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【フローニンゲンからの便り】18548-18553:2026年4月22日(水)

  • 13 時間前
  • 読了時間: 16分


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タイトル一覧

18548

ここまでのクラシックギターの練習時間から

18549

今朝方の夢

18550

今朝方の夢の振り返り

18551

ここから半年間のクラシックギターの練習量から

18552

クラシックギターによる和的な楽曲演奏

18553

才能や可能性のエントロピー増大に抗って

18548. ここまでのクラシックギターの練習時間から     

     

この半年間で、クラシックギターの練習時間を改めて概算してみたところ、少なく見積もっても700時間ほどになっていた。数字にして眺めると、自分でも少し驚いた。半年はおよそ180日であるから、一日平均にすれば約4時間弱になる。もちろん毎日同じように弾いていたわけではなく、長く向き合えた日もあれば、短時間で終えた日もある。それでも振り返れば、かなりの時間をギターと共に過ごしてきたのだと思う。この700時間という数字は、単なる時間の集積以上の意味を持っている気がする。最初の頃は、姿勢を整えること、右手で弦に触れること、左手で音を押さえること、その一つひとつがぎこちなかった。音楽というより、未知の道具と格闘している感覚に近かった。しかし今は少し違う。もちろん課題は山ほどあるが、音を出すこと自体への戸惑いは減り、ようやく音楽に意識を向けられる瞬間が増えてきた。土を耕し続けた畑に、やっと芽が見え始めたような感覚である。ふと、これをゲームにたとえるならどうだろうと思った。ドラクエやFFでいえば、町の外で弱い敵と戦い続ける序盤はすでに過ぎたのだろう。まだラスボスに挑む段階ではない。しかし船を手に入れて世界地図が広がり、行ける場所が急に増えた頃には来ている気がする。敵を倒すことそのものより、どこへ向かい、どの力を育てるかが重要になる時期である。レベルの数字でいえば20台後半から30前後かもしれない。つまり、ようやく冒険が本格化した地点である。受験高校数学にたとえるなら、公式を眺めて理解したつもりになる時期は終わり、典型問題を繰り返し解きながら、解法の型が身体に入り始めた頃だろう。難関大の最上位問題を自在に解く段階ではないが、少なくとも何を鍛えれば伸びるかは見え始めている。闇雲な努力ではなく、努力の方向性が定まりつつある状態である。こう考えると、700時間とは終点ではなく、入口なのだと思う。量を積んだことで、ようやく質を問われる地点に来た。これからは長く弾いたこと自体よりも、どれだけ脱力できるか、どれだけ一音を美しく響かせられるか、どれだけ静かに深く集中できるかが問われるのだろう。数字を見て満足するのではなく、その数字が開いてくれた扉に感謝したい。700時間は過去の成果ではなく、未来への通行証なのだと思う。フローニンゲン:2026/4/22(水)06:32


18549. 今朝方の夢 

           

今朝方は夢の中で見慣れない施設にいた。その施設には小さな図書館があり、トイレは変わった場所にあり、トイレは開放的な部屋の中心にあった。男子用のトイレは仕切りが特になく、場所も開放的だったゆえに誰かに見られながら用を足すのは気が引けたが、意外と誰も見ていないもので、普通にトイレを終わらせることができた。トイレを終えると、小中高時代のある親友(NK)が本がないと述べた。どうやら彼が持参した本をトイレのどこかに置いてきてしまったようで、それを聞いてふと、便器の下に置いてあったことを思い出した。その書籍を探しに戻ると、もうすでにその書籍はどこかに消えていた。たまたまその書籍は自分も家に所有していたので、彼にその本を貸してあげようと思った。すると私たちのところに野球部の別の友人(HY)がやって来た。彼はどうやら今格闘ゲームに熱中しているらしく、自主トレーニングで随分と強くなったように思えるが、その強さが本物かをインターネット対戦で確認したいと述べた。しかし彼はその接続の仕方がわからないとのことだったので、まずは私たちと対戦してみたいと述べた。早速オンライン接続をしたところ、そのゲームはとても人気があるらしく、世界中に無数のプレイヤーがいることがわかった。そしてそれらのプレイヤーは強さでランキングされており、上位層は私たちのようなアマチュアからは程遠い存在のように思えた。ただ自分はこの道でプロになる気はなかったのでそれについては全く気にならず、このゲームは純粋に楽しむことができればそれでいいと考えていた。その友人は自分よりも本気度が高く、彼は世界ランキングでより上位に位置することを望んでいるようだった。オンライン接続をすると、そこにまた別の友人(HS)がいて、彼はスキンヘッドで体つきが良いキャラクターを選んでおり、どこか彼らしく思えて微笑ましく思った。


