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【フローニンゲンからの便り】18815-18820:2026年6月6日(土)

  • 6月8日
  • 読了時間: 17分


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タイトル一覧

18815

自分は何と共に生きたいのか

18816

今朝方の夢

18817

今朝方の夢の振り返り

18818

光のような喪失感と感謝の念

18819

狂うことの勧めと背後の願い

18820

スラーに関する小さな発見

18815. 自分は何と共に生きたいのか

       

—無限なるものに関する独創的な見解を持っている者だけが、芸術家たり得る—フリードリヒ・シュレーゲル


昨日、専門書を大量に手放すことを決めたことで、かえって自分の探究の中心が鮮明になってきた。これまで本棚には、成人発達理論、心理学、教育学、哲学、仏教、量子論、意識研究、サイケデリック学など、さまざまな知の領域が地層のように積み重なっていた。それぞれの本には、その時々の自分の切実な問いが宿っており、どれも簡単には手放せないように思えていた。しかし、いざ本当にエディンバラに持っていく本を絞り込もうとすると、自分の内側である基準が静かに立ち上がってきた。それは「この本は、意識とリアリティの深層研究に本当に必要か」という問いである。この問いを通すと、本棚の風景が一変する。これまで重要に見えていた本の多くが、人生のある時期を支えてくれた大切な道具ではあっても、これからの核心にまで同行する本ではないことがわかってくる。反対に、どうしても残したい本には共通の気配がある。それらは、意識とは何か、現実とは何か、経験はいかに成立するのか、心と世界の関係はどのように理解されるべきか、という根本問題に触れている。唯識、分析的観念論、量子論、中観、ホワイトヘッド、ベルグソン、ユング、カストラップ、スメザム、ボーム、そうした探究の線が、一本の地下水脈のようにつながっていることが見えてきたのである。本を手放す作業は、単なる所有物の整理ではなく、自分の魂の研究テーマを浮かび上がらせる作業だったのかもしれない。まるで濁った水を静かに置いておくと、やがて底の砂が沈み、透明な水面に本当に大切なものだけが映るように、書籍の選別を通じて、自分の関心の深層が澄んできたのである。これまでは多くの領域に関心が広がっていた。しかしその広がりの中心には、いつも意識とリアリティの謎があった。成人発達理論に惹かれたのも、人間の意識がどのように複雑化するのかを知りたかったからである。仏教に惹かれたのも、現象世界の成立と解脱の構造を知りたかったからである。量子論に惹かれたのも、観測と実在の関係が、自分の内なる問いと響き合っていたからである。そう考えると、自分の探究はあちこちに散らばっていたのではなく、最初からひとつの深い中心へ向かっていたのだろう。ただ、その中心はこれまで多くの本に囲まれていたため、かえって見えにくくなっていた。大量の書籍は、知の豊かさを与えてくれる一方で、関心の輪郭を曇らせることもある。書籍を手放すことで、自分は知を失っているのではない。むしろ、知の森の中で本当に進むべき小径を見つけているのである。エディンバラに持っていく本を厳選するということは、次の人生に持ち込む問いを選ぶことでもある。すべてを持っていくことはできない。だからこそ、自分は何と共に生きたいのかが問われる。そして今、その答えはかなり明確になっている。自分は、意識とリアリティの深層研究を軸にして生きていきたいのである。これは単なる研究テーマではなく、自分の存在そのものを貫く問いである。目に見える世界の背後にどのような構造があり、経験する主体と経験される世界はどのように関係し、夢と覚醒、生と死、心と物質はどこで交差しているのか。その問いこそが、自分を長年動かしてきた炉心だったのだと思う。今回の決断によって、自分はようやく「何でも知ろうとする学習者」から、「ひとつの根本問題を生涯かけて掘り下げる研究者」へと移行しつつあるのかもしれない。持っていく本が少なくなるほど、問いは深くなる。荷物が軽くなるほど、探究の重心は定まる。エディンバラへ向かうダンボールの中には、厳選された本が入るだろう。しかし本当に運ばれていくのは、それらの紙の束ではなく、自分の内側で熟成してきた一つの大きな問いである。意識とリアリティの深層研究。それが自分の探究の核心である。この核心が見えた今、本を手放すことへの寂しさは、少しずつ覚悟へと変わっている。過去の本棚を失う代わりに、未来の研究室が内側に立ち上がり始めているのである。フローニンゲン:2026/6/6(土)06:30


