【フローニンゲンからの便り】19019-19022:2026年7月17日(金)
- 7月19日
- 読了時間: 9分

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タイトル一覧
19019 | 早朝の備忘録 |
19020 | 今朝方の夢 |
19021 | 今朝方の夢の振り返り |
19022 | 躓く箇所に焦点を当てて練習すること |
19019. 早朝の備忘録
今日もまた新たな一日がやって来た。早朝は少し霧がかかっていたが、すでにほのかに朝日が輝いていた。そんな中、いつものように起床直後に外に出て、HIITを行った。スクワットジャンプも随分と慣れてきたが、今のところ15回を2セット行うのがちょうど良いぐらいだ。大抵いつも8種目から9種目を行う。その中の2つがスクワットジャンプで、今日はいつも行っているその場でのランニングを実際に前後に動いてみることにした。こちらの方が心拍数がより上がるし、実践的であるように思える。後ろに向かってダッシュすることはおそらく前方に向けてのダッシュとは違う筋肉が活性化されているはずなので、その効能を後程調べておこうと思う。
今日は午後にクラシックギターの弦を交換する。前回は第六弦の交換の際に、弦を貼りすぎてしまい、それによって切れてしまったので、今回はそれに注意する。前回とは違うメーカーの弦を試すことによって、指が弦に触れる感触の違いや音色の違いを味わいたい。今の自分には、日本文化で育ったことを通じて醸成された和的な感性とそれを体現した固有の美が宿っているように思う。それを音楽の形にしていきたい。日記も即興演奏の一つ一つの曲も簡潔ながらにして、自分の固有性をくまなく体現するものにしていく。簡素ながらそこに確かな美しさがあること。それは日本的な美の一つの在り方であるように思える。豪華絢爛ではなく、簡素絢爛を実現させるべく、今日もまた学習と実践を愚直に行っていこう。
書籍の断捨離のおかげで、エディンバラに持っていく学術書は150冊ほどに収まりそうである。今後は、研ぎ澄まされた、極度に深められた思想にしか触れないようにする。二流の仏教学者が解説したものではなく、当代随一の仏教者自身の思想書に触れるようにする。それは仏教研究のみに当てはまるのではなく、他の学問分野に関しても当てはまる。今後購入する書籍は全て、第一線級の研究者が執筆したものだけにする。そうではない研究者の書籍は購入に値しない。そうした思いを強く持つ。フローニンゲン:2026/7/17(金)07:36
19020. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、VRの世界にいた。そこには本物そっくりの女性がいて、それがデジタルビーイングであることを識別するのは難しかった。VR世界の外にいる友人とテレパシー的にコミュニケーションをして、その女性の姿や服を変えることができた。最初は欧米人の女性だったが、次に現れたのは日本人の風貌をしていた。ただし容姿が日本人女性に変わった瞬間に、その女性が本物の人間ではないことが如実に感じられた。言葉での説明は難しいが、確かな違和感がそこにあったのである。
次に覚えているのは、小中学校時代を過ごした社宅の両親の寝室にいた場面である。そこで私は、著名なある日本人の社会学者の先生と話をしていた。その方は手にメモ帳を持っており、メモを見ると、びっしりと何かを書き留めていた。その点について尋ねると、何やら明日、知人の裁判があり、証人として法廷に立つ必要があり、その際に証言する内容を整理しているとのことだった。裁判が知人にとって有利になるように、その方は全力を尽くしているようだった。すると、父が随分と酔っ払って夜遅くに帰ってきて、私に声を掛けた。その声が大きかったので母が目覚め、寝ぼけた状態で自分に声を掛け来た。父は別に私に怒鳴って来たのではなく、むしろご機嫌で楽しそうに声を掛けて来たのだが、母は父の声の大きさから自分が怒られたのだと思い込んだらしく、慰めの優しい言葉を掛けてくれた。その後、母はトイレに行き、父もトイレに行きたかったらしく、トイレの前で父は待っていた。私はその間に自分の部屋に移動して、今度はそちらで寝ることにした。机の上をベッドに見立て羽毛の掛け布団をかけて寝ようとした。父は廊下をうろうろと歩いており、自分の部屋の前を通った。部屋の扉は開けたままで、父はこちらを見たが、まさか自分がそこに寝ているとは思ってもいなかったようで、何も言わずに通り過ぎていった。
もう一つ覚えているのは、これまで4年間ジムでお世話になっていたパーソナルトレーナーのエリーザと話をしていた場面である。彼女は私がフローニンゲンを離れることを寂しがっていたが、新天地での活躍を同時に応援してくれてもいた。直接会って話をしたのは久しぶりだったので、話に花が咲いた。フローニンゲンを出発する前に、もう一度彼女の指導のもと、パーソナルトレーニングを受けるのもありかもしれないと考えた。フローニンゲン:2026/7/17(金)07:58
