top of page

【フローニンゲンからの便り】18847-18852:2026年6月11日(木)

  • 6月13日
  • 読了時間: 18分


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

18847

木との交流/ニューヨーク在住のローリーからのメッセージ

18848

今朝方の夢

18849

今朝方の夢の振り返り

18850

生きることは芸術であり、芸術は生きること/人生を賭けた実践上の探究テーマ

18851

一つの意識が二つの焦点を持った現象から

18852

関係性という主題の変奏曲の中で

18847. 木との交流/ニューヨーク在住のローリーからのメッセージ 

       

時刻は午前6時を迎えた所である。今日もまた朝日がまばゆい輝きを見せている。ここ数日間は、日中に雨が降る時間帯があるのだが、それもいっときのものであり、朝はこうして朝日を拝むことができている。今の気温は幾分低く、8度と肌寒い。今朝もまた起床してすぐに外に出て、昇り行く太陽を眺めながらHIITを行った。HIITを終え、小鳥の鳴き声に耳を傾けながら外で息を整えている時にふと、庭の木々に目が入った。また、グリーンハウスの前に生えている植物にも目が入った。どちらも共に自分よりも背が高いのだが、こちらを圧倒するような存在感ではなく、むしろこちらを抱擁するような優しげな存在感を放っていた。これまで植物の存在感については意識を向けてこなかった自分がいたことにはたと気付かされた。家の周りには種々の植物が生息していて、それらをこれまでも眺めることはよくあったのだが、それらの存在感にまで意識が向かうことはほとんどなかったのである。改めて木々の優しげな存在感に気づく、一際背の高い木に近づいていき、徐に左手で触れた。木に触れることによって、お互いのエネルギーを交換することを試してみた。これはかつて大阪に住んでいた時の公園の木ともよくやっていたことであるし、近所のノーダープラントソン公園でも時々行っていたことである。木は人間の言葉を話さないが、生命の言葉を発する。その声に耳を傾けていると、自然と心が一段と穏やかなものになっていくのを実感した。植物との交流、とりわけ木との交流。これはぜひエディンバラに行っても行いたいことである。


時計の針を巻き戻すと、午前5時過ぎに起床した時にスマホの時刻を確認すると、WhatsAppに1通のメッセージが届いていることに気づいた。名前を見ると、一瞬ではわからなかったので、誰かを確認すると、今から3年前にハーバード神学大学院(HDS)のオープンキャンパスで知り合ったニューヨーク在住の女性からだった。ローリーも自分と同じくすでに3つの修士号を取得しており、4つ目の修士号としてHDSの出願を検討していた。彼女はすでに仕事からは引退をしている年齢なのだが、学術的な探究は一生涯続くものという認識から、神学大学院で学びを続けたいと考えていた。その年、ローリーは書類審査で不合格になったが、晴れて今年HDSに合格したとのことで、その連絡が来たのである。彼女は自分がHDSの書類審査に通ったので、在学生としての助言を求めているようだが、自分は書類審査後の面接で不合格になっているので、その点を彼女に伝えなければならない。3年前にも出願に関して彼女と何度かやり取りをしていたのだが、ローリーは少し心配性なところがあるので、彼女のこれまでの経験をもとにすれば、何の心配もいらないと伝えておこう。自らの内なる叡智と情熱を信じてHDSに飛び込めばいいとを優しい口調で伝えたい。自分もまたエディンバラ大学という新天地での生活が目前に控えており、こうしてローリーと共に新たな人生の章を開くことができたことは大変喜ばしいことである。フローニンゲン:2026/6/11(木)06:21


18848. 今朝方の夢

              

今朝方は夢の中で、「ドリームランド」と形容できるようなリゾート地にいた。そこに偶然、小中学校時代の学年で一番背が高かったある友人(YK)と遭遇し、彼にこのリゾート地の説明をした。自分は別にこのリゾート地を開発した人間ではないが、深い知識があったのである。そこからさらに、香港やドバイにも同様のリゾート地があることを彼に紹介した。すると不思議なことに、自分はそれらのリゾート地が別々に眼下に入る形で空を飛んでいて、空の上から彼に見どころを解説していたのである。それらのリゾート地は全て富裕層向けの会員制になっており、選ぶとするならば諸々の理由から香港のリゾート地が良いと述べた。彼は自分を信じて、そこの会員になると決意したようだった。


