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【フローニンゲンからの便り】18472-18477:2026年4月7日(火)

  • 17 時間前
  • 読了時間: 16分


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タイトル一覧

18472

停滞の中にある希望

18473

今朝方の夢

18474

今朝方の夢の振り返り

18475

英会話という音楽表現

18476

即興演奏の喜びと意義

18477

春の幸せな陽気に包まれて/メルヴィンから教えてもらった即興演奏の工夫

18472. 停滞の中にある希望   

                             

昨日はよく晴れていて、庭にはやわらかな光が広がっていた。隣人のマークとアーノルドが外に出て、日光浴を楽しみながら何かを話し込んでいる様子が見えた。その穏やかな光景を眺めているうちに、自分の内側にも静かな余白が生まれ、最近クラシックギターの練習で感じている停滞感について、改めて考えていた。ここしばらく、以前のように「弾けば弾くほど伸びている」とは言い切れない感覚がある。技術が失われたわけではないのに、どこか同じ場所を行き来しているような印象があり、もどかしさも伴っている。しかし、ダイナミックスキル理論の観点から見ると、このような時期は単なる停滞ではなく、むしろ次の再編成の入口であると理解できる。発達とは一直線に上昇するものではなく、ゆらぎや不安定さを伴いながら、新たな構造へと組み替えられていく過程だからである。これまで安定して使えていた弾き方や感覚が、今の自分には微妙に適合しなくなってきているのかもしれない。しかしそれは、何かが壊れているというよりも、より高次の統合へ向けた内部調整が進行している徴候であると考えられる。ダイナミックスキル理論において、スキルは固定的な能力ではなく、文脈や課題、身体状態との相互作用の中で生成されるものである。そうであるならば、現在の停滞感もまた、次の段階に必要なゆらぎとして位置づけることができる。音の生成、右手と左手の協応、フレーズの方向性、脱力の質、呼吸との連関など、ギターの演奏は複数の要素の複雑な結合によって成立している。ある段階で有効であった統合の形は、次の段階では限界を露呈することがある。その際、人は一時的に手応えを失いながらも、より精緻で柔軟な構造へと移行していくのである。現在感じている停滞感は、その移行の過程における不可避の現象である可能性が高い。庭で穏やかに会話する二人の姿を見ながら、成長とは外的には静止しているように見える時間の中でも進行しているのだと感じた。表層には顕著な変化が現れなくとも、内的構造は確実に再編成されている。そのように捉えると、この停滞感は否定すべきものではなく、むしろ次に到来する飛躍の前兆として理解されるべきものなのだろう。いま求められているのは、焦って成果を回復しようとすることではなく、この過渡期に丁寧にとどまる姿勢である。停滞を回避するのではなく、その内部に生じている変容の兆しに注意を向けることが重要だ。昨日の青空と庭の静かな情景は、そのことを示唆しているように感じられた。この停滞は終点ではなく、次なる飛躍に向けた助走であり、そこには確かな希望が含まれているのである。フローニンゲン:2026/4/7(火)06:38


18473. 今朝方の夢 

                         

