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【フローニンゲンからの便り】18998-19002:2026年7月12日(日)

  • 14 分前
  • 読了時間: 11分


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タイトル一覧

18998

立奏における最適な幾何学を探求して

18999

今朝方の夢

19000

今朝方の夢の振り返り

19001

原因分析の重要さ:反復は量、観察は質

19002

楽器の身体化に向けて

18998. 立奏における最適な幾何学を探求して 

                       

クラシックギターをストラップで吊り、立って演奏していると、座奏の時には見えにくかった身体と楽器の関係が鮮明に現れてくるように思う。座っている時には、膝や足台や椅子がギターの位置をある程度固定してくれる。しかし立奏では、ギターは身体に対して浮遊する一つの物体となり、自分の胴体、肩、腕、手首、指先との関係性をその都度微細に調整する必要が出てくる。これは不安定さであると同時に、自由の発見でもある。今日感じたのは、すべての弦、すべてのポジションに対して、同じ構えで向かおうとすると、どこかに無理が生じるということである。特に低音弦のハイフレットを弾く時、左手首が不自然に捩れやすい。これは指の能力の問題というより、ギターの角度、ネックの高さ、胴体との距離、左肘の位置が、その音にとって最適な幾何学を作っていないからなのだろう。指は最後に現れる結果であり、その前に身体全体の配置がすでに音の成否を決めているのかもしれない。弦を押さえるとは、単に指先をフレットに置くことではない。それは、身体全体から一本の細い道を作り、その道の終点として指先が弦に触れることである。道が曲がりすぎていれば、手首が捩れる。道が詰まっていれば、指は力む。道が遠すぎれば、肩が上がる。立奏においては、この道を音ごとに少しずつ作り直す必要があるのだと思う。まるで山道を歩く時、地面の傾きに応じて足裏の置き方を変えるように、ギター演奏でも、音の地形に応じて構えを変える必要がある。これまで自分は、良いフォームとは固定された理想形のようなものだとどこかで考えていたのかもしれない。しかし今感じているのは、良いフォームとは静止した形ではなく、変化し続ける均衡であるということだ。武術で言えば、一つの型を守りながらも、相手との間合いに応じて重心や角度を変える感覚に近い。クラシックギターでも、楽器に対して真正面から一律に向かうのではなく、弦やポジションに応じて身体の面を微妙に開いたり、閉じたり、ネックを少し上げたり、胴体をわずかに回したりすることが重要なのだろう。特に立奏では、ギターが身体の前にある小さな宇宙のように感じられる。低音弦、高音弦、ローポジション、ハイポジションは、それぞれ別の星域である。同じロケットの姿勢で全ての星に着陸しようとすれば、必ずどこかで無理が生じる。むしろ、その音が求める進入角度を探る必要がある。左手首を捩じって到達するのではなく、ギターの方をわずかに迎えに行かせ、身体の方もわずかに場所を譲る。その相互調整の中で、手首は自然な通路を得る。これは、力で解決する練習から、配置で解決する練習への移行であるように思う。弾けない音を指の努力でねじ伏せるのではなく、その音が最も自然に鳴る身体配置を探す。すると、演奏は筋力の問題ではなく、関係性の問題として見えてくる。指と弦の関係、手首と前腕の関係、楽器と胴体の関係、重心と呼吸の関係が、すべて一つの音に流れ込んでいる。今後の練習では、音を弾く前に、ほんの一瞬、その音にとって身体がどのような構えを欲しているのかを感じてみたい。特に低音弦のハイフレットでは、左手だけを無理に伸ばすのではなく、ギター全体の角度を含めて調整する必要があるだろう。良い音は、指先だけから生まれるのではなく、身体と楽器が互いに最も捩れの少ない場所を見つけた時に、自然に立ち上がるのかもしれない。立奏とは、その微細な場所を探し続ける、身体的な対話なのである。フローニンゲン:2026/7/12(日)07:36


18999. 今朝方の夢 


今朝方は夢の中で、見慣れない空間にいた。そこは身体能力を競うかつての番組『SASUKE』を彷彿させるセッティングになっていた。そこで私は小中高時代のある友人(YK)と様々な障害物にチャレンジしていた。彼が最初に雲梯のような障害物を進んでいく姿を見ながら、自分は彼とは違うルートでより省エネでその障害物を乗り越えていけると閃いた。ある意味それはコースのショートカットだった。それを行うと、次に目の前に広がっていたのは、何台ものグランドピアノの上を渡っていく種目だった。高級なピアノの上に飛び乗るのはどこか申し訳なさがあったのも、きっと自分がピアノに敬意を払っているからだろう。無事にそのステージをクリアすると、いつの間にか建物の外に出ていた。目の前に種々の土産屋が広がっていたが、人通りは全くなく、閑散としていた。ふと目に入ったのは、アンティークの時計屋で、店の窓から中の様子が見え、そこには古びた置き時計がいくつもあった。価格は軒並み高騰しており、3369万円のものに目をやり、それがなぜそのような高額な値段になっているかは不明だったが、中国人富裕層を含め、海外の金持ちたちであれば、値段を気にせずに購入するのだろうと思った。