次に覚えているのは、小中学校時代のある親友(YU)の昔の家に訪れ、そこで彼と一緒に変わった高級バイトの仕事に取り組んでいた場面である。そのバイトは彼から教えてもらい、時給14,000円とかなり高額のものだった。金額とは打って変わって、やることは単純で、依頼されたワイシャツを洗い、綺麗にアイロンをかけて依頼主に届けるというそれだけである。彼は週に2回、そのバイトの仕事だけに従事し、1ヶ月で大卒の月給を遥かに上回る収入を得ていた。私は彼のように週2回であっても一日中その仕事に取り掛かることはできないと考えていた。彼の家で一緒に仕事に取り組んでいると、突然睡魔がやって来た。彼にそのことを告げ、その場で横にならせてもらうことにした。そこからは一気に深い眠りの世界に落ちていったが、不思議なことに、意識がまるで2つに分裂したかのように、片方の意識は眠りの世界にあり、もう片方は引き続き物理的な現実世界にあった。


最後に覚えているのは、学術論文を含め、広く文章を執筆することに関する意義と価値を誰かに伝えていた場面である。そこでは実際の文章の書き方についても教えており、聞き手はとても参考になったと感謝の言葉を伝えてくれた。その人に説明をした後に、不思議と自分の内側から執筆エネルギーが溢れてきて、文章執筆に向けて意欲的な自分が現れたことを嬉しく思った。フローニンゲン:2026/6/11(木)07:02


18849. 今朝方の夢の振り返り 

               

今朝方の夢は、自分の内側で「世界を案内する者」と「手を動かして生活を整える者」と「言葉によって意味を生み出す者」が、三つの場面として連続的に現れたものかもしれない。最初のドリームランドは、単なるリゾート地というより、自分がこれから入っていこうとしている新しい人生領域の象徴であるように思われる。そこは富裕層向けの会員制であり、誰もが自由に入れる場所ではない。これは外面的な経済的豊かさだけでなく、長い探究、経験、審美眼、知的蓄積によって初めてアクセスできる内的な高地を示しているのではないだろうか。自分はその場所の開発者ではないにもかかわらず、深い知識を持って案内していた。これは、自分が人生そのものを一から創造したわけではないが、その構造や魅力を読み解く解説者としての役割をすでに担っていることを示しているようである。小中学校時代に最も背の高かった友人YKは、自分の過去における「高さ」の象徴であるかもしれない。身体的に背が高かった彼は、夢の中では、自分が見上げていた外的な優位性や存在感を表しているようにも見える。しかしその彼に対して、自分は空から世界を俯瞰し、香港やドバイのリゾート地を比較しながら説明していた。かつては見上げていた存在に対して、今は別種の高さから案内しているのである。この高さは競争的な高さではなく、鳥が地形を読むような認識の高さである。香港を選ぶべきだと助言したことは、豪奢さだけではなく、実用性、文化的接続性、移動可能性、未来への展開可能性を総合的に見極める自分の判断力を象徴しているのかもしれない。次のYUの家での高級バイトの場面は、非常に興味深い対照をなしている。空からリゾート地を案内する壮大な場面の後に、ワイシャツを洗い、アイロンをかけ、届けるという極めて具体的で手仕事的な場面が現れる。これは、自分の人生が抽象的な思想や高次のヴィジョンだけでは成り立たず、生活を整え、布の皺を伸ばすように、現実の細部を丁寧に処理する必要があることを示しているのではないだろうか。時給14,000円という高額さは、単純作業の中にも高度な価値が宿ることを示しているようである。つまり、価値は作業の複雑さだけではなく、信頼、正確さ、清潔さ、納期、他者の生活を支える見えない品質から生まれるのかもしれない。しかし自分は、その仕事を一日中続けることはできないと感じていた。ここには、自分の資質が反復的な労働のみに向いているわけではなく、一定の具体性を必要としながらも、最終的には意味づけ、教育、執筆、思想化へと向かうことが示されているようである。突然やって来た睡魔と、眠りの世界と物理的現実に意識が二重化する感覚は、夢そのものの中でさらに夢を見るような構造である。これは、唯識的に言えば、自分が現実と夢、生活と思想、身体と意識の境目を行き来していることを示す深い象徴であるかもしれない。まるで一枚の襖の両面に、眠りの墨絵と現実の彩色画が同時に描かれているようである。最後の執筆指導の場面は、この夢全体の統合点であるように思われる。リゾート地を案内する力、ワイシャツを整える手仕事の力、二重意識の不思議な観察力が、最終的に文章を書く力へと集約されている。誰かに執筆の意義と書き方を伝えた後、自分の内側から執筆エネルギーが湧き上がったという点は重要である。自分は他者に教えることによって、自分自身の泉の蓋を開けたのかもしれない。水脈はすでに地下に流れていたが、誰かに言葉を手渡した瞬間、その水が地表に噴き出したのである。この夢が人生において意味するのは、自分が今、世界を俯瞰する案内者、生活の細部を整える実務者、そして言葉によって経験を結晶化する執筆者という三つの自己を再統合しようとしているということである。新しい土地へ移動する時期にあって、自分は単に場所を変えるのではなく、過去の友人、生活の労働、夢の意識、学術的言葉を一つの船に積み込み、次の港へ向かおうとしているのだろう。人生における意味は、空を飛ぶような大きな構想と、皺を伸ばすような小さな実践を、最終的に文章という器に注ぎ込み、自分固有の知的生活をさらに深く形にしていくことにあるのだと思われる。フローニンゲン:2026/6/11(木)07:18


