【フローニンゲンからの便り】18990-18993:2026年7月10日(金)
- 2 日前
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タイトル一覧
18990 | 武術家の身体操作法から学ぶこと |
18991 | 今朝方の夢 |
18992 | 今朝方の夢の振り返り |
18993 | 仏教における悪 |
18990. 武術家の身体操作法から学ぶこと
武術家の身体操作や身体意識の涵養法は、クラシックギタリストにとっても非常に大きな意味を持つように思う。なぜなら、両者は一見まったく異なる領域に属しているようでありながら、深いところでは同じ問いに向き合っているからである。それは、いかにして身体から余計な力を抜き、意識を散漫にせず、最小の動きで最大の働きを生み出すかという問いである。武術家は、腕だけで打たない。足裏、膝、股関節、丹田、背骨、肩甲骨、肘、手首が一つの流れとしてつながった時、力は局所的な筋力ではなく、全身を貫く波のように現れる。クラシックギターでも同じことが言えるのではないか。右手の指先だけで弦を弾こうとすれば、音は浅くなり、手はすぐに疲れる。左手の指だけで弦を押さえ込もうとすれば、バレーは苦行となり、速いパッセージでは身体が固まる。しかし、坐骨、背骨、肩、腕、手首、指先が一つの有機的な連鎖として働く時、音は無理なく深くなるように思う。武術における「脱力」は、単なる弛緩ではない。完全に力を抜いてしまえば、身体は崩れる。むしろそれは、不要な力を捨て、必要な張りだけを残す技法である。弓の弦が緩みすぎても鳴らず、張りすぎても切れるように、身体にも適切な緊張と柔らかさの均衡が必要である。ギター演奏においても、脱力とは眠ったような手になることではなく、いつでも動ける静けさを保つことである。指先は敏感でありながら、肩や首は静かにほどけている。その状態において初めて、音は身体の奥から自然に立ち上がるのだろう。また、武術家は相手の動きを読む。だが本当に読んでいるのは、相手だけではない。自分の重心、呼吸、間合い、微細な違和感を同時に読んでいる。クラシックギターにおいても、楽譜を読むだけでは不十分である。弦の抵抗、指の接触点、呼吸の詰まり、音の立ち上がり、フレーズの重心を読む必要がある。音楽とは、楽譜に書かれた情報を機械的に再現することではなく、身体を通じて音の気配を感じ取る営みなのだと思う。特に興味深いのは、武術における「先」の感覚である。相手が動いてから反応するのでは遅い。動きが生じる前の微細な兆しを感じ、すでに身体が応答している必要がある。ギターでも同じで、次の音を弾く瞬間に指を動かし始めていては遅い。右手も左手も、音が鳴る前から次の配置へ向かっていなければならない。速さとは、慌てることではなく、準備がすでに終わっていることである。武術家の身体意識は、この「先にいる」感覚を養う上で大いに参考になる。さらに、武術では中心軸が重視される。軸が失われると、どれほど速く動いても動きは散漫になる。ギターを弾く時も、身体の軸が失われると、両手だけが楽器にしがみつくようになる。逆に、骨盤から背骨にかけて静かな柱が立ち、呼吸が下腹部に落ち着いている時、両手はより自由になる。身体の中心が安定しているからこそ、末端が軽やかに動くのである。改めて思うのは、クラシックギターの上達は、指の訓練だけでは完結しないということである。むしろ指は、身体全体と意識全体の状態を映す小さな鏡である。力み、不安、焦り、欲張り、自己主張は、すべて指先に現れる。武術家が一つの突きや受けの中に全人格を映し出すように、ギタリストも一音の中に身体と意識の全体を響かせているのだろう。その意味で、武術家の身体操作法は、ギタリストにとって単なる補助訓練ではない。それは、演奏という行為を、より深い身体知へと開いていく扉である。音を出すとは、指を動かすことではなく、身体全体を静かに整え、意識を澄ませ、その澄んだ水面に一音を落とすことなのかもしれない。ギターの稽古は、いつしか武術の稽古と同じく、自我を削ぎ落とし、身体を通じて世界と響き合うための道になっていくように思う。フローニンゲン:2026/7/10(金)06:52
18991. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見知らぬ日本の大都市でマラソン大会に出場していた。その大会に出場している人の数は非常に多く、スタート地点にはおびただしい数の人がいた。スタート地点に向かっている最中に、小中高時代のある親友(NK)と大学時代に知り合ったドイツ人のある友人に連絡をしておかなければいけないと思った。特にドイツ人の友人とは事前にこの大会に関する動画を撮影しており、その動画の撮り直しをお願いしようと思っていた。動画の中で自分はスーツとネクタイを着用していたのだが、ネクタイが少し下に降りており、曲がってもいたので、それを直すことに気を取られながらの動画撮影になっていて、目が泳いでしまっていたのだ。