【フローニンゲンからの便り】18468-18471:2026年4月6日(月)
- 2 日前
- 読了時間: 11分

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
18468 | 文献の分別の効能を毎週末に感じて |
18469 | 今朝方の夢 |
18470 | 今朝方の夢の振り返り |
18471 | 技術の伸びの踊り場を感じて |
18468. 文献の分別の効能を毎週末に感じて
時刻はゆっくりと午前7時に近づいている。サマータイムに入って1週間ほどが経ち、新たなリズムに慣れて来た頃である。この時間帯は随分と明るくなっており、遠くの空に朝焼けが見える。この季節の素晴らしさは、早朝に小鳥たちの清澄な鳴き声が聞こえることだろう。彼らの鳴き声は自分に癒しと励ましをもたらしてくれている。今の気温は4度と低いが、今日の日中は12度まで気温が上がる。今週は15度を超える日も数日あり、暖かさを感じられる日になるだろう。今日のオランダは、イースター翌日の休日である。なので普段の月曜日以上に静けさと落ち着きがある。ここ最近は、毎週日曜日の夕方に時間を取って、引っ越しに向けて文献整理をしている。対象は書籍と論文群であり、論文に関しては基本的にほぼ全て処分していくことにした。それらの論文はJFKU時代とフローニンゲン大学時代に主に印刷したもので、色々と思い入れがあるが、論文は基本的にインターネット上からも簡単に入手できるので、思い切って今回は1本の論文を除いて処分することにした。その1本は、カート・フィッシャー教授の研究室に訪問した時に、今は亡きフィッシャー教授から直筆のメッセージを書いてもらっているものなので捨てるわけにはいかない。それだけを残し、後の膨大な論文群はリサイクルに出すことにした。書籍に関しても、もうほとんど読まないであろうものに関しては寄付やリサイクルに出すことにし、着実とその山が大きくなっている。今はそれらの書籍は1階の玄関あたりに積み上げており、身近な人に興味があったらあげようと思っている。明日は親友のメルヴィンの店に行き、メルヴィンの関心を考慮して、彼の店にもこれから毎回いくつか書籍を持っていって寄付しようと思う。こうして毎週末に書籍の分別をしていると、それらをパラパラと見返してみると、非常に懐かしい記憶がたくさん蘇ってくる。これまでの学術的な探究の歩みを振り返る上でも、それは非常に有意義であり、引っ越し直前にまとめてそれを行おうとすると、きっとこうした振り返りをじっくり行うことにはならなかったであろう。今週末からはもう少し時間を長くし、これまでよりも30分早くこの作業に取り掛かりたい。エディンバラに持っていく書籍、持っていかない書籍が整理されればされるほど、自分の思考や気持ちも整理されていき、エディンバラに行ってから非常に良いスタートが切れるだろうと確信している。フローニンゲン:2026/4/6(月)06:57
18469. 今朝方の夢
今朝方はいくつか印象的な夢を見ていた。順番は前後するかもしれないが、起床直後に枕元のノートに書き出した最初の場面は、アヴェ・マリアの曲が脳内に流れるものだった。それを歌っていたのは外国人の女性で、最初は真っ白な空間に彼女の歌声だけが響き渡った。そして自分は無限な広がりを持つその空間の中で、その曲を味わっていると、空間は白から淡い黄色に変化した。そこからはもはや空間を意識することはなく、その曲が無限の広さを持つ全空間に染み渡っている感覚が芽生え、自分は曲そのものと一体となっていた。すると、彼女の歌声そのものが淡い黄色に変化していることに気づき、自分はその曲と一体となりながら、その曲がもたらす感動的な力を全身に浴びていた。
次に覚えているのは、小中高時代の2人の友人と一緒に見慣れない山間の温泉街を自転車で散策している場面である。彼らと楽しく話をしながら、初めて訪れたその観光地から色々と刺激を受けていた。山がもたらす力と温泉街固有のなんとも言えない活気が素晴らしかった。散策を終えて宿に戻ってくると、近くに蟻の生態を特集した博物館があり、そこにぜひ足を運んでみたいと思った。蟻に関する一流の研究者たちが集めた資料や展示物を見れることは大変魅力的であり、蟻の生態系について詳しく知りたいと最近思っていたこともあり、足を運んでみようと思ったが、今日はもう夜の時間帯になっているので、明朝に改めてくることにした。