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【フローニンゲンからの便り】18232-18235:2026年2月19日(木)

  • 2月21日
  • 読了時間: 10分


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タイトル一覧

18232

クラシックギターによる癒しの感覚

18233

今朝方の夢

18234

今朝方の夢の振り返り

18235

希望の光の中での内省

18232. クラシックギターによる癒しの感覚    

                           

クラシックギターの美しい音色によって、練習を通じて心が癒されているような気がする。その感覚は、単なる気分の問題ではなく、神経生理・身体感覚・時間知覚が同時に再編されている状態である可能性が高い。まず、クラシックギターの音色そのものが持つ物理的特性が関与している。ナイロン弦は倍音構造が比較的柔らかく、高周波成分が過度に強調されない。アタックが鋭すぎず、減衰が滑らかである。この「立ち上がりが丸く、余韻が穏やかに溶ける」音響特性は、自律神経系に対して刺激過多を起こしにくい。結果として交感神経優位から副交感神経優位へと移行しやすくなる。心拍が安定し、呼吸が深まり、筋緊張が下がる。癒しは主観的感情であると同時に、生理的調整でもある。次に、触覚と音響の一致がもたらす統合感がある。右手の指先で弦を弾いた瞬間に、皮膚感覚・関節角度・聴覚フィードバックがほぼ同時に立ち上がる。この「触れた結果がすぐ音になる」直接性は、脳に強い因果の明瞭さを与える。現代生活では行為と結果の間に遅延や抽象化が多いが、ギターではその距離が極端に短い。この明確なフィードバックループが、自己効力感と安定感を回復させる。また、時間の質が変わる。練習中に美しい音色を追求しているとき、意識は「過去の反省」や「未来の不安」から離れ、音の立ち上がりと減衰の微細な変化に集中する。これは時間知覚の収束であり、心理学的にはフローに近い状態である。時間が連続した線ではなく、音ごとの現在の点として経験される。連続する現在の点に意識が留まると、反芻的思考は弱まる。癒しとは、思考の雑音が一時的に静まる現象でもある。さらに、身体内部の緊張調整が起きている。美しい音色を出そうとすると、過剰な力はむしろ邪魔になる。右肩の余計な挙上、左手の過剰な押弦圧、呼吸停止は音を硬くする。したがって美音追求は必然的に脱力学習を伴う。これは単なる演奏技術ではなく、全身のトーンを微調整する訓練である。筋緊張の再調整は感情状態にも波及する。身体が柔らぐと、感情も柔らぐ。最後に、和声的秩序が内面の秩序を映す。協和と不協和、緊張と解決、アゴーギクによる時間の伸縮。これらを自らの身体で生み出し、解決まで導く経験は、混沌を秩序へ変換する小さなモデル体験である。日常の葛藤が未解決であっても、音楽の中では必ず解決を経験できる。この反復は心理的回復力を高める。さらに重要なのは、美しい音色が「外部から与えられるもの」ではなく「自分の身体を通して生成されるもの」である点である。受動的に音楽を聴く場合と異なり、ここでは自らが原因となって調和を生み出す。これは能動的な癒しであり、創造的回復である。したがって、自分が感じている感覚は偶然ではない。ギター練習は、音響刺激、自律神経調整、触覚統合、時間意識の収束、脱力学習、秩序生成という複数の層が同時に働く複合的プロセスである。美しい音色は単なる結果ではなく、身体と心が調律された証拠であるとも言える。癒されているという感覚は、音が美しいから生まれるのではない。音を美しくしようとする過程で、自身の神経系と身体が静かに整っているから生まれるのである。フローニンゲン:2026/2/19(木)06:30


18233. 今朝方の夢 

                       

