【フローニンゲンからの便り】18658-18664:2026年5月10日(日)
- 1 日前
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タイトル一覧
18658 | フラメンコギターにおけるコード進行 |
18659 | 今朝方の夢 |
18660 | 今朝方の夢の振り返り |
18661 | 耳コピ能力の涵養 |
18662 | 仏教美学 |
18663 | 朝のHIITの工夫 |
18664 | フローニンゲンを離れる前に:ForumでVR作品『A Long Goodbye』を鑑賞して |
18658. フラメンコギターにおけるコード進行
最近、フラメンコギターにもクラシック音楽のようなコード進行の概念があるのか気になって調べてみた。結論から言えば確かに存在するのだが、その感覚はポップスやジャズの「コードを並べる」という発想とはかなり異なるように思えた。むしろフラメンコにおけるコード進行は、和声そのものというより、リズムや身体感覚や情念と一体化した空気の流れのようなものなのかもしれない。特に印象的だったのは、アンダルシア終止と呼ばれる進行である。Am-G-F-Eという比較的単純な流れなのだが、そこには不思議な重力感がある。まるで夕暮れの空にゆっくり沈んでいく太陽を見ているような感覚で、最後のEコードが強い緊張を生み出し、再びAmへ戻っていく循環が独特の哀愁を生み出している。コード数だけを見れば決して複雑ではない。しかしその数個の和音の中に、何十年も乾いた大地を吹き抜けてきた風のような歴史が閉じ込められているように感じた。また、フラメンコでは同じコードでも右手のラスゲアードやゴルペ、アクセントの位置によって空気が一変することを知った。クラシックギターでは音を整え、均整を保つことに意識が向きやすいが、フラメンコでは音が土埃のように舞い、炎のように揺らぐ。その響きは建築物というより焚き火に近い。形を固定するのではなく、燃え方そのものを扱っているのである。さらに興味深かったのは、「ポル・アリーバ」や「ポル・メディオ」のように、キーそのものが単なる移調ではなく、身体感覚と結びついている点である。開放弦の響きや左手のポジションによって、同じ進行でも感情の色合いが変わるというのは面白い。音楽理論だけでは説明しきれない、土地の空気や身体文化がそこには宿っているのだろう。クラシックギターを練習していると、つい正確性や再現性に意識が向きやすい。しかしフラメンコの世界を少し覗いてみると、音楽とは本来もっと生々しく、身体的で、火を扱うような行為なのだと思わされる。数個のコードだけで深い宇宙を作り出せるという事実は、技術や複雑性だけが芸術の本質ではないことを静かに教えてくれている気がした。フローニンゲン:2026/5/10(日)07:01
18659. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、名門シカゴ大学の驚くほど広く大きな大教室である著名な経済学者の講演を聞いていた。まずその教室に足を踏み入れた時、あまりの広さに驚いてしまった。その教室は段差になっていて、下の教壇にその教授がすでにスタンバイしていた。この講演に誘ってくれた友人に感謝しながら講演が始まるのを待った。講演がいざ始まると、自分と同じ後列に座っている学生二人が何やら声を出し始めた。どうやら片方の学生が不正に講演を動画撮影していたらしく、それを加工しながらリアルタイムでYouTube上に公開しているようだった。そこで一度講演が止まり、教授を含め、関係者が動画のチェックにやって来た。教授は特に怒る様子もなく、静かに動画を眺めていた。結局その動画を削除するのかどうするのかに時間が思った以上にかかり、自分は退屈してしまい、席を立って教室を後にすることにした。すると同じように思っていた大勢の聴衆たちが教室から出て行き始めた。
