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【フローニンゲンからの便り】18835-18840:2026年6月9日(火)

  • 16 時間前
  • 読了時間: 17分


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タイトル一覧

18835

音の扱い方に意識を向けて

18836

今朝方の夢

18837

今朝方の夢の振り返り

18838

これからの友としての書籍選び

18839

本当に次の人生へ持っていきたいものは何か

18840

書籍の手放しから起こる執着の手放し

18835. 音の扱い方に意識を向けて   

   

ブランダン・エイカー氏が伝えようとしているのは、多くの演奏者がある段階で直面する「技術と音楽性のズレ」についてである。ギターを練習していると、やがて音を間違えずに弾けるようになり、リズムも安定し、テンポも維持できるようになる。しかし録音を聴き返したとき、どこか物足りなさを感じることがある。何も間違っていないはずなのに、なぜか心を動かされない。その不思議な感覚の正体を彼は説明しているのである。多くの人は、この壁にぶつかると、さらに高度な技術が必要だと考える。もっと速く弾かなければならない、もっと難しい奏法を身につけなければならないと思う。しかし彼は、その問題は技術不足ではなく、音の扱い方にあると言う。つまり、音符は正しく出されているが、それぞれの音に役割が与えられていないのである。音楽とは単なる音の並びではない。音楽の中には方向性が存在する。ある音は前へ進もうとし、ある音はそれに応答し、ある音は緊張を生み出し、ある音はその緊張を解放する。まるで物語の登場人物たちがそれぞれ異なる役割を持ちながら物語を動かしていくように、音にも固有の機能がある。ところが、すべての音を同じ強さ、同じ長さ、同じニュアンスで弾いてしまうと、その役割の違いが消えてしまう。その結果、演奏は正確でありながら平板になり、どこにも向かわない静止したものとして聞こえてしまうのである。この問題は、特に速いパッセージになるほど顕著になる。テンポが上がると、演奏者はまず崩れないことを優先するようになる。指を正確に動かすことに意識が集中し、フレージングや抑揚への注意が後回しになる。その結果、本来は流れを持っていた旋律が平坦化され、一つひとつの音が均質な粒として並ぶだけになってしまう。まるで高速道路を走る車窓から景色を見るように、本来そこにあるはずの起伏や表情が見えなくなってしまうのである。彼が強調しているのは、音符を弾くことと、フレーズを語ることの違いである。初心者は個々の音符を見る。中級者はそれを正確に弾こうとする。しかし成熟した演奏者は、音符そのものではなく、フレーズ全体の流れを見る。どこへ向かっているのか、どこが頂点なのか、どこで息をつくのかを感じながら演奏する。すると強弱やタイミング、音色の違いが無理なく自然に現れ始める。演奏は単なる作業の連続ではなく、一つの考えや感情が展開していく過程へと変わるのである。これは音楽以外にも当てはまる。例えば講演でも、スライドを一枚ずつ正確に説明することはできる。しかし、それだけでは人の心は動かない。優れた講演者は個々のスライドではなく、全体の流れを見ている。どこで問題提起をし、どこで理解を深め、どこで聴衆を驚かせるかという物語を描いているのである。音楽も同じであり、音符はスライドに過ぎず、本当に伝えるべきものはその背後にある流れなのである。彼が最後に述べる「フレーズを繰り返しとしてではなく、動くものとして聞き始めたときに、音は音楽になる」という言葉は、その本質を表している。音楽とは静止した対象ではなく、時間の中を生きる存在である。一つひとつの音は川の水滴のようなものであり、それ自体では意味を持たない。しかし、それらが流れとなったとき、初めて人はその中に方向性や感情、物語を感じ取るのである。エイカー氏は、演奏の成熟とは指が速く動くことではなく、音の流れそのものを聴けるようになることだと伝えているのである。フローニンゲン:2026/6/9(火)06:17


18836. 今朝方の夢 

                       