今朝方の夢において自分は、まず境界の上を歩む存在として現れている。見慣れない雪原は、既知の文脈や文化的枠組みから切り離された「未分化の場」を象徴していると考えられる。その白一色の広がりは、唯識でいうところの未だ分別によって彩られていない依他起の状態のようなものであり、そこにおいて自分は意味を与える主体として歩んでいるのであろう。国境という構造物が出現することは、その未分化の場に対して人為的な区別、すなわち分別所執性が立ち上がる契機を示していると推測される。電流の流れる電線や武装した警備兵は、その分別がいかに強固で暴力的な形で維持されているかを象徴している可能性がある。そのような境界に対して、一人の女性が身体を折りたたみ、触れることなく通過する場面は極めて示唆的である。この振る舞いは、構造そのものを破壊するのではなく、それを「すり抜ける」知恵、すなわち空の理解に基づく柔軟な認識の働きを象徴しているように思われる。固定的な対立構造に対して、正面から衝突するのではなく、執着を持たずに通過するという態度である。しかしながら、そのような越境は既存の秩序にとっては脅威であり、銃撃という形で排除される。このとき自分が宙に浮かび、安全な方向を示す存在となることは、自分の内にすでにその境界を相対化する視点、すなわち非二元的な認識の萌芽があることを示唆しているのかもしれない。自分は単に逃げるのではなく、他者を導く役割を担っており、ここには利他の契機も読み取れるであろう。場面が転換し、外国の街の中にある神社という空間に移ることは、異質な文脈の重なりを象徴していると考えられる。これは、自分が複数の文化的・認識的枠組みを横断しながら、それらを統合しようとしている状態の表現であろう。美術館という「意味を読み取る場」から神社という「意味を超えて祈る場」への移行は、概念的理解から直観的理解への移行を示唆している可能性がある。老夫婦との音楽に関する対話、とりわけ楽譜に隠された円環的構造の発見は、現象の背後に潜む秩序や連関性への気づきを象徴していると解釈できる。五度圏のような循環構造は、単なる音の配列ではなく、全体としての調和や関係性を示すものであり、これは縁起の理解にも通じるであろう。何気なく演奏しているものの中に意味が潜んでいるという洞察は、日常的経験の中に深層構造を見出そうとする自分の志向を反映していると考えられる。さらに、神社において靴を脱ぎ、靴下のまま歩く場面は、世俗的な自己を一時的に手放し、より純粋な状態に入ることを象徴している可能性がある。靴下が汚れないように気遣う行為は、その純粋性を保とうとする繊細な意識の表れであり、ここでもまた自分は宙に浮く能力を用いて他者を支えようとする。この「浮遊」は、物理的制約からの解放であると同時に、認識的な執着からの離脱を象徴しているように思われる。全体としてこの夢は、境界に縛られた世界から、それを相対化し、超えていく過程を描いているように見える。分別によって構築された現実の中で、どのようにして柔軟にそれを乗り越え、他者と共に安全な地平へと移行できるのかという問いが内在しているのであろう。そして音楽や神社といった象徴を通じて、表層的な構造の背後にある調和や全体性への感受性が強調されている。この夢が人生に示唆している意味は、自分が今後歩む道が、単なる知識の蓄積ではなく、境界を見抜き、それを越境しながら他者を導く実践的智慧の形成に関わっているということであろう。すなわち、分断された世界の中で橋渡しを担う存在へと成熟していく可能性が示されているのではないかと考えられる。フローニンゲン:2026/4/2(木)07:48


18474. 今朝方の夢の振り返り 

                           