不思議とその博物館は夜の10時まで開いていたが、明るくなってから来た方がいいような気がしたのでそのような意思決定をすることにしたのである。宿に戻り、大浴場に向かうと、そこは更衣室が複数あるだけではなく、大浴場も種類の異なる形で複数あって迷った。ドアを開けて入ったところが更衣室ではなく、ある大浴場だったので戸惑ってしまった。すると中高時代のある先輩が更衣室の場所を親切に教えてくれ、そちらに行って着替えることにした。着替えを終え、最初に私が向かったのは地元の湯を満喫できる大浴場だったが、そこに向かう最中に目に入った謎の部屋が気になった。好奇心からその部屋の扉を開けると、そこは気温が低めのミストサウナの部屋で、部屋は真っ暗かつ無音状態になっていた。そこは本当に全くもって無を感じられる素晴らしいスペースで、普段多様な視覚的な刺激や聴覚的な刺激にさらされている現代人からすると、暗闇セラピーかつ無音セラピーの働きをしているように思えた。自分もその部屋の中で大いなる癒しを得ており、無音空間と一つになるような神秘的な体験をした。
最後に覚えているのは、おそらくその温泉街と同じ場所だと思うが、屋外に突如して設置されているサッカーゴールで複数のチームが参加する形のPK戦が 行われており、それを観戦していた。実際には自分もそのうちの一つのチームに所属していて、後ほどキッカーとして順番が回ってくるようだった。それまでの間は、元日本代表の2人のレジェンドのゴールキーパーの方と話をしていた。2人のライバル関係についての話を楽しく聞かせてもらい、PK戦を止める技術の話、そして蹴る側の大切なことについても貴重な話を聞かせてもらった。そんな話の中で驚いたのは、片方のレジェンドの方は現役時代のPKストップ率が50%とのことで、2本のうち1本は必ず止める記録を持っていることに改めて驚かされた。2人の思い出話と貴重な助言を聞いていると、自分の番が回って来て、助言通りに蹴れば難なくゴールを決められそうな予感があった。フローニンゲン:2026/4/6(月)07:22
18470. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内面が「感動に溶けること」「世界を探索すること」「無に還ること」「最後に一手を決めること」という四つの局面を、一つの長い通路のように見せているのかもしれない。最初のアヴェ・マリアの場面では、自分は何かを理解しようとしているのではなく、ただ音に包まれ、ついには音そのものと一体になっていた。白い空間が淡い黄色へと変わる流れは、空白の純粋性が、やがて温もりや慈悲や霊的な熟成を帯びていく過程を象徴しているように思われる。外国人女性の歌声は、自分の内部にまだ十分には言語化されていない異質な可能性、あるいは理性の外側から到来する導きの声であったのかもしれない。自分が曲と一体化していたことは、努力して何かを獲得するより前に、まず大きなものに受け取られる経験を必要としていることを示しているようでもある。温泉街の場面では、今の自分が過去の友人たちとともに未知の土地を巡っていた。これは、自分の過去の発達段階や記憶が、いま新しい環境の中で再編集されつつあることの象徴かもしれない。山と温泉街の活気は、自然の深い力と人間社会の生命感が結びついた場であり、自分がいま知性だけでなく、身体感覚や共同性を含めた総合的な回復を求めていることを映しているように見える。蟻の博物館に強く惹かれながら、夜ではなく明朝に行こうと決めた判断も印象的である。蟻は秩序、協働、微細な観察、見えない社会構造の象徴であり、自分は集合的な知や見えにくい秩序に関心を寄せているのであろう。しかし、それを理解するには、夜の無意識のままではなく、朝の光の中で見たいと感じていた。そこには、直感だけでなく、明晰さを伴って世界を理解したい願いがにじんでいる。大浴場で迷い、先輩に更衣室を教えられる場面は、癒しに至る前に「どの姿で入るか」を定める必要があることを示しているのかもしれない。更衣室は役割や外皮を脱ぐ場所であり、先輩は少し先を歩く導き手、あるいは自分の中の成熟した部分の表れにも思える。そして真っ暗で無音のミストサウナは、この夢の核心であろう。そこでは刺激が剥ぎ取られ、自分は無と一つになるような癒しを得ていた。これは単なる休息ではなく、現代的な情報過多の中で散った意識を、根源的な静けさへ回収する体験を象徴しているように見える。最初の音との合一が「満ちる神秘」だとすれば、ここでの無音との合一は「空になる神秘」である。