次に覚えているのは、ある著名な社会学者の先生と著名なジャーナリストの方と楽しく話をしていた場面である。2人とも自分よりも2回りほど年上で、2人が活躍し始めた日本社会の様子を聞くのはいくつもの驚きをもたらした。とりわけ2人を取り巻く身近な環境についての話は興味深く聞いていた。当時はまだ有名人になっても大都市の中心部を普通に歩けた時代だったとのことである。もちろん有名であれば人に声をかけられるが、今のように写メを撮られたり、動画を撮影されたりと、その情報が不特定多数の人に拡散れることはなかったとのことである。フローニンゲン:2026/7/12(日)07:52


19000. 今朝方の夢の振り返り     

       

今朝方の夢は、自分がこれまで身につけてきた身体知、芸術感覚、時間意識、社会認識を、一つの連続した通過儀礼として組み替えている夢であるように思われる。冒頭の『SASUKE』を思わせる空間は、人生の次の段階へ移るための試験場を象徴しているのかもしれない。小中高時代の友人YKは、過去の自分と並走してきた同世代的な基準の化身であり、彼が正面から障害物に挑む姿は、従来型の努力や忍耐を表しているように見える。それに対して自分が別ルートを発見したことは、単なる近道願望ではなく、力で押し切る生き方から、構造を見抜いて省エネで進む生き方への転換を示しているのではないか。これは、壁を登るよりも、壁そのものがどのように立てられているかを読む知性である。続くグランドピアノの上を渡る場面は、さらに象徴的である。ピアノは本来、踏み台ではなく、音を生み出す神聖な器である。その上を進まなければならないという設定は、自分が音楽を鑑賞対象として敬う段階から、人生を渡るための実践的な足場として引き受ける段階へ移っていることを示しているのかもしれない。申し訳なさは、芸術を利用したくないという倫理感の表れでありながら、同時に、音楽を身体の下に置くのではなく、身体と音楽を一つの橋にする必要を告げているようでもある。何台ものピアノは、旋律、技術、感性、瞑想といった複数の音楽的実践が、川に浮かぶ飛び石のように次の世界へ自分を運んでいる姿なのだろう。建物の外に出た後の閑散とした土産屋街は、一つの課程を終えた後に現れる、価値の抜け殻の風景であるように思われる。土産物とは本来、体験の記憶を所有物に変えるものである。しかし人通りがないことは、自分がもはや体験を記念品として保存する生き方から離れつつあることを示しているのではないか。書物や物品を手放し、身軽になろうとしている現在の流れとも重なる。そこに現れたアンティーク時計は、過去の時間そのものが商品化された象徴であろう。三千万円を超える価格は、時間に値札をつけようとする人間の滑稽さを誇張しているのかもしれない。富裕層なら買うだろうという考えは、金銭によって歴史や希少性を所有できるという社会の幻想を、自分が冷静に眺めている姿にも見える。だが本当の時間は、時計の内部ではなく、自分の身体を通過していく不可逆の流れであり、誰にも買い戻せない。最後に登場した年長の社会学者とジャーナリストは、個人の記憶を社会の記憶へ接続する案内人なのだろう。二人の語る、撮影と拡散が常態化する以前の日本は、まだ人が公の場で匿名性の薄い自由を保てた時代である。ここには、現代の監視的な視線への違和感と、記録されずに存在できる空間への憧れが表れているのかもしれない。夢全体は、身体の障害物から音楽の橋へ、そこから時間の商品市場を抜け、社会の記憶へ至る構造になっている。自分は今、速く進むことよりも、何を足場にし、何を手放し、どの時代の眼差しから自由になるかを選び直しているのだろう。フローニンゲン:2026/7/12(日)08:21


