【フローニンゲンからの便り】18935-18938:2026年6月26日(金)
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タイトル一覧
18935 | 書物を背負って歩く巡礼者からの変容 |
18936 | 今朝方の夢 |
18937 | 今朝方の夢の振り返り |
18938 | クラシックギターを通じた意識探究 |
18935. 書物を背負って歩く巡礼者からの変容
早朝の6時半、辺りは朝日と小鳥たちの囀りで満ちている。今は17度と涼しいが、今日はオランダ政府からも通達があった通り、35度に到達する猛暑日となる。正午過ぎから夜にかけて随分と気温が上がるようなので、暑さに応じて活動内容を変えていこうと思う。
昨日の夕暮れ時、なぜこの世界はこんなにも豊かに多様なのだろうか、とふと考えていた。目の前に見える植物たちや動物、そして昆虫の姿からそのようなことを考えていた。そして80億人の人間という多様性についても思考が巡っていた。書籍の断捨離をしながら、自分の中で一つの時代が静かに畳まれていくのを感じる。決して書物への愛が失われたわけではない。むしろ、長年にわたって自分を育ててくれた書物たちへの感謝は、以前よりも深くなっている。背表紙を眺めるたびに、それぞれの本が自分の思考の季節を支えてくれたことが思い出される。ある本は留学前の不安を支え、ある本は思想の迷宮に入るための松明となり、ある本は自分の言葉を鍛える砥石となった。しかし今は、それらすべてを物理的に抱え続ける段階から、自分の内側に吸収されたものだけを携えて進む段階に移りつつあるのだろう。これまでは、知を外側に集めることに大きな意味があった。書籍は、自分にとって精神の倉庫であり、未踏の山脈であり、必要なときに戻ることのできる聖域でもあった。しかし、断捨離を進める中で気づくのは、すでに多くの言葉が自分の血肉になっているということである。手放す本は、完全に失われるのではない。長年読まれ、考えられ、引用され、咀嚼されてきたものは、目に見えない養分として自分の中に沈んでいる。落葉が土に還り、次の春の芽吹きを支えるように、書物もまた、自分の内側で別の生命形態へと変わっていることが期待される。そして今、自分は自然言語以上に音楽言語から肥やしを得る時期に入っているように思う。言葉は世界を分節し、概念を作り、意味の骨格を立ち上げる。しかし音楽は、それ以前のところで世界に触れる。音は、まだ言葉にならない感覚の水脈に直接触れてくる。クラシックギターの一音、文化箏の響き、平調子の静かな揺らぎは、概念の窓からではなく、身体の扉から世界を開いてくれる。言葉が地図だとすれば、音楽は土地そのものの湿り気である。地図を読み込んできた自分が、これからは実際に裸足で大地を歩き、その感触から学ぶ時期に入ったのだろう。本当に必要な書籍だけを残すという決意は、知性を捨てることではない。むしろ、知性をより精妙に絞り込む行為である。何でも持っている状態は、一見豊かに見えるが、ときに内的な流れを重くする。これからの自分に必要なのは、大きな蔵ではなく、よく調律された楽器のような生活である。必要なものだけが手元にあり、余白があり、空気が通り、すぐに音を出せる状態である。身軽さとは、所有物の少なさだけではなく、次の響きに応答できる柔軟性なのだと思う。書物の時代が終わるのではなく、書物によって耕された土壌に、音楽という新しい植物が本格的に根を張り始めているのである。自然言語によって世界を理解してきた自分が、音楽言語によって世界と共鳴しようとしている。そこでは、意味は説明されるものではなく、響きとして立ち上がる。概念は輪郭を与えるが、音楽は深度を与える。これからの自分は、書物を背負って歩く巡礼者から、内側に響きを宿して歩く楽器のような存在へと変わっていくのかもしれない。書籍を手放すことは、知の喪失ではなく、知が音へ、音が身体へ、身体が生活へと移り変わるための静かな転調なのである。フローニンゲン:2026/6/26(金)06:32
18936. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない部屋で京大の数学の入試問題を解いていた。問題は文理共通のもので、最初の問題が自分が苦手としている空間図形の問題だった。体積を求める際に味方を色々と工夫をし、その上で積分を巧みに活用する必要があるということは閃いたが、それらの手順を追っていくと計算量が膨大なものになることが予想され、計算ミスが発生しそうで、尚且つ最後まで計算ができない可能性もあったので、その問題を飛ばすことにした。次に取り掛かったのは、京大の数学にしては珍しい長大な文章問題だった。テーマは確率で、その最初の小問は簡単そうだったので、そこは必ず得点しておこうと思った。ただ、例年とどうも傾向が随分と違い、問題も確実に難化しており、全ての受験生が苦戦を強いられる中で、自分はどのように振る舞うかが重要に思えた。一問も完答できない可能性があることを承知で、いかに小問で正解し、部分点をきっちり獲得していくかという戦略に切り替えることにした。