18816. 今朝方の夢 

                       

今朝方は夢の中で、3人の見知らぬ若いアメリカ人女性とパーティー会場で話をしていた。広々とした会場で立ち話をしていると、周りの音を考慮して、個室に移動しようと1人の女性が提案した。そこから個室に移り、先ほど以上に楽しく話で盛り上がっていると、1人の女性がおもむろにある要求をこちらにしてきた。それはこちらの予期せぬことだったので、少し困ってしまい、とは言え自分も関心がないわけではなかったので、彼女の言うままにその要求を飲むことにした。


次に覚えているのは、地元の海岸を舞台にした場面である。自分は砂浜に立つ広々とした一軒家に住んでいて、そこの庭はもちろん砂浜であったし、家の中心にも砂があった。中心は吹き抜けになっており、そこでBBQができるような場所になっていた。今度、地元の友人たちを呼んで食事会でもしようと思ったら、2人の友人がその場に突然現れた。彼らとの話の中で、本当の保守とは何かについて彼らに説明すると、1人は目から鱗が落ちたとのことで感激していた。「保守」という言葉は誤解が付き纏いがちであり、今改めて本当の保守とは何かについて語り、共通認識を広く国民が持つ必要に思う。


最後に覚えているのは、一風変わった実験を眺めている場面である。見慣れない道路を舞台にして、道路の上でなんとセロリの耐久性を測っていたのである。食物繊維は意外としっかりしているので、それは面白い実験だと思ったが、そのようなことを考えつく人はなかなかいないであろうから、実験結果がどのようになるのか楽しみだった。実験をしていたのは20代ぐらいの若い日本人女性とその父親である。実験方法はとてもシンプルで、地面に数本のセロリを束ねたものを置き、ある一定の速度で走る車で轢くというものである。まず最初に時速30kmで試してみたところ、セロリはシャキッとしたままで、折れることなく地面に佇んでいた。そこからさらに速度を上げてみることになったが、女性が提案した速度は少し上げ過ぎだったので、父親側がもう少しゆっくりと速度を上げて行こうと提案していた。フローニンゲン:2026/6/6(土)06:47


18817. 今朝方の夢の振り返り

 