今朝方は夢の中で見慣れない一室で小中高時代の二人の友人(HO & YU)と一緒にカードゲームに興じていた。用いていたのは何の変哲もないトランプなのだが、最初それを用いて「マジック:ザ・ギャザリング」のような形でゲームを進行させていた。その対戦がひと段落したら、そこからは同じ数字を合わせながら最初に全ての手札を場に出したら勝ちとなるゲームをし始めた。自分の手札はすこぶる良好で、最初の数ターンで自分が勝てそうであった。しかし、出し方によっては勝てなくなる可能性もあったので、最初のターンはとりわけ慎重に何をどこまで出すかを決めていった。そのターンを受けて二人の場に出したカードを見る限りだと、自分は次のターンでもはや勝てそうであった。だが勝利目前で自分の中にある感情が起こっていた。それは何かというと、大量の手札の中で数字と絵を合わせていくことが面倒になっていたのである。別に勝ちにこだわる必要はなく、ここでゲームをやめて本来自分が取り組むべき活動に従事した方がよほど生産的に思えた。この感情が強くなり、ゲームをやめようとした瞬間に、気づけば建物の外の広い庭にいた。そこでは大学の授業の一環で太極拳が行われていて、自分もその授業を履修していたので太極拳を行うことになった。太極拳は健康に良さそうだという理由でその授業を履修したのだが、いざ授業を受けてみると面白みに欠け、太極拳の固有の価値を認めながらも、自分は違う身体実践を通じて心身の健康を増進させる方が合っていると感じた。履修届をすでに出してしまっているので、単位はちゃんと取得しておこうと思い、授業は騙し騙し受講することにした。すると太極拳の先生が突然私たちにある指示を出した。何やら今から全力に近い長距離走を行うというもので、気づいた時にはスタートの合図が出されていた。その場にいた生徒は一斉に走り出し、建物の中にまずは戻って廊下を走り始めた。どうやら首位に躍り出たのは小中学校時代のある野球部の友人(YA)のようで、彼に少しでも近づけるように自分もペースを上げた。しかし廊下は狭く、列を成して走っている生徒の数も多かったので、窓を開けてそこから空に飛び立って彼に追いつくことにした。いざ窓の外に飛び立ってみると、ガウディのサグラダ・ファミリアを彷彿とさせる圧巻の大聖堂が目に入り、それに目を奪われていた。あとでまたじっくりそれを観に来ようと思い、まずは首位を走る友人が建物の外に出始めて走り始めたので、彼を探すことにした。フローニンゲン:2026/2/19(木)06:45


18234. 今朝方の夢の振り返り   

                         