今朝方は夢の中で、少年期にハマっていたあるRPGゲームに熱中していた。ラスボスを前にして友人が、そのラスボスとなんとレベル28という非常に低いレベルで戦いを挑もうとしていると述べて驚いた。私はそのラスボスを倒すのにレベル50近くまで経験値を積んでいたので、彼の戦いは無謀のように思えた。すると突然便意を催した。なので部屋を出てトイレに行くと、そこはもはや自分の家ではなく、見慣れない建物の共有トイレで、個室に入った瞬間に便意が止んだ。トイレから出ると、小中高時代のある女性友達(EN)が同じトイレに入ろうとしたが、彼女もトイレに入るのを止めて私に話しかけてきた。すると場面が変わり、かつてお世話になっていたある女性の研究者の方が、先日行った面白い実証研究結果があるのでそれを見せたいと笑顔で述べた。


次に覚えているのは、実際に通っていた中学校の体育館でバスケの練習をしている場面である。そこではまず一学年上の先輩たちが紅白戦をしており、それが終わって私たちの学年の紅白戦が始まった。試合前から感じていたのだが、錆びついていたシュート感覚が全盛期の状態に戻ってきており、今日の試合ではシュートがどんどん決まるという予感があった。実際に試合が始まってみると、その予感通りで、周りが驚くほどのシュート成功率を見せた。試合の最後には不思議な出来事があった。試合終了間際に、突然バスケリングが遠のいていき、そこに小さな扉が現れたのである。手元にあったバスケットボールは4つの靴下の塊となり、その塊を遠くのその扉にぶつけることができれば、ぶつけることができた靴下の個数に合わせて5点得られるというものだった。意識を集中させて靴下の塊を投げると、見事全ての靴下を扉のど真ん中に当てることができたので合計20点得られると思ったが、実際には5点加算される形となった。最初に述べていたことと違うと思ったので、私は天の声に対して苦情を申し立てたが、天の声は黙ったままだった。そう言えば、この夢の場面の前に、現在NBAで活躍しているあるガードの選手が、かつてストリートバスケの世界にいた頃の話をしてくれていたのを思い出した。その時にもその選手は大活躍していたのだが、1人だけ超えられない選手がいたそうである。その選手に対しては今の尊敬の眼差しを持っているとのことで、その選手の凄さについての話を聞いていると、こちらも興奮してくるほどの技術の高さで、さらに話を聞きたいと思ったし、実際に一緒にバスケをしたいと思った。フローニンゲン:2026/6/9(火)06:31