今朝方の夢全体には、自分がいま「現実とは何か」「自分はどの世界に本気で参加しているのか」を、かなり深いところで問い直している気配があるように思われる。ファイナルファンタジーのようなRPG世界が現実とほとんど見分けのつかないものとして感じられたのは、自分の日常そのものが、役割、物語、期待、努力、成長といった複数のレイヤーから成る「半ば作られ、半ば本物の世界」として経験されていることを象徴しているのかもしれない。虚構と現実の境界が曖昧であるという感覚は、人生もまた一種の物語でありながら、そこで味わう喜びや緊張は紛れもなく本物である、という感受性を映しているようである。波止場は、どこかへ渡る直前の場所であり、移行の象徴であろう。友人たちとフェリーを待っていたことは、自分の変化が孤独なものではなく、関係性を伴う旅として進んでいることを示しているのかもしれない。しかも海が透明で、ルアーの動きまで見えたことは、自分が今、無意識や人生の深みを以前よりもよく見通せる状態にあることを暗示していそうである。スズキを釣る中年男性は、熟練した導き手、あるいは「対象を無理に支配せず、機を読む技術」の象徴であろう。そこに父の記憶が重なるのは重要で、父が釣り上げかけた魚を逃した話は、自分の中で受け継がれながら、まだ掴みきれていない可能性や課題を表しているのかもしれない。自分がその釣り方を学ぼうとしたのは、力任せではなく、成熟した方法によって人生の獲物を捉えたいという欲求の表れであろう。数学の試験の場面は、自分の知性と準備への信頼を象徴しているように見える。違う高校で試験を受けていたことは、過去そのものの再現ではなく、過去の能力を新しい文脈で試していることを意味するのかもしれない。問題を速やかに解き切り、なお見直しをする姿は、単なる能力ではなく、慎重さと完成度への志向を示している。満点を確信する感覚は、自分の内部で「もう解ける」という手応えが育ってきたことの反映であろう。右隣のHHが真剣に取り組んでいる様子を微笑ましく見ていた点も興味深い。これは、自分の中の未成熟さ、遊びたがる部分、あるいは本気になりきれなかった過去の一部が、今ようやく学ぶ姿勢を取り始めていることを、優しく見守っている場面なのかもしれない。忍者屋敷のような場所を友人たちと楽しく抜け出そうとしていた断片は、人生の複雑さや仕掛けに満ちた世界を、苦痛ではなく遊戯としてくぐり抜けようとする心の態度を示していそうである。迷路のような構造からの脱出が「楽しさ」と結びついていたのは、自分が困難そのものを成長の冒険へと変換する力を持ち始めている徴候であろう。人生における意味としては、自分はいま、境界の曖昧な世界の中で、何が本物かを外から教わるのではなく、自らの技術、知性、関係性を通して見極めようとしているのだと思われる。この夢は、人生を単なる試練ではなく、学びと移行と遊びが重なった旅として生きよ、と静かに告げているのかもしれない。フローニンゲン:2026/4/7(火)07:40


18475. 英会話という音楽表現

    

エディンバラへの移住を控え、英会話の基礎力を改めて見つめ直し、表現力を拡張していこうとする試みを数日前から行い始めた。その時間は、どこか静かな高揚感を伴っている。英語を話すという行為は、単に語彙や文法を正確に運用する技術ではなく、自分の内側にある意味や感覚を、異なる音の体系へと変換して外に放つ営みであると感じられる。その意味で、英語の発話能力を鍛えることは、自己の認識の枠組みそのものを拡張していくプロセスでもあるし、それそのものが音楽的な営みでもあることに気づく。この感覚は、クラシックギターの練習と非常によく似ているのだ。楽譜に書かれた音符をただなぞるのではなく、それをどのようなニュアンスで、どのような音色で響かせるのかを探る過程は、まさに英語で何をどのように伝えるのかを模索する過程と重なる。例えば、あるフレーズを弾くとき、指の角度や力の入れ方を微妙に変えるだけで音の質感が大きく変わるように、英語でも同じ内容を伝えるにしても、語順やイントネーション、選ぶ語のニュアンスによって相手に届く意味の輪郭が繊細に変化する。この「微差の積み重ね」が、どちらの領域においても決定的な差異を生み出すのである。また、ギターの練習において、最初はぎこちなく、指が思うように動かないフレーズが、反復を重ねる中で徐々に身体に染み込み、やがて意識せずとも自然に弾けるようになる。この過程は、英語の発話にもそのまま当てはまるように思われる。初めは頭の中で文法を組み立てながら慎重に言葉を選んでいたものが、繰り返し発話することで、徐々に自動化され、思考とほぼ同時に言葉が立ち上がるようになる。このとき、言語はもはや外的なツールではなく、自分の一部として機能し始めるのである。さらに興味深いのは、どちらも終わりのない営みであるという点である。どれほど練習を積み重ねても、「これで十分だ」と感じる瞬間は訪れない。むしろ、上達すればするほど、自分の未熟さや可能性の広がりがより鮮明に見えてくる。この終わりのなさは、一見すると果てしない労力を要求するもののように思われるが、実際にはそのプロセスそのものが喜びを生み出している。ギターにおいて新しい表現が可能になった瞬間の感覚や、英語でこれまで言えなかったニュアンスを自然に伝えられたときの手応えは、小さな発見でありながら、確かな前進を実感させる。エディンバラでの生活を見据えたとき、この英語の訓練は単なる準備ではなく、むしろ新しい環境での経験の質を決定づける基盤であると感じられる。言語が自由になればなるほど、他者との関係性は深まり、学術的な理解もまた立体的になるだろう。そしてそのプロセスは、ギターの演奏において音が単なる音ではなく、意味や感情を帯びた響きへと変わっていく過程と同型である。結局のところ、英語を話すこともギターを弾くことも、自分という存在をどのように外に表現するかという問いに向き合う営みであるのかもしれない。その問いに対する応答は一度で完結するものではなく、日々の反復と微調整の中で少しずつ洗練されていく。その過程に身を置いている今この時間そのものが、すでに一つの充実した経験であると感じられるのである。フローニンゲン:2026/4/7(火)10:22