次に覚えているのは、離島の観光名所を訪れている場面である。そこで私は小中高時代のある友人と一緒に島を散策することになった。彼はこの島に何度も訪れているらしく、土地勘があったので助かった。旅館は別の島にあったので、その島に行くためのウォーターバスの停車駅を確認してから散策を始めた。彼と散策の途中で、お洒落な飲み物屋に立ち寄った。彼はそこで地元のビールを購入しようとしていた。そこには新鮮な野菜と果物で作られたスムージーなどもあり、それを購入しようかと思ったが、手持ちの水がまだあったので購入を控えた。その代わりに自分は足の指と裏を綺麗にしたいと思ったので、店の手洗場所にあった泡の石鹸を借りて足を綺麗にした。それが終わったタイミングで彼の注文が届いたので店を後にすることにした。
最後に覚えているのは、日本のある若手の有名な経済学者が大学で講義をしている場面である。その学者の指導教官は著名なアメリカ人の経済学者であった。その指導教官がある難問を彼を含め、他の研究者に提示したところ、彼が非常に美しい数式を用いてその問題を解決したので、その講義を依頼されたのだった。彼はアメリカに留学して学位を取得していたが、英語はさほど上手くなかった。しかしそれを気にさせないほどの見事な数式化に聴衆たちも感動しているようだった。その後、他の若手の研究者が別の方法で問題の解決に取り掛かったらしく、そのプロセスを共有したが、彼ほどにはそのアプローチに美しさを感じることはなかった。フローニンゲン:2026/5/10(日)07:13
18660. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢全体には、「本質的価値」と「表面的演出」を見分けようとする内面的運動が流れているように思われる。夢の中の自分は、巨大な講堂、観光地、大学講義という異なる空間を移動しているが、それらはいずれも「何に価値を感じるのか」という感受性の選別装置として機能しているようである。最初のシカゴ大学の場面は、巨大な知の劇場を象徴しているのかもしれない。段差のある大教室は、現代社会における権威構造や知的ヒエラルキーそのものの比喩であり、その最下部の教壇に立つ経済学者は、まるで巨大な金融システムの司祭のように静かに待機している。しかし興味深いのは、講演内容そのものよりも、「撮影」と「配信」の騒動が空間を支配してしまう点である。これはおそらく、現代の知性が、真理の探究よりも可視化・拡散・演出へと吸い寄せられていることへの違和感を象徴しているのであろう。知識そのものではなく、「誰が見ているか」「どう切り抜かれるか」が主役になる時代である。教授が怒らず静かに動画を眺めていたことも印象的である。それは、自分の内側にある成熟した観察者の姿なのかもしれない。騒動を無理に止めるでもなく、かといって同調するでもなく、ただ現象として見つめている。そして自分が退屈して席を立つと、多くの聴衆も後に続いたという展開は、自分の感受性が単なる個人的気分ではなく、時代的な空気を先取りしている可能性を示しているようにも思われる。つまり魂は、知識の消費ショーから静かに退場し始めているのである。そこから離島へ移行する流れは極めて象徴的である。巨大な制度空間から、海に囲まれた小さな土地へ移ることは、意識が抽象世界から身体性や生活世界へ帰還する運動を示しているのかもしれない。しかも案内役が小中高時代の友人であることは重要である。その友人は、社会的肩書き以前の「原初的自己」との接続を象徴しているように見える。ウォーターバスの停車駅を確認していた場面も、人生の移行点を見失わないための確認作業のようである。まるで人生という群島を移動する中で、「どこに戻る舟が来るのか」を慎重に確かめているのである。さらに印象深いのは、飲み物を購入せず、代わりに足を洗ったことである。これは単なる衛生行為ではなく、人生の歩行感覚そのものを浄化しようとする象徴行為のように見える。足は人生を進む器官であり、その裏側を泡で洗う姿は、社会的成功や知的競争によって蓄積した見えない疲労や汚れを落とそうとする無意識の営みなのかもしれない。