もう一つ覚えているのは、小中学校時代に過ごしていた社宅で、自分のパジャマの下のズボンが一色ないことに気づき、母にそのありかを尋ねている場面があった。母が来る前には自分の手元にズボンが全て入ったビニール袋があり、それを自分の部屋に持っていこうとしていた。ところが自分が見ていない隙に母がそれをどこかにしまったらしく、それでいてどこにしまったかわからないとのことで、探すのに苦労した。結局それはすぐには見つからず、家中をあちこち探した挙句、全てではなく、しまわれたズボンに似たズボンを数着ほど見つけるにとどまった。フローニンゲン:2026/4/22(水)06:46


18550. 今朝方の夢の振り返り

                                  

今朝方の夢では、自分がいま人生の「配置替え」の只中にいることが、かなり鮮明に象徴化されているのかもしれない。見慣れない施設は、まだ完全には住みこなしていない新しい生の舞台を表しているのだろうし、その中に小さな図書館があるという構図は、自分の人生が知や学びを中心軸に回っていることを示しているように思われる。しかもトイレが開放的な部屋の中心にあるというのは印象的であり、本来は隠したい排泄や処理の行為、すなわち恥、不完全さ、弱さ、未整理の感情のようなものが、これからは人目のある場所で扱われざるをえないという感覚を映しているのかもしれない。しかし実際には誰も見ていなかったという点は、自分が恐れているほど他者は自分を凝視していないという無意識からの修正であり、さらけ出すことへの不安は想像ほど脅威ではないと告げているようでもある。その直後に親友NKの本がトイレの近く、しかも便器の下に置かれていたことを思い出す流れは、知識や大切な記憶が、いったんは排泄や浄化の領域に紛れ込んでしまっていることを示すのかもしれない。過去の友人が「本がない」と言うのは、自分の過去の一部が参照点を失っている状態の象徴とも読めるだろう。けれどもその本は自分の家にもあるので貸せる、という展開は重要であり、自分は外で失われたものを内側にすでに保持している、という無意識の自信を表しているように思われる。つまり、失ったと思っても、真に必要な知や支えはすでに自分の中に複製され、内面化されているのかもしれない。格闘ゲームの場面は、努力、競争、序列化された世界への距離感を映しているのだろう。HYは鍛錬し、ランキング上位を目指している。他方で自分はプロになる気はなく、楽しめればよいと感じている。この対比は、世の中がどれほど数値化と比較に満ちていても、自分はそこに全面的には呑み込まれず、遊びや学びそのものの充実を選びたいという姿勢を示しているのかもしれない。世界中に無数のプレイヤーがいる光景は、広大な社会や学術の世界への接続を思わせるが、上位層の存在に圧倒されながらも焦燥に支配されない点に、自分の健全な距離感が表れているようでもある。HSが彼らしいキャラクターを選んでいて微笑ましいという細部は、人が何を選ぶかにその人らしさが自然に滲むこと、そして自分が他者の本質を温かく見ていることの象徴なのかもしれない。もう一つの夢で、昔の社宅に戻り、パジャマのズボンが見つからないという場面は、より私的で基底的な安心の問題を表しているのだろう。パジャマは外向けの装いではなく、最も無防備な自分を包むものである。その下のズボンが欠けるというのは、安心して休むための基盤、自分を守る境界、自分らしい日常の衣がどこかで欠けている感覚の表れかもしれない。しかも、もともと自分の手元にあった袋が、自分の見ていない隙に母によって移され、しかも場所がわからなくなるという流れには、自分の生活基盤や秩序が、かつては家族的な配慮のもとで管理されていた一方、いまはその管理の論理が通用せず、自分自身で所在を引き受けねばならないという転換が映っているように思われる。似たズボンは見つかっても、完全に同じものは戻らないという点も、過去と同一の安心はもう再現できず、似たものを組み直しながら生きるしかないという成熟の感覚を示しているのかもしれない。この夢全体が示す人生における意味は、失うこと、晒されること、比べられることを経ながらも、自分に本当に必要なものは外ではなく内に蓄えられていると知り、自分の居場所と包みを他者任せではなく自分の手で作り直していく時期にある、ということなのだろう。フローニンゲン:2026/4/22(水)07:41