18850. 生きることは芸術であり、芸術は生きること/人生を賭けた実践上の探究テーマ

                                     

朝食前の朝日の美しさを浴びながら、小鳥たちの清澄な鳴き声に耳を傾けている。その背後に、今日から静かにシベリウスのクラシックギターアレンジ曲を聞くことにした。今の自分の気持ちとして、フローニンゲンという精神成熟上のこれ以上にない肥沃な地で10年間過ごせたことへの深い感謝の念と、この土地から得られることは全て汲み尽くしたという晴々とした気持ちがある。今目の前に広がる雲ひとつない青空と同じように、この地を離れることに関する後悔は一点もない。振り返ってみると、この10年間は絶えず日記を綴りながら自己を深める形で日々を過ごしてきた。そこでふと、日記もまた芸術作品たり得るのではないかという考えが浮かぶ。少なくともそれは創造的な営みである。日記の執筆を通じて、人生そのものが、生きるということが芸術行為に化す。生きることは芸術であり、芸術は生きること。自分はそれを体現する形でこの土地で10年間暮らしてきた。この在り方はエディンバラに行っても変わらないだろう。そしてエディンバラの次に待つこの地球上での新たな場所でも変わらない。そしてこの地球上での役目を終え、肉体的な死を迎えた後もそれは変わらないと確信している。


言葉の世界から音の世界への移行。それが静かに起きている。確かにこれから再び学術世界に戻るので、日々は言葉と共にある。しかし今の自分には音楽という自然言語ではない、より純粋で感覚的な世界がある。それを携えて新天地に行けるというのは、10年前にオランダにやって来た時は随分と違う。今はもう言葉の世界であっても、どの次元の言葉に耳を傾ければ良いのかがわかっている。凡庸な哲学者や科学者の言葉に耳を傾けるのは時間の無駄である。究極的リアリティを知覚した哲学者と科学者の声だけに耳を傾ける。そして、それ以上に重要なのは仏典の言葉である。仏教の経典と論書から汲み取れることは無限大である。残念ながら多くの凡庸な哲学者と科学者は、自然言語や数学言語といった言語体系のみを通じて真理を探究しようとする。しかし、真理の世界は本来、言葉を超えたものである。言語で汲み取れるのはその一端でしかない。一方、偉大な仏教僧たちが行ったのは言語に頼るのではなく、瞑想といった意識探究技法をもとに真理の世界を直接把握しようとした。そこで得られた体験はもちろん言語を通じて経典や論書の形にしたためられたわけだが、忘れてはいけないのは、彼らは決して言葉が先だったのではなく、瞑想を含めた精神変容技法を通じたリアリティの直接体験が先だったのである。今の自分が絶対的な関心を示すのは、彼らのようにリアリティの深層を深く知覚した人間の体験と言葉である。ここからは彼らのような存在の言葉だけに虚心坦懐に耳を傾けたい。


それともう一つ、即興演奏を通じて、喜びだけではなく、笑いをもたらすことができないだろうかということについても考えていた。これは人生を賭けた実践上の探究テーマになるだろう。このテーマを引っ提げてエディンバラに乗り込む。おそらくここからの人生は、意識とリアリティに関する学術探究の深まりのみならず、意識とリアリティに関する音楽を通じた探究の深まりも進展していくだろう。そうした希望が、世界をどこまでも明るく照らす朝日の輝きのように広がっている。フローニンゲン:2026/6/11(木)08:12 


