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【フローニンゲンからの便り】18865-18870:2026年6月14日(日)

  • 6月16日
  • 読了時間: 18分


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タイトル一覧

18865

ジャック・エリュールの思想と唯識

18866

今朝方の夢

18867

今朝方の夢の振り返り

18868

ペンタトニック・スケールの魅力と可能性

18869

時間と音という流動する川にある12という数字

18870

日本法相における空理解に関する博士論文の可能性

18865. ジャック・エリュールの思想と唯識  

             

ジャック・エリュールの思想について考えていると、彼が見つめていたのは、単なる機械文明批判ではなく、近代社会の奥底で人間の判断力を静かに奪っていくテクノロジー体系の問題だったように思われる。エリュールにとってテクノロジーとは、道具や機械だけを意味しない。それは、効率、合理化、計算可能性、標準化、管理、最適化を至上価値とする一つの社会的原理である。つまり、コンピューターや工場だけでなく、教育、政治、医療、経営、広告、行政、さらには人間関係までもが、より効率的に、より予測可能に、より管理しやすく作り替えられていく。その意味で、テクノロジーとは外に置かれた機械ではなく、社会全体を内側から動かす見えない歯車なのである。エリュールが鋭いのは、テクノロジーが人間の意志に従属する単なる手段ではなく、むしろ自律的に発展していく力を持つと見た点である。人間はテクノロジーを使っていると思っているが、実際にはテクノロジー体系の求める効率性に合わせて、自分の生活、思考、価値観を作り替えているのかもしれない。便利な道具を手にしたつもりが、いつの間にかその道具に合わせた身体と心になっている。靴に足を合わせるのではなく、足が靴の形に変形していくようなものである。唯識思想の観点から見ると、エリュールのテクノロジー批判は、現代社会における強力な薫習の分析として読めるように思われる。唯識では、経験や行為が阿頼耶識に種子として蓄積され、その種子が後の認識や行動を条件づけると考える。テクノロジー社会においては、効率化、即時性、数値化、成果主義、操作可能性といった価値が、日々の生活を通じて心に薫習され続けている。自分は自由に考えているつもりでも、いつの間にか「それは効率的か」「それは成果につながるか」「それは最適化されているか」という問いによって世界を見ている。これは、テクノロジー体系が阿頼耶識に植え込む現代的な種子なのかもしれない。また、エリュールが問題にしたプロパガンダも、唯識と非常に深く関係するように思う。彼にとってプロパガンダとは、露骨な嘘や政治宣伝だけではない。現代社会では、人々の意見、欲望、不安、希望が、メディアや制度によって組織的に形成される。人は自分で選んでいると思いながら、すでに選択肢の見え方そのものを作られている。唯識的に言えば、これは遍計所執性が社会的に設計される事態である。自分が「現実」と思っているものは、技術的・政治的・経済的な名言薫習によって構成された像であり、その像に自性があるかのように執着してしまうのである。エリュールの思想は、テクノロジーを悪魔化しているというより、人間がテクノロジーを中立的なものだと思い込む危険を告げているように感じられる。唯識においても、外界の対象をそのまま実体視することが迷妄の根であるように、エリュールにおいても、テクノロジーを単なる中立的手段だと見ることが現代的無明の一形態なのだろう。テクノロジーには、それ固有の方向性がある。効率を上げる技術は、効率を価値として押し出す。監視の技術は、監視されることを前提とした行動様式を生む。コミュニケーション技術は、人間関係の速度と密度を変える。つまりテクノロジーは、世界を変えるだけでなく、世界を見る眼そのものを作り替えるのである。今日改めて思うのは、エリュールのテクノロジー批判は、唯識的な修行論としても読み替えられるということである。現代人にとって修行とは、山奥に退いて機械を捨てることだけではない。むしろ、日々使っているテクノロジーが自分の心にどのような種子を蒔いているのかを観察することである。スマートフォンを見るたびに注意はどう変わるのか。タスク管理をするたびに自分をどのような存在として扱っているのか。数値化された成果を見るたびに、自己価値はどのように変形しているのか。こうした問いを持つことが、現代の観心なのかもしれない。エリュールと唯識を重ねると、テクノロジー社会とは、巨大な外部化された末那識のようにも見えてくる。末那識は自己をつかみ、守り、比較し、支配しようとする。テクノロジー体系もまた、世界を把握し、制御し、最適化しようとする。その働きが過剰になると、存在の豊かさは操作可能なデータへと縮減される。人間の悲しみ、沈黙、祈り、偶然、無駄、遅さまでもが、効率の網にかけられてしまう。そこでは、世界は森ではなく工場になり、心は泉ではなく機械の潤滑油のように扱われる。しかし、唯識の観点からすれば、テクノロジーを完全に拒絶する必要はないはずである。テクノロジーもまた依他起性の産物であり、縁によって生じ、縁によって用いられる。問題は、テクノロジーを実体視し、テクノロジーの論理に自己を明け渡すことである。テクノロジーを智慧の補助として用いるのか、煩悩の増幅器として用いるのか。その差は、テクノロジーそのものよりも、それを受け取る識のあり方にかかっているのだろう。エリュールは、テクノロジー体系が人間の自由を静かに奪う危険を告げている。唯識は、その危険が外側の制度だけでなく、内側の認識習慣として根づく仕組みを照らしてくれる。私たちにとって大切なのは、テクノロジーから逃げることではなく、テクノロジーに心を占領させないことである。便利さという蜜を舐めながら、その蜜が心を眠らせることもあると知っておくことである。テクノロジー社会を生きるとは、巨大な機械の中に住みながら、その歯車の音に自分の魂の声をかき消されないよう耳を澄ますことなのだろう。フローニンゲン:2026/6/14(日)05:55


