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【フローニンゲンからの便り】19011-19014:2026年7月15日(水)

7月17日
読了時間: 11分


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タイトル一覧

19011

スロープラクティスによる情報量の増大

19012

今朝方の夢

19013

今朝方の夢の振り返り

19014

再現から語りへの変貌に向けて

19011. スロープラクティスによる情報量の増大 

                     

昨日、ゆっくり演奏すると身体がより多くの情報を集め始める、という感覚について考えていた。正確には、身体に入ってくる情報量そのものが急に増えるのではなく、普段は速度の陰に隠れている情報を意識が拾えるようになるのだろう。速く弾いていると、次の音を出す準備がすぐに迫ってくるため、注意は未来へ先回りする。指は鍵盤や弦に触れた直後、十分に感触を味わう前に次の動作へ送られる。演奏が一本の太い線になり、その内部にある細かな粒が見えなくなるのである。テンポを落とすと、その線がほどけ、一音の中に複数の出来事があることに気づく。指先にかかる圧力、関節の角度、腕の重さ、呼吸の位置、音が立ち上がる瞬間、響きが空間へ広がる方向などである。脳は、ある動きをすればどのような音が返ってくるかという聴覚と運動の地図を学習している。ゆっくりした演奏では、動作と結果の間を観察する時間が生まれるため、この地図の輪郭を丁寧になぞれるのだと思う。楽器演奏の学習では、実際に音を生む運動と、その音を聴く働きが密接に結びつくことが示されている。同じ一音でも、指を下ろす速さや力を抜く時機が少し変わるだけで、身体に返る感触は異なる。遅く弾けば、その違いを比較し、どの動作がどの響きを生んだかを結びつける余裕ができる。身体は録音機のように情報を受け取るだけでなく、仮説を立て、実際の音で確かめる小さな実験室になっているのだろう。さらに、演奏前に脳が予測した音と、実際に返ってきた音との差も見つけやすくなる。速い演奏では小さなずれが次々と流れ去るが、遅い演奏では、音程、タイミング、音色、力みの差が水面の波紋のように残る。その波紋を聴覚だけでなく、筋肉や腱、関節から届く固有感覚も読み取っている。運動学習が視覚や固有感覚などの感覚フィードバックによって誤差を捉えることを考えると、スロープラクティスは身体に対して拡大鏡を渡す行為なのだろう。興味深いのは、遅く弾くことが単なる準備練習ではなく、注意の使い方そのものを変える点である。余白が生まれると、耳だけに偏っていた注意を、指、肩、背中、呼吸へ配分できる。すると身体は命令を受ける道具ではなく、演奏について報告してくる観察者になる。音楽訓練が時間的注意の精度と神経活動の安定性を高めるという知見や、聴覚フィードバックがとりわけ学習初期に重要であるという研究も、この感覚を支えているように思う。昨日の練習で感じたのは、ゆっくり弾くとは音楽を小さくすることではなく、知覚を大きくすることである。速度を落とすと、身体の中に散らばっていた微かな声が、一つずつ聞こえてくる。そこでは間違いさえ失敗ではなく、身体が差し出す測定値になる。速さは流れを作るが、遅さは流れの源泉を見せる。だからこそ、ゆっくりした演奏は、身体と対話しながら動作と音の結び目を結び直す、静かな研究なのだと思った。フローニンゲン:2026/7/15(水)06:42


19012. 今朝方の夢  

                                 

今朝方は夢の中で、小中学校時代のバスケ部の先輩2人と先輩の弟の友人(SS)と一緒に屋内で2対2のバレーをすることになった。私たちは全員バレーの経験者ではなかったので、最初にルールを確認した。そこから試合を始めると、その場所が巨大なウォータースライダーに変わった。それは近所と一体化しており、どこまでも続いていく道のように思えた。ウォータースライダーの上の方から女性の声が聞こえ、何やら小さな虫が流れてしまったので救出してほしいとのことだった。私はすぐさまウォータースライダーの中に入って、流れに負けないように踏ん張りながら虫を待った。しかし虫は流れて来ず、その代わりにNBAで活躍する日本人の有名な選手が楽しそうに流れて来たので、一緒に流れていくことにした。ウォータースライダーを楽しんだ後、その選手と今後のキャリアについて話をした。彼の話を聞いていると、気がつくと彼がかつての進学塾での教え子となり、彼が涙ながらに家族の問題について語った。私は彼の話を親身に聞き、彼が自らでその問題を解決できるように対話をすることにした。


