【フローニンゲンからの便り】19006-19010:2026年7月14日(火)

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
19006 | 絶対他力の「他力」とは何か |
19007 | 今朝方の夢 |
19008 | 今朝方の夢の振り返り |
19009 | 正確かつ楽であること |
19010 | カニッツァの三角形としての自己 |
19006. 絶対他力の「他力」とは何か
昨日、仏教における絶対他力の「他力」とは何を指しているのかを考えていた。最初は、他力という言葉を聞くと、どこか自分の外側にいる誰かが、自分の代わりに救ってくれるという意味に思えてしまう。しかし浄土教、特に親鸞の思想においては、他力とは単なる外部依存ではなく、阿弥陀仏の本願の働きを指しているのだと思う。つまりそれは、自分の努力や計算や善行の積み重ねによって悟りや救いを獲得するのではなく、すでに衆生を救おうとして働いている本願力に、自分が気づかされ、包まれているということである。ここで重要なのは、他力が「自分以外の誰かの力」という単純な意味ではない点である。他力は、自我が握りしめている自力のはからいを超えて、こちらに届いている法の働きである。自分が救われるために何かを完璧に整えるのではなく、自分の不完全さ、愚かさ、煩悩の深さを抱えたまま、そのまま見捨てられていないと知らされる力である。だから他力とは、怠けるための思想ではなく、自分の力で自分を完全に救えるという慢心が崩れたところに現れる、深い受動性の宗教的経験なのだろう。絶対他力という言葉には、さらに徹底した響きがある。少しは自力で、最後の足りない部分だけを阿弥陀仏に補ってもらうという発想ではない。救いの根拠そのものが、最初から最後まで本願の側にあるということである。自分が信じるから救われるのではなく、信じる心そのものが本願から賜るものとされる。ここには、人間の自己完成願望を根底から静かにほどくような厳しさがある。自分が信心を作るのではなく、信心が自分の中に開かれるのである。このことを考えると、他力とは自分を無力にする思想ではなく、むしろ自分が握っていた偽りの万能感を手放させる思想なのだと思う。人はしばしば、自分の努力、自分の理解、自分の道徳性によって自分を支えようとする。しかし人生の深いところでは、それらがどれほど脆いかを思い知らされる瞬間がある。善くあろうとしても煩悩が湧き、正しく見ようとしても執着が混じり、誠実であろうとしても自己中心性が顔を出す。その時、自力だけで自分を清め切ることの不可能性が露わになる。他力とは、その不可能性の底で聞こえてくる呼び声のようなものなのかもしれない。自分が登っていく梯子ではなく、落ちていく自分をすでに受け止めている大地である。自分が光を作るのではなく、暗がりの中で、すでに差し込んでいた光に気づくことである。だから絶対他力における他力とは、外側から都合よく介入する奇跡ではなく、自我のはからいを超えて衆生を摂取する本願の働きであり、その働きに目覚めさせられる経験そのものなのだと思う。そのことを考えながら、他力とは自分を小さくする言葉であると同時に、自分を根底から安心させる言葉でもあると感じた。自分が救いを所有するのではない。自分が救いの中に置かれているのである。そこに、絶対他力の静かな深さがあるのだろう。フローニンゲン:2026/7/14(火)06:37
19007. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、不思議な家にいた。その一軒家は外見は二階建ての建物のだったが、中に入ってみると、多階層に変化した。それも中にいる人の気持ちや願いに応じて変化するようだったのだ。それに気づくと、自分は目撃者の意識と化した。家の中に数人の子供がいて、彼らは楽しそうに遊んでいた。家の階層が変わることを彼らも楽しんでいたのである。しかし突如、その家のどこかに不気味なモンスターが潜んでいることを自分は直感的に感じた。そしてそのモンスターは、子供たちを狙っているようだったので、彼らを守るべく、どうやってそのモンスターを撃退するかを考えた。
次に覚えているのは、母方の叔父と一緒に釣りに出掛けている場面である。到着したのは湖で、そこにはブラックバスを含め、ルアーで釣れるいくつかの種類の魚がいた。釣りを始めると、気づけば叔父はいなくなっており、その代わりに早速当たりがあった。釣り上げてみると、ブラックバスではない他の種類の魚で、逃がそうと思って口からルアーを外したら、それが勢いよくおかしな外し方になってしまい、魚は出血して死んでしまった。それを見ていた2人の友人が、外し方がよくなかったと指摘し、自分を含め、彼らもその魚の死を残念がった。今度は魚の口に手を入れることを恐れず、しっかりと正しいやり方でルアーを外そうと思った。すると、自分の横に母がいて、どうやら叔父がかつて一緒に飲み屋のカラオケで歌った変な歌をSNSか何かでインターネット上に公開したらしいと聞いた。まさか叔父がその時に動画を撮影していたとは知らなかったし、そのデータを依然として持っていたことに驚いた。昔のこととは言え、公開してほしくないものだったので、叔父の所に行って、公開を取り消してもらうことをお願いしようと思った。しかしふと、それはもうどうでもいいことかもしれないと思った。すると叔父への怒りの気持ちは消え、どこか穏やかな気持ちになった。