18851. 一つの意識が二つの焦点を持った現象から

                     

主観的な意識は、普通一つであるように感じられる。目の前に机があり、身体がここにあり、思考が流れ、感情が揺れる。そのすべては、いつも一つの中心から照らされているように思える。だが今朝方の夢の中で体験したように、意識が二つに分裂していたかのように感じられる瞬間があると、この当たり前の一性が、急に神秘的な謎として立ち上がってくる。なぜ意識は、普通一つの灯火としてまとまっているのか。なぜ複数の光源が同時に別々の世界を照らすようには感じられないのか。そこには、意識の深い統合機能が関わっているのかもしれない。日常の意識は、川の流れに似ているのだと思う。山から無数の小さな水脈が流れ込みながらも、下流では一本の川として見える。視覚、聴覚、身体感覚、記憶、感情、思考は、本来ならそれぞれ異なる流れであるはずだが、それらはどこかで結び合わされ、「自分が経験している」という一つの流れになる。主観的な意識が一つに感じられるのは、意識そのものが最初から単純な点であるからではなく、無数の感覚と記憶と欲望が絶えず編み込まれ、一枚の布のように織られているからなのかもしれない。その意味で、自分が「一つの意識」を持っているという感覚は、静的な事実というより、毎瞬間生成される統合作用なのだろう。自我とは、船長のように最初から船の中央に座っているものではなく、むしろ船の揺れ、風向き、帆の張り、海図の記憶が一時的に結びついた航行の中心のようなものである。だからこそ、疲労、夢、瞑想、深い集中、強い感情、あるいは変性意識状態において、その中心はゆるみ、分岐し、複数化する可能性を見せるのだと思われる。今朝方の夢で、自分の意識が眠りの世界と物理的な現実世界の二つに分かれていたように感じられたことは、この統合の糸が一時的にほどけた体験だったのかもしれない。一方の意識は夢の深層へ沈み、もう一方の意識はなお現実の身体の位置や状況を薄く把握していた。これは、舞台上で一人の俳優が演じているように見えて、実は舞台裏でも別の自分が照明を操作しているような状態である。夢の登場人物として生きながら、同時に夢の構造そのものをどこかで見ている。そこには、意識が単なる一点ではなく、多層的な劇場であることが示されているように思われる。唯識的に見れば、これもまた興味深い。表層の意識は、眼識や耳識や意識としてさまざまに働くが、その背後には末那識や阿頼耶識のような、より深い連続性があると考えられる。自分が普段「一つ」と感じている意識は、実は表層で統合された見かけの一性であり、その下には多層の心の働きが沈んでいるのかもしれない。夢の中で意識が二つに分裂したように感じられたのは、表層意識と深層意識の境界が、朝方の薄明のように半透明になったからではないだろうか。ただし、意識が二つに分裂したように感じられたとしても、それを単純に「意識が二つ存在した」と言い切ることはできないのだと思う。むしろ、一つの意識が二つの焦点を持った、と表現する方が近いかもしれない。一本の蝋燭の火が、二枚の鏡に映ると二つの炎に見える。しかし火そのものは一つである。そのように、根源的な気づきは一つでありながら、夢と現実という二つの鏡に反射して、二重の意識のように感じられた可能性がある。この体験が不思議なのは、自分という存在が思っているほど単純ではないことを示している点である。自分は一枚岩の主体ではなく、幾層にも重なった地層のような存在なのだろう。表面には日常的な自己があり、その下に夢見る自己があり、さらにその下に夢と現実の両方を見ている観照的な自己がある。あるいは、その観照的な自己さえも、さらに深い意識の波紋の一つなのかもしれない。人生における意味としては、この体験は、自分がこれから「意識とは何か」という問いを、単なる理論としてではなく、自分自身の内的体験として探究していく段階に入っていることを示しているのだと思われる。主観的意識が一つであることは、当たり前の事実ではなく、奇跡的な統合である。そして時にその統合がゆるみ、二つに裂けたかのように見える瞬間がある。そこに恐れを見るのではなく、意識の深海に差し込む裂け目として受け止めることができるなら、自分は夢を通じて、心の宇宙の構造を少しずつ覗き込んでいるのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/11(木)08:40


