【フローニンゲンからの便り】18946-18949:2026年6月29日(月)
- 1 日前
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タイトル一覧
18946 | 無数の糸をタントラとして編み上げていくこと |
18947 | 今朝方の夢 |
18948 | 今朝方の夢の振り返り |
18949 | 知の老成と青春が出会う場所としての大学 |
18946. 無数の糸をタントラとして編み上げていくこと
—究極の真理を見ないまま百年を生きるより、究極の真理を見て一日を生きるほうが、はるかに尊い—法句経
タントラについて考えていると、宗教実践とは必ずしも何かを捨てることだけではないのだと感じる。むしろタントラは、すでに自分の内側にある力、欲望、感情、身体感覚、イメージ、声、呼吸、象徴を、覚醒へ向かうエネルギーとして編み直していく実践体系であるように思える。語源的にタントラには「織物」や「糸を張るもの」という含意があるとされるが、その比喩はとても美しい。自分の中に散らばっている衝動や感情の糸を、粗末なものとして切り捨てるのではなく、曼荼羅のような一枚の織物へと組み上げていく道なのだろう。仏教におけるタントラ、すなわち密教は、煩悩を単に抑圧するのではなく、その根にあるエネルギーを智慧へと変容させようとする。怒りは明晰な識別力へ、欲望は対象と一体化しようとする強烈な集中力へ、不安は存在の深層に触れようとする感受性へと変えられる可能性がある。もちろん、これは「煩悩のままでよい」ということではない。泥を泥のまま握りしめるのではなく、泥の中から蓮を咲かせるような実践である。だからこそ、タントラには儀礼、真言、印契、観想、曼荼羅、本尊との一体化などが重視されるのだと思う。顕教が、教えを理解し、倫理を整え、瞑想によって徐々に心を浄化していく道だとすれば、タントラは象徴と身体を通じて、悟りの状態を先取りする道だと言えるかもしれない。まだ仏ではない自分が、仏の姿を観想し、仏の言葉として真言を唱え、仏の身体性として印を結ぶ。これは単なる演技ではなく、深層意識に新しい型を刻み込む行為なのだろう。幼い木に支柱を立てるように、覚醒した自己像を先に立て、その形に心身を近づけていくのである。この点で、タントラは非常に心理学的でもある。人間は抽象的な理屈だけでは変わらない。身体が変わり、声が変わり、呼吸が変わり、イメージが変わり、日々反復する象徴体系が変わる時、深い層の自己感覚が変容していく。真言は単なる音ではなく、意識の姿勢を変える振動である。曼荼羅は単なる図像ではなく、混沌とした内面世界を宇宙的秩序へと配置し直す地図である。本尊は外側の神仏であると同時に、自分の奥底に潜む覚醒可能性の象徴でもあるのだろう。ただし、タントラは誤解されやすい道でもある。特殊な儀礼や神秘的な力ばかりが強調されると、かえって自我の肥大につながる危険がある。力を得たい、特別な存在になりたい、秘儀を知りたいという欲望が前面に出ると、タントラは解放の道ではなく、自己陶酔の迷宮になってしまう。だから本来、タントラには師との関係、戒、菩提心、空性理解が不可欠なのだと思う。強い薬ほど、正しい処方が必要になる。タントラは意識の火薬庫に触れる道であり、火を灯すこともできれば、火傷することもある。改めて思うのは、タントラの核心は、世界を拒絶することではなく、世界を覚醒の素材として見直す点にあるということだ。音、色、香り、身体、感情、関係性、欲望、恐れ。それらはすべて、無明の燃料にもなれば、智慧の燃料にもなる。クラシックギターの一音が瞑想になり、呼吸が祈りになり、日常の動作が儀礼になるとすれば、そこにも広い意味でのタントラ的感性があるのかもしれない。世界は逃れるべき牢獄ではなく、正しく見れば、目覚めのために張り巡らされた無数の糸である。タントラとは、その糸を一つひとつ手に取り、混乱の布を覚醒の織物へと変えていく技法なのだろう。フローニンゲン:2026/6/29(月)06:55
18947. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、男女のチームで協働しながらDVDをレンタル屋に返却しに行った。いかんせんDVDの数が多く、テーマごとにひとまとめにしてレンタル屋に持って行っていたのである。実はこれはチームで競うゲームの一つで、その他にも10チームぐらいいた。確かにこのゲームにはエネルギーを随分と割いていたが、逆にそれが心地良く、新たな良質なエネルギーを得るためには、既存のエネルギーを放出する必要があるのだと学んだ。