18866. 今朝方の夢

                                       

今朝方は夢の中で、サッカーW杯に出場する夢を見ていた。一昨日、昨日の朝もW杯に関する夢を見ていたので、三夜連続でW杯に関する夢を見ていたことになる。実際に現実世界ではW杯が数日前に開幕したところであり、集合的な意識とのシンクロ現象を見る。夢の中で私は、日本代表の一員として、開幕の強豪フランスとの対戦に向けて入念な準備をしていた。偶然にも、小中高時代のある友人(YU)もメンバーに選ばれており、彼とはよく話をしながら練習に取り組んでいた。本当は同い年のはずなのに、彼は19歳、自分は40歳だった。倍以上もの年齢が離れており、下手をすると親子の年齢差だった。しかし、そうした年齢差は全く関係なく、これまで通り、友人同士の関係性でお互いの連携について話し合った。自分はフォワードで、彼はトップ下だった。とりわけ彼とはコンビネーションの練習を重ねていたのだが、相手が強豪ということもあり、押し込まれる時間が多いことを想定して、守備の練習が9割、攻撃の練習が1割だった。それに対して彼はもう少し攻撃の練習をしたいようだったが、攻撃に関してはもう阿吽の呼吸があるから大丈夫だと言い聞かせた。試合を目前に控え、一旦宿舎に戻ると、その宿舎が相手チームの宿舎であることに気づき、相手チームのスタッフたちによって私たちは幽閉させられてしまった。彼らは私たちをその宿舎に閉じ込める形で試合に出場させないことを狙っていた。奇妙なことに、そのスタッフたちは全身を黒い被り物で覆われていて、頭の先から足先まで黒づくめだった。頭には黒い被り物をしていたこともあり、きっと目も見えていなかったのではないかと思う。そんな状態の中、私たちはうまくスタッフの目をかいくぐってそこから脱出できた。そして肝心の開幕戦は、無事に彼と私のゴールによって、2対1で勝利することができた。優勝候補のフランスを破ったこともあり、ここから勢いに乗ってかなり上まで勝ち進んでいける確信がチームの中に漂っていた。そう言えば、日本から駆けつけてくれたサポーターたちは、巨大な豪華客船に乗ってここまで来たようだった。その様子がテレビで中継されており、豪華客船の圧巻の大きさに舌を巻いていた自分がいた。フローニンゲン:2026/6/14(日)06:13


18867. 今朝方の夢の振り返り

         