18476. 即興演奏の喜びと意義 

                     

昨日、夕方の時間となり、これ以上楽曲を通して練習を続けても集中力は持続しないであろうと感じた。そこで気分を切り替えるつもりで即興演奏を始めてみたところ、思いのほか不思議な感覚が立ち現れた。楽曲を演奏し、自分なりに納得のいく音色や流れを生み出せたときには確かな満足感がある。しかし、完全に即興で、次に何を弾くのか自分でも知らないまま音を探っていく行為には、それとは異なる質の喜びがあることに気づいたのである。楽曲の練習においては、常にある種の「正しさ」や「到達すべき形」が前提として存在している。このフレーズはこう歌うべきである、この和音はこのように響かせたい、このテンポ感を維持したいというように、理想の輪郭が先にある。その輪郭に近づいていく過程には職人的な充実があり、積み上げていく喜びがある。しかし同時に、それは既に存在するものへの応答でもある。それに対して即興演奏では、まだ何ものでもない音の手前に立ち、これから生まれるものに向かって自ら進んでいく感覚がある。そこには再現ではなく発見の喜びがあるのである。この喜びは、評価からの一時的な解放によって生じている可能性がある。うまく弾けたか、正確であったか、楽譜に忠実であったかという基準が一時的に後退し、音そのものと直接触れ合うことが可能になる。音を当てにいくのではなく、音に触れるという態度が生まれるのである。そのときギターは課題を遂行するための対象ではなく、未知の領域をともに歩む媒介となる。自分は演奏しているというよりも、音と対話している状態に近づいているように感じられる。さらに重要なのは、即興においては自分でも意識していなかった感覚や傾向が自然に現れてくる点である。普段の練習では制御されている運指や和声感覚が、ある程度自由になることで、思いがけない形で顕在化する。それは、自分の内側に潜在していた可能性が、夕方の静けさの中で徐々に姿を現す過程のようにも見えた。楽曲の練習が形を彫り上げる営みであるとすれば、即興は形になる前の流動的な生命を感じ取る営みである。このように考えると、即興演奏がもたらす固有の喜びとは、「未知の自己が音として立ち現れる瞬間に立ち会うこと」にあるのではないかと思われる。そこでは成果よりも生成そのものが重要であり、完成された形よりも生成のプロセスそのものに価値が宿る。夕方という集中がほどけた時間帯であったからこそ、意図の制御が緩み、より深い層から音が立ち上がってきた可能性もある。即興は単なる余暇的な活動ではなく、自分と音との関係を根本から再構成する契機であると考えられる。それは練習の延長ではなく、むしろ音楽の原初的な次元に立ち返るための重要な実践である。この感覚を大切にしながら、今後の練習の在り方も見直していく必要があると感じたのである。今日の夕方もまた即興演奏をしばし楽しみたい。フローニンゲン:2026/4/7(火)11:29


