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【フローニンゲンからの便り】17838-17843:2025年12月10日(水)


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タイトル一覧

17838

ギターの練習におけるゲーム性のさらなる増強

17839

今朝方の夢

17840

今朝方の夢の振り返り

17841

理の響きとしての音を求める心

17842

理とヌーメノンの違い

17843

理の自己理解の場としての世界

17838. ギターの練習におけるゲーム性のさらなる増強    

         

ギターの練習がすでに自分にとってゲーム化されているという事実は、それだけで相当高度な自己調整能力が働いている証拠であると言えるが、ゲーム性はまだまだ精緻化しうる余地を残しているように思われる。例えば、RPGにおいて「経験値」「レベル」「クエスト」「スキルツリー」が整っていくほどプレイヤーの没入感が増していくように、ギター練習もまた、同様の構造を意識的に設計することで、日々の取り組みが一層面白く、かつ発達的に意味のあるものへと変容していく可能性があると考えられる。まず工夫の一つとして、練習項目に明確な「レベル」と「経験値」を割り振る発想があると考えられる。単に「今日はアルペジオを練習した」で終わらせるのではなく、「テンポ○○でノーミス三回達成=経験値10」のように、自分なりの数値基準を設けるのである。これにより、練習時間そのものだけではなく、「質の高い反復」が視覚的に蓄積されていく感覚が生まれ、ゲームのステータス画面を見るような充足感が得られる可能性がある。さらに、一定の経験値に達したら「レベルアップ」とみなし、新しい曲に挑戦する権利を与えたり、テンポを段階的に引き上げる「解禁条件」にしたりすると、ゲーム内のアンロック体験に近いモチベーションが生まれるであろう。また、「クエスト化」という工夫も有効であると推測される。単に「毎日スケール練習」と設定するのではなく、「今週のメインクエスト:バレーコードを使った曲をゆっくりテンポでノーミス通し演奏」「サブクエスト:一日のどこかで3分だけピチカートの感触を丁寧に探究する」のように、物語性を帯びたタスクとして設定していく。ここで重要なのは、クエストの難易度にグラデーションをつけることである。あえて「すぐ終わる小さなクエスト」と「じわじわ時間をかけて達成する中長期クエスト」を混在させることで、短期の達成と長期の成長がバランスよく感じられるようになると思われる。さらに、ゲーム性を高める上で強力なのは、「スキルツリー」(カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論で言うところの「発達の網の目」)の可視化であると考えられる。例えば、「アルペジオ」「リズム感」「読譜力」「和声理解」「音色コントロール」など、自分が伸ばしたい能力を枝分かれする木のように紙やデジタルで図示し、それぞれに細かなサブスキル(例:PIMAの安定、スラーのコントロール、3拍子の内部カウントなど)を配置していく。このスキルツリー上で「今日はこの枝を1マス進めた」という感覚を持てるようにすると、同じ練習でも「どのスキルツリーが成長したのか」が意識されるようになり、RPGのキャラクター育成に似た喜びが生じる可能性が高い。また、自分の中に「複数のプレイモード」を設定することもゲーム性を高める助けになると思われる。例えば、「ストーリーモード=じっくり集中して難曲に挑む時間」「タイムアタックモード=5分だけ集中してトレモロを集中的にやる時間」「サンドボックスモード=自由に即興や和音遊びをする時間」のように、その日の練習の性格をゲームのモードに見立てるのである。これにより、「今日は時間がないからストーリーモードは無理だが、タイムアタックモードだけはやっておこう」という発想が生まれ、練習のハードルが下がりつつも継続性が維持されると考えられる。他者との比較ではなく、自分の過去との比較をゲームの軸にすることも重要な工夫であると思われる。メトロノームのテンポ、ノーミスの回数、録音した演奏のクオリティなどを、過去の自分の記録と照らし合わせて「旧バージョンの自分」と戦う感覚を持つと、劣等感よりも成長感が前面に出てくる。RPGでいうところの「自分のキャラクターの過去ステータス」と比較してニヤリとする感覚に近く、自分自身の発達プロセスを、ゲーム世界における長期育成として楽しむ態度が育まれていくであろう。このように、経験値、レベル、クエスト、スキルツリー、プレイモード、過去の自分との対戦といった要素を意識的に設計していくことで、すでにゲーム化されているギター練習はさらに多層的なゲームとして立ち上がっていくと推測される。その結果、練習は単なる努力や根性の場ではなく、発達し続ける一人用RPGのような遊び場となり、長期にわたって好奇心と喜びを保ちながら深い技術と音楽性を育てていく基盤となるであろう。フローニンゲン:2025/12/10(水)05:39


