【フローニンゲンからの便り】18943-18945:2026年6月28日(日)
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タイトル一覧
18943 | 土壌の借受費用としてのエディンバラ大学での学費 |
18944 | 今朝方の夢 |
18945 | 今朝方の夢の振り返り |
18943. 土壌の借受費用としてのエディンバラ大学での学費
二日間にわたる猛暑日が過ぎ、昨夜から今朝にかけて大雨が何度か降り、途中で目覚めるほどだった。今はもう雨は降っておらず、穏やかな日曜日の世界が広がっている。明日からの来週は涼しい日が戻ってくるが、再来週の初旬は再び30度に到達する日がやって来るようだ。7月の段階で夏日がこれほどまでやって来るのは少し珍しいように思う。逆に7月や8月が涼しいことを期待したい。
エディンバラ大学の学費は600万円ほど隣、それは決して小さな金額ではない。これまで積み上げてきた生活の蓄えが、一つの学びの門をくぐるために大きく動いていく。その事実だけを見れば、慎重になって当然である。しかし同時に、自分の内側には、これは単なる授業料ではなく、次の博士課程への扉を開くための鍵なのだという感覚がある。エディンバラ大学の仏教学の修士プログラムは、自分にとって単なる学位取得の場ではないように思う。それは、これまで日本語と英語、成人発達理論と唯識思想、実務と学術、自己探究と仏教研究のあいだで育ててきたものを、正式な学術的文脈の中に移植するための苗床である。これまで自分の内側で育ってきた根は確かにある。しかし、その根を世界の学術空間に張り出していくためには、適切な土壌、指導者、研究環境、同じ問いを共有する人々との接点が必要である。600万円は、その土壌を借り受けるための費用なのかもしれない。もちろん、投資である以上、回収という発想も頭をよぎる。ただしこの場合の回収は、単純な金銭的リターンだけでは測れない。博士課程への進学可能性が高まること、研究者としての信頼性が増すこと、仏教研究の正式な訓練を受けること、良遍や法相唯識に関する研究を英語圏に向けて展開できる足場を得ること。それらは、目に見える数字にはすぐ変換されないが、人生の地下水脈を変えるほどの価値を持つ可能性がある。地下深くに水路を通す工事は、地表から見るとただ費用が消えていくように見える。しかし、やがてそこから泉が湧き出すなら、その工事は浪費ではなく、未来の潤いを準備する営みである。自分にとって重要なのは、600万円を失うという感覚ではなく、600万円を何に変換するのかという視点である。それは時間に変わる。集中に変わる。指導に変わる。英語圏での研究資格に変わる。図書館、講義、論文指導、研究者ネットワーク、そして博士課程への推薦可能性に変わる。貨幣は、使わなければ安全な数字として残るが、本当に大切な局面では、貨幣は火種のように使われるべきなのだろう。薪として燃やされることで、初めて次の創造を温める。この修士課程は、自分にとって橋であるように感じられる。これまでの15年ほどの探究生活と、これからの博士研究とを結ぶ橋である。橋を架けるには費用がかかる。しかし橋がなければ、向こう岸にある研究生活には辿り着けない。しかもその向こう岸には、単なる個人的な達成ではなく、法相唯識を現代の思想空間に再び息づかせるという、自分にとって切実な仕事が待っているように思う。そう考えると、今回の授業料は、贅沢品への支出ではない。むしろ、自分のこれまでの歩みとこれからの使命を接続するための通行料である。もちろん、慎重な資金管理は必要である。生活費、家賃、博士課程出願までの見通し、奨学金の可能性などを冷静に見ていく必要がある。しかし、その冷静さと同時に、ここで大きく賭ける感覚も必要なのだと思う。大きな扉の前に立ったとき、小さな鍵では開かないことがある。今の自分は、単に学費を払おうとしているのではなく、未来の研究者としての自分に、席を用意しようとしているのだろう。その席に座る資格を得るために、今、持てる資源を差し出す。その行為には、少しの怖さと、それを上回る静かな確信がある。600万円は安くはないが、その重さは、自分がこれから歩もうとしている道の重さと釣り合っているのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/28(日)07:21
18944. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見知らぬリゾート地にいた。まずそこにある広いアートギャラリーの中にいた。アートギャラリーと言っても絵画作品が飾られているわけではなく、ここからいくつかの作品を搬入してギャラリーをオープンするようだった。私はそこで、小中学校時代のある友達と一緒にボランティアとして働いていた。数日以内に開催する予定のイベントに向けて、書籍と食料の仕分けをしていた。搬入された書籍の中に自分が出版した書籍もあり、それがまた顔の知らない誰かのもとに届き、読んでもらえることを想像すると嬉しくなった。食料の仕分けをしているときに、黒酢のパックが目に留まった。そのパックの中身は空で、隣のペットボトルに粒状になった黒酢が入っていて、それをパックに移して水を入れると黒酢になるようだった。保存の観点でそのような形状になっているのかなと想像し、黒酢は体に良いので、一つもらって帰ろうかと思ったが、それはイベント参加者のためのものなので、パックを所定の場所に戻した。ふと気がつくと、自分は船が停留している波止場にいて、海を泳いでいた。隣には中学生ぐらいの外国人の女の子がいて、自分も彼女と近い年齢のようだった。彼女たちと話をしながら、リゾート地のホテルに向かって気持ちよく泳いでいると、こうして自然と身体全体を通じて触れ合うことの心地良さと重要性を改めて思った。ホテルに到着すると、受付の近くで小中学校時代のある友人(RS)と出会った。彼は両親と姉と一緒に宿泊しているらしく、受付の方向を教えてくれた。スパのエリアを抜けて受付に行くと、両親がいて、自分の到着を喜んだ。しかし、両親が今よりもずっと若く、顔も違って見えたのは不思議だった。
