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【フローニンゲンからの便り】18443-18446:2026年3月31日(火)

  • 4月2日
  • 読了時間: 9分


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タイトル一覧

18443

『真心要決』の転写/野心的・意欲的な研究に向けて

18444

今朝方の夢

18445

今朝方の夢の振り返り

18446

一杯のコーヒーから

18443. 『真心要決』の転写/野心的・意欲的な研究に向けて  

           

時刻は間も無く午前6時を迎える。今の外気は4度だが、体感温度は1度と表示されている。2階の室温も幾分冷えているが、朝のHIITと入浴、および冷水シャワーのおかげで今は体が温かい。昨日の日記で書いたように、4月一杯は唯識関連の文献を再読することに力を入れていく。そこから5月に入ると、論文を旺盛に執筆していく。5月以降の読書はただ書物を読むのではなく、論文を書くためのものになる。本来、こうしたアウトプットを伴う読書でなければ身になりにくく、それを考えると5月からの論文執筆を前提とした読書は実り多いものになるだろう。これから自分が研究していくのは鎌倉時代の仏教僧の良遍の思想である。良遍は鎌倉時代の新仏教が吹き荒れる時代に行き、他宗派との融和を図ったことで知られる。彼が残した文献を見てみると、彼が「統合的思想家」と表現していいような射程の広い思想体系を持っていたことがわかる。まず禅から影響を受け、それへの歩み寄りを見せた『真心要決』はまだ転写が済んでいないこと気づきました、今日からそれを優先させることにした。それに伴い、これまで毎日行っていた『唯識論同学鈔』の転写は一旦お休みとなる。『真心要決』の転写作業が終わったらまた『唯識論同学鈔』に戻って来る予定である。昨日閃いたように、博士論文では『法相二巻鈔』だけではなく、『真心要決』を含めたいくつかの良遍の作品を註釈していくような研究をしてみたい。良遍の残した数多くの文献のうち、英語に翻訳されているのは『観心覚夢鈔』だけであり、それは註釈がなされておらず、また唯識の専門家が翻訳したものではないので、翻訳の質に疑問が持たれている。そうした状況を鑑みると、自分の研究は欧米の仏教研究、とりわけ日本仏教研究において意義と価値を持つことになるだろう。


昨日、アビゲイル・マクベイン博士とポール・フュラー博士にそれぞれ別にメールでエディンバラ大学に行く意思決定をし、オファーを受理したことを伝えた。それに合わせて、2人のコースを受講する予定なので、コースシラバスを共有してもらうお願いをした。エディンバラに行くまでにまだ5ヶ月も時間があるので、課題文献を今から全て目を通しておき、ファイナルペーパーの構想を練り、実際に書き始めてしまおうと考えている。大抵のクラスはファイナルペーパーのみで成績評価がなされるらしく、今からファイナルペーパーのアイデアを練り、文献調査と文献読解をしながらドラフトを執筆していけば、質の高いファイナルペーパーが書けるのではないかと思う。基本的に全てのコースのファイナルペーパーを拡張して、そのコースの指導教官からフィードバックを受けながら査読付き論文にしていきたいと考えている。エディンバラ大学は非常に野心的かつ意欲的に研究に打ち込む。そうすれば、博士課程への道は自ずから開かれていくだろう。フローニンゲン:2026/3/31(火)06:03


18444. 今朝方の夢 

         

今朝方は夢の中で、サッカー元日本代表のあるレジェンド級の方と一緒に外をジョギングしていた。走る速度はゆったりしていて、会話が十分にできるぐらいの速さだったので、その方との会話を楽しんでいた。その方は先日引退をしたばかりで、引退にまつわる話を色々と聞かせてもらった。まだ体は動くらしく、全盛期と実はあまり変わらないのだが、ちょっとした感覚の違和感や判断速度などで疑問に思うことがあり、そして後輩の指導に回るために引退を決意したとのことだった。その話を聞いた後に私たちは少しペースを上げてフットサルコートに向かった。コートに到着すると、コートが空いていたので、せっかくなのでボールを蹴ることにした。すると何人かの人が集まってきたので、紅白戦をすることにした。私はある背の高くてプロ並みの技術を持つ人をマークすることになり、その人との一対一に苦労しながらも、それにやりがいを感じていた。不思議なことに、その人と対峙すればするだけ自分の技術が向上し、同時にやる気も高まっており、最終的にはその人の厳しい守備を掻い潜り、得点を決めるようになっていた。


次に覚えているのは、夢の中で深い休息を取っていた場面である。夢のさらに深い層に入っていくかのように、夢の中で眠りに落ち、熟睡をしていた。途中で夢の夢から目覚め、再び浅い夢の層に戻ってくると、まだ眠り足りないような気がしたので、再び夢を見ない深い眠りの層に落ちていった。


最後に覚えているのは、小中学校時代に過ごしていた社宅の自室で寝ていた場面である。布団の中で眠っていると、蚊の音が聞こえた。目を開くことなく心眼で音のする方に意識を集中させると、蚊の姿形が見えた。どうやらそれは結構大きな蚊のようだったが、こちらに危害を加える感じではなさそうだった。しかし、その音ともしかしたら刺されてしまうかもしれないという思いから、その蚊を駆除しておこうと思ったところで目が覚めた。フローニンゲン:2026/3/31(火)06:14


18445. 今朝方の夢の振り返り

              