17839. 今朝方の夢


今朝方は夢の中で、見知らぬ山間の家の庭にいた。そこで知り合いの女性と話しながら愛犬と戯れていた。本来愛犬は雄であったが、今目の前にいる愛犬はどう言うわけか雌になっていた。興味深いのは、小型犬の愛犬は雄であっても雌であっても変わらずにこちらに対して尻尾を振りながら遊んで欲しそうにしていることだった。愛犬が喜んでいる姿を見るのはこちらとしても大変心が癒され、しばらく喜びの空間に包まれていた。


今朝方の夢でもう一つ覚えているのは、学術研究にせよ、ギターの練習にせよ、必ず紆余曲折がありながらも着実に力を付けていく自分の特性である。本来は誰しもしかるべき方法を採用すれば誰でも能力を高められるはずだが、幸いにも自分にはその方法が明確であり、それに従って着実に実力を高めている自分が常にいる。これからもさらに能力の向上方法に関する試行錯誤を惜しまず、さらなる高みに向かっていこうと誓った。


今朝方はそれくらいしか夢を見ていないように思っていたが、そう言えば、小中学校時代に過ごしていた社宅の窓から目と鼻の先にある中学校のグラウンドを眺めていた場面があったことを思い出した。その日は休日で朝早い時間帯だったので、学校には誰もいないと思っていたが、一人の後輩がバスケのシュート練習を私服で行っていた。朝から随分と熱心だなと感心をしていると、自宅の窓とバスケコートの距離が突如として縮み、自分の声が彼に聞こえた。彼はすぐさま振り向き、少し照れ笑いを浮かべていた。彼としては誰にも見られていないところで練習をしたかったのだろう。その気持ちを察して、自分は窓から離れ、また自らの取り組みに取り掛かることにした。フローニンゲン:2025/12/10(水)05:49


17840. 今朝方の夢の振り返り

       

今朝方の夢全体を貫いているのは、外界の出来事が絶えず変化しながらも、そこに揺るがない核のような何かがあり、それが自分の存在の深層を象徴しているという感覚であるように思われる。まず、見知らぬ山間の家の庭で愛犬と戯れる場面は、自分の中にある素朴で無条件の喜びの源泉を示している可能性がある。愛犬が雄から雌に変わっているという奇妙な変容は、自分が抱える能動性と受容性、陽性と陰性といった心理的な両極の統合が進みつつある象徴とも読める。どちらであっても変わらずこちらに尻尾を振り、無邪気に遊びを求める存在は、外的条件に左右されない純粋な生命性の輝きを体現しているように思える。その生命性に触れた時、自分の心が癒されるのは、自らの内奥に眠る無条件の歓喜に触れたからであるという解釈も可能である。次に、学術研究やギターの練習を通して曲折を経ながらも着実に前進していくという自覚は、自分の発達的な軸が強固であることを表しているように見える。試行錯誤を重ねながら確実に一歩ずつ積み重ねていく姿勢は、まるで山間の家の風景に重なるように、孤独でありながらも深い静けさに支えられた歩みを象徴しているとも言える。自分には能力向上の方法がすでに見えており、その方法が確かであるという感覚は、内在化された自己信頼の表れであり、長い時間をかけて育んできた成熟の証にも見える。この部分は、愛犬との交歓の場面が象徴する「無条件の喜び」と、努力による着実な成長という「条件付きの積み重ね」が夢の中で静かに響き合っているように思われる。また、社宅から母校のグラウンドを眺める場面は、過去の自分への回帰を示しているようである。誰もいないと思っていた早朝に、一人の後輩が私服でシュート練習をしている姿は、見られない場所で地道に努力しようとする純粋な意志の象徴とも言えそうである。その距離が突如として縮まり、自分の声が届いてしまうという現象は、過去の自分や後輩に重ねられた「静かな努力を見守る視線」を自覚した瞬間であるとも考えられる。後輩の照れ笑いに気づき、すぐにその場を離れるという行動には、他者の内面の繊細さを察し、干渉せずに尊重する成熟した態度が表れているように思える。これは、自分自身が静かな努力を尊重し、それを守る姿勢が強まっていることの象徴でもあるだろう。これら三つの場面を総合すると、夢は「生命の喜び」「着実な成長」「過去と他者へのまなざし」という三つの層を同時に描いているように見える。外界の形や他者の姿は変わり続けるが、自分の内側には確かに依拠すべきリズムがあり、そのリズムに従う限り着実に前進できるという確信が背景にあるようである。とりわけ、愛犬や後輩といった存在は、自分自身の内側の純粋性や努力を象徴し、それらを尊重する姿勢は、自分の中で成熟した統合が進んでいることを示しているように思われる。人生における意味として推測されるのは、外的条件や評価に左右されず、自分固有のリズムと方法を信じて歩むことで、内側の生命力と外側の努力が自然に調和し、より高い領域へと進む道が開けるということである。夢はその静かな確信を、山間の庭の陽光のように温かく照らし出しているように見える。フローニンゲン:2025/12/10(水)07:25