次に覚えているのは、小学生の時に所属していた地元のサッカーチームのグラウンドで友人たちと楽しくサッカーの練習をしていた場面である。全員すでに身体は大きくなっていたが、中学生ぐらいの身体であった。まず行っていたのは、コーナーキックの練習だった。自分はキックの精度が高いと定評があったので、基本的に自分がキッカーを務めていた。ただし自分のキックは、狙ったところに蹴ることができるが、球速は早くなく、ゆったりとしたボールだったので、チームメイトからカーブをかけながらもう少し早いボールがけれないかとリクエストされた。そのリクエストに応えようと思ったが、まずはストレートに早く蹴ることを試してみた。普段とは違う蹴り方だったが、十分にコントロールが効いており、狙った場所に概ね飛んでいった。これであれば次にカーブをかけて早く蹴ることもうまく行きそうだと思った。するとある友人が、市内の別のチームのエースの選手が小学校を卒業してもチームにやって来て練習に加わってほしいというコーチや下の学年からの要望を受けて悩んだ挙句、結局チームから完全に卒業することを選んだという話を聞いた。自分はそのエースと知り合いだったので、彼の気持ちを考えると、ここでちゃんと卒業を迎えて、次のチームで活躍することを選んだのだろうと思った。フローニンゲン:2026/6/29(月)07:05
18948. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、過去の経験を整理して返却しながら、新しい活動領域へ移行していく心の構造を象徴しているのかもしれない。DVDをレンタル屋に返す場面は、すでに十分に視聴し、吸収し、味わった記憶や学びを、いったん元の場所へ戻す儀式のようである。しかもDVDの数が多く、テーマごとにまとめられている点は、自分の中に蓄積された膨大な経験が、単なる雑多な記憶ではなく、すでに意味の束として分類され始めていることを示しているように思われる。レンタル屋とは、過去の物語を一時的に借り、そこから養分を得て、必要な時期が終われば手放す場所である。そこに返却しに行く夢は、自分がこれまで借り受けてきた世界観、役割、関心、学習テーマを、丁寧に棚へ戻している姿なのだろう。その返却がチーム競技として行われている点も興味深い。男女のチームで協働していることは、自分の内側にある能動性と受容性、論理と感性、意志と関係性が一緒に働いていることを暗示しているのかもしれない。しかも10チームほどが競っているということは、人生の中で複数の可能性や方向性が同時に走っており、自分の内面が一つの静かな倉庫ではなく、活気ある競技場のようになっていることを示しているようである。ここで大切なのは、エネルギーを消耗しているはずなのに、それが心地良く感じられている点である。これは、真に生命的な活動においては、エネルギーは減るだけではなく、川が流れることで清らかさを保つように、放出されることで新しい水脈を呼び込むという感覚を表しているのだろう。自分は、保持することによって満ちるのではなく、適切に手放し、動かし、使うことによって満ちる段階に入っているのかもしれない。次のサッカーの場面は、返却による整理のあとに現れる、身体化された能力の確認であるように思われる。小学生時代の地元チームのグラウンドでありながら、身体は中学生ぐらいになっているという設定は、原初的な情熱の場に、少し成熟した自己が戻ってきていることを示しているのだろう。これは単なる懐古ではなく、かつての自分の根に、現在の発達段階から再び触れる夢である。グラウンドは、魂の土台であり、サッカーは関係性の中で動く知性である。そこでは個人技だけでなく、他者の動き、空間の読み、タイミング、信頼が問われる。自分がコーナーキックのキッカーを務めていることは、集団の中で流れを開始する役割、すなわち場に可能性を供給する役割を担っていることを象徴しているのかもしれない。自分のキックは精度が高いが、球速はゆったりしている。これは、現在の自分の表現や働きかけが、正確で、狙いを外さず、穏やかである一方、周囲からはより速度や鋭さ、曲線的な変化を求められていることを示しているようである。カーブをかけながら速いボールを蹴ってほしいという要望は、単に強くなることではなく、精度、速度、柔軟性を同時に統合する課題である。これはクラシックギターの演奏にも、研究にも、教育実践にも通じる。音を外さないだけではなく、流れを作り、深く曲がりながら、必要な場所へ届く表現が求められているのだろう。そこで自分がまずストレートに速く蹴ることを試す点は重要である。いきなり複雑なカーブを加えるのではなく、まず速度という一要素を取り出して検証している。これは、成長が無謀な飛躍ではなく、要素を分解し、身体で確かめ、次の統合へ向かうプロセスであることを示しているように思われる。そして実際にコントロールが効いていたということは、自分の中にすでに新しい速度に耐えられる基盤が育っていることを暗示しているのかもしれない。