しかもスムージーや地ビールという「消費的快楽」よりも、歩行の浄化を優先した点に、自分の深層的価値観が表れているように感じられる。最後の経済学者の場面は、この夢全体の結論部なのであろう。そこでは、流暢な英語や派手な演出ではなく、「美しい数式」が人々を感動させていた。つまり夢は、「表現の巧拙」よりも「構造の美しさ」に価値を置く方向へ意識を導いているのである。英語が完璧でなくとも、本質を深く捉えた構造化には人を動かす力がある。これは、自分がこれから進もうとしている学問や人生にも深く重なる象徴かもしれない。おそらく自分は、世界的権威の言語ゲームに完全適応することよりも、唯識や発達理論を通して、人間存在を美しく構造化できる人物になることを無意識に望んでいるのであろう。この夢が人生に示している意味は、巨大な舞台で目立つことよりも、「何が本当に美しい構造なのか」を見抜く感受性を守れということなのかもしれない。外側の喧騒から静かに離れ、足裏を洗い直し、自分自身の数式を生きよという、深海から届いた航海図のような夢であったように思われる。フローニンゲン:2026/5/10(日)08:01
18661. 耳コピ能力の涵養
街中や動画の中で流れている曲を、その場で聴いただけですぐにギターで再現できる人を見ると、まるで音が直接指へ流れ込んでいるように感じることがある。以前はそれを才能の一言で片づけていたが、最近は少し違う見方をするようになった。その力の正体は、単なる耳の良さではなく、音と身体が結びついている状態なのかもしれないと思うのである。普通は、音を聴くとまず頭の中で分析しようとする。「これは何のコードだろう」「どのスケールだろう」と考え、そこからようやく指を動かす。しかし耳コピが得意な人は、その過程が極端に短い。まるで言葉を聞いて意味を理解するように、音を聴いた瞬間に運指や響きの感覚へ変換されているように見える。それは知識以前に、長年蓄積された身体地図のようなものなのだろう。考えてみれば、母語を話す時も同じである。文法を頭の中で逐一解析しているわけではない。耳で聞いた音の流れと、口や喉の運動が深い場所で接続されている。ギターもおそらく同じで、膨大な数の「響きと身体動作の対応関係」が無意識の中へ沈殿していくことで、音を聴いた瞬間に自然と指が反応するようになるのだと思う。その意味で、この能力は特別な魔法というより、「深く染み込んだ経験の総体」なのかもしれない。もちろん絶対音感のような先天的要素もあるだろう。しかし実際には、多くの優れた演奏家が、日々の反復の中で耳と指の回路を少しずつ結び直しているのだろう。特にクラシックギターのような楽器では、単音だけではなく和声や声部進行の感覚も身体化される必要がある。だから単純な暗記ではなく、「音の重力」を身体で覚えることが大切なのだと思う。耳コピ能力を育てるには、完璧に再現しようと焦るよりも、小さな音の違いへ丁寧に注意を向けることが重要なのではないかと感じている。例えば、簡単なメロディを一音ずつ探すこと、ベース音だけを拾うこと、コードの明暗を感じること。その積み重ねによって、耳は徐々に「音楽の地形」を読めるようになるのだろう。最初は霧の中を歩いているようでも、繰り返すうちに輪郭が浮かび上がってくる。そして興味深いのは、この力が単なる音楽技術を超えている点である。音を聴いてすぐ再現できる人は、おそらく世界そのものを関係性として捉えている。つまり、一つ一つを孤立した情報として処理するのではなく、流れや構造として感じ取っているのである。だからこそ、耳に入った音楽が、そのまま身体の中で生き始めるのだろう。まるで風が木々を揺らすように、外の音が内側の身体を自然に動かしているのである。フローニンゲン:2026/5/10(日)08:41
18662. 仏教美学