19001. 原因分析の重要さ:反復は量、観察は質


ブランダン・エイカー氏の助言の核心は、練習とは「同じ箇所を何度も弾くこと」ではなく、「なぜそこで崩れるのかを観察し、原因を変えること」だ、という点にある。彼が言っているのは、多くの曲には必ず一箇所、妙に引っかかる小節、フレーズ、移行部があるということである。そこまでは自然に進めるのに、ある瞬間だけ音楽が滑る。そのとき多くの演奏者は、反射的にその箇所を繰り返す。もちろん反復が有効な場合もある。しかし、問題の原因を見ないまま反復すると、失敗の動きや曖昧な準備まで一緒に身体へ刷り込んでしまう。重要なのは、難所には必ず理由があるという視点である。指や腕の動きが非効率なのかもしれない。リズムの感じ方が曖昧なのかもしれない。次の動作への準備が遅すぎるのかもしれない。つまり難所は、単なる「弾けない場所」ではなく、身体・耳・意識のどこかにある未整理な構造が表面化した場所なのである。そこで彼が提案しているのが「interruption」、つまり習慣の流れを一度断ち切ることである。いつもの速度、いつもの指使い、いつもの勢いで突っ込むのではなく、遅くする。分解する。直前で止まる。別のリズムにする。動作の準備だけを観察する。そうやって自動化された失敗パターンに割れ目を入れると、初めて「何が起きているのか」が見えるようになる。この助言は、音楽練習だけでなく、学問や文章執筆や瞑想にも通じる。うまくいかない箇所を力ずくで突破しようとするのではなく、そこで何が起きているかを静かに見る。反復は量であり、観察は質である。エイカー氏は、練習の本質を「時間をかけること」から「気づきを深めること」へと移し替えているのである。フローニンゲン:2026/7/12(日)09:44


19002. 楽器の身体化に向けて 

             

楽器が身体の延長になるとは、指が思いどおりに動くことだけを意味するのではないのだと思う。音を出そうと考える前に、身体のどこかですでに響きの形が生まれ、その気配が腕や指を通って弦へと伝わる状態である。楽器が外側に置かれた道具ではなく、呼吸や声帯と同じような発音器官になるのである。その意味では、必要なのは長時間の練習よりも、身体と楽器のあいだにある微細な境界を観察し続ける質なのだろう。例えばクラシックギターであれば、一音を鳴らすたびに、指先だけを見るのではなく、足裏、骨盤、背骨、肩、肘、手首、指先までがどのようにつながっているかを感じてみたい。指が弦を弾くのではなく、身体全体の小さな波が指先に集まり、そこで音に変わると考えるのである。石を水面に投じたとき、波紋が中心だけに存在するのではないように、一音も指先だけから生まれるわけではない。姿勢、呼吸、重心、視線、聴覚、意図のすべてが、その音の内部に折り畳まれているはずである。この感覚を育てるには、速く弾く練習よりも、遅く弾きながら不要な力を発見する練習が重要になるだろう。正確に弾けたかだけでなく、音を出した後に力を解放できたか、次の動作へ滑らかに移れたか、身体のどこかに緊張の残響がないかを確かめるのである。練習は筋肉に命令を刻み込む作業というより、身体の中にある混線した配線を一本ずつ整理する作業に近いのかもしれない。毎回の反復で同じ動きを再現するのではなく、より少ない力で、より鮮明な音を生み出せる経路を探していくのである。また、楽器を見ずに短い旋律を弾いたり、目を閉じて一音の減衰を最後まで聴いたりする練習も有効だろう。視覚に頼りすぎると、楽器はいつまでも外部の物体として残る。触覚と聴覚を中心に据えることで、指板の位置関係は地図ではなく、身体の内側にある地形へと変わっていく。フレット間の距離や弦の張力が、階段の段差を無意識に上り下りする感覚のように身体化されていくのである。必要な年数は、単純には言えない。毎日丁寧に練習すれば、数か月から一年ほどで、楽器が手になじむ瞬間は現れるだろう。三年ほど続ければ、基本的な動作の多くが意識的な制御を離れ始めるかもしれない。五年から十年ほど積み重ねれば、音楽的な意図と身体運動がかなり直接的につながり、楽器が声に近いものになっていく可能性がある。ただし、十年弾けば自動的に身体の延長になるわけではない。同じ緊張や同じ癖を反復すれば、年月は身体化ではなく、癖の化石化をもたらすこともある。大切なのは、年数を積み上げることよりも、毎日の練習で身体の解像度を少しずつ高めることである。楽器が身体の延長になる日は、突然完成品として訪れるのではないだろう。ある一音が思考を介さずに生まれた瞬間、楽器との境界が一時的に消える。その小さな瞬間を何千回も重ねるうちに、楽器は所有物から器官へ、器官から声へ、そして最後には、自分と世界のあいだを流れる一つの呼吸へと変わっていくのだと思う。フローニンゲン:2026/7/12(日)11:43


Today’s Letter 

Going beyond language by using language itself is crucial for expanding my consciousness. It not only expands my awareness but also helps purify my mind. Language is a doorway to union with something that transcends language and to the cultivation of the mind. Groningen, 7/12/2026

 

 

 
 
 

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