ゆったりした正確性から、しなやかで速い正確性へ。これは静かな筆致から、風を含んだ矢のような表現へ移行する予兆である。最後に、別チームのエースが卒業後も戻ってくるよう求められながら、完全に卒業することを選んだ話が出てくる。この場面は、夢全体の結論に近い。能力がある者ほど、過去の場から引き止められる。しかし、真の成熟とは、愛着ある場所に貢献し続けることだけではなく、そこをきちんと離れ、次の場で自分の力を展開することでもある。自分がそのエースの気持ちを理解していることは、自分自身もまた、過去のチーム、過去の役割、過去の学習環境から、感謝をもって卒業しようとしていることを示しているのだろう。DVDの返却とサッカーチームからの卒業は、同じ主題を別の比喩で語っている。すなわち、自分は過去を否定しているのではなく、見終えた物語を返し、蹴り慣れたグラウンドに別れを告げ、新しいフィールドへ向かおうとしているのである。それはエディンバラへの引っ越しを前にした自分を明確に象徴している。フローニンゲン:2026/6/29(月)08:08
18949. 知の老成と青春が出会う場所としての大学
ジェイ・ガーフィールド教授が、大学で教えることの良さは若い人たちと常に接し、そのエネルギーや刺激を受け取れることにあると述べていたことが妙に心に残っている。大学教授という仕事を、研究成果を積み上げ、論文を書き、講義を行う専門職としてだけ捉えるなら、その姿はどこか静的で、完成された知を若者に渡す仕事のように見える。しかし実際には、大学という場はもっと動的な生態系なのだろう。若い学生たちは、まだ形の定まらない問いを抱え、時に未熟で、時に鋭く、時に無防備なまま世界に触れている。その存在そのものが、硬くなりかけた思考に風穴を開けてくれるのだと思う。自分がこれから大学教授になる道を歩むとするなら、それは単に知識を教える側に立つことではない。むしろ、若い人たちの問いによって自分自身も絶えず耕される場に身を置くことなのだろう。教師とは、成熟した樹木のように学生に木陰を与える存在であると同時に、若い芽吹きから春の気配を教えられる存在でもある。学生たちの素朴な疑問、既成概念に染まりきっていない直感、未来に向かってまだ開かれている身体感覚は、自分の研究や教育を絶えず新鮮にしてくれるはずである。とりわけ自分が向かおうとしている仏教研究、唯識、意識の哲学、成人発達理論といった領域は、過去の知の蓄積に深く根を下ろしながらも、常に現代の若い感受性と接続されなければならない分野である。古典は博物館のガラスケースに収められた遺物ではなく、若い問いに触れた瞬間に再び呼吸を始める生きた存在なのだろう。学生が発する一つの問いによって、千年前のテキストが突然こちらを見返してくることがある。その瞬間、教室は単なる授業の場ではなく、過去と未来が交差する小さな港になる。大学で教えることの魅力は、若者からエネルギーをもらうという受動的なものにとどまらないのだと思う。むしろ、若い人たちの存在によって、自分の知が試され、ほぐされ、再編成されるところに核心がある。長年考えてきた概念であっても、初めてその概念に出会う学生の目を通すと、まったく別の光を帯びることがある。教師は知を渡す者であると同時に、知がどのように受け取られ、誤解され、変形され、新たに芽生えるのかを目撃する者でもある。その目撃の連続が、教育者としての生命力を養うのだろう。自分はこれから、研究者として深く掘る力と、教師として若い人たちに開かれる力の両方を育てていく必要がある。深く掘るだけでは井戸の底に閉じこもってしまう。開かれるだけでは風に流されてしまう。大切なのは、深い井戸でありながら、空に向かって開かれていることなのだと思う。学生たちの若いエネルギーは、その井戸に差し込む光であり、水面を揺らす風である。大学教授になる道は、権威へ向かう道ではなく、むしろ問いの共同体へ入っていく道なのだろう。自分が教室に立つ未来を想像するとき、そこにあるのは一方的な講義ではなく、若い人たちの問いと自分の問いが響き合う場である。教師として成熟するとは、答えを多く持つこと以上に、若い問いを受け止め、それによって自分の内側の古い知をもう一度若返らせることなのかもしれない。大学という場は、その意味で、知の老成と青春が出会う稀有な場所なのである。フローニンゲン:2026/6/29(月)08:38
Today’s Letter
Recently, I have felt myself becoming one with non-duality. The cosmos unfolds through me. Groningen, 6/29/2026

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