【フローニンゲンからの便り】18413-18416:2026年3月24日(火)
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タイトル一覧
18413 | 断捨離に伴う文献の再読で生じている現象 |
18414 | 今朝方の夢 |
18415 | 今朝方の夢の振り返り |
18416 | 真如の非実体的顕現論としての唯識思想 |
18413. 断捨離に伴う文献の再読で生じている現象
毎週日曜日の午後には、書籍や論文の断捨離をしながら懐かしのJ-POPを聴いている。その時に相川七瀬さんの曲が流れてきて、音楽活動を続けているのか調べてみたところ、彼女が修士課程を修了されたという事実を知った。また先日は、協働者の知人の方が50歳を過ぎて博士課程に進学することになったという嬉しい知らせを受けた。自分よりも年長である二人の大学院進学や卒業の知らせは、ここからの自分の大学院進学の励ましとなった。
書籍の断捨離に伴い、寄付やリサイクルに出すと決めた書籍を再読してみると、もうその書籍に触れるのが最後だという気持ちからか、集中力高くその書籍をさっと再読できるように思う。書籍の断捨離に際して「これが最後に触れる機会である」と認識した瞬間に、読書の質が高まり、短時間で集中して再読できるようになる現象は、いくつかの心理的・認知的メカニズムの重なりによって説明できると思われる。まず、この現象の核心には「有限性の自覚」があると考えられる。通常の読書においては、その本がいつでも手元にあり、再び読むことができるという前提が無意識に存在している。この「いつでも戻れる」という感覚は、認知的には余白を生み出す一方で、集中の強度を下げる方向にも働く。これに対して、「これが最後である」という条件が付与されると、その本との関係が一回限りの出来事として再構成される。結果として、注意資源が散漫に分配されるのではなく、対象に集中的に投入されるようになるのである。さらに、このとき読書のモード自体が変化している可能性がある。通常の読書が「理解のための読書」であるのに対し、最後の再読は「回収のための読書」へと移行する。すなわち、細部を逐一追うのではなく、これまでに蓄積された理解を前提にしながら、重要なポイントや全体構造を短時間で再統合するような読み方になる。このような読みは、ダイナミックスキル理論の観点から言えば、既存のスキル構造を再活性化し、より高次の統合へと圧縮するプロセスとみなすことができる。したがって、時間あたりの処理効率が高まるのは自然な帰結である。また、「最後に触れる」という状況は、感情的な意味づけを強く伴う。対象が単なる情報媒体ではなく、自分の過去の思考や経験と結びついた「記憶の容器」として立ち現れるためである。このとき、読書は単なる情報処理ではなく、自己の履歴を辿る行為へと変化する。その結果、意味の密度が増し、不要な情報は自然に捨象され、本質的な部分だけが選択的に浮かび上がる。これもまた、短時間で「読み切った」という感覚を生む一因であると考えられる。さらに興味深いのは、「手放す」という決断そのものが認知に与える影響である。人は何かを保持し続けるとき、その対象に対して無意識の執着や未完了感を抱え続ける傾向がある。しかし、手放すことを決めた瞬間に、その対象との関係は一つの完結した単位として閉じられる。この「完了性」が、読書においても一種の締めくくりとして作用し、注意と理解を一気に収束させる働きを持つと推測される。総じて言えば、この現象は「有限性の自覚」「読書モードの転換」「感情的意味の増幅」「関係の完了性」といった要因が相互に連関することで生じていると考えられる。そしてこのプロセスは、単に効率的に再読できるというだけでなく、自分とその書籍との関係を一段高いレベルで再統合し、意味づけ直す契機にもなっている可能性が高い。言い換えれば、断捨離における最後の再読は、単なる整理作業ではなく、知的経験を完結させる一種の儀礼的行為として機能しているのである。そのようなことを思った。今週末の断捨離もまた楽しみである。フローニンゲン:2026/3/24(火)07:24
18414. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、高低差のある欧州のどこかの街にいた。そこは実在している街というよりも、複数の街が融合したような雰囲気を発していたように思う。ポルトガルのリスボンの雰囲気がその一つにあった。また、スウェーデンのストックホルムの雰囲気もあったのを覚えている。そのような街で、まずは高さの低い場所からゆっくりと街の高い場所に向かって歩いていた。街には種々の地元の店があり、お洒落なカフェで本を読んで寛ぐ人や楽しそうに話をしている人を見て、こちらも幸福な気持ちになっていた。散策の途中から、この街を歩きながら自分は種々の能力が試される課題を克服していることに気づいた。それはある種の任務のようなもので、誰が自分にそれを与えたのかは特定できず、一人自分はこれまで磨いてきた能力を総動員しながらその課題を解決しながら街の高みを目指していた。一つ一つの困難な課題を解決しながら、自分は確かな成長の実感を得ていた。そのような夢の場面があった。これ以外にも夢を見ていたことは確かであり、総じて今朝方は課題と向き合い、それらを解決する夢を見ていたように思う。課題と向き合っている時の自分は、真剣な表情をして、随分とエネルギーを使っていた。心理的にも焦りや不安のようなものがあったことは確かである。しかし、そうした状況にあってもユーモアの精神と心のゆとりだけは忘れないようにしていた。フローニンゲン:2026/3/24(火)07:32