今朝方の夢は、時間・能力・意識の三層が重なり合いながら、自分の発達過程そのものを象徴的に描き出しているように思われる。まず、引退直後のレジェンド級のサッカー選手と並走する場面は、自分がすでにある成熟段階の存在と同じ地平に立ちつつあることを示唆しているのかもしれない。ゆったりとした速度で会話が成立しているという点は、単なる憧憬ではなく、理解可能な距離にその成熟があることを意味していると考えられるのである。その人物が語る「まだ動けるが、微細な違和感や判断速度の変化によって引退を決意した」という内容は、能力の有無ではなく、質的な転換点に対する感受性の問題を象徴しているように見える。すなわち、自分にとっての次の段階とは、単に能力を伸ばし続けることではなく、役割や在り方を再編成することであるという予感がここに表現されている可能性があるのである。その後、フットサルの紅白戦に移行する展開は、理論的理解から実践的試練への移行を意味しているように見える。特に、背が高くプロ並みの技術を持つ相手との一対一の場面は、自分よりも上位に位置するスキル体系との直接的な接触を象徴していると考えられる。ここで重要なのは、困難さと同時にやりがいが感じられている点であり、この二重性は発達の「最近接領域」にいることを示している可能性がある。そして対峙するほどに技術と動機づけが同時に高まっていくという現象は、外的な課題が内的構造を再編成し、それがさらに行為を変容させるという循環的プロセス、すなわちダイナミックスキル理論的な変容のプロセスを象徴しているようにも読めるのである。最終的に得点に至る展開は、他者との関係性を通して自己が更新されることを示唆していると推量される。次に現れる「夢の中でさらに眠る」という多層的な意識構造は、自己の深層への下降運動を表しているように見える。浅い夢からさらに深い夢、さらには夢のない層へと移行する流れは、表象的な意識から非表象的な基底意識への接近、すなわち阿頼耶識的な領域への沈潜を象徴している可能性があるのである。ここでは、活動や達成ではなく、純粋な休息や停止が主題となっており、それは先ほどの競技的場面とは対照的に、存在の基盤を整えるプロセスを意味しているのかもしれない。最後に、幼少期の社宅の自室へと場面が移ることは、時間的回帰を通じた根源的自己への接触を示しているように思われる。布団の中で目を閉じたまま、音だけを手がかりに「心眼」で蚊の姿を捉えるという描写は、感覚器官を超えた認識、すなわち非二元的な知覚の萌芽を象徴している可能性があるのである。蚊という存在は、一見取るに足らないが、注意を乱しうる微細な刺激として現れており、それは日常に潜む微細な煩悩や攪乱要因の比喩とも解釈できる。そしてそれを排除しようとする意図が生じた瞬間に目覚めるという構造は、完全な静寂や純粋な認識に至る直前で、再び意図や操作の次元に引き戻される自己の構造を示しているように見えるのである。総じてこの夢は、自分が「能力の向上」「役割の転換」「存在の基底への回帰」という3つの軸の間で動的に再編成されつつある過渡期にあることを象徴しているのではないかと考えられる。人生における意味としては、外的な達成や成長のみを追うのではなく、それを支える内的基盤や認識の質を同時に深めること、そしてある段階では「前に進むこと」と同じくらい「退くこと」や「委ねること」が本質的な発達であるという洞察に開かれていく必要がある、という方向性が示唆されているように思われるのである。フローニンゲン:2026/3/31(火)08:23


18446. 一杯のコーヒーから

                                     

今朝、ふとコーヒーの味わいと覚醒感の関係について考えてみた。浅煎り、中煎り、深煎りでカフェイン量は変わるのかという素朴な疑問であるが、結論から言えば「焙煎の深さそのものが劇的にカフェイン量を変えるわけではない」という理解に至ったのである。一般的には深煎りの方が苦味が強く、いかにもカフェインが多そうな印象を受ける。しかし実際には、焙煎によってカフェインが大きく分解されるわけではなく、含有量そのものはそれほど変わらないらしい。むしろ興味深いのは、豆の状態で見るか、抽出時の計量で見るかによって印象が変わる点である。焙煎が進むほど豆は水分を失い軽くなるため、同じ「一杯分」をグラムで測ると浅煎りの方がややカフェイン量が多くなる傾向があるようだ。一方でスプーンなど体積で測る場合には、密度の違いにより深煎りの方が豆の量が少なくなり、結果としてカフェインも少なくなる可能性がある。このことを考えていると、味覚と実態のズレというテーマが浮かび上がってくる。苦味の強さやコクの深さが、そのまま刺激の強さを意味するわけではないという点は、どこか唯識的な「見え方」と「実在」の乖離にも通じるものがあるように感じられた。深煎りの重厚な味わいに「強さ」を感じてしまうのは、自分の認識の構成の問題であり、必ずしも物理的な量と一致しているわけではないのである。こうして考えてみると、コーヒー一杯にも認識の投影が潜んでいるのだと気づかされる。刺激の本質は単なる量ではなく、どのように知覚し、解釈しているかによって大きく変わる。今日の一杯は、単なる覚醒のための飲み物ではなく、自分の認識の癖を映し出す小さな鏡のように思われたのである。フローニンゲン:2026/3/31(火)フローニンゲン:2026/3/31(火)14:05


Today’s Letter

Quiet self-reflection is beneficial for clearing my mind. It purifies my cognitive defilements, leading me gradually to enlightenment. Groningen, 3/31/2026

 
 
 

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