ここのところ、仏教美学について考えている。美学というと、西洋哲学ではしばしば「美しい対象」をどのように認識するかという問題として扱われる。しかし仏教美学は、単に美しいものを鑑賞するための理論ではなく、「存在のあり方そのものをどのように感じ取るか」という感受性の訓練に近いのかもしれないと思うようになった。例えば西洋近代では、美はしばしば完成性や均整や永続性と結びつけられてきた。一方で仏教美学には、無常、不完全、余白、静寂、消滅の気配が深く入り込んでいる。桜が満開である瞬間だけではなく、散り始める瞬間に深い美を感じる感性などはその典型だろう。それは「崩れていくもの」に宿る美であり、固定された実体を求めるのではなく、変化そのものへ心を開く感覚である。その意味で、仏教美学は唯識思想ともどこか響き合っているように思える。世界は固定的対象の集合ではなく、縁起的な関係の流れとして立ち現れている。そのため、美とは物体の内部に閉じ込められた属性ではなく、「関係性が一瞬開花する現象」なのだろう。静かな庭園や能楽や禅画を見ていると、そこでは何かが強く主張されているわけではない。むしろ削ぎ落とされた空白の中に、鑑賞者自身の心が入り込む余地が残されている。美が「所有」ではなく「参与」として現れているのである。さらに興味深いのは、仏教美学が価値論や倫理学にも深く関わっている点である。近代社会では、価値は効率性、生産性、競争力のような尺度によって測られやすい。しかし仏教美学は、それとは異なる価値の地平を開いているように感じる。例えば苔むした石や古びた木材に美を感じる感性は、「役に立つかどうか」を超えた価値認識である。それは存在そのものへの静かな敬意に近い。そしてこの感性は倫理とも繋がっているのだろう。もし世界を固定的対象ではなく、繊細な相互依存の網として感じ取るなら、他者や自然に対する態度も変わらざるを得ない。暴力や搾取は、単なる道徳違反ではなく、「世界の調和を乱す感覚鈍麻」として見えてくるのかもしれない。逆に慈悲とは、抽象的義務というより、「他者の苦しみを美的に感じ取れる感受性」に近いのではないかと思うことがある。まるで濁った水面に小石を投げ込めば波紋が全体へ広がるように、一つの行為が関係世界全体へ響いていくことを身体的に感じ取る能力である。考えてみれば、茶道や庭園文化にも同じ構造がある。そこでは豪華さよりも、空気の震えや静寂の密度が重視される。何もない空間が、かえって豊かな意味を持ち始める。その感覚は、情報や刺激で飽和した現代社会に対する静かな抵抗なのかもしれない。おそらく仏教美学の本質とは、「世界を征服対象として見る視線」から、「世界と共鳴する視線」への転換にあるのだろう。美とは、世界を支配した時に現れるものではなく、自我の輪郭が少し薄れ、存在同士が静かに呼応し始めた瞬間に立ち現れるのである。フローニンゲン:2026/5/10(日)09:12
18663. 朝のHIITの工夫
朝のHIITの中にジークンドーのセルフスパーリングを取り入れてみようと思っている。ただ単に汗を流すためではなく、身体と意識を同時に目覚めさせる儀式のようなものとして実践したい。ジークンドーは固定化された型に閉じこもる武術ではなく、「流れへの応答」を重視する思想でもある。そのため、セルフスパーリングも単なるシャドーボクシングではなく、自分自身との対話になるのではないかと感じている。まず意識したいのは、「力むほど動きが死ぬ」という点である。特にHIITでは心拍数が上がるため、無意識に肩へ力が入りやすい。しかし実際には、優れた打撃は筋力の塊というより、鞭のような連動から生まれる。硬くなった身体は鉄の棒のようで、一見強そうに見えても衝撃を吸収できない。一方、しなやかな身体は竹のようで、風を受け流しながら瞬間的に鋭い力を放つ。そのため、呼吸を止めず、脱力した状態で重心移動を感じ続けることが大切なのだろう。また、セルフスパーリングでは「想像上の相手」を本当に存在しているかのように感じることも重要だと思う。単に空間へパンチやキックを放つだけではなく、相手の圧力、距離、視線、タイミングをイメージすることで、身体の反応性が変わってくる。ジークンドーは迎撃の思想を持つ武術でもあるため、「相手が動いてから反応する」のではなく、「動きの予兆」を読む感覚を養いたい。