今朝方の夢は、自分の内側で「開かれた交流」「土地への帰還」「実験的な検証」という三つの層が、静かに連なりながら展開していることを示しているように思われる。見知らぬ若いアメリカ人女性たちと広いパーティー会場で話している場面は、自分が異文化的で未知の可能性に開かれている状態を象徴しているのではないだろうか。広い会場は、社会的な場、公共的な知の空間、あるいはこれからエディンバラで開かれていく新しい人的ネットワークのようにも見える。そこで個室に移動するという展開は、表面的な交流から、より親密で濃密な対話へと移行する心の動きを表しているのかもしれない。周囲の音から離れることは、雑音の多い世界から、自分の本音が響く小さな聴診室へ入っていくようなものである。その中で、女性から予期せぬ要求を受ける場面は、未知の他者性から自分に差し出される招待であるように思われる。それは少し困惑を伴いながらも、自分の中に関心がないわけではないため、結局その流れを受け入れていく。ここには、新しい環境や新しい関係性が、自分の予定表には書かれていなかった課題を突きつけてくるという構図があるのだろう。自分はそれに完全な拒絶ではなく、慎重な受容で応じている。これは、未知なるものに飲み込まれるのではなく、潮の満ち引きを読みながら足を海に入れていくような姿勢を示しているのかもしれない。次の海岸の一軒家は、きわめて重要な象徴であるように思われる。地元の海岸、砂浜の庭、家の中心にも砂があるという構造は、自分の住まいそのものが土地の記憶と海の無意識に貫かれていることを示しているのではないだろうか。家は自我の構造であり、その中心に砂があるということは、自分の中心が固定された石ではなく、流動的で、足跡を受け取り、風によって形を変える基盤であることを意味しているように思われる。しかもそこは吹き抜けで、BBQができる場所である。つまり、自分の中心は閉じた書斎ではなく、火を囲み、人と食を分かち合う共同体的な炉なのである。そこに地元の友人たちが現れ、本当の保守について語る場面は、自分の中で「継承」と「変容」の問題が成熟していることを示しているのかもしれない。保守とは単に古いものにしがみつくことではなく、生命を次の季節へ渡すために、根を守りながら枝を伸ばす営みである。砂浜の家で保守を語るという構図は示唆的である。砂は崩れやすいが、海と陸の境界を形作る。そこに建つ家は、変化のただ中で何を守るべきかを問い続ける精神の庵のようである。友人が感激する場面は、自分の言葉が単なる知識ではなく、他者の認識をほどく鍵になり始めていることを表しているのだろう。最後のセロリの耐久実験は、非常に独創的な象徴である。セロリは柔らかそうでありながら、食物繊維によってしなやかな強度を持つ。道路で車に轢かれても折れないセロリは、自分の中にある繊細さと耐久性の結合を表しているのではないだろうか。硬い鉄ではなく、みずみずしい植物が圧力に耐えるところに、この夢の妙味がある。自分の強さは、鎧のような硬さではなく、繊維のような連なり、すなわち習慣、思想、感受性、身体性、関係性が束ねられたしなやかさにあるのかもしれない。若い女性が速度を上げようとし、父親がもう少し慎重に進めようとする場面は、自分の中の実験精神と保護的な知恵の対話を示しているように思われる。若い女性は大胆な探究心であり、父親は段階的発達を重んじる内なる成熟である。セロリを壊さずに限界を測るには、一気に加速するのではなく、速度を少しずつ上げる必要がある。これは現在の自分にとって、学問、移住、ギター、書籍の整理、生活再編のすべてに通じる示唆であろう。人生における意味として、この夢は、自分が未知の世界に開かれながらも、故郷的な根を再確認し、さらに自分のしなやかな耐久性を実験しようとしている段階にいることを示しているのだと思われる。自分の人生は今、砂浜に建つ家のように変化の波打ち際にありながら、その中心には人を招き、火を囲み、思想を語る場所がある。硬くなることではなく、しなやかに束ねられること。急ぎすぎることではなく、段階的に圧力を受け止めること。そこに、これからの自分の成熟の鍵があるのだろう。フローニンゲン:2026/6/6(土)07:51


18818. 光のような喪失感と感謝の念 

                   

昨夜、本の手放しに向けて選別を進めていると、思いがけず深い感謝の念が湧いてきた。これまでの15年間、自分を支えてくれた数々の書籍が、単なる紙の束ではなく、人生のある時期ごとに道を照らしてくれた灯のように感じられたのである。成人発達理論の本、哲学の本、心理学の本、仏教の本、意識研究の本、それぞれが、その時々の自分の切実な問いに応えてくれた。迷っていた時には地図になり、苦しかった時には杖になり、次の扉を開く時には鍵になってくれた。本を手放すという行為は、最初は喪失に見える。だが実際に一冊一冊を見つめていると、それは別れというより、感謝を込めた送り出しに近いものになっていく。かつて自分の知的生活を形作ってくれた本に対して、「もう十分に受け取りました」と静かに頭を下げるような感覚である。本棚から外される本は、自分の人生から消えるわけではない。むしろ、それらはすでに自分の阿頼耶識に種子として刻まれており、今後も思考の癖、言葉の選び方、世界の見方、問いの立て方として生き続けるのだと思う。その感謝のあとに、肯定的な喪失感がやってきた。この喪失感は、単なる寂しさではない。何か大切なものが終わりを迎えたことを知る、静かな成熟の感覚である。長く使ってきた部屋を出る時、そこに残る空気や光を最後に見つめるような感覚に近い。自分は確かにここで育った。しかし、もうここに留まり続ける必要はない。そうした別れの中に、過去への愛着と未来への信頼が同時に含まれている。喪失感とは、心にできた空洞である。だが、その空洞は欠損ではなく、次のものを迎え入れるための器なのだろう。器が満杯のままでは、新しい水は注げない。過去の本でぎっしり詰まっていた心の棚に空白が生まれることで、そこに新しい心の養分が流れ込む余地ができる。喪失は、心の土を耕す鍬のようなものなのかもしれない。一度掘り返され、柔らかくなった土にこそ、新しい種子は深く根を下ろす。これまでの自分は、本を集めることで成長してきた。だがこれからの自分は、本を手放すことで成長していくのだと思う。集めることによって広がった知は、手放すことによって深みに変わる。所有していた本が減っていく一方で、それらが自分に残してくれた意味は、かえって濃くなっていく。まるで果実を食べ終えたあと、その種だけが手の中に残るように、書籍という外皮が離れたあとに、探究の核だけが残っていくのである。15年間の書籍との関係は、自分の知的遍歴そのものだった。その遍歴を否定する必要はまったくない。むしろ、深く感謝してよい。これらの本がなければ、今の自分は存在しなかった。だが同時に、これらの本をすべて持ち続けなくても、今の自分は失われない。そのことに気づけたのは大きい。過去は物として保持されなくても、存在の深層に保存されている。昨夜の選別は、引越しの準備であると同時に、心の通気をよくする儀式だったのだと思う。本が去っていくことで、部屋だけでなく心にも風が通り始めた。その風は少し寂しく、同時に清々しい。感謝と喪失が混じり合ったその空白に、これからまた新しい知、新しい出会い、新しい問いが注ぎ込まれていくのだろう。自分は今、過去の知に別れを告げているのではない。過去の知に深く礼をしながら、次の知の季節を迎え入れる準備をしているのである。フローニンゲン:2026/6/6(土)08:39