次に覚えているのは、見慣れない高校が舞台になっている場面だった。高校の廊下にローラーのコースが設置されており、生徒たちがその上を滑りながらゴールを目指すという競技が行われていた。自分もそれに参加しており、ローラーの上を滑りながら、先を行く小中学校時代の女性友達(AS)に追いつこうと考えていた。結果的に彼女に追いつくことはできず、先に上層階のゴールに着いたようだった。後からゴールした自分を含め、その日は猛暑日だったこともあり、全校生徒が汗だくになっていた。これから校舎内にあるシャワー室でシャワーを浴びてさっぱりしようと思い、着替えを取りに教室に戻った。すると高校時代のクラスメートのある女性友達がいて、彼女とこの暑さについて話をし、そんな中で競技を終えたお互いの健闘を称え合った。フローニンゲン:2026/6/26(金)06:42
18937. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、変化する環境の中で、自分がどのように知性と身体を使い分け、無理に完答を狙うのではなく、状況に応じて部分的な確実性を積み上げていく段階に入っていることを象徴しているのかもしれない。京大の数学入試という舞台は、単なる学力試験ではなく、今の自分が向き合っている高度な知的課題の象徴であるように思われる。とりわけ空間図形の問題は、目に見えない構造を立体的に把握しなければならない課題であり、これは法相唯識、量子論、意識研究、成人発達理論などを統合しようとする自分の現在の探究姿勢と響き合っているのではないだろうか。体積を求めるために見方を工夫し、積分を使う必要があると閃く場面は、自分の中にすでに解法の方向感覚が育っていることを示しているようである。ただし、そのまま突き進めば計算量が膨大になり、途中で破綻する可能性がある。これは、深遠な問いに対して一気に全体解を出そうとすると、思考の迷宮に入り込む危険があることを夢が告げているのかもしれない。そこで自分は、その問題を飛ばす。この判断は逃避ではなく、戦略的撤退であると思われる。山道で霧が深くなったとき、頂上への最短路に固執するのではなく、足元の石を確かめながら別の尾根へ移るような判断である。今の自分には、すべてを完全に理解し尽くすことよりも、今ここで確実に掴める小問を丁寧に得点する態度が求められているのかもしれない。長大な確率の文章問題は、人生や研究の不確実性そのものを表しているようである。例年と傾向が違い、難化しているという感覚は、エディンバラ移住、研究転向、生活の整理、書籍の断捨離など、自分を取り巻く条件が従来の延長線上では解けなくなっていることを暗示している可能性がある。その中で、自分は完答主義から部分点主義へと切り替える。これは非常に重要な象徴である。完全な一撃ではなく、小さな正解を積み重ねること。壮大な理論体系を一気に築くのではなく、翻訳の一文、注釈の一つ、音の一粒、生活上の一手続きを確実に進めること。夢は、自分に対して、今は大伽藍を一夜で建てる時期ではなく、礎石を水平に据える時期であると示しているのかもしれない。後半の高校の場面では、知性の試験から身体の競技へと舞台が移る。廊下に設置されたローラーのコースは、人生の通路がそのまま運動場になっているような象徴である。通常は歩くべき廊下が滑走の場に変わっている点に、日常の環境そのものが修行場へ変容している感覚が表れているのではないだろうか。自分はローラーの上を滑りながら、小中学校時代の女性友達に追いつこうとする。彼女は、過去の自分が持っていた無邪気さ、軽やかさ、あるいは直感的な先導性を象徴しているのかもしれない。追いつけなかったことは敗北というより、過去のある感性がすでに先に上層階へ到達しており、自分はそれを後から統合しようとしている状態を示しているように思われる。上層階のゴールは、発達上の次の階層であると考えられる。そこへ向かう道は、机上の計算だけではなく、汗をかく身体的な滑走を通じて開かれている。猛暑の中で全校生徒が汗だくになる場面は、変容が個人的なものにとどまらず、同じ時代を生きる多くの者に共通する熱負荷として現れていることを示しているのかもしれない。誰も涼しい場所から簡単にゴールしているわけではない。全員が熱の中で、自分なりの滑り方を試しているのである。最後にシャワーを浴びようとする場面は、競技後の浄化である。汗は努力の残滓であり、シャワーはそれを洗い流して新しい状態に移る儀式のように見える。着替えを取りに教室へ戻り、高校時代の女性友達と健闘を称え合う場面は、過去の人間関係の中に眠っていた温かい承認が、今の自分を内側から支えていることを示しているのではないだろうか。競争の夢でありながら、最後に残るのは勝敗ではなく、互いの努力を認め合う空気である。この夢全体は、知性の試験と身体の競技を二重写しにしながら、自分が完璧な解答者から、状況に応じて部分点を拾い、汗をかき、最後に身を清める実践者へ移行していることを物語っているようである。壮大な問いの前で小さな正解を掴み、熱い現実の中で滑り続ける。その姿は、難化した世界を生きる自分にとって、最も現実的で、最も深い知恵の形なのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/26(金)07:44