18837. 今朝方の夢の振り返り 


今朝方の夢は、過去に遊んだゲーム、共有トイレ、研究者の実証研究、中学校の体育館、バスケの試合、遠ざかるリング、小さな扉、靴下の塊という複数の場面を通じて、自分がこれまで蓄積してきた経験値と、これから求められる新しい跳躍の関係を映し出しているように思われる。少年期のRPGは、人生を一つの成長物語として理解してきた自分の内的モデルを象徴しているのだろう。ラスボスに対してレベル50近くまで経験値を積む自分と、レベル28で挑もうとする友人の対比は、慎重な準備によって困難を突破しようとする自分の姿勢と、未完成のまま挑戦へ飛び込む別の可能性との葛藤を示しているようである。その直後に便意を催す場面は、蓄積されたものを排出し、次の段階に移る必要性を暗示しているのかもしれない。しかし、個室に入った瞬間に便意が止むという展開は、手放そうとしたものが、まだ完全には手放されていないことを示しているようである。そこが自宅ではなく共有トイレであったことも重要である。自分の内面の処理は、もはや完全に私的な営みではなく、他者や共同体の場に開かれた変容になりつつあるのだろう。ENが同じトイレに入ろうとしてやめ、自分に話しかける場面は、過去の人間関係が、単なる記憶ではなく、未完了の感情や対話の入口として再び現れていることを示しているようである。女性研究者が実証研究の結果を見せたいと笑顔で述べる場面は、夢の混沌に知的検証の光が差し込む場面である。自分の人生において、直観や象徴的体験だけでなく、それを観察し、研究し、他者に共有可能な形へと整える力が働いているのだろう。これは、夢の深海で見つけた真珠を、学問という透明なケースに収めようとする動きに似ている。中学校の体育館でのバスケは、身体化された能力の回復を象徴しているように思われる。錆びついていたシュート感覚が全盛期に戻るという予感は、自分の中に眠っていた実践的な勘、即応力、遊戯的な集中が再起動しつつあることを示しているのだろう。RPGでは経験値を積まねばラスボスに挑めなかったが、バスケでは過去に身体へ刻まれた技能が、突然、井戸水のように湧き上がってくる。ここには、努力して積み上げる成長と、すでに身体に宿っている成長資源との違いが表れているようである。試合終盤にリングが遠ざかり、小さな扉が現れる場面は、目標そのものが変質する瞬間である。もう通常のゴールにシュートを決める段階ではなく、遠くに現れた小さな入口へ、集中のすべてを凝縮して投げ込む段階に移っているのだろう。バスケットボールが4つの靴下の塊になることは、競技的な道具が、日常的で柔らかい素材へ変わることを示しているようである。つまり、これからの自分に求められるのは、硬い勝負のボールではなく、生活の断片、身体の温度、日々の習慣を束ね、それを遠くの扉へ投げることなのかもしれない。全てを命中させたにもかかわらず20点ではなく5点しか得られず、天の声に抗議しても返答がない場面は、努力と成果の換算規則が、自分の期待通りには働かないことを示しているようである。夢の中の天の声は、世界の不透明な評価システムであり、そこには説明責任が欠けている。だが同時に、この沈黙は、自分が外的な採点から離れ、命中そのものの手応えを信じる必要があることを告げているのかもしれない。NBA選手が、かつて超えられなかったストリートバスケの選手について語る場面は、卓越した者にもなお畏敬の対象があることを示している。これは、自分がどれほど成熟しても、なお自分を奮い立たせる未知の達人が存在するという励ましである。人生における意味として、この夢は、自分が過去の経験値を携えながらも、これからは低いレベルのまま挑む勇気、身体に眠る技能の再発見、そして外的評価に左右されず小さな扉へ命中させる集中を学ぶ時期にいることを示しているように思われる。フローニンゲン:2026/6/9(火)08:06


18838. これからの友としての書籍選び 

                   

数日前に書棚の前に立ちながら、不思議なことを考えていた。本を減らそうとしているはずなのに、実際には単に本を選別しているのではなく、これからの人生を共に歩む友人を選んでいるような感覚があったのだ。これまでの自分は、どちらかと言えば知識を集める側にいた。興味を持った分野の本を購入し、積み重ね、いつか読むために保存してきた。しかし今回のエディンバラへの引越しを前にして、その方向が少し変わり始めているように思う。もはや重要なのは、どれだけ多くの本を所有しているかではない。むしろ、何年後にもふと手を伸ばしたくなる本はどれなのかという問いの方が重要になってきている。考えてみると、人間関係にも似たところがある。人生のある時期には多くの人と出会う。しかし年月が経つにつれて、本当に何度も会いたくなる人は限られてくる。久しぶりに再会しても話が尽きず、沈黙さえ心地よい相手がいる。一方で、その時期には大切だったが、役割を終えた関係もある。本もまた同じなのかもしれない。ある本は、一度読めば十分である。その本は必要な知識や視点を与えてくれた。そして役目を終える。しかし別の本は違う。10年後に開けば10年前とは異なる意味を語り始める。20年後に読み返せば、さらに深い層が見えてくる。そのような本は、単なる情報源ではなく対話相手に近い。今回の整理の中で特に感じるのは、学術書と画集や楽譜の違いである。学術書の多くは問いに答えるために存在している。あるテーマを理解し、研究し、論文を書くために読む。しかし画集や楽譜は少し違う。そこには情報だけではなく、感性そのものが宿っている。例えば画集は、知識として読むものではない。同じ作品を10回見ても、20回見ても飽きない。むしろ年齢を重ねるごとに見え方が変わる。若い頃には気づかなかった色彩や構図が、ある日突然心に飛び込んでくることがある。まるで長年の友人の表情の中に、新たな一面を発見するようなものである。楽譜もまた同じである。特にクラシックギターの楽譜は、読むたびに違う顔を見せる。最初は音符しか見えなかったものが、やがてフレーズが見え、さらに時間が経つと作曲家の息遣いのようなものまで感じられることがある。楽譜は演奏のための設計図であると同時に、人生を通じて対話し続ける芸術作品でもある。そう考えると、今回の書籍整理は単なる引越し準備ではないのだろう。これは未来の自分への問いかけなのかもしれない。これから10年後、20年後、あるいは老年期になったとき、自分はどの本を開きたくなるのだろうか。どの本の言葉に再び耳を傾けたくなるのだろうか。書棚とは、ある意味で未来の自分への手紙の束である。そこに残す本は、未来の自分が繰り返し会いたくなる友人であるべきなのだろう。だからこそ今、本を減らすという作業は、過去を切り捨てることではなく、本当に大切な友人を見極める作業のように感じられる。そしておそらく、最後まで残る本は、知識を増やしてくれる本だけではない。画集や楽譜のように、人生の季節ごとに異なる光を映し出し、何度でも対話を続けられる本なのだろう。その意味で、本棚を整理することは、未来の自分の精神を育てる庭に、どの樹木を残すかを選ぶ営みにも似ているように思うのである。フローニンゲン:2026/6/9(火)08:39