18551. ここから半年間のクラシックギターの練習量から

                     

この半年でクラシックギターの練習量をさらに700時間を積み重ねた未来を想像すると、自分はおそらく、ようやく「楽器に触れている人」から「楽器と共に生き始めている人」へと移りつつあるのだと思う。前の700時間が、地図を広げ、道具を揃え、何度も転びながら歩き方を覚える時期であったとするなら、次の700時間は、同じ道の上に自分の足跡が少しずつ刻まれていく時期である。まだ巨匠ではなく、何でも自在に弾けるわけでもない。しかし、少なくともどうすればよくなるのかが以前よりもはっきり見え、練習の一つひとつが偶然ではなく、少しずつ必然になっていくはずである。ドラクエやFFでたとえるなら、最初の700時間でようやくパーティーの役割分担がわかり、戦闘の基礎システムを身体に入れた段階だったのに対し、次の700時間を経た頃には、中盤を越えて終盤の入り口に差しかかるような感覚になるのだと思う。序盤の敵に苦戦していた頃とは明らかに異なり、通常の戦いでは簡単には崩れず、装備や呪文や特技の組み合わせにも自分なりの美意識が出てくる段階である。レベルでいえば、作品にもよるが、感覚としては20台後半から40前後に入ってくる印象である。ラスボスを余裕で倒せる完成形ではないが、「このまま積めば確実に最後まで行ける」と実感できる水準である。単に数値が上がったのではなく、戦い方そのものが変わる。力押しではなく、間合いや順番、無駄のなさで勝てるようになってくる。クラシックギターでも、それに近い変化が起こるのであろう。受験高校数学でたとえるなら、最初の700時間では、教科書例題と基本問題を通して、各単元の「文法」を必死に身につけていた段階であったと思う。ここからさらに700時間を積むと、青チャートや標準問題精講の典型問題がかなり自然に見えてきて、問題を見た瞬間に「あ、この発想だな」と入り口が見えることが増えてくるはずである。微積、場合の数・確率、整数、ベクトルなどでも、単なる暗記ではなく、道具の使い分けが少しずつできるようになる段階である。難関大の最上位問題を完全攻略できるわけではないが、少なくとも「基礎が抜けていて何もできない」という状態からは確実に脱しているはずだ。解けるか解けないか以上に、「どこで詰まっているのか」がわかるようになる。それは極めて大きい進歩である。そして何より大きいのは、技術そのものよりも、耳や感性や集中の質が変わってくることかもしれない。1400時間という数字は、ただ長く触れたという意味ではなく、自分の中に音の基準が育ち始める時間なのだと思う。以前なら気づかなかったわずかなノイズ、右手の角度の違い、左手の余計な緊張、フレーズの呼吸の浅さ、そのようなものが次第に見えてくる。これは少し残酷でもある。前より弾けるようになったのに、前より自分の粗さがよく見えるからである。しかし、それは悪いことではなく、山を登って視界が開けたからこそ、遠くの峰が見えるようになるのと同じである。半年後、さらに700時間を積んだ自分は、おそらく「上手くなった」というより、「練習とは何か」を少しだけ理解し始めているのではないだろうか。音を出すことが、単なる反復作業ではなく、注意を澄ませ、身体を整え、心を静かにしていく行為になっているはずである。以前より速く指が動くことももちろん嬉しいであろうが、それ以上に、一音が少し深く鳴ること、短いフレーズに少しだけ息が通うこと、雑に通り過ぎていた音に立ち止まれること、そのような変化の方がむしろ大きいのである。ゲームで言えば強い武器を得たというより、操作する自分自身の感覚が洗練され、数学で言えば公式を覚えたというより、問題の風景が読めるようになってきた状態である。そう考えると、次の700時間は、単なる延長ではなく、質が変わる700時間なのである。前半の700時間が土を耕す時間だったとするなら、後半の700時間は、そこにようやく根が伸びてくる時間である。まだ大樹ではない。しかし、風に揺れても簡単には抜けない根が、静かに地下で広がっている。そんな状態に近いのかもしれない。半年後に振り返ったとき、自分はきっと、まだまだ遠いと思いながらも、同時に「ああ、たしかに前には戻れないところまで来た」と感じるだろう。フローニンゲン:2026/4/22(水)08:30