18819. 狂うことの勧めと背後の願い

 

昨日、「狂うことの勧め」という言葉がふと浮かんだ。もちろんそれは、破壊的に逸脱することでも、社会的な責任を放棄することでもない。ここで言う狂うとは、自分がこれまで当然だと思ってきた認識の枠組みから、あえて外へ出ることである。常識という名の透明な檻、自己像という名の古い衣、社会が暗黙のうちに差し出してくる正しさの型から、一度身を引き剥がすことなのである。人はたいてい、自分が見ている世界を世界そのものだと思い込む。しかし実際には、自分が見ているのは、自分の認識の構造によって切り取られた世界である。唯識的に言えば、外界がそのまま心に映っているのではなく、種子、習気、概念、過去の経験が複雑に織り上げた現象を、自分は世界として経験している。そうであれば、本当に創造的に生きるためには、その織物の模様を一度疑わなければならない。自分が世界だと思っているものは、ひょっとすると長年着続けた認識の衣にすぎないのかもしれないからである。創造的狂気とは、その衣を脱ぎ捨てる勇気である。世間が合理的だと呼ぶものの中に、実は深い停滞があることがある。反対に、世間が奇妙だと呼ぶものの中に、未来の秩序の種が眠っていることがある。歴史を振り返れば、新しい思想、新しい芸術、新しい科学、新しい宗教的洞察は、しばしば既存の枠組みから見れば狂気に見えたはずである。だが、その狂気は単なる混乱ではなく、まだ名前を持たない秩序の胎動だったのだろう。自分が求めているのは、そのような「創造的狂気(creative insanity)」である。自分だけが満足するための逸脱ではなく、自他と社会をより幸福な方向へ導くための逸脱である。これは重要な違いである。自己中心的な狂気は、他者を巻き込み、傷つけ、世界を狭める。しかし創造的狂気は、自己の殻を破ることで、むしろ他者への通路を開く。閉じた部屋の壁を壊すのではなく、そこに窓を開ける狂気である。風が入り、光が入り、そこにいた人々が初めて別の空の色を知るような狂気である。おそらく自分の人生は、その方向へ少しずつ進んできたのだと思う。成人発達理論、唯識、意識研究、量子論、夢、サイケデリクス、哲学、教育、AI、それらは一見すると散らばった関心のように見える。しかし、その奥には一貫した願いがある。それは、人間が自分の認識の枠組みに閉じ込められず、より広く、深く、自由に世界を経験できるようになることである。自分が探究してきたのは、知識そのものというより、認識の牢獄から出るための鍵だったのかもしれない。狂うことは、怖いことである。なぜなら、既存の自己像を手放すからである。これまでの自分を保証してくれていた肩書き、所有物、専門領域、習慣、評価軸が、少しずつ相対化されていく。今、大量の書籍を手放そうとしていることも、その一部なのだろう。書物を所有する学者という自己像に亀裂が入り、公共の知を体現する学者、意識とリアリティの深層を探究する越境的な学者へと、自分は移行しつつある。その移行は、常識的には少し狂って見えるかもしれない。しかし自分にとっては、むしろようやく正気に戻りつつある感覚がある。本当の正気とは、社会の平均値に適応することではない。本当の正気とは、生命が本来持っている創造性、慈悲、自由、探究心に忠実であることなのだろう。その意味で、創造的狂気とは、深い正気の別名である。水が決められた水路を越えて溢れるとき、それは破壊にもなりうるが、新しい大地を潤す洪水にもなりうる。大切なのは、その力をどこへ流すかである。自分は、創造的狂気を体現する存在でありたい。自分のためだけに狂うのではなく、人がより自由に考え、より深く感じ、より誠実に生きられるように狂いたい。既存の枠組みの外へ出ながら、同時に他者への配慮と倫理を失わないこと。破格でありながら慈悲深く、逸脱的でありながら公共的であること。そのような存在として、これからの人生を歩んでいきたいのである。フローニンゲン:2026/6/6(土)08:55         