18839. 本当に次の人生へ持っていきたいものは何か

 

先日、引越しの見積もりを受け取り、その金額の大きさに改めて考えさせられた。もちろん費用そのものも現実的な問題ではある。しかし、それ以上に心に残ったのは、その見積書が一つの問いを突きつけてきたことである。それは、「本当に次の人生へ持っていきたいものは何か」という問いであった。書棚を見渡すと、そこには長年にわたって付き合ってきた成人発達理論やケン・ウィルバーの書籍が並んでいる。どれも単なる本ではない。それぞれの時代の自分を形づくってきた教師であり、旅の伴走者であり、ときには人生の方向を照らしてくれた灯台でもあった。しかし不思議なことに、今回それらの本を手放そうと考えたとき、寂しさと同時にどこか懐かしい感覚も湧いてきた。なぜなら、今から15年前、日本を離れてアメリカへ向かったときにも、同じことをしていたからである。当時、自分は日本語で集めていたケン・ウィルバーの著作をすべて知人へ譲り渡した。そのときは、これから始まる新しい人生への期待と不安の中で、過去の蔵書を背負わずに旅立ったのであった。そして今、再び同じ場面に立っている。もちろん今回は全てを手放すわけではない。しかし、英語版のウィルバーの著作の何冊かを親友のメルヴィンへ譲ろうとしている。その姿はまるで、かつて受け取った聖火を次の走者へ渡すリレーのようでもある。本は所有物というより、一時的に預かっていた知の火なのかもしれない。その火が別の探究者のもとで燃え続けるのであれば、それは失うことではなく、むしろ広がっていくことなのであろう。振り返れば、この15年間は成人発達理論とウィルバー思想に深く支えられた時間であった。人間の成長とは何か。意識はどのように発達するのか。自己と世界はどのように統合されていくのか。その問いを追いかけ続けた結果、自分はアメリカやオランダで学び、教え、研究し、多くの人々と出会うことになった。しかし今、研究の中心は少しずつ変化している。関心は唯識へ、法相教学へ、そして仏教研究そのものへと深まっている。もちろん成人発達理論やウィルバーの価値が失われたわけではない。それらは今も自分の思考の深層構造の一部であり続けている。ただ、それらを外側の本棚に積み上げ続ける段階から、それらを内側に統合して生きる段階へ移行しつつあるのかもしれない。鳥が高く飛ぶ前には、不要なものを落としていくと言われる。ロケットもまた、重力圏を脱するために燃え尽きたブースターを切り離す。切り離された部分は失敗でも犠牲でもない。むしろ、そのおかげでより高い軌道へ到達できるのである。15年前、日本を離れた自分は、成人発達理論やインテグラル理論という新しい大陸を目指していた。そして今、自分は再び荷物を減らしながら、今度はエディンバラでの仏教研究という新たな地平へ向かおうとしている。15年という時間は偶然ではないのかもしれない。まるで樹木が年輪を刻むように、自分の人生にも一定の周期が存在しているように感じる。かつての飛翔のために日本語のウィルバーを手放したように、今度は英語のウィルバーや成人発達理論の蔵書の大部分を手放そうとしている。それは過去との決別ではなく、過去への感謝を携えながら次の山へ向かうための準備なのであろう。今進行しているのは単なる引越しではない。長らく親しんできたものを丁寧に見送りながら、より高い空へ飛び立つために翼を軽くしていく作業なのである。そこには終わりではなく、新たな飛翔の気配が静かに宿っているように感じられる。フローニンゲン:2026/6/9(火)08:49         