18415. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内的発達構造そのものが、空間的な地形として象徴化されたものである可能性が高い。低地から高地へと至る都市は、単なる場所の移動ではなく、自分の意識構造の階層的上昇を示しているように思われる。とりわけ、その街がリスボンやストックホルムといった複数の欧州都市の融合として現れている点は、自分のこれまでの経験、知識、文化的文脈が一つの統合体として再編成されつつあることを示唆しているのであろう。つまりこの街は外界ではなく、自分の内的世界の多層的な記憶と意味の都市であると考えられる。その中を歩くという行為は、単なる観察ではなく参与である。街の人々がカフェで寛ぎ、談笑している光景に触れて幸福感を覚える場面は、自分の中にある安定した情動的基盤、あるいは既に統合された生活領域の象徴である可能性がある。一方で、その穏やかな風景の中に突如として現れる任務は、現在の自分が直面している発達的課題を示していると考えられる。それは外部から強制されたものではなく、誰が与えたのか分からないという点において、自らの内的要請、すなわち自己の深層構造から生起する課題であると解釈できる。課題を解決しながら高みを目指すプロセスは、ダイナミックスキル理論的に言えば、既存のスキルを再編成し、より高次のスキル構造を構築していく過程に相当するのであろう。一つ一つの課題が能力の総動員を要求するという点は、単一のスキルでは対処できない複雑性の領域に自分が入っていることを示唆している。これは、単なる熟達ではなく、構造的再編、すなわち変容規則の複合的運用が求められている段階である可能性がある。同時に、課題に直面する中で焦りや不安が生じている点は、現在のスキルと要求水準との間に緊張が存在していることを示している。しかしながら、その状況においてもユーモアと心の余裕を保っているという点は重要である。これは、メタ認知的な距離を維持しつつ、状況に巻き込まれ過ぎない観照的自己が機能していることを意味している可能性がある。唯識的に言えば、第六識の働きに対して、より高次の認識が介入している状態とも捉えられる。また、この夢全体が課題に向き合い、それを解決するという一貫したテーマで構成されている点は、現在の自分の生活や研究において、問題解決的な態度が中核的役割を果たしていることを反映していると考えられる。これは単なる適応ではなく、自らの存在様式そのものを更新していくプロセスであり、いわば自己の再構築の途上にあることを示唆しているのであろう。総じてこの夢は、自分が現在、複雑な内的・外的課題に取り組みながら、統合と上昇のプロセスにあることを象徴していると考えられる。低地から高地へという移動は、未分化から統合へ、断片から全体へという発達的運動の比喩であり、その過程において不安と余裕、緊張とユーモアが同時に存在していることは、成熟した発達段階への移行期に特有の現象である可能性が高い。この夢が人生において示唆する意味は、自分が今まさに次の構造へと移行しつつあり、そのための課題に正面から取り組むこと自体が成長の核心であるという点にあるであろう。課題は障害ではなく、構造を更新するための装置であり、それを引き受ける姿勢そのものが、自分の存在をより高い次元へと導いていると解釈できる。したがって、この夢は「困難の中にこそ、次の自己が潜在している」という方向性を指し示している可能性がある。フローニンゲン:2026/3/24(火)07:50
18416. 真如の非実体的顕現論としての唯識思想
唯識思想を「真如の実在論」とみなす見方は、一定の妥当性を持ちつつも、そのまま単純に実在論と同一視することには慎重さが求められるかもしれない。なぜなら、唯識は一方で「識のみ(vijñapti-mātra)」を強調しつつ、他方で真如という究極的実在を説くように見えるが、この真如は通常の意味での「実体的存在」とは異なる性格を持つからである。まず、唯識において三性説が鍵となる。遍計所執性は虚妄分別によって構成された誤認的実在であり、依他起性は因縁によって成立する現象の流れである。そして円成実性こそが真如に対応する。この円成実性は、依他起性における「虚妄分別の欠如」として把握されるため、それ自体が新たな実体として立ち上がるわけではないのである。ここに、唯識が単純な形而上学的実在論ではない理由がある。しかしながら、真如が単なる否定的概念に留まらない点も重要である。真如はしばしば「法性」「実際」「如如」などと呼ばれ、あらゆる現象の究極的な在り方として位置づけられる。この意味で、唯識は完全な虚無主義ではなく、むしろ現象の背後にある不変的な次元を想定しているようにも見える。この点から、真如をある種の「実在」とみなす解釈が生じるのであろう。ただし、この「実在」は西洋形而上学における実体(substance)とは決定的に異なる。真如は何か独立して存在するものではなく、あくまで虚妄分別が止滅したときに顕現する「そのままの在り方」である。言い換えれば、それは存在論的対象ではなく、認識論的転換の帰結として現れる次元である。したがって、真如を「あるもの」として捉えた瞬間、それは再び遍計所執に陥る危険を孕むのである。この点を踏まえると、唯識は「弱い意味での実在論」、あるいは「非実体的実在論」と呼ぶことができるかもしれない。すなわち、真如は完全に否定されるわけではなく、むしろ究極的な真実として肯定されるが、その肯定は対象的・実体的なものではなく、構造的・関係的なものなのである。さらに言えば、唯識における転識得智のプロセスを考えると、真如は単なる存在論的前提ではなく、実践的到達点でもある。阿頼耶識が大円鏡智へと転じるとき、そこに顕現するのが真如である。この意味で真如は「あるかないか」を問う対象ではなく、「いかにして顕現するか」という実践的文脈において理解されるべきものである。総じて言えば、唯識思想は真如を肯定する点において実在論的側面を持ちながらも、その真如を実体化することを徹底的に拒むという独自の立場に立っているのである。したがって、それは「真如の実在論」というよりも、「真如の非実体的顕現論」とでも呼ぶべき思想である可能性が高いのではないかと思う。フローニンゲン:2026/3/24(火)11:33
Today’s Letter
Suchness naturally arises when we stop clinging to the self and to things. Once we purify our cognitive defilements, it appears, radiating as it is. Groningen, 3/24/2026


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