そうしたこともあり、今度はネクタイをちゃんと着用して、動画の撮影に集中したいと思っていた。すると、小中学校時代の別の親友(KF)に遭遇し、彼と一緒に人ごみをかき分けてスタート地点に向かった。すると吸い込まれるようにして私たちはレストランに入った。ランナーたちがエネルギー補給を兼ねてそこで朝食を食べており、私たちも朝食ビュッフェを食べようと思った。私たちはあるチームに所属しており、チームが事前にそのレストランに連絡をしてくれているようだったので、チーム名を伝えて朝食を食べることにした。しかし、ビュッフェを食べられる時間はわずか10分という厳しい制限が課せられていたので、急いでご飯を取りに行くことにした。客用のテーブルにある食材が運ばれてきた。見ると、美味しそうな麺類で、野菜も豊富だったのでそれをまず取ろうと思った。すると、小中高時代のある親友(HO)と同じタイミングで手を伸ばしたが、自分の方が先にその場にいたのでまず自分が先に取ることにした。それに対して彼はとても不満だったようで、それを表情に露わにした。私は彼の不満そうな表情を見るのが嫌で、イラついた気持ちになり、彼の皿に麺を盛るのではなく、彼の服の上に大量の麺を盛ってその場を去った。その瞬間に、随分と大人気ないことをしてしまったと反省し、突発的な怒りが生じることとそれをすぐに行動に移してしまうことは長年の課題であると深く反省した。彼に先に麺類を取らせてあげれば良かっという後悔の念が残った。フローニンゲン:2026/7/10(金)07:04
18992. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の舞台が見知らぬ日本の大都市であることは、自分がこれから足を踏み入れる新しい社会的空間を象徴しているのかもしれない。そこは故郷でありながら見知らぬ場所であり、親しさと異物感が混ざり合う都市である。マラソン大会におびただしい数の参加者がいることは、自分が人生の次の局面において、多くの他者と同じ出発線に立ちながらも、自分固有の走り方を見つけようとしている状態を示しているように思われる。大都市の群衆は、社会的期待、競争、移動、評価の渦であり、その中で自分は単に走るだけでなく、どのような姿で走るのかを問われているのだろう。NKとドイツ人の友人に連絡しなければならないという感覚は、過去の親密な自己と国際的な自己の双方に対して、何らかの調整を行う必要性を示しているのかもしれない。特に動画の撮り直しは、自分の社会的提示のやり直しを意味しているように思われる。スーツとネクタイは、公的な自己、知的な自己、社会に向けて整えられた自己の象徴である。しかしネクタイが下がり、曲がっていたために目が泳いでいたという場面は、外見上の整合性を気にするあまり、本来伝えるべき中心から意識が逸れてしまう状態を表しているのだろう。ネクタイは首元にある小さな旗のようなものであり、それが曲がるだけで、自分の意識全体が風に煽られる帆のように不安定になる。夢は、自分が形式を整えることと、内側から自然に語ることのバランスをまだ探っていることを示しているのかもしれない。KFと出会い、人ごみをかき分けてスタート地点へ向かう場面は、幼少期からの生命力や素朴な友情が、現在の移行期における伴走者として現れている可能性がある。ところがスタート地点に向かうはずが、吸い込まれるようにレストランへ入る。これは、走る前にまだ補給すべきもの、すなわち身体的・感情的な滋養が残されていることを暗示しているのだろう。マラソンは長期的な人生課題であり、レストランはその前に必要な魂の厨房である。そこではチーム名を伝えることで食事が可能になる。つまり、自分は完全な孤独な走者ではなく、何らかの共同体や系譜に属する者として、エネルギーを受け取ろうとしているのだと思われる。しかし、朝食に許された時間がわずか10分であることは、自分の内側にある焦燥感を映しているのかもしれない。十分に味わう時間がない。滋養すらも急いで摂取しなければならない。そこで現れる麺類と野菜は、生命力、柔軟性、消化可能な知恵の象徴である。麺は一本一本が絡まり合った縁起の糸のようであり、野菜は土から来た滋養の記憶である。それをHOと同時に取ろうとする場面は、限られた資源、限られた時間、限られた承認をめぐる古い競争心を示しているように思われる。自分が先にいたという正当性をもとに麺を取ること自体は、自己主張の表れであろう。しかし、HOの不満そうな表情に触れた瞬間、自分の中で怒りが点火する。ここでは相手の表情が鏡となり、自分の奥にある被批判感、拒絶への過敏さ、譲ることへの抵抗が一気に露出したのかもしれない。彼の皿ではなく服の上に麺を盛る行為は、相手を養うはずのものを、相手を汚すものに変えてしまう象徴的反転である。滋養が攻撃に変わるのである。これは、感情の熱が高まった瞬間に、本来なら関係を満たすはずのエネルギーが、関係を傷つける形で噴出する危うさを示しているのだろう。夢の核心は、その直後に反省が生じている点にあると思われる。自分は怒りに飲まれただけではなく、その幼さをすぐに見つめている。これは重要である。無意識は単に課題を暴露したのではなく、それを見つめる成熟した眼差しも同時に示しているのだろう。マラソンの前に起きたこの出来事は、長い道を走るためには脚力だけでなく、感情の瞬発力をどう扱うかが問われることを告げているのかもしれない。人生における意味として、この夢は、自分が次の大きな出発点に立つ前に、社会的な見せ方を整えること以上に、怒りを滋養へと戻す内的錬金術を学ぶ必要があることを示しているように思われる。フローニンゲン:2026/7/10(金)07:59