18852. 関係性という主題の変奏曲の中で 

                                   

今朝、はっとした気づきがやってきた。自分の探究の底には、ずっとネットワークと関係性という主題が流れていたのではないか、という気づきである。それは、突然空から降ってきたというよりも、長い川の流れを上流から下流まで見渡したときに、実は同じ水脈が形を変えて流れていたことに気づくような感覚であった。振り返ってみれば、大学時代の卒論でネットワークビジネスを扱ったことは、単なる偶然ではなかったのかもしれない。当時の自分は、ネットワークを用いたビジネスモデルに強く惹かれていた。そこには、個人が単独で価値を生み出すのではなく、人と人とのつながりそのものが価値を増幅させていくという構造があった。もちろん、ネットワークビジネスには社会的・倫理的な問題も含まれうるが、自分がそのテーマに惹かれた核心には、ビジネスの表層を超えて、関係性が価値を生むという直観があったのだろう。その後、自分の関心は知性発達の探究へと向かっていった。そこでは、数学や統計の観点からネットワーク科学に触れ、人間の知性や発達を、孤立した個体の能力としてではなく、複数の要素が結び合う動的な構造として理解しようとしていた。スキル、環境、文脈、他者、課題が相互に結びつき、その結び目の変化によって知性が立ち上がる。そう考えると、自分は知性を頭蓋骨の内側に閉じ込められた機械としてではなく、関係の網の目の中で生成する現象として見ようとしていたのだと思う。そして今、自分は仏教における縁起に深く関心を寄せている。縁起とは、あらゆるものが単独で存在するのではなく、無数の条件によって生起し、また無数の条件に影響を与えながら変化していくという見方である。それは、単なる倫理的教えでも、抽象的な哲学でもない。むしろ、宇宙そのものを巨大な関係性の織物として見る視座である。そこでは、一つの出来事、一つの感情、一つの存在でさえ、無数の糸によって織り込まれた模様として現れる。自分が今、縁起に惹かれているのは、大学時代から続いてきたネットワークへの関心が、より深い存在論的次元にまで到達したからなのかもしれない。そう考えると、これまでの探究はばらばらの点ではなかった。ネットワークビジネス、ネットワーク科学、成人発達理論、ダイナミックスキル理論、そして仏教の縁起。それらは、一見すると異なる領域に属しているように見える。しかし、その背後には、孤立した実体ではなく、関係の中で生起する現象に関心を向けるという一貫した眼差しがあったように思う。まるで、異なる楽器で演奏されてきた旋律が、実は同じ主題を変奏していたことに気づくようである。この気づきは、自分にとってかなり大きい。なぜなら、自分の人生の関心が偶然に揺れ動いてきたのではなく、深いところで一つの主題に導かれてきた可能性を示しているからである。自分は、ものごとを単独の実体として見ることに、どこかで違和感を抱き続けてきたのだろう。人間も、知性も、社会も、意識も、宇宙も、それ自体で完結したものではない。むしろ、それらは無数の関係の結び目として、絶えず生まれ直している。自分はその結び目のあり方を、ビジネス、科学、発達、仏教という異なる窓から見つめてきたのだと思う。特に縁起という思想は、自分が長年追いかけてきたネットワーク的直観を、最も深い次元で受け止めてくれる器であるように感じる。ネットワーク科学が関係性の構造を数理的に捉えようとするなら、縁起は関係性の存在論的意味を照らし出す。ネットワークビジネスが関係性の経済的力に注目するなら、縁起は関係性そのものが存在の条件であることを教えてくれる。つまり、縁起は単なるネットワークの一形態ではなく、あらゆるネットワークが成り立つ根源的な地平なのかもしれない。この気づきは、自分の探究の中心軸を改めて明確にしてくれたように思う。自分が本当に見つめたいのは、孤立した個ではなく、関係の中で立ち上がる生命であり、知性であり、意識であり、世界である。過去の卒論も、ネットワーク科学への関心も、現在の縁起への探究も、一本の見えない糸でつながっていた。その糸に気づいた今、自分の研究と人生は、さらに大きな織物を織り始めようとしているのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/11(木)09:12


Today’s Lette

My life unfolds between the paths already walked and those yet untrodden. I need both, and I will continue walking the middle way between them. Groningen, 6/11/2026

 
 
 

コメント


bottom of page