今朝方の夢は、自分の人生における「戦略」と「本質」、「競争」と「超越」、「履修」と「選択」という複数の層が、連続的に移行していく構造を象徴しているのではないかと思われる。最初に見慣れない一室で旧友とカードゲームに興じている場面は、自分がこれまで培ってきた知的資源や人間関係の延長線上で、ある種の戦略的思考を用いて世界と関わっている姿の比喩であろう。トランプを用いながら「マジック:ザ・ギャザリング」のように進めているという点は、与えられた素材そのものよりも、それをどう解釈し、どう意味づけ、どう組み立てるかという構成的知性の働きを象徴しているように思われる。手札が良好であり、ほぼ勝利が確実である状況は、現実においても能力や条件が整いつつある局面を反映している可能性がある。しかしその勝利目前で「面倒」という感情が湧き起こる点が決定的である。ここには、勝敗や成果それ自体よりも、より本質的な活動に向かいたいという内的衝動が芽生えていることが示唆されているのではないかと思われる。ゲームをやめようとした瞬間に庭へ移行する構造は、閉じた戦略空間から開かれた身体空間への転換であり、頭脳中心の活動から身体実践へのシフトを象徴している可能性がある。太極拳を履修したものの、理論的価値は認めつつも心からは惹かれていないという感覚は、自分が社会的・制度的合理性に基づいて選択した道と、身体感覚に基づく真の適性とのずれを表しているように思われる。単位のために受講を続ける態度は、制度との折り合いをつけながらも内心では別の道を模索している自分の現状を映しているのかもしれない。そこへ突如として全力に近い長距離走が課される展開は、穏やかな養生の実践が一転して過酷な競争の場へと変貌する象徴であるように思われる。人生が予期せぬ形で加速を要求してくる局面を示しているのかもしれない。かつての野球部の友人が首位に立つ場面は、過去に形成された能力様式や競争原理がいまだ有効であることの象徴とも考えられる。しかし廊下の狭さと混雑は、既存のルールの中で走り続けることの限界を暗示しているように見える。そこで窓を開け、空へ飛び立つという行為は決定的である。これは競争のレーンを共有することをやめ、次元そのものを変える選択の象徴ではないかと思われる。飛翔の直後にサグラダ・ファミリアを想起させる大聖堂が現れる点は重要である。サグラダ・ファミリアは、未完でありながら壮大で、有機的秩序と霊的志向を併せ持つ建築である。その姿に目を奪われるということは、自分の関心が単なる順位や勝敗ではなく、より大きな構想や美的・霊的ヴィジョンへと向かっていることを象徴しているのではないかと思われる。しかしその場では立ち止まらず、「あとで観に来よう」と判断する点に、自分の中の優先順位の葛藤が表れているように見える。この夢全体は、戦略的知性で勝利を収める能力を持ちながらも、それに飽和しつつあり、より大きな構想的・創造的次元へと移行しようとする内的運動を示しているのではないかと思われる。廊下を走るか、空を飛ぶかという選択は、既存の制度的レースを続けるか、それとも自らの次元を創造するかという問いであるように感じられる。人生における意味としては、勝てるゲームに執着するのではなく、自分が本当に観たい大聖堂の建設に向かうべき時期に差しかかっていることを告げている可能性がある。競争を超えた構想へと飛翔する準備が整いつつあることを示す夢であるように思われる。フローニンゲン:2026/2/19(木)09:41


18235. 希望の光の中での内省

   

ここ最近は毎日夢の振り返りは行なっていながらも、あまり日常的な内省日記を執筆していなかったように思う。日記の内容はクラシックギターの演奏に関することや唯識のこと、そして時折発達理論にまつわることだった。2月も終盤に差し掛かり、フローニンゲンの厳しい冬も出口が見えつつある。もちろんフローニンゲンは5月までは肌寒い日が続くことは間違いないが、氷点下の日々は今日で最後かもしれない。事実明日からは最低気温・最高気温ともにかなり上昇する。季節の相転移が起こる形である。それに伴って最近は日照時間も長くなり、晴れの日も増えてきて何よりである。これまでは随分とどんよりとした天気の中で生活をしていかなければならず、精神的にも厳しい気候が続いていた。ここから光の季節に入る。イギリスの大学院への進学に関しても、残り二校からの連絡も来月の初旬には届くであろう。それらの結果を受けて、最終的な身の振りを決めたいと思う。いずれにせよ、今年の秋からはイギリスでの新生活が始まり、それに向けて希望の光で満ちている自分がいる。


昨日は少し心がざわつく出来事があった。それについて心を見つめてみると、自分の心の奥底に煩悩の影が見えてきていた。それについて先ほども冷静になって考えていたところ、それは自己と仏法に照らしても恥じるべきことであり、自分の内側にまだそうした煩悩が残っていることは嘆かわしい。それは自分の心を重くし、解決を要求するものである。その煩悩は自分の虚栄心や慢心からやって来たものであり、さらにはより深い理由から生じているものだった。こうした心がざわつく瞬間を蔑ろにせず、心を磨く格好の機会としたい。ここからイギリスで本格的に日本法相唯識について研究を進めていくにあたっても、絶えず自分の心と照らしてそれを行なっていくことを忘れないようにしたいと思う。フローニンゲン:2026/2/19(木)10:57


Today’s Letter

Yesterday, I experienced an affliction arising from my cognitive defilements. I have continued to reflect on it and work to purify it. The study of Yogācāra is not only academic but also a practical path toward attaining enlightenment. Groningen, 2/19/2026

 
 
 

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