【フローニンゲンからの便り】17998-18001:2026年1月8日(木)
- yoheikatowwp
- 3 日前
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タイトル一覧
17998 | 心の成長を支える教育装置としての戒律 |
17999 | 今朝方の夢 |
18000 | 今朝方の夢の振り返り |
18001 | サウンドホールの左右を意識的に使い分けること |
17998. 心の成長を支える教育装置としての戒律
凝然の『八宗綱要』を読んで律宗の戒律を調べていくと、その条文の多さや細密さにまず圧倒される。しかし、この「数の多さ」そのものを、単なる規制や抑圧として理解してしまうと、戒律の本質を見誤ることになるだろう。戒律は本来、外側から人を縛るための制度ではなく、心の成長を段階的に支えるための精緻な教育装置であったと考えられるのである。律宗における戒律は、身・口・意という三業すべてに関わる。殺すな、盗むなといった行為の禁止だけでなく、言葉の使い方、心の動きにまで踏み込んでいる点が重要である。これは、仏教が人間の苦の根源を外的行為ではなく、むしろ心の習慣化された傾向に見ていたことを示している。戒律とは、衝動や欲望が自動的に行為へと流れ込む回路を、いったん立ち止まらせるための「間」を作る仕組みであった。戒律が多いということは、心が迷いやすいポイントがそれだけ多いという洞察の裏返しでもある。人間の心は、善悪を抽象的に理解していても、具体的な状況に置かれると容易に合理化を始める。戒律は、その合理化が起こりやすい場面を先回りして言語化し、「ここで気づけ」「ここで止まれ」という目印を無数に設置しているのである。この意味で戒律は、心の未熟さを前提とした、極めて現実的な心理理解に基づいている。また、戒律は一律に守らせるためのものではなく、修行者の成熟度に応じて機能する点も見逃せない。初学者にとって戒律は外的規範として働き、「してはいけない」という形で行為を制御する。しかし、修行が進むにつれて、戒律は次第に内面化され、「守るか否か」を考える以前に、心が自然にその方向へ向かわなくなる。ここでは戒律は命令ではなく、心の傾向そのものが変化した結果の確認事項となる。鎌倉時代の律宗復興において中心的役割を果たした叡尊や忍性が、戒律と社会事業を結びつけたことも象徴的である。彼らにとって戒律とは、山林で自己完結する修行規範ではなく、他者と関わる現実社会の中で心を濁らせないための実践的指針であった。病者救済や橋の建設といった活動の中でこそ、怒り、慢心、功名心が生じやすい。だからこそ戒律が必要だったのである。さらに重要なのは、戒律が「理想的人間像」を直接押し付けない点である。戒律は「こうあれ」と言うよりも、「こうした条件が整えば、心は自ずと澄んでいく」という環境設計に近い。食事、睡眠、所有、言語、対人関係を丁寧に整えることで、心が荒れにくい土壌を作る。これは現代で言えば、行動科学や習慣形成理論にも通じる発想であり、決して前近代的な精神論ではない。総じて言えば、律宗の戒律の多さとは、人間の心を深く理解した結果としての「細やかさ」であり、心の成長を長期的に支えるための知恵の集積であったと考えられる。戒律は自由の対極にあるのではなく、むしろ衝動に振り回されない自由、すなわち内面的自由への道筋を示すものであった。その意味で戒律は、単なる宗教的規則ではなく、人間が成熟していくための実践的心理学であったと言えるのである。フローニンゲン:2026/1/8(木)06:06
17999. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、コーチング契約について少し揉めている場面があった。知人のコーチングサービスの契約書の中に自分の名前があり、どうやら自分の名前をアピールポイントに使ってあるクライアントとの契約を勝ち取ったようだった。知人の協働者の男性がぶっきらぼうに契約書を渡してきて、問題がなければサインをしてほしいと言われた。彼の態度にも違和感を感じたが、何よりも勝手に自分の名前を使われたことが納得がいかず、契約書から名前を外してもらうようにお願いをした。仮に自分の名前を出すのであれば、しっかりと責任を果たしたいので、サービス内容に対して監修をし、その監修料を請求させてもらうことを伝えた。その監修料はコーチングフィーよりも遥かに高価であり、おそらく相手は契約書から自分の名前を削除することを選択するだろうと想像された。自分としてはそれの方が好ましいと思った。
もう一つ覚えているのは、複数のアトリエが併合し、一つの美術館になっている場所で友人と話をしていた場面である。そこは一階建ての建物だったが、横に広く、それぞれの部屋に置かれているアート作品は随分と見応えがあった。私が話をしていたのは、小学校時代のある女性友達(HK)で、彼女が自分たちの少人数制サッカーチームのゴールキーパーを務めていることに関する話題だった。ちょうどそこにやって来た対戦相手の男性が、彼女がキーパーを務めていることに驚き、それを褒めていた。本当は彼女はとても足が早く、フィールドでプレーした方がいいと思っていたのだが、正ゴールキーパーの友人が不在だったので、彼女に代わりにそのポジションを務めてもらうことになっていたのである。彼女は嫌な顔ひとつせず、笑顔でキーパーを務めてくれたことに大変感謝した。フローニンゲン:2026/1/8(木)06:15
