【フローニンゲンからの便り】18930-:2026年6月25日(木)
- 1 時間前
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タイトル一覧
18930 | 2500冊ほどの書籍を手放すことにして:蔵書の減退・内蔵の増大 |
18931 | 今朝方の夢 |
18932 | 今朝方の夢の振り返り |
18933 | 知の軽やかさと発酵 |
18934 | 運動の効率性を絶えず意識すること |
18930. 2500冊ほどの書籍を手放すことにして:蔵書の減退・内蔵の増大
昨日は気温が32度に達する真夏日だったが、早朝6時前の気温は18度と大変涼しい。今日の最高気温は26度と過ごしやすいが、明後日はなんと36度に達する猛烈な真夏日である。しかしそうした日でもクーラーを必要とせず、2階ではなく1階に降りればなんとか過ごせるだろう。
この15年の生活を振り返ると、書物は単なる情報源ではなく、自分にとって一種の森であったのだと思う。森の中には細い小道があり、巨木があり、苔むした石があり、時に迷路のような暗がりもあった。自分はその森を歩きながら、成人発達理論、唯識、量子論、意識研究、哲学、心理学、教育学といった多くの木々に触れてきた。最初は1000冊ほどだと思っていた蔵書が、実際には2500冊ほどに及んでいたという事実は、この15年の探究がどれほど書物に支えられていたかを静かに物語っている。けれども、今その書物を手放していることは、探究を捨てることではない。むしろ、探究の器が変わり始めているのである。書物は外側に積まれた知の結晶であったが、それらを読み、考え、書き、語ってきた時間は、すでに自分の内側に沈殿している。大量の本を手放すことは、知を失うことではなく、知が外部の棚から身体の奥へと移住する過程なのかもしれない。蔵書が減っていく一方で、内面の蔵はむしろ深くなっているように感じられる。これまでの探究は、書物という井戸から水を汲む営みであった。もちろん、その井戸は今後も必要である。学術研究を続ける以上、文献を読み、論文を書き、先行研究と対話することは不可欠である。しかし、これからは井戸の水だけでなく、雨、川、海、霧のような別の水にも触れていく段階に入るのだろう。音楽実践は、言葉になる前の知性に触れる道である。クラシックギターの一音、文化箏の響き、即興の中で生まれる微細な揺らぎは、概念ではつかめない実在の肌理を教えてくれる。書物が地図であるなら、音楽は足裏で感じる地面である。また、他者との対話もこれからますます重要になるのだと思う。書物との対話は深いが、そこにはどうしても自分の読みの枠が入り込む。他者との対話では、予期しない問いが投げ込まれ、自分の認識の壁に風穴が開く。相手の声、沈黙、表情、ためらい、その場の空気は、どれも書物には完全には収まらない知の形式である。これからの探究は、紙の上だけで完結するものではなく、響き合い、揺さぶられ、共に形を変えていく生きたプロセスになるのだろう。2500冊の断捨離は、過去との決別ではなく、過去の凝縮である。まるで長い航海を終えた船乗りが、持ち帰った膨大な荷物を整理し、本当に必要な羅針盤と楽器だけを手元に残すようなものである。書物はこれまで、自分を遠くまで運んでくれた帆であった。しかし次の航海では、帆だけでなく、身体の感覚、音の流れ、他者との対話、日々の沈黙が風を受けることになる。ここからの自分は、書物を軽んじるのではない。むしろ、書物に過度に依存しないからこそ、書物をより自由に、より深く読むことができるようになるのだと思う。棚に囲まれる探究から、身体で響かせる探究へ。所有する知から、奏で、語り、分かち合う知へ。今起きているのは、知的生活の縮小ではなく、探究形式の変容なのである。フローニンゲン:2026/6/25(木)06:01