次に覚えているのは、見慣れないフットサルコートで友人たちとフットサルをしている場面である。そこで私は持ち前の空間把握能力と動き出しの良さで、味方からのパスをうまく引き出し、ダイレクトボレーを連続で何本も決めていた。その日の自分はいつも以上に絶好調で、どこに動き出せばどのように得点が取れるのかが瞬時に脳裏に閃き、実際にその通りに表現できるという状態だった。脳内イメージの生成とそれを実行に移す神経回路の重要さを改めて思った。 


その次に現れたのは、見知らぬラーメン屋にいる場面だった。そこの店長は自分と同じ歳ぐらいの女性で、眼鏡をかけており、とても優しそうだった。その店のお勧めラーメンを注文した時に、その他のメニューを尋ねられたので、生卵と秋刀魚を注文することにした。そこで出されていたのがゆで卵ではなく生卵である点が興味深く、秋刀魚は少し準備に時間がかかって迷惑かも知れないと思ったが、客がそんなことを心配してもしょうがないと思ったし、店長は嬉しそうに注文を受けてくれたのでそれらをラーメンと一緒に食べることにした。この場面の終わりにふと、自分はもっとクレイジーになる必要があると思った。狂気さを突き抜けていくことは、極大な至福さへの最良の道であるという考えが浮かんでいた。


最後の場面は、マジック:ザ·ギャザリングを友人と遊んでいる場面である。自分の手札はかなり強く、マナも順調に場に出していくことができたので、勝利は確実のように思われた。序盤ではどういうわけか、手札にマナがあるのに場に出すことをしておらず、中盤からは積極的にマナを出していくことで優位に対戦を進めていた。自分の頭の中には、いつでも相手を倒すことができるという安心感が常にあった。フローニンゲン:2026/7/15(水)06:56


19013. 今朝方の夢の振り返り 

                           

今朝の夢は、自分の内側で「他者と競う力」「流れに身を委ねる力」「他者を支える力」「欲望を解放する力」が一つの水脈として結び直されていることを示しているのかもしれない。冒頭の2対2のバレーは、まだ経験の浅い領域へ仲間と入っていく準備を象徴しているように思われる。最初にルールを確認している点から、自分は未知へ踏み出す際にも、最低限の秩序や共通理解を求める傾向を持つのだろう。しかしコートが巨大なウォータースライダーへ変わると、世界は規則で区切られた競技場から、制御しきれない流動的な人生へ姿を変える。これは、今後の移住や研究、創作の道が、予定表の上を直線的に進むものではなく、生活そのものと一体化していくことを暗示しているのかもしれない。小さな虫を救おうと流れに逆らって踏ん張る場面には、自分が弱く見落とされやすい存在を保護しようとする姿勢が表れているようである。虫は、まだ形になっていない感情や小さな可能性の象徴かもしれない。ところが流れてきたのは虫ではなく、NBAで活躍する日本人選手であった。ここでは、救済すべき脆弱なものを待っていた自分の前に、卓越性や成功の象徴が現れている。しかもその人物と競うのではなく、一緒に流れを楽しんでいる。これは、自分が高い能力や成功を脅威ではなく、同じ水流を進む仲間として受け入れ始めていることを示すのだろう。その選手が教え子へ変わり、家族の問題を涙ながらに語る展開は印象的である。外から見れば強者である人物の内側にも、未解決の痛みがあるという理解が示されているのかもしれない。自分は問題を代わりに解決するのではなく、本人が解決できるよう対話している。これは、答えを与える者ではなく、相手の中に眠る答えを照らす灯台へと、自分の援助者としての姿勢が成熟していることを表しているように思われる。フットサルの場面では、思考と身体が完全に接続されている。空間を読み、動き出し、イメージ通りにボレーを決める姿は、頭の中の構想が即座に現実へ翻訳される理想状態の象徴であろう。これは、研究や音楽においても、構想と実行の間にある遅れが次第に縮まりつつあることを示すのかもしれない。自分の身体は単なる実行装置ではなく、未来の可能性を先取りして受け取るアンテナになっているのである。ラーメン屋では、生卵と秋刀魚という少し異質な組み合わせを選んでいる。生卵はまだ固まっていない生命力、秋刀魚は季節性や移ろいを象徴しているように思われる。店に迷惑をかけるかもしれないと気遣いながらも注文する姿には、自分の欲望を遠慮で抑え込まず、世界に差し出す練習が表れているのだろう。店長が喜んで応じることは、自分が望みを表明しても、世界は必ずしも拒絶しないという感覚の芽生えかもしれない。ここで浮かんだ狂気への希求は、破壊的な混乱ではなく、常識の殻を突き破る創造的逸脱を求める衝動であるように思われる。最後のカードゲームでは、序盤にマナを出さなかった点が重要である。自分には力があるのに、それをまだ場へ投入していなかった時期があったのかもしれない。しかし中盤からは資源を積極的に展開し、勝利への確信を得ている。マナは知識、経験、資金、身体感覚、人間関係など、自分が蓄えてきた潜在力の象徴であろう。夢全体は、自分がそれらを手札のまま温存する段階から、現実の盤面へ配置する段階へ移行していることを告げているのかもしれない。人生における意味として、この夢は、自分が流れに抗う者、流れを楽しむ者、他者を支える者、未来を先読みして動く者、欲望を解放する者、力を戦略的に用いる者へと同時に変化しつつあることを示しているように思われる。自分の次の成長は、秩序を捨てることではなく、秩序という岸辺を保ちながら、狂気という大河へ深く身を浸すことにあるのだろう。フローニンゲン:2026/7/15(水)07:44