もう一つ覚えているのは、見慣れない寿司屋にいる場面である。そこは高級の寿司屋で、カウンター席に座ると、すぐさま店員から客ごとにカスタマイズされたアナウンスの声が聞こえた。次にやって来た他の客にも同じくアナウンスの声が入ったのだが、その内容によって最初の注文が影響を受けていることに気づいた。隣に座っていた小中高時代のある友人(YK)は、ビールとセットになった料理を注文しようとしているらしく、ビールが何の種類なのかを気にしているようだった。さて自分は何を注文しようかと考えたところで夢から覚めた。フローニンゲン:2026/7/14(火)06:50
19008. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、心そのものが一軒の家として現れ、その内部で過去、未来、欲望、恐れが絶えず配置を変えていた夢であるように思われる。外から見れば二階建てにすぎない家が、中に入ると多階層へ変化する姿は、自分という存在が他者から見える輪郭よりもはるかに複雑であることを示しているのかもしれない。しかも、その階層が住人の気持ちや願いによって変わるのであれば、心は固定された建築物ではなく、感情によって部屋が増減する生きた迷宮なのであろう。そこで自分が目撃者の意識に変わったことは、感情に巻き込まれる主体から、それらの動きを静かに観察する主体へと移行しつつあることを表しているように思われる。家の中で遊ぶ子供たちは、自分の内側に残る好奇心、創造性、無防備な生命力を象徴しているのかもしれない。階層の変化を恐れず楽しむ彼らは、変化そのものを遊具に変える力を持っている。しかし、どこかに潜むモンスターは、その自由な生命力を脅かす古い不安、自己否定、あるいは未知への恐れではないだろうか。自分が子供たちを守ろうとしたことは、内なる幼い部分を抑圧するのではなく、成熟した意識によって保護しようとする姿勢の表れであるように思われる。心の家は遊園地であると同時に要塞でもあり、自分はいま、その両方を管理する番人になりつつあるのかもしれない。湖での釣りは、無意識の深層から何かを引き上げる営みを象徴しているように見える。釣り針にかかった魚は、まだ言葉になっていない感情や記憶であり、それを取り扱う際の不器用さが、魚の死として示されたのかもしれない。救おうとして傷つけてしまった場面には、善意だけでは十分ではなく、繊細なものに触れるには技法と勇気が必要であるという教訓が含まれているように思われる。次は魚の口に手を入れることを恐れず、正しく外そうと決意したことは、自分が痛みや危うさを避けるのではなく、そこへ丁寧に接近しようとしている兆しであろう。叔父が昔の歌を公開したという話は、過去の未熟さや恥ずかしさが突然、現在の光の下へ引き出される不安を表しているのかもしれない。しかし、怒りが消え、それをどうでもよいと思えた瞬間、自分は過去の自分を守るための鎧を一枚脱いだのであろう。消したい記憶もまた、人生の湖底に沈む石のようなものであり、それを無理に取り除かなくても、水面はやがて静まるのかもしれない。最後の寿司屋は、これから自分が何を選び、何を取り込むかという問いを象徴しているように思われる。客ごとに異なるアナウンスが流れ、その内容が注文に影響する構造は、現代において欲望や選択が、外部の情報によって密かに設計されていることを示しているのかもしれない。隣の友人がビールの種類を気にする一方で、自分は注文を決めないまま目覚めた。この未決定は欠如ではなく、他者の声に急かされず、自分が本当に必要とするものを見極めるための間であろう。夢全体を通して、自分は変化する心を観察し、内なる子供を守り、傷つけたものから学び、過去への執着を手放し、次に何を選ぶかを静かに考える段階へ入っているのかもしれない。フローニンゲン:2026/7/14(火)07:43
19009. 正確かつ楽であること