18931. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、従姉妹の女子大学生の部屋にいた。彼女のことを自分は最初面識がないと思っていたが、そういえば自分の従姉妹であると思い出し、敬語をやめて親しみを込めて話し始めた。大学生の下宿先とは思えないほどに広い部屋で、彼女はとても快適に暮らしているようだった。座って少し話をすると、彼女が立ち上がって飲み物を持ってきてくれようとした。その時に、リビングの奥にある扉が気になったので尋ねてみると、なんとその先には長い廊下があるとのことだった。彼女は飲み物の準備の手を止めて、扉の先を案内してくれた。扉を開けると、確かに長い廊下があったのだが、それ以上に驚いたのは、廊下の右側には畳部屋がずっと続いていて、それぞれの部屋の襖が開けられた状態で、部屋では子供たちと先生が勉強しており、どうやらそこが塾になっているのだと気づいた。彼女が廊下の向こう側まで歩いて消えていったのを見て、自分も先を急いで歩くと、畳部屋の最後の部屋に見たことのある顔があった。そこには大学時代のゼミの中国人の友人がいて、彼がそこにいることに驚き、思わず声を掛けた。彼は振り向き、自分がそこにいることを知ると、大きな笑みを浮かべて駆け寄ってきた。そして彼は私に握手を求め、私はハグを求め、お互いに異なる動作でチグハグしたので笑った。彼曰く、彼は今この塾を経営している経営者らしく、自分も先生として授業をしているとのことだった。彼のアシスタントの女性がこちらにやって来て、その方は自分の書籍や研究テーマに強い関心があり、自分と会えて大変嬉しいと目を輝かせながら述べた。彼が自分がエディンバラ大学に進学することを知っていたことは驚きで、どこかのタイミングでエディンバラにやって来るそうなので、その時は必ず会ってゆっくり話そうと伝えた。
次の覚えているのは、見慣れないセミナールームでリコーダーの講習会を受けている場面である。先生は若い男性で、その方が弾き方を示してくれるのだが、自分は先生の手の動かし方を頭ではわかっているが、体で表現することは難しかった。しばらくその時間が続くと、これ以上先生を真似て演奏していると嫌になりそうだったので、突然自分なりのスタイルでの即興演奏を始めた。すると体が抑圧から解放されたかのように喜び始め、やはり自分は己のスタイルを磨くことに注力した方がいいのだと悟った。するとセミナールームに大学時代のゼミの友人が数人やって来た。彼らのうちの1人が人生上の悩みを抱えているとのことだったので、残りの全員で相談に乗った。彼の話を聞きながら、根本的な問題解決は彼自身が発達すること、そしてマインドセットが変わることにあるように思えた。フローニンゲン:2026/6/25(木)06:16
18932. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内面にある「学びの住居」が、思いがけず大きく拡張していることを示しているのかもしれない。最初に登場する従姉妹の女子大学生は、まだ十分に意識化されていない若い知性、あるいは新しい生活段階に入ろうとする自分自身の一側面を象徴しているように思われる。面識がないと思っていた相手が実は従姉妹だったという展開は、自分が未知だと思っていた可能性が、実はすでに血縁のように深く内側に属していたことを暗示しているのだろう。彼女の部屋が大学生の下宿先とは思えないほど広いことも重要である。これは、これから始まるエディンバラでの生活や研究が、単なる住まいの変化ではなく、内的空間の拡張として感じられていることを表しているのかもしれない。リビングの奥の扉は、日常意識の奥に隠れていた通路である。扉を開けると長い廊下があり、その右側に畳部屋の塾が続いているという構造は、西洋的な大学生活へ向かう途上に、日本的・東洋的な学びの場が連なっていることを示しているようである。まるで近代的な部屋の奥に、古い寺子屋のような精神の回廊が保存されていたかのようである。そこに大学時代の中国人の友人が現れることは、自分の過去の学び、人間関係、東アジア的知の文脈が、現在の研究的使命と再接続される兆しなのだろう。彼が塾を経営し、自らも授業をしているという場面は、学問が書斎の中だけでなく、教育共同体として形を取る可能性を示していると思われる。握手とハグが食い違う場面は、知的な再会と情緒的な再会の形式がまだ調整中であることを表しているのかもしれない。とはいえ、そのチグハグさは不和ではなく、笑いを生む。つまり、自分の内面では、異文化的関係、友情、研究、教育が、少し不器用ながらも温かく結び直されつつあるのである。彼のアシスタントの女性が自分の書籍や研究テーマに強い関心を示す場面は、自分のこれまでの仕事が、まだ見ぬ読者や協力者に届き始めていることへの予感であろう。