18938. クラシックギターを通じた意識探究
クラシックギターを通じて意識を探究するとは、単に良い音を出す練習をすることではなく、音が生まれる瞬間に立ち会う意識そのものを観察することなのだと思う。弦に指が触れ、わずかな抵抗があり、そこから音が立ち上がり、空間に広がり、やがて消えていく。その一連の出来事を丁寧に観察すると、音は単なる物理的振動ではなく、意識の中に現れる出来事であることが感じられてくる。ギターは木と弦でできた楽器であるが、同時に、意識の深部に降りていくための小舟のようなものでもある。そのためには、まず一音を弾く前に、自分の内側にどのような状態があるのかを観察することが大切である。早く弾きたい焦り、良い音を出したい欲、失敗を避けたい緊張、昨日より上達していたいという期待。そうしたものが、弦に触れる前からすでに音の質を決め始めている。つまり、音は指先から生まれるだけではなく、弾く前の意識の構えからすでに始まっているのである。ここに、意識探究としてのギター演奏の入口がある。次に、一音を弾いた瞬間に、主体と対象の関係を観察してみるとよい。自分が音を出しているのか、音が自分の中に生じているのか。あるいは、指、弦、木、空気、耳、注意が一つの場となって、音という出来事を共同で立ち上げているのか。深く集中していると、演奏者である自分と、聴かれている音との境界が少しずつ柔らかくなることがある。弾いている自分がいて、そこに音があるというより、音の流れの中に自分が一時的に浮かんでいるような感覚が生まれる。このとき、意識は所有物ではなく、出来事の場として感じられるのではないか。また、音が消える瞬間を観察することも重要である。多くの場合、自分は音の発生には注意を向けるが、音の消滅にはあまり注意を払っていない。しかし、音が消える瞬間には、無常の精妙な姿がある。音は確かに現れたが、どこにも固定されず、名残だけを残して消えていく。そこに注意を向けると、意識もまた、固定した実体ではなく、生起と消滅を繰り返す流れであるように感じられる。阿頼耶識を川の流れに譬えるなら、一音一音はその水面に現れる光の破片である。具体的な方法としては、即興演奏を意識探究の場にするのがよいだろう。決まった曲を弾くと、正しく弾くことに意識が向かいやすい。もちろんそれも重要であるが、即興では、次にどの音が生まれるのかを自分自身も完全には知らない。その未知の余白に耳を澄ませると、意識の創造性が観察しやすくなる。音を考えてから弾くのではなく、音が向こうからやって来るのを待つ。そのとき、自分は作曲者であると同時に、聴き手でもあり、媒介者でもある。井戸から水を汲むように、深い意識の層から音を汲み上げている感覚が生まれるかもしれない。さらに、演奏後に短く記録を残すとよいだろう。今日の音は硬かったのか、柔らかかったのか。弾いているときに自己意識は強かったのか、弱かったのか。音と身体は分離していたのか、一体化していたのか。演奏中に思考は増えたのか、静まったのか。こうした観察を続けると、ギター練習は単なる技術向上の記録ではなく、意識状態の変化の記録になる。夢日記が夜の意識の地図であるなら、ギター日記は目覚めた意識の地図になるのである。結局、クラシックギターを通じた意識探究とは、音を対象として分析することではなく、音を通じて意識が自らを照らし返す過程なのだろう。弦の振動を聴いているようで、実は自分は意識の振動を聴いている。音色を整えているようで、実は注意の質を整えている。演奏が深まるほど、ギターは外側の楽器であることをやめ、意識の鏡となる。その鏡に映るものを毎日静かに見つめることが、自分にとっての意識探究の一つの確かな道になるのだと思う。フローニンゲン:2026/6/26(金)08:44
Today’s Letter
For me, playing classical guitar is a wonderful alternative form of meditation. It reflects the nature of my consciousness in the present moment. Exploring consciousness through classical guitar may become my lifework. Groningen, 6/26/2026

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