19014. 再現から語りへの変貌に向けて

                                   

ブランダン·エイカー氏の「正しい演奏」と「美しい演奏」は同じではない、という言葉について考えた。音を一つも間違えず、リズムも指使いも整っているのに、演奏を終えたあと、なぜか胸の奥に何も残らないことがある。譜面どおりに弾けたという満足はある。しかし、それがそのまま音楽になったとは限らないのである。この違いは、料理に少し似ているように思う。分量を正確に量り、火加減も手順も間違えなければ、料理は一応完成する。だが、食べた人の記憶に残る一皿には、香りの立ち方や温度、間の取り方、作り手がどこを大切にしたかという、数値では測れないものが宿っている。演奏も同じで、正確さは器であり、美しさはその器に注がれる水のようなものなのだろう。器がなければ水はこぼれるが、器だけを眺めても喉は潤わない。エイカー氏は、表現とは魔法でも運でもなく、他の人がまだ気づいていないものに気づく力だと述べている。たとえば、ある音が次の音へどのように向かっているのか、旋律がどこで息を吸い、どこで言葉を飲み込むのか、和音の変化によって空気が明るくなるのか暗くなるのか。そうした小さな変化を聴き分け、自分の身体を通して形にすることが、表現なのだろう。ここで大切なのは、表現を大げさな感情の上塗りと考えないことである。音を強く揺らしたり、テンポを自由に崩したりすれば、ただちに深い演奏になるわけではない。むしろ、楽曲の内側にすでに存在する重力を見つけ、それを妨げずに表へ導くことが必要なのだろう。表現とは色を塗り足す作業ではなく、曇った窓を拭いて、その向こうの景色を見えるようにする作業に近い。演奏者の役割は、作品の前に自分を押し出すことではなく、作品が何を語りたがっているのかを注意深く聴くことなのだと思う。多くのレッスンが正しい音、正しいリズム、正しい技術に集中するのは当然である。基礎が曖昧なままでは、伝えたいことも崩れてしまう。しかし、正しさは終着点ではなく、ようやく音楽の入口に立ったという印なのだと思う。言葉に文法が必要であるように、音楽にも技術的な文法が必要である。だが、文法だけが正しい文章は、必ずしも心を動かさない。譜面を間違えずに再現する段階を越えたあと、なぜこの音はここにあり、なぜこの沈黙が必要で、どの方向へ時間を運びたいのかを考え始める。その瞬間、演奏は単なる再現から語りへ変わる。聴衆が長く覚えているのは、完璧な正確さよりも、演奏を聴いたときに自分の中で何が動いたかである。胸が締めつけられたこと、懐かしい景色が浮かんだこと、時間が一瞬止まったように感じたこと。音楽の美しさは、正解と不正解の間ではなく、正しさの先に生まれる余白に住んでいるのだろう。今日の練習では、間違えないことだけを目標にせず、一つのフレーズがどこから来て、どこへ消えていくのかを聴いてみたい。音を出す瞬間だけでなく、音が消えたあとの沈黙にも耳を澄ませたいと思った。フローニンゲン:2026/7/15(水)09:54


Today’s Letter 

Expressing myself through music is my primary way of purifying my ego. The more I practice and immerse myself in music, the more transparent I become. Groningen, 7/15/2026 

 
 
 

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