その他に覚えている夢として、誰もいない体育館にいる場面があった。静まり返った体育館の空気感を味わって外に出ると、そこでは草サッカーが行われていて、自分も選手として出場することになった。ポジションは右サイドハーフで、サッカーのゲームをするのは久しぶりだったので、体がどこまでついていくか気になったが、とにかく楽しく気持ち良くプレーしようと思った。そのおかげか、感覚が鈍っていない精度の高いクロスを何度も入れることができ、味方の特典をアシストすることができた。
そう言えば、見慣れない外国の駅のプラットホームにいて、やって来た列車に飛び乗った場面があったのを思い出した。急いで列車に乗り、席を確保しようとし、無事に1人用の席を確保できたのだが、遅れてやってきた中年の小柄なアジア系の女性にその席を譲ることにした。自分は席を立ち、前方の席に座っていた両親のところに行き、健康のために自分はそこからは立って過ごそうと思った。フローニンゲン:2026/6/28(日)07:50
18945. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内側で「作品を生み出す者」から「作品を手渡す者」へと重心が移りつつあることを象徴しているように思われる。見知らぬリゾート地のアートギャラリーは、すでに完成した展示空間ではなく、これから開かれる場である。そこに絵画がまだ飾られていないという点は重要である。自分の未来は、すでに固定された展示物ではなく、これから搬入され、配置され、他者に開かれていく生成途中の空間なのだろう。そこに書籍と食料が運び込まれていることは、知の糧と身体の糧が同時に準備されていることを示しているのかもしれない。自分の書籍がその中に含まれていた場面は、自分がこれまで言葉として結晶化してきたものが、顔の見えない他者の手に渡っていく喜びを表しているだろう。書物は、瓶に詰められた光のようなものである。誰かが開いた瞬間に、その人の内側で別の明かりになる。ここで自分は、所有者ではなく媒介者として立っている。黒酢を持ち帰ろうとして戻した場面も、まさにその倫理を示しているようである。身体に良いものを自分のために確保したい欲求はあるが、それはイベント参加者のために置かれている。自分の中で、受け取ることよりも、場を整えること、必要な人に届くようにすることが優先され始めているのだろう。黒酢が液体ではなく粒状で保存されていた点も興味深い。これは、知恵や生命力がすぐに飲める形ではなく、乾いた種子のように保存され、必要なときに水を得て再活性化することを象徴しているのかもしれない。今の自分の内側には、過去の学び、出版、研究、音楽、身体実践が粒状の潜勢力として保存されており、新しい環境という水に触れることで再び発酵し始めるのだろう。場面が波止場と海に移ることは、陸上の整理から水中の移行への転換である。ギャラリーでは仕分け、海では遊泳である。つまり夢は、知的・社会的な準備から、身体全体で世界に触れる段階へと自分を移している。外国人の少女と同じ年齢のようになって泳いでいる場面は、自分の中の若い感受性、まだ国籍や役割に固まりきっていない柔らかな自己が、異国の未来へ向かって泳ぎ出している姿なのだろう。海は境界を溶かす巨大な羊水であり、そこで自分は、頭で世界を理解するだけでなく、皮膚と呼吸と全身で世界に参加することの大切さを思い出しているようである。ホテルでRSと出会い、受付へ導かれ、若い両親に迎えられる場面は、到着と再誕のイメージである。ホテルは一時的な滞在地でありながら、旅人を受け入れる仮の家でもある。そこで両親が若く、顔も違って見えるのは、自分の出生源そのものが再構成されていることを暗示しているのかもしれない。現実の両親ではなく、自分をこの世界に送り出した根源的な父母像が、別の姿で現れているのだろう。新しい土地へ移る自分は、単に場所を変えるのではなく、もう一度生まれ直す入口に立っているのかもしれない。誰もいない体育館は、潜在能力が静かに眠る内的空間である。そこから外に出ると草サッカーが行われ、自分は右サイドハーフとして参加する。右サイドは、中心ではなく周縁から流れを作る位置である。久しぶりでも精度の高いクロスを入れ、得点を助けることができたのは、自分の役割が必ずしもゴールを決めることではなく、他者が輝くための軌道を描くことにあることを示しているようである。これは教育、執筆、研究、音楽のすべてに通じる象徴だろう。外国の駅で列車に飛び乗る場面は、人生の移行期そのものを映していると思われる。自分は席を確保するが、遅れて来た女性に譲る。そして両親の近くへ行き、立って過ごすことを選ぶ。ここには、確保した安定を手放し、移動そのものを身体で引き受ける成熟がある。座席は安心の象徴であり、立つことは鍛錬の象徴である。この夢全体は、自分が知を所有する段階から、知と身体と関係性を通じて世界に奉仕する段階へ移行しつつあることを、リゾート、海、競技場、列車という複数の舞台を使って示しているのだろう。フローニンゲン:2026/6/28(日)08:48
Today’s Letter
I’m having new experiences and learning every day so that I may someday return fully to universal consciousness. I devote myself wholeheartedly to this aim. Groningen, 6/28/2026

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