エディンバラ進学を友人が知っていたことも、個人的な進路がすでに無意識の共同体に共有されているという象徴に見える。自分の旅は孤独な移動ではなく、見えない糸で多くの人と結ばれた巡礼なのかもしれない。後半のリコーダー講習会は、技術習得と自己表現の葛藤を描いているようである。先生の動きを頭では理解できるが、体で表現できないという場面は、外部の型を理解する知性と、自分自身の身体的リズムとの間に隔たりがあることを示しているのだろう。ここで自分が突然即興演奏を始め、体が喜び出すのはきわめて象徴的である。自分にとって音楽も研究も、模倣によって完成するものではなく、内側から湧き出る水脈を掘り当てることで成熟するものなのだと思われる。先生の型は地図であり、自分の即興は実際の歩行である。地図を眺め続けるだけでは、足裏は大地を覚えないのである。最後に大学時代の友人たちが現れ、悩みを抱える一人を皆で支える場面は、自分の研究と実践が最終的に人間の発達支援へ向かっていくことを示しているのかもしれない。問題の根本が本人の発達とマインドセットの変容にあると感じる点には、自分がこれまで培ってきた成人発達理論の視座が反映されている。夢全体は、広い部屋、隠れた廊下、畳の塾、旧友との再会、即興演奏、発達支援という形で、自分の過去・現在・未来を一本の地下水脈のようにつなげているようである。これは、自分がこれから異国へ移りながらも、内側では東洋的な学びの家を携え、その家を音楽と研究と教育によってさらに開いていくという予兆なのだろう。フローニンゲン:2026/6/25(木)07:25
18933. 知の軽やかさと発酵
ここ最近は青天が続いている。空の青さがあまりに澄んでいると、かえって机上の文字列から少し距離を取りたくなる。書物を開くよりも、書物を棚から取り出し、必要なものとそうでないものに分け、長く共に歩んできた本を手放していく時間の中に、不思議な豊かさがある。それは知を否定しているのではない。むしろ、長く体内に取り込んできた知が、ようやく紙の束という外形から離れ、自分の内側で別の形に変わり始めている感覚である。書物は、これまで自分にとって森のような存在であった。必要な時に分け入り、思想の木陰に座り、概念の小径を歩き、時に迷いながらも、多くの滋養を受け取ってきた。しかし今は、その森の木々をすべて背負って旅を続ける必要はないのだろう。森を身体ごと運ぶのではなく、森で吸った空気、歩いた感触、木漏れ日の記憶だけを内側に持っていけばよいのかもしれない。本を手放すとは、知の喪失ではなく、知の蒸留であるように思われる。とりわけ面白いのは、書物から離れているはずなのに、内面ではむしろ何かが深く動いていることである。読んでいる時には、知識は外から流れ込んでくる水のように感じられる。しかし読まない時間、手放す時間には、その水が地下に染み込み、目に見えない発酵を始める。表面では静かである。けれども、土の中では微生物が働き、落ち葉が腐葉土になり、やがて新しい芽を支える黒い豊かさへと変わっていく。今の自分の内側でも、それに近いことが起きているのではないか。断捨離という行為は、単に物量を減らす作業ではない。それは、自分が何によって支えられてきたのかを一冊ずつ確認し、その上で、もう外部の支柱として持ち続けなくてもよいものを見極める営みである。本棚から本を抜き取るたびに、そこには小さな空白が生まれる。その空白は、欠落ではなく、呼吸のための余白である。知識で埋め尽くされた棚には安心感があるが、空白を含んだ棚には未来が入ってくる余地がある。おそらく今、自分は「読む人」から「醸す人」へと移行しているのだろう。これまでは外から知を取り入れることが大切だった。だがこれからは、取り入れたものを自分の身体、音楽、文章、沈黙、生活のリズムの中で発酵させることが大切になる。ワインが葡萄そのものではなく、時間と暗がりと見えない変化によって生まれるように、自分の思想もまた、書物そのものではなく、書物を離れた後の沈黙の中で熟していくのかもしれない。青天続きの日々に、書物を手放しながら豊かさを感じるというのは、知が外側の所有から内側の風味へと変わりつつある徴である。これまで積み上げてきた本の山は、自分を高くするための塔であった。しかし今は、その塔を少しずつ崩し、そこから得た石材で、もっと軽やかな道を敷こうとしているのだろう。手放すことによって失われるのは重さであり、残るのは熟成した香りである。書物から離れる時間は、知の終わりではなく、知が自分自身の声になるための静かな発酵の季節なのである。フローニンゲン:2026/6/25(木)08:30