18477. 春の幸せな陽気に包まれて/メルヴィンから教えてもらった即興演奏の工夫


時刻は午後4時を迎えた。昨日も良い天気に恵まれたが、今日もまた雲ひとつない素晴らしい空が広がっている。春の陽気を感じさせる素晴らしい一日をこうして満喫できていることほど幸福なことはない。今日は先ほど散髪に出掛けていた。道中、この見事な晴天を楽しんでいる街の人々の様子を見れて幸せな気持ちになった。ちょうど先ほど自宅に帰って来ると、隣人のマークと門の外で出会い少し会話をし、門の中に入るとペイトラさん、アーノルド、エヴァと隣人全員と遭遇した。彼らはみんな庭仕事に精を出しており、金銭報酬を得る仕事にあくせくせず、火曜日の午後にこうしてゆったりと過ごせていることはオランダらしい生き方だと好感を改めて持った。かつてのジム仲間のミヘルは偶然にもうちの敷地内の倉庫を借りており、彼の趣味であるバイクいじりをしていた。ここに集う全員が一般的な会社員ではないため、平日も休日も境目なくお互いに好きなことに好きなように時間を使っていることの健常さと至福さを感じた。そんなオランダを去る日がゆっくりと近づいている。


街の人々の幸せそうな表情を眺めながらメルヴィンの店に到着すると、今日は見事な晴天だったので、メルヴィンは外でクラシックギターを演奏していた。しばし店の外で言葉を交わし、いつものように店内でダブルエスプレッソをもらって、お互いにソファに座って雑談を始めた。その中で、メルヴィンにはまだ伝えていなかったエディンバラへの移住について話をした。彼は自分の新たな挑戦を心底喜んでくれた。もちろん彼とは8年にわたる長い付き合いがあるので寂しさもあるが、私たちの友愛は普遍であると話し合った。メルヴィンの問いのおかげで、エディンバラ行きが決まって自分が感じていた感情が喪失感(grief)であることに気付かされた。その単語を彼に述べてもらったおかげで、自分がどれだけこの町を愛し、メルヴィンとの関係性を大切にしていたかに気づくことができた。喪失感は、自分が何を愛していたかを知る肯定的な感情であるとメルヴィンは述べてくれ、本当にそうだと思った。エディンバラに行く決意をしなければ、この町で得られた大切なものに気づくことはなかったであろう。そこからも色々な話をしたが、メルヴィンから改めて即興演奏に関する工夫を教えてもらい、大変参考になった。まずはAマイナーなどの臨時記号がつかない調を選び、使う音の数を限定し、その中で曲に合わせて練習することを勧めてもらった。リズムに乗る方法は、足でステップを踏むことや頭を上下に揺らすことが有効であると教えてもらい、これは非常に参考になると思った。こうして少しずつ即興演奏に慣れてきたら音の数を増やしていくと良いという助言をもらった。また、毎回何か新しいことを取り入れようという意識を強く持ちすぎると空回りする可能性があるので、慣れ親しんでいる技術から少し逸脱することを取り入れていき、音を外すことを失敗と捉えず、自分の新たな可能性を開く重要なステップであると捉えると良いということを教えてもらった。最後に、メルヴィンが今週に得られた気づきは、彼は基本的に早いテンポの曲を好み、間が生まれることを避けていたとのことで、間から生まれる何かに身を委ねることができるようになってきていると教えてくれた。これらのことを意識しながら今から夕食まで即興演奏を楽しもうと思う。フローニンゲン:2026/4/7(火)16:19


Today’s Letter

Getting enough restorative sleep is essential for me to actively engage in my studies and work. Sleep is a valuable asset. Groningen, 4/7/2026

 
 
 

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