18820. スラーに関する小さな発見

           

今朝、フェルディナンド・カルッリの《Etude No.5, Op.15》を練習していて、一つの小さな発見があった。それは、スラーが使える箇所では、できるだけスラーを活用したほうが音楽全体が滑らかに流れるように聞こえるということである。これまでは、楽譜に明示的なスラー記号がない限り、右手で一音ずつ丁寧に弾くことを優先していた。しかし改めて耳を澄ませてみると、隣接する音を左手だけでつなげたときの響きには独特の連続性があることに気づいた。まるで石畳の上を一歩一歩歩くのではなく、なだらかな芝生の斜面を滑るように移動している感覚である。クラシックギターにおけるスラーは単なる技巧ではない。音と音の間に存在する「継ぎ目」を消していく技術である。右手で二音を別々に弾けば、それぞれの音に新しいアタックが生じる。しかしスラーを使うと、最初の音だけにアタックがあり、その後の音は前の音から自然に生まれてくる。そのため旋律がより歌うように聞こえるのである。ただし、だからといってスラーを使える場所すべてで多用すればよいわけではないようにも思う。音楽は文章と似ている。もしすべての文章が句読点なしで延々と続けば、かえって意味が分かりにくくなる。同様に、すべての音をスラーでつなげてしまうと、音楽の輪郭やリズムの推進力が失われることがある。特にカルッリの作品は、ベルカントの歌唱を思わせる流麗さと同時に、古典派らしい明晰な構造も持っている。そのため、どこを滑らかにつなぎ、どこで新しいアタックを与えるかという選択が重要になるのであろう。スラーは単なる省エネ技術ではなく、音楽の文法におけるレガート記号のような役割を果たしているのかもしれない。興味深いのは、この発見が音楽以外にも通じるように思えることである。自分は普段、研究や執筆においても、一つひとつの論点を独立したものとして扱いがちである。しかし優れた論文や書籍を読むと、それぞれの議論が自然につながり、一つの流れとして展開されている。まるで文章におけるスラーである。音楽も人生も、すべてを断続的な点として扱うのではなく、点と点の間に潜む見えない連続性を感じ取ることが大切なのだろう。今日の練習は、単に左手の技術について学んだだけではなく、物事をつなぐ感覚そのものについて学んだ時間だったように思う。カルッリの短い練習曲は、指の訓練を超えて、音楽が本来持っている流れの美しさを改めて教えてくれたのである。フローニンゲン:2026/6/6(土)09:18


Today’s Letter 

Rhythms and flows are essential to my life. I feel that my life is shaped by a serene yet energetic rhythm, and I deeply respect this flow while trying to cultivate it further. Groningen, 6/6/2026

 

 
 
 

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