18934. 運動の効率性を絶えず意識すること
ブランダン・エイカー氏の助言の核心は、演奏上の困難に直面したとき、問題を「努力不足」と見なすのではなく、「運動の非効率」と見なすべきだという点にある。難しい箇所に出会うと、多くの奏者は反射的に力を入れる。指を強く押さえ、右手を強く弾き、意識を一点に狭め、なんとか突破しようとする。しかし、その力みは一瞬だけ「頑張っている感覚」を与えるだけで、実際には動きを重くし、タイミングを鈍らせ、音の透明感を失わせるのである。ここで重要なのは、エイカー氏が「努力」を否定しているわけではないことである。否定されているのは、努力を筋肉的な力の増加として理解する態度である。演奏において本当に必要なのは、力を増やすことではなく、必要な力だけを正確に使うことである。これは、重い扉を力任せに押すことではなく、蝶番の位置を理解して、最小の力で扉を開くことに似ている。正しい方向に働く小さな力は、誤った方向に働く大きな力よりもはるかに効果的なのである。クラシックギターの場合、この指摘はとりわけ重要である。左手で弦を押さえるとき、必要以上に強く押さえると、指は次の動きへ移る自由を失う。右手で弦を弾くときも、力を入れすぎると、弦の自然な振動を妨げ、音が硬くなる。つまり、過剰な力は運動の速度を落とすだけでなく、音そのものの生命力を奪ってしまう。速さと音色は別々の問題ではなく、同じ身体の使い方から生まれる二つの結果なのである。エイカー氏が述べている「困難はより大きな力を求めていたのではなく、より高い効率を求めていた」という言葉は、演奏の発達における非常に深い洞察である。難しいパッセージは、奏者に「もっと頑張れ」と命じているのではない。むしろ、「余計なものを取り除け」「動きの経路を見直せ」「力の出し入れをもっと精密にせよ」と促しているのである。これは筋肉の問題であると同時に、認識の問題でもある。問題の見立てが変わると、練習の質そのものが変わる。また、エイカー氏は「努力」と「コミットメント」を区別している。これは非常に重要である。努力とは、しばしば力を増やすことである。だがコミットメントとは、注意を払い、観察し、修正し、洗練させ続ける姿勢である。前者は身体を固くすることがあり、後者は身体を賢くする。演奏上の成長をもたらすのは、力の総量ではなく、注意の精度である。この助言を日々の練習に落とし込むなら、難しい箇所に出会ったときに、すぐに強く弾こうとしないことが大切である。むしろ、どこで余計な力が入っているのか、どの指が離れ遅れているのか、どの瞬間に呼吸が止まっているのか、どの音で身体が硬直しているのかを観察するのである。そして、音を出すために必要な最小限の力を探る。指は釘のように弦へ打ち込むのではなく、鳥が枝にとまるように、必要な接触だけを行うべきなのだろう。この助言は、演奏だけでなく探究や生活にも通じる。困難にぶつかったとき、自分はしばしば「もっと頑張る」ことで突破しようとする。しかし本当に必要なのは、力を足すことではなく、構造を見直すことかもしれない。演奏も学問も人生も、力任せに押し通すほど響きが濁ることがある。深い熟達とは、全力で固まることではなく、必要な瞬間に必要な力だけを使い、次の瞬間には手放せることである。エイカー氏の助言は、演奏における精密な力の倫理を教えていると言える。フローニンゲン:2026/6/25(木)09:00
Today’s Letter
In a mellow moment, the boundaries of consciousness begin to soften, allowing my existence to unite with the whole of reality. Time disappears, and only a continuous flow remains. Groningen, 6/25/2026

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