今朝方の夢は、自分がいよいよ大きな舞台に立つ準備が整いつつあることを象徴しているのかもしれない。三夜連続でW杯の夢を見るという反復は、単なる偶然というより、自分の深層が「世界規模の試合」に自分を送り出そうとしている合図のように思われる。W杯とは、個人の技能が集合的な熱狂の中で試される場であり、自分にとってはエディンバラ移住、仏教学研究、音楽実践などが一つに重なり合う、人生の国際大会のようなものなのだろう。日本代表の一員として出場することは、自分が個人としてだけでなく、文化的・思想的な代表性を帯び始めていることを示しているのかもしれない。法相唯識、成人発達理論、音楽、意識研究を背負いながら、自分は単なる研究者ではなく、ある精神的なチームの前線に立とうとしているように見える。フォワードであることは、前へ出る役割、言葉や実践を通じてゴールを決める役割を象徴しているのであろう。小中高時代の友人YUが19歳で現れ、自分が40歳であるという年齢差は興味深い。彼は自分の中に残っている若い運動性、直感、瞬発力の象徴なのかもしれない。トップ下という位置も象徴的である。そこは攻撃の創造性を司る場所であり、フォワードである自分に最後のパスを出す内なる若き自己の位置である。40歳の自分と19歳の自分が連携するとは、成熟した判断力と若々しい創造力が、親子ではなく友人として並び立つことを意味しているように思われる。守備練習が9割、攻撃練習が1割だったことは、現在の自分が華やかな突破よりも、環境変化に耐える基礎体力を重視していることを示しているのだろう。移住、学業、経済、住居、発信活動など、今は攻める前に守備組織を整える時期である。しかし攻撃は阿吽の呼吸でよいという感覚は、自分の核心的な創造性がすでに深く身体化されていることを示しているのかもしれない。ギターの即興が、指先に眠る鳥を目覚めさせるように、攻撃の型はすでに身体の奥で発酵しているのである。相手チームの宿舎に閉じ込められる場面は、他者の制度や期待、あるいは見えない恐れによって、自分の出場機会が奪われそうになる心理を表しているのかもしれない。黒い被り物のスタッフたちは、顔のない制約である。彼らは見えていないにもかかわらず、人を閉じ込めようとする。これは、実体のない不安や匿名的な社会圧が、あたかも権力を持つかのように立ちはだかる姿であろう。しかし自分たちはそこから脱出している。つまり、自分はすでに、盲目の制約から抜け出す知恵を持っているのだと思われる。開幕戦で2対1の勝利を収めることは、成熟した自分と若い創造力の双方が得点することを示しているのかもしれない。しかも相手は優勝候補である。これは、大きな挑戦を前にしても、自分の中の複数の時代が連携すれば突破できるという確信の象徴である。巨大な豪華客船で駆けつけるサポーターたちは、これまでの歩み全体が自分を応援していることを示しているように思われる。それは人々の応援であると同時に、過去の日記、書籍、学び、音楽、夢たちが乗り込んだ巨大な船なのである。この夢の人生における意味は、自分が成熟した40歳の判断力と、19歳のような創造的俊敏さを再び結び合わせ、盲目の制約から抜け出しながら、世界規模の舞台で自分固有のゴールを決めていく時期に入ったということなのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/14(日)07:14


18868. ペンタトニック・スケールの魅力と可能性

               

数日前にふと、ペンタトニック・スケールに習熟していこうと思った。武満徹氏が『鳥は星形の庭に降りる』において、中心音F#を軸に黒鍵のペンタトニックを含む音組織を用いたこと、また同作品が五角形的な庭のイメージと深く結びついていたことを思うと、5という数字は単なる数ではなく、音が世界に降り立つための小さな曼荼羅のように感じられる。ペンタトニックの面白さは、音が少ないにもかかわらず、世界が狭くならないところにある。むしろ5音しかないからこそ、音と音のあいだに余白が生まれる。7音の長音階が整った街路のように感じられるとすれば、ペンタトニックは石庭に置かれた五つの石のようである。そこには明確な方向性がありながら、どこか風通しがよい。弾き手が一音を置くたびに、その周囲の沈黙が鳴り始める。音を増やして語るのではなく、音を絞ることで空間を開く。その魅力が、今日の自分にはとても大きく感じられた。クラシックギターでペンタトニックを練習することは、単に即興の語彙を増やすことではないように思う。指板上に散らばる5つの音を見つめていると、音階というより、森の中に点在する飛び石を渡っているような感覚になる。どの石に足を置いても大きく外れにくい。しかし、だからこそ安易に弾くと単調になる。安全であることと、深いことは同じではない。ペンタトニックは弾き手に自由を与えるが、その自由を音楽に変えるためには、リズム、間、強弱、音色、ヴィブラート、スライド、ハンマリング、プリング、開放弦との響き合いを丁寧に磨く必要があるのだろう。特に魅力的なのは、ペンタトニックが文化の境界を軽々と越えていくところである。東アジアの旋律にも、ブルースにも、ロックにも、民謡にも、映画音楽にも、どこかペンタトニック的な響きがある。5音は、民族や時代を越えて人間の耳に自然に染み込む水脈のようである。複雑な理論を知らなくても、ペンタトニックの旋律は心に届きやすい。しかし、その素朴さの奥には深い抽象性がある。まるで、子どもでも見上げられる星空が、同時に宇宙論の入り口でもあるようなものだ。武満氏の音楽を思うと、ペンタトニックは懐かしさだけに閉じた音階ではない。むしろ、懐かしさを現代的な響きへ開くための窓であるように思われる。日本的な響き、自然、庭、雨、鳥、水、沈黙。そうしたイメージが、単なる情緒ではなく、音の配置によって精密に立ち上がる。5音は、過去へ戻るための鍵ではなく、古い記憶を新しい響きへ変換するための炉なのかもしれない。ペンタトニックに習熟するということは、自分にとって、音を減らすことで音楽を深める訓練になるのだと思う。たくさんの音を追いかけるのではなく、限られた音を何度も弾き、その音がどの角度から光るのかを観察する。5つの音を、ただのスケール練習としてではなく、小さな庭として歩いてみる。そこでは、一音一音が石であり、沈黙が苔であり、余韻が水面である。ペンタトニックの習熟とは、5音の中に無限の風景を見出す稽古なのだろう。フローニンゲン:2026/6/14(日)08:23