18840. 書籍の手放しから起こる執着の手放し

            

引越しの準備を進めながら、大量の書籍を手放していると、単なる整理整頓以上のことが起きているように感じる。これまで自分は、本を読むことそのものだけではなく、本を所有することにも少なからぬ満足感を覚えていた。本棚に並んだ書籍群を見ると、自分が歩んできた知的遍歴が目に見える形で保存されているように思えたし、それはある種の安心感を与えてくれていた。しかし唯識の観点から振り返ると、その安心感の正体は何だったのだろうかと思う。本そのものを愛していた部分も確かにある。しかし、そのさらに奥には、「この本を持っている自分」という自己像への執着があったのかもしれない。唯識で言えば、第七末那識は常に阿頼耶識を自我として執着し、その周囲に「私のもの」という世界を構築する。本棚の書籍もまた、単なる紙の束ではなく、「自分が学んできた証拠」「自分が積み上げてきた知識」「自分という人間を構成する一部」として認識されていた可能性がある。そう考えると、執着の根幹は書籍ではない。書籍を媒介として維持されていた自己像である。例えば成人発達理論の本を大量に所有していると、「成人発達理論の研究者としての自分」が目に見える形で確認できる。唯識や量子論の本が並んでいると、「こうした探究をしてきた自分」の輪郭が補強される。書籍は知識の容器であると同時に、自己物語の小道具でもあったのだろう。しかし興味深いのは、本を手放しても、その自己物語そのものは消えないことである。むしろ本棚を縮小していく中で気づくのは、自分が本当に失いたくなかったのは書籍ではなく、自分の歩みの意味だったということである。そしてその意味は、紙の上ではなく阿頼耶識の中に保存されている。本は種子を植えるための農具であり、種子そのものではない。畑に種が根付いたあとも、いつまでも同じ農具を抱えている必要はないのである。唯識の煩悩論から見ると、この執着の背景には末那識に伴う四煩悩が見えてくる。自分の本棚を眺めながら感じていた満足感の中には、自分の知的蓄積への慢があったかもしれない。これだけ学んできたという自己肯定感である。また、本を所有していることによって何かが保証されるという我見や我愛もあったように思う。知識そのものではなく、知識を所有する主体への愛着である。今回の引越し準備は、その構造を静かに露わにしている。本を一冊手放すたびに、失われるのは情報ではない。むしろ「これを持っていないと不安だ」という感覚である。そして不思議なことに、その不安を何度も通過していくうちに、本当に残るものと残らないものの区別が見えてくる。残るのは理解であり、洞察であり、人格の変化である。残らないのは、それらを支えていた物質的な足場である。ひょっとすると今回の引越しは、オランダからエディンバラへの地理的移動以上に、「所有によって自己を支える生き方」から「内面に熏習されたものを信頼する生き方」への移行なのかもしれない。本棚は小さくなっていく。しかしその過程で、自分の内側の蔵識はむしろ豊かになっているように思う。かつては知識を守るために本を抱えていた。これからは、本を抱える代わりに、知識によって変容した自分自身を信頼して歩いていく時期に入ったのかもしれない。そこには単なる断捨離ではなく、末那識が作り上げた静かな城郭を少しずつ解体していく修行のような意味があるように感じるのである。フローニンゲン:2026/6/9(火)09:13


Today’s Letter 

I live like the free wind, trusting wherever it takes me. Groningen, 6/9/2026

 

 
 
 

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