18000. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分がこれまで培ってきた価値や名前、そして役割を、どのような形で世界に差し出すのかを巡る内的調整を象徴しているように思われる。前半のコーチング契約の場面は、自分の名前が無断で利用されているという強い違和感を通して、「名義」と「責任」の不一致への感受性が表れている可能性がある。名前とは単なる記号ではなく、自分が積み重ねてきた実践や倫理、世界観の凝縮であり、それが軽々しく用いられることに対する拒否反応が夢という形で顕在化したのではないだろうか。監修という条件を提示し、さらに高額な対価を設定した点は、金銭的欲求というよりも、自分の関与が本質的であるならば、それに見合う深い関与と責任を引き受ける覚悟がある、という内的宣言であるように思われる。同時に、相手が名前を外す選択をするだろうと予測し、それを好ましいと感じていることから、自分は無理に外側のプロジェクトに結びつくよりも、自律性と透明性を保つことを優先している段階にあると推測される。後半の美術館の場面は、まったく異なる質の象徴を帯びている。複数のアトリエが併合され、一つの横に広い美術館となっている構造は、自分の中に点在していた関心や才能、関係性が、いま一つの統合された空間として経験されつつあることを示唆しているように思われる。一階建てである点は、上下の序列や評価ではなく、水平的な広がりと回遊性を重視する在り方を暗示しているのかもしれない。そこに置かれた作品が見応えのあるものとして感じられたのは、自分自身の人生経験や学びが、すでに鑑賞に耐える厚みを持ち始めているという内的感覚の反映である可能性がある。小学校時代の女性友達がゴールキーパーを務めている場面は、役割と本質のズレ、そしてそれを引き受ける成熟した態度を象徴しているように見える。彼女は本来フィールド向きでありながら、必要に応じてキーパーを務め、しかもそれを笑顔で引き受けている。これは、自分の中にある柔軟性や他者配慮の側面、あるいは過去から続く信頼関係の原型を映し出しているのかもしれない。対戦相手が彼女を称賛する場面は、目立たない位置での貢献が、正当に評価される可能性への静かな希望を示しているようにも思われる。この夢全体が示している人生における意味は、自分がこれから、名前や肩書きといった外的象徴に流されることなく、責任を引き受けられる関与だけを選び取りつつ、内側で成熟してきた多様な要素を一つの開かれた空間として統合していく段階にある、ということであろう。自分らしさとは前に出る速さだけでなく、必要なときに守りの位置に立ち、しかもそれを誠実に引き受ける姿勢の中にも宿るのだという洞察が、この夢を通して静かに示唆されているように思われる。フローニンゲン:2026/1/8(木)08:09
18001. サウンドホールの左右を意識的に使い分けること
クラシックギターにおいて音色の幅を獲得するためには、サウンドホールの左右を意識的に使い分け、かつ交互に練習していくことが極めて重要なように思う。多くの場合、演奏者は無意識のうちに利きやすい位置、すなわち弦の張りが比較的強く、反発が明確に返ってくる右側寄りに手を固定しがちである。しかしそれは、音色と指の制御の可能性を自ら狭めてしまう選択でもある。サウンドホール右側では、弦のテンションが指に対して素直に返ってくるため、アタックが明瞭で、輪郭のはっきりした音が得やすい。これは初心者から上級者まで共通して「安心できる」領域であり、速いパッセージや明確なリズムを要求される箇所では大きな利点となる。一方で、この位置だけに慣れてしまうと、音色が常に均質になり、微細なニュアンスの変化に対する感受性が鈍くなる危険も孕んでいる。これに対してサウンドホール左側は、弦の張りが柔らかく感じられ、指が弦に深く入り込みやすい。その結果、少しの力加減や角度の違いが音に如実に反映されるため、指のコントロールは格段に難しく感じられるであろう。音がこもったり、輪郭が曖昧になったりする経験を通して、演奏者は「どこまで弦に触れ、どこで離すのか」という極めて繊細な制御を要求される。この困難さこそが、実は右手の感覚を飛躍的に洗練させる契機となる。左右を交互に練習する意義は、単に音色のバリエーションを増やす点にとどまらない。張りの強い右側と、柔らかい左側を往復することで、指は弦の抵抗に対して固定的に反応するのではなく、状況に応じて力と速度、角度を即座に調整する能力を身につけていく。その過程で、右側で弾く際の音も一段と深みを増し、単なる「強い音」ではなく、内部に密度を持った響きへと変化していくのである。また、左側での難しさは、音を「出す」ことよりも「聴く」ことを強く要求する。思い通りに鳴らない経験を重ねる中で、耳は自然と敏感になり、わずかな音色の違いを手がかりに指の動きを修正するようになる。この聴覚と運動感覚の往復運動は、音楽的成熟において不可欠なプロセスであり、結果として演奏全体の統合度を高める。総じて、サウンドホールの左右を交互に練習することは、音色の探究であると同時に、指と耳と意識の関係性を再編成する営みである。柔らかく感じられる左側での困難を避けず、そこに留まり続けることで、自分の演奏は一段深い次元へと移行していく。その積み重ねが、状況に応じて自在に音色を選び取れる演奏者としての基盤を静かに、しかし確実に形づくっていくだろう。フローニンゲン:2026/1/8(木)09:00
Today’s Letter
My life has deepened as I study Buddhism. I didn’t expect this effect, but when I consider the essence of Buddhism, it feels only natural. I look forward to how much further I can cultivate this life. Groningen, 1/8/2026


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