ふと、ブランダン・エイカー氏の「Accurate and easy」という言葉について考えた。正確であること、そして楽であること。この二つを同時に満たすことが大切だという助言は、一見すると当たり前のようでいて、実際の練習ではかなり見失いやすいものだと思った。ギターを練習していると、つい少し速いテンポで弾きたくなる。できるだけ早く上達したいという気持ちがあるから、今の自分にとって少し無理のある速度に挑戦してしまう。音が一応並ぶと、できているような気がする。しかしそのとき、指や肩や呼吸のどこかに力みが生まれていることがある。音はあるのに、余裕がない。正確さに近づいているようで、実は「苦しみながら弾く癖」を練習しているだけかもしれない。特に印象に残ったのは、力みは進歩のふりをする、という考え方である。たしかに、必死に練習していると、それだけで前に進んでいるような感覚になる。汗をかき、集中し、何度も同じ箇所を繰り返すと、努力している自分に安心してしまう。しかし努力の感覚と上達は同じではない。むしろ、無理をした状態で何度も弾けば、その無理そのものが身体に刻まれてしまうのだろう。だからこそ、正しいテンポは自分が思っているよりも遅いことが多いのだと思う。遅すぎると感じるくらいの速度で、音を確かめ、指の動きを観察し、余計な緊張がないかを感じる。その場所でこそ、本当の練習が起こるのだ。速く弾くことよりも、自然に弾ける身体を作ることの方が大切である。急いで階段を駆け上がるより、一段一段の足場を静かに固める方が、結局は高いところまで行けるのだろう。「正確だが楽ではない」なら、まだ準備ができていない。「楽だが正確ではない」場合も、まだ準備ができていない。この基準はとても厳しいが、同時にとても優しい。なぜなら、無理に自分を追い込まなくてよいと言ってくれているからである。上達とは、自分を痛めつけることではなく、正確さと容易さが自然に重なる地点を丁寧に探すことなのだと思った。今日の練習では、少しテンポを落としてみようと思う。遅くすることは後退ではない。むしろ、身体と音楽が深い関係を結ぶための時間である。音が正しく、しかも身体が抵抗していない。その状態を少しずつ増やしていけば、進歩は無理に掴みに行くものではなく、静かにこちらへ近づいてくるものなのかもしれない。フローニンゲン:2026/7/14(火)09:40
19010. カニッツァの三角形としての自己
昨夜、カニッツァの三角形を眺めながら、自己というものも、実はこれに似ているのではないかと思った。そこには三角形そのものを描く線はない。それでも、周囲に配置された黒い円や切れ込みの関係から、白い三角形が確かにあるように見える。自己もまた、それ自体で独立して置かれている実体ではなく、記憶、身体、他者のまなざし、言葉、社会的役割といった諸要素のあいだに、輪郭として浮かび上がるものなのかもしれない。自分が自分であるという感覚は、とても内面的で、誰にも侵されない核のように思える。しかし、その核をよく見つめようとすると、意外なほど他者の痕跡で満たされている。幼い頃にかけられた言葉、誰かに認められた経験、拒絶された痛み、期待された役割、比較された記憶。そうしたものが、見えない線となって現在の自分を囲んでいる。つまり、自己は孤立した石ではなく、多くの関係が引き合う張力の中心に生じる模様なのである。縁起という考え方も、ここで急に身近になる。あるものは単独で存在するのではなく、条件が重なったときにのみ、その姿を現す。自己も同じで、他者がいなければ完全に消えるわけではないにせよ、少なくとも現在知っている形では現れないだろう。教師の前の自分、家族の前の自分、友人の前の自分、見知らぬ人の前の自分は、それぞれ少しずつ異なる。どれか一つが偽物なのではなく、関係ごとに異なる三角形が浮かび上がっているのである。そう考えると、自己の一貫性とは、固定された本体の証明ではなく、変化する関係を一つの物語として編集する働きなのかもしれない。昨日の自分と今日の自分は、身体も感情も思考も完全には同じではない。それでも同じ自分だと思えるのは、記憶が点と点を結び、途切れた輪郭を補っているからである。脳はカニッツァの三角形に線を見いだすように、人生の断片のあいだに自己という連続性を描いているのだろう。この見方には、少し不安もある。もし自己が関係によって生じるだけなら、自分には何も固有のものがないようにも感じられるからである。だが、むしろ逆かもしれない。実体がないからこそ、自己は変化できる。周囲の配置が変われば、浮かび上がる形も変わる。傷つける関係から距離を取り、育てる関係に身を置けば、自己の輪郭も少しずつ変わっていく。固定された彫像ではなく、光と影のあいだに現れる像だからこそ、再構成が可能なのである。自己とは、所有するものではなく、その都度成立する出来事なのではないか。誰かと話すとき、音楽を聴くとき、過去を思い出すとき、世界に触れるたびに、自分という三角形が一瞬ごとに立ち現れる。そこに実線はない。それでも、まったくの幻とも言い切れない。自己は、存在しないものではなく、関係のなかでのみ存在するものなのである。今日の自分もまた、無数の他者と条件が静かに支えている、一枚の白い三角形なのだと思った。フローニンゲン:2026/7/14(火)09:59
Today’s Letter
Individual minds are dissociated from universal consciousness. I’m curious about the mechanism by which this dissociation occurs. Groningen, 7/14/2026



コメント