンドレス・セゴビアが、ギターを双眼鏡の反対側から眺めたオーケストラに喩えたという話は、ただ美しいだけの比喩ではない。遠く小さく見えるものの内部に、実際には多彩な響きと役割が潜んでいるという意味で、ギターの本質をよく表している。特に心に残ったのは、同じ音でも弾き方によってまったく異なる感情を帯びるという指摘である。音程が変わるわけではない。それでも、指の当て方、弾く位置、力の配分、余韻の残し方によって、音は温かくも、明るくも、遠くも、親密にもなる。つまり、音符は骨格にすぎず、その周囲にどのような呼吸や陰影を与えるかによって、音楽の顔つきが決まるのである。これまで練習というと、正しい音を外さずに弾くことや、速く滑らかに指を動かすことに意識が向きやすかった。しかし、それだけでは文章を一字も間違えずに読んでいるだけで、その文章が何を訴えているのかまでは伝わらない。音楽も同じであり、何を弾くかを覚えた後には、どのように響かせるかという問いが現れるのである。そこから先に、演奏者自身の感性が試されるのだと思う。エイカー氏が勧める、よく知っている短いフレーズを音程は変えずに何通りも弾いてみる練習は、とても本質的である。柔らかく歌わせる場合、輪郭を鋭くする場合、少し遠くから聞こえるようにする場合では、同じ並びの音でも意味が変わるはずである。これは、同じ言葉でも声色によって励ましにも皮肉にもなることと似ている。音そのものより、その音にどのような態度で触れるかが、聴き手の受け取る物語を変えるのである。この助言は、技術を否定しているのではなく、技術の先にある自由を示しているのだろう。基礎がなければ音色を選ぶ余裕は生まれないが、基礎だけに留まれば演奏は標本のように整っていても呼吸を失う。正確さは地図であり、表現は実際にその土地を歩くことなのである。どこで立ち止まり、どこで歩幅を変え、どの景色を長く眺めるかによって、同じ道でも旅の意味は変わってくる。エイカー氏の助言からの学びは、表現力とは新しい音を増やすことではなく、すでに知っている音の中にまだ見えていない色を発見することなのだという点にある。ギターは最初から多くの色を持っている。しかし、演奏者が正解だけを急いで探していると、その色は景色の中に埋もれてしまう。必要なのは特別な才能よりも、響きの違いに立ち止まり、耳を澄ませる習慣なのであろう。また、この考え方は日常の行動にも通じるように感じた。同じ挨拶、同じ説明、同じ仕事であっても、どのような気持ちと注意を添えるかによって、相手に届く意味は変わる。内容が同じだから結果も同じだと思い込むのは、音符だけを見て音楽を理解したつもりになることに似ている。細部に宿る温度こそが、形式を生きたものに変えるのである。これからは練習のたびに、正しく弾けたかだけで終わらず、この音は何色だったか、このフレーズはどの距離から語りかけていたかと問い直したい。音符を並べるだけの演奏から、音に性格を与える演奏へ移ること。その小さな意識の変化が、双眼鏡の向こうに縮んでいたオーケストラを、少しずつ手元に呼び戻してくれるのだと思った。フローニンゲン:2026/7/19(日)10:28


Today’s Letter 

Each note should be played with its own unique character. I should avoid playing the classical guitar in a flat or monotonous way. Every sound has its own distinctive flavor, color, and expressive meaning. Groningen, 7/19/2026

 
 
 

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