これは音楽で次の和声進行を予感する感覚にもどこか似ている。熟練した演奏者が次の音を身体で先取りするように、武術でも次の動きの流れを察知するのである。さらに面白いのは、セルフスパーリングが心理状態をそのまま映し出す鏡になる点である。焦っている日は動きが雑になり、迷いがある日はフェイントにキレがなくなる。逆に集中している日は、動作同士が滑らかにつながる。まるで水面に心の状態が反射するように、身体運動の中へ精神が露出するのである。そのため、この練習は単なる戦闘技術の鍛錬ではなく、「今ここ」に意識を戻す瞑想に近いのかもしれない。HIITとして行う場合には、全力と回復の切り替えも重要になるだろう。短時間で爆発的に動いた後、呼吸を整えながら静かに構える。その反復の中で、身体は単なる持久力だけではなく、「緊張と弛緩の切り替え能力」を学んでいくように思える。これは現代社会を生きる上でも大切な感覚なのかもしれない。常に全力で張り詰めるのではなく、必要な瞬間だけ鋭く集中し、それ以外は静かに流れること。ジークンドーの「水のようであれ」という思想は、単なる戦い方ではなく、生き方そのものを示しているように感じるのである。フローニンゲン:2026/5/10(日)09:21
18664. フローニンゲンを離れる前に:ForumでVR作品『A Long Goodbye』を鑑賞して
今日もまたとても穏やかな日曜日だった。つい先ほど、フローニンゲンの中心部にあるモダンな複合施設のForumから帰ってきた。午後の3時間弱を休憩に充て、ForumでVRを使った『A Long Goodbye』等30分ほどの映画を観てきた。主人公の妻は認知症を患う72歳の元ピアニストである。彼女を支える夫と共にこの物語は進行していく。VR体験をしたのは、リトアニアのカウナスの国立チュルリョーニス美術館以来の体験で、非常に興味深い体験をした。ヘッドホンはMeta社のものを用いて、ヘッドホンと合わせて没入的な体験をすることができた。これからVR技術がますます進化すると、さらに没入感のある非日常的体験ができるのではないかと思う。作品は美しい映像と音楽に合わせて、認知症を患う元ピアニストの視点で彼女の世界を追体験する形で進行していく。鑑賞中、および鑑賞後もぼんやりとこの作品の主題について考えさせられていた。鑑賞を終えてすぐは非日常的な意識状態が続いていたので、引き続きForumの各階を観て回った。最後にここを訪れたのはこの施設ができてすぐの頃だったと思うので、今から約7年前のことになる。今回も前回と同様に最上階の展望台に行き、フローニンゲンの街を見渡した。すると前回と違う感情が到来した。今回は、これまで10年間お世話になったフローニンゲンへの感謝の念に溢れ、10年間この町で過ごした数々の思い出が一気に蘇ってきた。あと数ヶ月すると英国エディンバラでの新たな生活が始まる。欧米生活の最初の第一章がアメリカでの生活だったとすれば、オランダでの10年間の生活は第二章であり、エディンバラでの生活は第三章となる。こうして自分の人生において肥やしとなってくれた町を離れることに種々の気持ちを抱きながら、新天地での新たな充実した生活を展望する。きっとまた自分はエディンバラで種々の縁に恵まれ、豊かな生活を送るであろう。エディンバラを離れることがまたいつの日かやって来たら、その時にどのような思いを持つのか今から幾分楽しみである。そこに自己の成熟の一端を見るであろう。フローニンゲン:2026/5/10(日)16:54
Today’s Letter
I always find beauty whenever I live in the moment. The self constantly seeks it and is cultivated by it. Groningen, 5/10/2026
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