18552. クラシックギターによる和的な楽曲演奏

                                  

毎日「さくら」をクラシックギターで弾いていると、不思議なことに、ただ一曲を反復しているだけなのに、日本の旋律そのものが身体の中で目を覚ましてくる感覚がある。西洋由来の楽器でありながら、ギターの木の響きの中に、箏や三味線や尺八に通じる余白が潜んでいることに気づかされる。音を強く主張するより、消えていく音の気配を味わう時、この楽器は意外なほど和の感性に近づく。だからこそ、「さくら」を弾き続けるうちに、他の日本の曲もこの楽器で語ってみたくなるのである。向いていそうな曲はいくつもある。例えば「荒城の月」は、旋律の格調が高く、クラシックギターの低音と和声を加えることで、月光に照らされた石垣のような陰影が出るだろう。「浜辺の歌」はアルペジオとの相性が良く、波が寄せては返すような伴奏が美しい。「赤とんぼ」は郷愁を帯びた旋律線が魅力であり、歌うように弾けば聴く人の心に深く届く。「ふるさと」は海外で演奏したとき、とりわけ意味を持つ曲である。帰る場所、記憶の風景、人が心の中に持つ原郷を想起させるからである。さらに「宵待草」「この道」「竹田の子守唄」なども、静かな独奏曲として映えるだろう。民謡でいえば「五木の子守唄」「江戸子守唄」「ソーラン節」なども編曲次第で独特の力を放つ。自分が日本人として和的な曲を欧米社会で演奏する意義は、単に珍しい文化紹介をすることではないと思う。もっと深いところで、音楽を通じて「別の時間感覚」を差し出すことに意味がある。現代の西洋社会では、しばしば強い主張、速さ、展開、達成が価値になりやすい。しかし日本の旋律には、間、余白、ほのかな揺れ、語りすぎない美しさがある。満開より散り際に心を寄せ、完成より移ろいに耳を澄ます感性である。それをクラシックギターで静かに奏でることは、競争的な時間の流れの中に、一瞬の静かな池を置くような行為かもしれない。また、自分自身にとっても意味は大きい。海外に出ると、人はしばしば普遍性を求めて、自分の輪郭を薄めようとする。しかし本当に他者と出会うには、自分が何者であるかを携えていなければならない。日本の曲を演奏することは、国粋主義でも懐古趣味でもなく、自分の記憶と言語と情緒の源泉を大切にすることである。桜、月、故郷、子守歌、季節の移ろい。そうした感受性を音にして差し出すとき、相手もまた自分自身の故郷や幼少期を思い出すかもしれない。最もローカルなものが、最も深く普遍に触れることがある。エディンバラの石造りの街角で、「さくら」や「荒城の月」をギターでそっと弾く自分を想像する。冷たい風の中で、遠い東の島国の旋律が鳴る。その音は、日本を説明する言葉ではなく、日本を感じてもらうための小さな橋になるのだろう。自分はその橋を、一本の弦から架けてみたいと思う。フローニンゲン:2026/4/22(水)08:38