18993. 仏教における悪
仏教において悪とは、世界のどこかに実体として存在する黒い塊のようなものではなく、心の働きが歪み、苦を生み出す方向へ流れていく状態のことなのだろう。西洋的な神学における絶対悪や、善なる神に対抗する悪の原理とは少し異なり、仏教における悪は、主として不善、すなわち貪・瞋・痴に根差す行為や心の傾向として理解されるように思う。貪り、怒り、無明が絡み合う時、心は澄んだ水面ではなく、濁った泥水のようになる。その濁りが自分の認識を歪め、他者を傷つけ、自分自身をも苦しめるのである。改めて思うのは、仏教は悪を単純に断罪する思想ではないということである。もちろん、悪しき行為を曖昧に許容するわけではない。殺生、偸盗、妄語など、他者を傷つける行為は明確に戒められる。しかし同時に、仏教はその背後にある心の因縁を見ようとする。なぜその人は怒りに呑まれたのか。なぜ欲望に支配されたのか。なぜ自分だけが正しいと思い込んだのか。悪を単なる人格の欠陥として切り捨てるのではなく、無明という深い霧の中で生じた現象として見つめるのである。唯識の観点からすれば、悪は心に薫習された種子が、条件を得て現行化したものとして理解できるのかもしれない。過去の怒り、嫉妬、恐れ、執着は、阿頼耶識の奥深くに微細な種子として蓄えられる。それは消えたように見えて、適切な条件が整うと芽を出す。まるで土の中に眠っていた毒草の種が、湿度と光を得て突然伸び始めるようなものである。したがって悪と向き合うとは、表面に現れた毒草を刈るだけでは足りず、土壌そのものを見直すことである。ここで重要なのは、悪を憎むことと、悪に気づくことは違うという点である。悪を憎むだけでは、しばしばその憎しみ自体が新たな悪の種子になる。正義の名のもとに他者を攻撃する時、自分の心はすでに瞋の炎に焼かれている場合がある。仏教的な向き合い方とは、悪を美化せず、同時に悪を憎悪で増幅させないことであろう。火を消すために、さらに火を投げ込まない態度である。悪と向き合う具体的な道は、まず自分の心の中に生じる微細な不善を観察することから始まるのだと思う。大きな悪は、突然現れるのではない。小さな苛立ち、小さな嫉妬、小さな自己正当化、小さな見下しが、静かに積もっていく。雪崩は一瞬で起こるが、その前に雪は長く降り積もっている。だからこそ、日々の心の動きを丁寧に観察することが必要である。今、自分は何に執着しているのか。何を恐れているのか。何を守ろうとして怒っているのか。その問いが、悪の根に光を当てる。また、仏教は悪を単に抑圧するのではなく、善き心の涵養によって変容させようとする。貪りには布施を、怒りには慈悲を、無明には智慧を育てる。これは、暗闇と戦うというより、灯をともすことに近い。闇そのものを手で掴んで外へ捨てることはできない。しかし光が現れれば、闇は自然に退いていく。悪への対処とは、心の中により強い光源を育てる営みなのだろう。今の自分にとって大切なのは、悪を外側だけに見ないことである。他者の中に悪を見ることは容易い。しかし仏教は、自分の内側にも同じ種子があることを静かに告げる。条件が整えば、自分も怒り、執着し、愚かさに呑まれる存在である。この自覚は、自分を卑下するためではなく、謙虚さと慈悲を育てるためにある。悪を見つめる眼差しが深まるほど、人間存在の脆さが見え、その脆さの底から慈悲が湧いてくるのかもしれない。仏教における悪との向き合い方は、断罪でも逃避でもなく、透徹した観察と変容である。悪を実体化せず、しかし軽視もしない。自他を傷つける働きとして明確に見極め、その根にある無明を智慧によって照らしていく。悪とは、心が道を見失った時に生じる影であり、修行とは、その影を消そうと足で踏みつけることではなく、背後から差し込む光の方向へ静かに向き直ることなのだろう。フローニンゲン:2026/7/10(金)08:47
Today’s Letter
I can learn a lot from martial artists about cultivating somatic awareness in my classical guitar practice. Learning to move my body in a more relaxed way is key to improving my guitar skills. Groningen, 7/10/2026

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