18869. 時間と音という流動する川にある12という数字

                

昨夜ふと、時計にも音楽にも「12」という数字が潜んでいることに気づき、そのことが妙に不思議に感じられた。1日は午前と午後に分けられ、それぞれ12時間で構成される。時計の文字盤にも12の区切りがあり、音楽においても1オクターブは半音を数えれば12に分割される。時間と音という、まったく違うように見える二つの領域が、どちらも12という数を通じて秩序づけられていることは、偶然以上の意味を持っているように思われる。12という数字の魅力は、それが割り切りやすい数であることにあるのだろう。2でも3でも4でも6でも割ることができる。10は現代人にとって馴染み深いが、実は分割の柔軟性という点では12の方が豊かである。時間を半分にし、三等分し、四等分し、六等分することができる。音楽においても、12の半音があることで、さまざまな調へ移動し、音程関係を細かく調整し、旋律と和声の網を張ることができる。12とは、秩序を硬直させる数ではなく、変化を可能にする骨格なのである。時計の12は、天体の周期と深く関係しているように思う。古代の人々は、太陽、月、星の運行を見上げながら、時間を測ってきた。1年がおおよそ12の月に分けられること、昼と夜が循環すること、空の動きが反復すること。そこから12は、宇宙のリズムを人間の生活に刻み込むための数になったのかもしれない。時計の文字盤は、単なる機械ではなく、小さな宇宙模型のようである。針が一周するたびに、自分は天体の巨大な円運動を手元の小さな円として眺めているのだろう。一方、音楽の12は、振動の秩序と関係している。音は空気の震えであり、音程は振動数の関係によって生まれる。1オクターブを12の半音に分けることによって、音楽は移調可能な体系を得た。ドから始まる世界も、レから始まる世界も、ファ#から始まる世界も、同じ構造を保ちながら別の色合いを持つことができる。12の音は、音楽に回転する星座のような秩序を与えているのかもしれない。どの音を中心にしても、そこから新しい宇宙が開かれる。ここで面白いのは、時間も音も、どちらも目に見えないということである。時間は直接つかめず、音も鳴った瞬間に消えていく。どちらも流れであり、持続であり、現れては過ぎ去るものである。その流れを人間が扱えるようにするために、12という数字が橋として架けられているのではないかと思う。川そのものを止めることはできないが、橋を架ければ渡ることができる。時間と音という流動する川に、人間は12という橋を架けたのである。唯識的に考えるなら、12とは外界に最初から刻まれている絶対的な数というより、識が流動する経験を秩序づけるために見出した有効な形式であるように思われる。時間も音も、それ自体として固定的な実体ではなく、識の中で分節され、名づけられ、経験される。時計の12も、音階の12も、流れ続ける現象を人間の認識が扱いやすい形に区切ったものだと言えるのかもしれない。しかし、その区切りは単なる人工物ではなく、天体の周期や音響の関係に根ざしている。つまり12とは、自然と認識が出会う接点なのである。昨夜このことを思った時、12という数字が急に神秘的に見えてきた。12は、時間を円にし、音を円にする。時計の針は12へ戻り、音階もオクターブを越えて再び同じ名の音へ戻る。そこには直線的な進行だけではなく、循環の感覚がある。人生もまた、ただ前に進むだけではなく、何度も同じテーマへ戻りながら、少しずつ違う高さで響き直しているのかもしれない。時計の12と音楽の12は、自分に、時間とは旋律であり、音楽とは時間の花であることを静かに教えてくれているようである。フローニンゲン:2026/6/14(日)08:38


18870. 日本法相における空理解に関する博士論文の可能性

                                     