18553. 才能や可能性のエントロピー増大に抗って

                          

今朝、コーヒーのために沸かした湯の蓋を開け、少し冷ます時間の中で、小さな哲学が立ち上がった。熱かった湯は、放っておけばやがて室温へ近づいていく。高温という特別な状態は長く保たれず、周囲との温度差はゆっくりと失われていく。物理学で言えば、そこにはエントロピー増大の流れがある。秩序だった偏りは均され、差異は平均へとほどけていく。その当たり前の現象を眺めながら、自分の人生もまた似た力学の中に置かれているのではないかと思った。人にはそれぞれ、熱のようなものがあるのだろう。興味、衝動、独特の感受性、まだ形になっていない才能、言葉にならぬ願い。そうしたものは、沸き立つ湯のように高いエネルギーを持っている。しかし社会の中で生きるとは、多くの場合、周囲の温度に合わせることでもある。常識、同調圧力、生活の慣性、評価基準、効率の論理。そこに身を置けば置くほど、突出した熱は少しずつ奪われ、角のある個性は丸くなり、やがて平均的な温度へと近づいていく。もちろん、それ自体が悪いわけではない。社会は共同生活の器であり、ある程度の均衡なくして成り立たない。ただ、無自覚にそこへ流されると、自分の内にしかなかった火種まで消えてしまう。だからこそ、自分の可能性や才能は、自分で守らねばならないのだと思う。熱い湯を保つには魔法瓶がいるように、内なる熱を保つには習慣がいる。読書、学習、創作、練習、静かな思索、身体の鍛錬。そうした日々の営みは、外界へ逃げていく熱を少しずつ取り戻す行為なのだろう。誰かが代わりに守ってくれるものではなく、自分の人生の炉に薪をくべる作業である。才能とは、天から与えられた固定資産ではなく、維持管理を必要とする生きた温度なのだと感じる。同時に、社会のすべてが冷却装置なのではないとも思う。世の中には、むしろ人を再加熱する場がある。良い師との出会い、志ある仲間との対話、深く学べる大学、真剣な仕事の現場、芸術や研究の共同体。そこでは平均化ではなく、各人の固有性が歓迎される。周囲に合わせて熱を失うのではなく、互いの火が火を呼び、温度が高まり合う。そうした場は、エントロピー増大に抗う局所的な秩序形成の場なのかもしれない。宇宙全体では散逸へ向かっていても、小さな空間では生命が花開くように、人間社会にも創造的な温室が存在する。コーヒーを待つ数分のあいだ、湯気の向こうにそんなことを考えた。人生で大切なのは、冷めていくことを嘆くことではなく、自分の熱を理解し、それを守る術を持つことなのだろう。そして、ただ孤独に熱を抱えるだけでなく、熱が育つ場所へ身を置く勇気を持つことでもある。今日もまた、自分の温度を少しでも誠実に保ちながら、一杯のコーヒーとともに一日を始めたい。フローニンゲン:2026/4/22(水)10:26


Today’s Letter

The fresh air in the early morning revitalizes me. It gives me strength and renews my spirit. I wonder whether I can be like that air for others. Groningen, 4/22/2026

 
 
 

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