19021. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分が現実と表象、記憶と移行、身体と別れのあいだに立っていることを示しているのかもしれない。最初のVR世界は、これから自分が足を踏み入れる新しい生活環境そのものの比喩であるように思われる。そこでは、目の前の存在が本物か生成物かを見分けることが難しく、外見は自在に書き換えられる。友人とのテレパシー的な通信は、自分の判断が完全に孤立しているのではなく、現実の外側にいる他者の視点や助言によって調整されていることを表しているのだろう。欧米人の姿では自然に見えた女性が、日本人の姿に変わった瞬間に人工性を露呈した点は興味深い。遠い文化の仮面は違和感を覆い隠せても、親しい文化の顔になると微細なずれが見えてしまう。自分の感覚は、粗い地図では欺かれても、故郷の路地では小石一つの位置まで覚えている羅針盤のようなものなのかもしれない。次の社宅の両親の寝室は、自分の人格が形成された古い地層へ戻る場面であるように見える。そこで社会学者が裁判の証言を準備していたことは、現在の自分が過去を証拠として整理し、自分の人生の正当性を内なる法廷で説明しようとしている可能性を示している。びっしり書かれたメモは、これまで蓄積してきた研究、経験、記憶が、今後の進路を支える証言録になっているのだろう。知人を有利にするため全力を尽くす姿は、自分の中の知的機能が、感情や家族史を裁くのではなく、救済する弁護人として働いていることを暗示しているように思われる。酔って上機嫌な父の大声を、母が怒声と誤認した場面は、同じ刺激が人によって全く異なる意味を帯びることを示しているのかもしれない。父の声は単なる音であっても、母の内部では危険信号へと変換される。ここには、現実とは出来事そのものではなく、それを受け取る心の解釈によって形を変えるという夢全体の主題が反復されている。VRの女性も、父の声も、表面だけでは真偽や意図が確定しないのである。自分が机をベッドに見立てて眠ろうとした場面は、学ぶ場所と休む場所を一つに重ねようとする現在の生き方を象徴しているように思われる。机は知性の祭壇であり、そこに羽毛布団を掛ける行為は、思考の上に身体を休ませようとする試みである。しかし父は、自分がそこにいるとは想像せず通り過ぎた。これは、自分が家族にとって既知の場所にいながら、すでに未知の存在へ変わりつつあることを示すのかもしれない。開いた扉の向こうにいるのに見つからない自分は、古い家から静かに離脱し始めた影のようである。最後に現れたエリーザは、身体を通じて築かれたフローニンゲンとの結びつきを代表しているのだろう。彼女の寂しさと応援が同時に存在したことは、別れが喪失だけではなく、送り出す力でもあることを示している。最後にもう一度トレーニングを受ける発想は、旅立ちの前に身体へ区切りを刻みたいという願いかもしれない。4年間鍛えた身体は、土地を離れても持ち運べる唯一の家である。人生における意味とは、外見や場所が変わっても、自分の感覚、記憶、身体という内的な証人を携えながら、現実の真偽を見極め、新しい世界へ移っていくことなのだろう。フローニンゲン:2026/7/17(金)08:15
19022. 躓く箇所に焦点を当てて練習すること
ブランダン・エイカー氏の助言を読みながら、曲の最初から弾き始め、途中で間違えると手を止め、また冒頭へ戻ることの問題について考えていた。最初からやり直すたびに、当然ながら冒頭部分には何度も触れることになる。序盤は次第に滑らかになり、中盤も少しずつ形になっていく。ところが、本当に難しい箇所へ到達するころには、集中力も時間も残っていない。結果として、最も練習を必要としている部分が、最も少ない回数しか練習されないのである。この方法が厄介なのは、決して怠けているようには感じられない点である。むしろ、何度も弾き直し、長い時間を費やしているため、熱心に努力している実感さえ得られる。弾き慣れた冒頭を進む時間には安心感もあり、自分が上達しているように感じやすい。しかし、その心地よさが、難所と向き合う直前に敷かれた柔らかな絨毯になっているのかもしれない。練習している感覚と、課題を改善している事実とは、必ずしも一致しないのである。この話を読んで、練習時間の長さと、問題に正しく触れた時間とは別物なのだと気づいた。2時間練習したとしても、そのうち難しい2小節に使った時間が5分なら、その箇所は5分しか練習していないのである。努力の総量だけを見ていると、なぜ上達しないのかが不思議に感じられる。しかし、注意を向けた場所を細かく見れば、その理由は意外なほど単純なのかもしれない。エイカー氏は、練習を曲の通過ではなく、小さな問題を一つずつ解く作業として考えるよう勧めている。つなぎ目、ポジション移動、指一本の動き、ある一音を出す瞬間。音楽は大きな流れとして存在しているが、その流れを支えているのは、こうした微小な動作の連続である。遠くまで続く道も、実際には足元の一歩ずつでできている。それなら、曲を良くするために必要なのは、最初から最後まで何度も走ることではなく、つまずく石の位置を見つけ、その石を一つずつ取り除くことなのであろう。これからは、間違えた瞬間に冒頭へ逃げ帰るのではなく、その場に立ち止まりたい。なぜ失敗したのか、直前の動きに原因があるのか、速度を落とせば再現できるのか、数音だけを切り出せるのかを確かめたい。難所を曲全体からいったん取り外し、小さな標本のように机の上へ置いて観察するのである。また、うまく弾けた一回だけで満足せず、同じ動きを何度か再現できるかも試したい。偶然通れた道と、確実に歩ける道とは違うからである。音楽を考えるとき、人はつい壮大な表現や全体の完成度へ目を向けたくなる。しかし、最初に必要なのは、むしろ小さく考えることなのだろう。小さく区切ることは、音楽を矮小化することではない。大きな音楽へ確実に近づくために、焦点を研ぎ澄ますことである。今日からは、何回通したかではなく、どの問題をどこまで解いたかを練習の基準にしたい。練習の終わりに曲全体を通すとしても、それは逃避ではなく、修理した部品が一つの機械として動くかを確かめる時間にしたい。フローニンゲン:2026/7/17(金)10:09
Today’s Letter
Reality is a cosmic joke. It is also what we experience. What we experience can be real in some sense, yet everything is still a cosmic joke. Groningen, 7/17/2026



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