空について博士論文を書くという可能性が、今朝の思索の中で静かに浮かび上がってきた。空とは、仏教思想の中であまりにも有名な概念でありながら、近づけば近づくほど輪郭がほどけていく不思議な主題である。まるで、遠くから見れば山脈のように堂々としているが、いざその山道に入ると、霧と谷と風の流れによって、山そのものが固定的な対象ではなく、歩む者の身体感覚とともに立ち現れてくるようなものである。空を博士論文の主題にするなら、それは単に「空とは何か」を説明する研究ではなく、空という概念がどのように思考そのものを変容させるのかを問う研究になりうるのではないかと思われる。まず考えられるのは、中観思想における空の論理構造を正面から扱う道である。ナーガールジュナにおいて、空は単なる無ではなく、自性の否定であり、縁起そのものの別名である。ここでは、存在するとも存在しないとも言えないものを、どのような論理によって語るのかが核心になる。博士論文としては、四句分別、二諦説、縁起、自性批判を軸に、空がいかにして形而上学的実体論と虚無論の双方を解体するのかを探究できるだろう。この方向は、仏教哲学の王道であり、論理的厳密さを要求する知的山岳路である。一方で、自分にとってより独自性が出るのは、唯識思想から空を捉え直す方向かもしれない。唯識において空は、外界が単純に存在しないという意味ではなく、遍計所執性として構成された二元的対象性が空であるという意味を持つ。つまり、空とは存在一般の否定ではなく、主客分裂的な認識様式の虚構性を見抜くことである。三性説を用いれば、空は遍計所執性の否定であると同時に、依他起性の正しい理解を通じて円成実性へと開かれる通路である。ここには、自分が長く関心を寄せてきた「認識の変容」としての空がある。空は世界を消す思想ではなく、世界を誤って掴む手の力をほどく思想なのである。さらに、法相唯識、特に日本の良遍や貞慶の文脈から空を再検討する方向も非常に魅力的である。インド仏教やチベット仏教における空研究は膨大であるが、日本法相における空理解は、まだ十分に国際的に可視化されていない可能性がある。良遍の『観心覚夢鈔』や『法相二巻鈔』を手がかりにすれば、空を単なる中観的否定ではなく、夢、心、識、修行、覚りの構造の中で再解釈できるかもしれない。これは、古い井戸から現代の水脈を掘り当てるような研究になりうる。また、空を現象学や意識研究と接続する道もある。空とは、対象がそれ自体で独立してあるという素朴な確信がほどける経験であると考えれば、それは知覚経験の構造変容として記述できる。夢、瞑想、サイケデリック体験、非二元的経験などを比較しながら、空が単なる教義ではなく、世界経験の様式転換としてどのように現れるのかを論じることができるだろう。この場合、空は概念ではなく、意識のレンズの焦点が変わる出来事として扱われる。固定された世界という氷が溶け、水の流れとして経験される瞬間である。さらに挑戦的なのは、量子論の哲学と空を比較する方向である。ただし、この道は慎重さが必要である。安易に「量子論は空を証明する」と言ってしまえば、学術的には危うい。しかし、量子測定問題、関係的量子力学、QBism、量子ダーウィニズムなどにおける観測者、関係性、対象の非自立性をめぐる議論と、仏教の空思想を比較哲学として扱うことは可能である。ここで重要なのは、科学を仏教の証明に使うのではなく、両者が「独立自存する対象」という前提をどのように揺るがすのかを、慎重に並置することである。自分にとって最も深い問いは、空を存在論として論じるのか、認識論として論じるのか、修行論として論じるのかという点にあるのかもしれない。中観は存在論的実体化を解体し、唯識は認識の構成作用を分析し、法相はその変容過程を修行論的に体系化する。もし博士論文を書くなら、この三つを無理に混ぜるのではなく、一本の糸で貫く必要がある。その糸はおそらく、「空とは、世界が無いという思想ではなく、世界を固定化する認識の癖がほどけることである」という主題になるのではないか。ふと感じたのは、空という主題は、自分のこれまでの探究を一つに束ねる中心軸になりうるということである。唯識、量子論、夢、意識、発達、サイケデリクス、法相研究は、ばらばらの島ではなく、空という海に浮かぶ島々だったのかもしれない。博士論文としての空研究は、単なる専門的課題ではなく、自分自身の認識の深層構造を解きほぐす長い修行にもなりうるのである。フローニンゲン:2026/6/14(日)09:38


Today’s Letter 

Dreams are teachers that illuminate my life. That’s why I faithfully keep a dream journal. The dream world is a profound dimension of reality. Groningen, 6/14/2026

 

 
 
 

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