最後のPK戦は、そのような浄化の後に訪れる実践の場であろう。しかも自分は、ただ観客ではなく、いずれ蹴る側にいる。伝説的なGKたちから話を聞く場面は、外的な師や先達の知恵を受け取ることであり、とりわけ50%のストップ率という数字は、人生の本番が本質的に不確実性を含むことを示しているようでもある。それでも自分は、助言通りに蹴れば決められそうだと感じていた。これは、完全に恐れが消えたというより、恐れを含んだままでも実行できる段階に近づいている徴候かもしれない。人生における意味としては、自分はいま、感動に溶ける受容性と、世界を観察する知性と、無に還る静けさと、最後に行為へ踏み出す決断力とを、一つの人格の中で結び直そうとしているのかもしれない。この夢は、癒しの完成がゴールではなく、深く癒された者として現実の一球を蹴ることこそ次の課題である、と告げているように思われる。フローニンゲン:2026/4/6(月)07:40
18471. 技術の伸びの踊り場を感じて
今日はふと、自分はクラシックギターの技術において一つの過渡期にいるのではないかという感覚が芽生えた。以前のように練習すればするほど明確に伸びていく手応えは薄れ、むしろ同じ場所を巡回しているような印象すらある。しかし、この停滞のように見える時間は、おそらく表層の技術ではなく、より深い層の再編成が起きている段階なのだろう。これまでの自分の練習は、ある意味で「できるようになること」に焦点が当たっていた。速く弾けるようになる、ミスを減らす、難しいパッセージを通せるようにする。しかし今は、それだけでは先に進めない感覚がある。指はある程度動くが、その動きが音楽として十分に意味を持っていないように感じられる瞬間が増えてきた。この違和感は、おそらく次の段階への入口なのだろう。今日の練習では、あえてテンポを大きく落とし、一音一音の質に意識を向けてみた。音がどのように立ち上がり、どのように消えていくのか、その間にどのような緊張や解放があるのかを丁寧に感じ取ろうとした。すると、これまで同じように弾いていたフレーズの中にも、微細なニュアンスの差が無数に潜んでいることに気づかされる。これまでの練習では見えていなかった層が、少しずつ浮かび上がってくる感覚があった。また、身体の使い方にも改めて注意を向けた。指先だけで解決しようとするのではなく、腕全体の重さや脱力、呼吸との連動を意識することで、音が自然に鳴る瞬間があることに気づいた。力を入れることでコントロールしているつもりが、実際には音の自由度を奪っていたのかもしれない。むしろ、どれだけ不要な力を抜けるかが、次の段階の鍵であるように感じられる。さらに、音楽そのものへの理解も問われているように思う。ただ正確に弾くのではなく、このフレーズは何を語ろうとしているのか、どのような方向性を持っているのかを考えながら弾くことで、同じ音の連なりでも全く異なる意味を帯びる。技術と解釈が分離している限り、どこかで限界にぶつかるのだろう。いまはその二つを結び直す過程にあるのかもしれない。この停滞のような時間は、もやもやした気持ちと隣り合わせでもあるが、同時に大きな転換の前触れでもあるのだと思う。表面的な上達が見えないときこそ、内側では構造が組み替えられている。焦って外側の結果を求めるのではなく、むしろこの見えない変化を信じて、丁寧に積み重ねていくことが重要なのだろう。振り返ってみると、夢の中で体験した無音の空間のように、余計なものが削ぎ落とされた状態にこそ、本質的な変化の種があるのかもしれない。音を増やすことではなく、音を澄ませること。そのために必要なのは、量ではなく質への転換である。いまはその入口に立っているのだと感じる。この時期をどう過ごすかは、これからの演奏の質を大きく左右するだろう。急がず、しかし止まらず、一音一音に耳を澄ませながら進んでいきたいと思う。おそらくこの静かな期間を抜けたとき、これまでとは異なる次元で音楽と向き合えるようになっているはずである。フローニンゲン:2026/4/6(月)15:14
Today’s Letter
I surrender myself to the truth. By following its call, I become one with it and am transformed by its profound healing power. Groningen, 4/6/2026


コメント