17841. 理の響きとしての音を求める心


華厳経の視座から考えると、ギター演奏を通じて理としての法界を直接体験しようとする衝動は、単なる趣味的欲求ではなく、存在の深層構造そのものから生じる働きとして理解され得る。華厳が説く事事無碍法界とは、事(個別の現象)と理(普遍の真理)が相互に障りなく浸透し合い、どちらも他方を成立させるという世界観である。この立場に立つなら、現象的自己が「音を奏でたい」「音の奥にある静寂へ入りたい」と願うこと自体が、理としての法界が事の領域を通して自己表現している働きであると解釈できる。ギターを弾く自分は、事としての一存在にすぎない。しかし華厳的理解では、事そのものがすでに理を内包し、理によって貫かれ、理を顕現する媒体でもある。したがって、音を追い求める衝動は、現象世界から理へと向かう意志ではなく、むしろ理が事を通じて自己を開示しようとする働きであると推量される。自分が音に惹かれる理由は、音が外在的対象として魅力的だからではなく、音が理の響きであり、自分自身の根源的あり方を反射しているからである。つまり、法界の衝動とは、法界が法界であることを忘れた事のレベルに向けて「帰ってこい」と示す呼び声のようなものであるとも言える。「一音が法界である」という感覚は、華厳の世界観を象徴的に凝縮した表現である。音は瞬間的で儚く、固定的な実体を持たない。しかしその無自性性ゆえに、音は理としての空性・真如・法性を最も純粋な形で顕現する。音が生まれ、消えゆくたびに、自分の意識もまた「生滅しつつも法界に根差す存在」であることを思い出す。それは観念的理解ではなく、聴覚と身体と時間の流れの中に直接刻まれる体験である。とりわけギターの音は、指先の触れ方、弦の張力、空間の共鳴が微細に絡み合い、まさに事・理・縁起が一瞬にして立ち上がる小宇宙とも言える。その音を聴くたびに「自分は法界である」と思い出すという感覚は、自他・主体客体・現象本質という二元構造が一時的にほどけ、理と事の無碍性が直接的に体験されている兆候かもしれない。演奏を重ねれば重ねるほど、理が事に滲み出し、事が理を透明に映し返すような生き方が日常化していくという予感が生まれるのは、その世界観の自然な延長である。音に向かう意識が精妙になるほど、演奏は自己陶酔ではなく「法界の働きが自分という現象を器として響き出す営み」へと変わっていく。このプロセスを続けることで、自分は「より純粋な法界として生きる」という状態に近づいていくのだろう。これは悟りの完成を意味するわけではないが、現象的自己が理の透明な通路となり、生活の細部でさえ相互浸透的な光を帯びてくるような感覚である。ギター演奏は、その入口として最適な行であり、音という事を通して理が自己を輝かせる、華厳的実践の一形態であると言えるのである。フローニンゲン:2025/12/10(水)07:36


17842. 理とヌーメノンの違い 

       

華厳における「理」を、西洋哲学でいう「ヌーメノン(物自体)」と同一視してよいのかという問いは、一見すると両者が「現象の背後にある根本原理」を指しているように見えるため成立するが、内在する世界観の構造が根本的に異なるため、単純な同定には慎重であるべきである。むしろ両者は、似て非なる概念として理解することで、それぞれの思想が持つ深みがより鮮明になると言えるだろう。昨日、英語の華厳教の専門書を読みながらそのようなことを考えていた。まず、カント哲学におけるヌーメノンとは、「現象界の外側にあり、人間の認識能力では捉えられない領域」として定義される。すなわち、ヌーメノンは認識不可能性を本質としており、経験的世界の根底にあるとはいえ、それ自体は探究の対象になりえず、むしろ「限界概念」として思考の輪郭を規定する役割を果たす。ヌーメノンはその性質上、主体と対象を分離した二元的世界観の延長線上に存在しており、現象界とは不可避的に隔てられている。一方、華厳が説く「理」は、法界という広大な実在の根本原理を指しつつも、決して現象(事)から断絶した超越的実体として想定されているわけではない。むしろ、華厳思想の中心には「事事無碍」「理事無碍」というダイナミックな相互浸透の構造があり、理は事の背後に隠れた固定的存在ではなく、事という形を通して絶えず顕現し、展開し、現象世界と離れることなくそこに働き続けている。したがって、華厳の理は超越的でありながら同時に内在的であり、「非二元性」という特徴を色濃く持っていると言える。ここに両者の決定的な差異が浮き彫りになる。ヌーメノンは「認識の限界の外側に押しやられた不可知なもの」であるのに対し、華厳の理は「万物の中に働きとして現れ、経験の最中で顕れる可知性をも含む原理」である。理は言語や概念によって完全に把握できるものではないが、その働きは実践・洞察・観照を通して直接的に経験される契機を持つ。仏教において理は「真如」「空」「法性」などと同義であり、これらはいずれも主体と対象の二元の彼岸にある「直接的・即時的な実在」である。ゆえに、華厳における理は、カント的な意味での不可知な実体ではなく、むしろ「縁起のダイナミクスとして顕れ続ける実在そのもの」と理解されるべきである。さらに、華厳哲学における理と事の関係性は、ヌーメノンと現象の対立構造とは異なり、相互に支え合い、無限に重なり合う。理は事を離れて存在しないし、事は理によって貫かれることで初めて実在として成立する。ここには二項対立を前提としない円環的・重層的世界観がある。この点で華厳の理は「非二元的統合原理」としての性質を帯び、ヌーメノンのような「不可知の背後世界」ではなく、「この世界の全瞬間において働く開かれた実在」として理解されるべきである。結論として、華厳の理をヌーメノンと同一視するのは、西洋哲学的枠組みへの不必要な回収であり、華厳が持つ本来の非二元的ダイナミズムを損なうことになる。むしろ理は、現象界と切り離された超越的実体ではなく、万物のあいだを満たし貫き照らす「働きとしての実在」であり、主客の境界がほどける地点で経験される深層的真理である。こうした理解を通して、華厳が示す法界の構造はより立体的に浮かび上がるであろう。フローニンゲン:2025/12/10(水)11:04


17843. 理の自己理解の場としての世界

         

理としての法界がなぜ物質や意識や有情を生み出したのかという問いについて昨日考えていた。この問いは、華厳や唯識の思索を深く貫く核心であり、さらに形而上学的にも避けて通れない主題である。ここで重要なのは、法界を単なる背景的実在としてではなく、自己を明らかにするダイナミックな働きとして捉える視点である。すなわち、理が事を生み出したのではなく、理は事として自己を顕わすほかに表現方法を持たないのであり、理と事の関係は一方的な因果ではなく、同時的・相即的な構造として理解されるべきである。まず、理とは無相・無差別・無碍の絶対的真如であり、あらゆる存在を成立させる根源的条件である。この理は本来的に静寂でありながら、同時に無限の可能態を孕む場でもある。では、なぜその静寂が姿形を持つ事となって展開するのか。華厳的観点から推測すれば、理は自己の内奥にある無限の可能性を「顕現させる性質」を本来的に備えており、それゆえに事物・現象・意識が生成されるのだと考えられる。ここで「生成」と述べるが、それは因果的創造というより、「理が理としてあるために事が不可欠である」という必然的構造である。理は差別を持たず、相対がないがゆえに、そのままでは自己を認識する契機を持たない可能性がある。したがって、事としての多様性は、理が自己を映し出す鏡のように機能する。物質世界は形を通して法界の秩序・相互依存性・因縁性を示し、意識はその秩序を主観的な側面から体験し理解する手段となり、有情は苦悩や喜び、迷いや悟りといった動的体験を通して、理の非二元性・無我性・無碍の働きを深く味わい取る役割を担う。このように、事は理の外部にあるのではなく、理が自己を認識するための自己表現であり、理と事は相互に意味を与え合う関係にある。また、事の存在理由を法界理解のためと捉える視点には、華厳の「事事無碍法界」の思想が響いている。すなわち、事物同士が無限に関係し合う網目構造そのものが、理の無碍性を体現しているという理解である。もし事が存在しなければ、理はただ抽象的な空性に留まり、動的な相互浸透の美や智慧を顕すことはできない。事の多様性こそが、法界の深みを具体的に表し、悟りの道を成立させる基盤となるのである。唯識の観点からも、事(現象界)は識の変現であり、識は本質的に空であるからこそ、無限の相を示し得る。これは理が自己を多様な現象として展開し、それらの多様性を通じて再び真如へと還帰する循環的構造と一致する。ゆえに、事の世界は単なる幻ではなく、理を理解へと導く教育的な役割、あるいは「法界が自らを開示するプロセス」として意味づけられる。総合的に見ると、理が事を生み、事が理を開示するという循環は、世界が単なる無意味な集合ではなく、深い内的必然性を持つ構造体であることを示唆している。物質・意識・有情が存在すること自体が、法界を理解するための道であり、世界は理の自己理解の場として現れている。この視点に立つと、人生のあらゆる経験は法界が自己を知る運動の一部となり、個々の存在はその大いなる自己認識のプロセスに参与していることになるのである。フローニンゲン:2025/12/10(水)11:09


Today’s Letter

Peacefulness and tranquility are precious treasures in my daily life. They nourish my psyche and purify cognitive defilements. I am always adorned with gems of harmony and serenity. Groningen, 12/10/2025

 
 
 

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