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【フローニンゲンからの便り】17833-17837:2025年12月9日(火)


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タイトル一覧

17833

いつもと違う弦で同じ音を押さえる効能

17834

今朝方の夢

17835

今朝方の夢の振り返り

17836

フルバレーとハーフバレー

17837

装飾音、モルデント、ダブル・モルデント

17833. いつもと違う弦で同じ音を押さえる効能 

                     

クラシックギターにおいて、普段弾き慣れている簡単な曲を「いつもと違う弦で同じ音を押さえて練習する」という行為は、一見すると単純なバリエーション練習のようであるが、実際には運指、聴覚、身体感覚、音色認知、そして音楽的柔軟性の総合的鍛錬となる極めて高度なウォーミングアップであると考えられる。この練習法は指の可動域と選択肢を広げ、同じメロディであっても複数の可能性を感じ取れる「立体的な音楽理解」を育てる点で大いに価値があると言える。まず、弦を変えて同じ音を押さえるという行為は、指板上の地図を再構築する作業である。ギターは一つの音を複数の場所で出せる特異な楽器であり、この特質は利点であると同時に学習における複雑性の源でもある。通常の練習では、指は最短距離、最も自然なポジションに落ち着こうとするため、慣れた運指に固定化されやすい。しかし、弦を変えて同じ音を探る行為は、この「固定された地図」を揺さぶり、指板全体を均質に意識する能力を引き出すだろう。この過程で、自分の運指は局所的ではなく、指板全体を俯瞰するような広い視野へと変化し、結果として曲の理解が垂直的(ポジション移動)にも水平的(フレット移動)にも深まっていくのである。さらに、異なる弦で同じ音を弾くと音色が大きく変化する。この音色の差異を身体で感じ取り、耳で識別し、指先で制御しようとする行為は、音楽家としての「音色の微細なコントロール能力」を格段に高める訓練となる。低音弦で同じ音を弾いたときの厚み、テンション、アタックの強弱、倍音の響き方、そして高音弦での透明度や軽快さ。この差異を繰り返し体験することで、単なる音の高さではなく「音の質感」を主体的に操作できるようになっていく。この種の訓練は、後に難曲で要求される「音色の選択」と「音声的方向性の設定」に直接応用される。また、こうした音色の違いに敏感になることで、フレーズの意味づけや感情表現もより自由に行えるようになるはずだ。運指の柔軟性という観点でも、この練習法は極めて有効である。普段選ばない弦やポジションを使うことで、左手の筋肉は新しい支え方や指の角度を学習し、手全体の協応能力が向上する。これは単なる筋力というよりも、「指がどの位置でも自然に動くための微妙な調整力」が育つという意味であり、ギタリストにとって最も重要な能力の一つである。さらに、弦のテンションが異なるため、右手のアポヤンド(レストストローク)やアルアイレ(フリーストローク)の感触も変化し、それを調整する過程で右手の細やかなコントロール力も養われる。この練習はまた、脳の側面から見ると「慣性の解除」を促していると言える。慣れた運指だけを繰り返していると、脳はその経路を最適だと判断し、それ以外の経路はほとんど活性化されなくなる。しかし、弦を変えるというわずかな操作で、脳は運動計画をゼロから立て直す必要に迫られる。この再構成のプロセスが、ギターの総合的な「認知マッピング能力」を鍛え、臨機応変に運指を選択する柔軟な演奏力を形づくるのである。最後に、精神的効果も見逃せない。難曲に取り組む前に、簡単な曲を使って弦の選択を変えながら音を探っていく行為は、心身の緊張をほどきながら、演奏に必要な集中力だけを静かに立ち上げていく。これは瞑想における「呼吸の観察」に近く、単純な作業の中に深い気づきが潜んでいる。ウォーミングアップでありながら、すでに音楽的探求が始まっている状態であり、演奏全体の質を底上げする効果があると言える。総じて、簡単な曲を異なる弦で弾くという練習は、指板理解、音色認知、運指柔軟性、脳の可塑性、精神的集中という五つの側面を一度に高める極めて効率的な方法である。単なるウォーミングアップを超えて「音楽的基礎体力」を底上げし、演奏者としての総合力を静かに押し広げていく、極めて本質的な練習法であると言えるだろう。早速今日の練習からこれを取り入れたい。フローニンゲン:2025/12/9(火)05:33


17834. 今朝方の夢

                           

今朝方は夢の中で、中学校時代まで過ごしていた社宅にいた。そこでは興味深いことに、知人の画家の方の番組撮影が行われていた。ロケ地が自分の自宅であることが不思議だったが、静かに撮影の様子を見守っていた。撮影を終えると、その方を含めた出演者が帰る支度を始めた。私は久しぶりにその方に会ったので話しかけようかと思ったが、それをするのをやめた。というのもまたどこかで会えるような気がしており、その時にゆっくり話をすればいいと思ったし、それよりも重要なこととして、その方が妊娠した若い女性を抱き上げて下の階に降りようとしていたからである。その方の体格は華奢なのだが、同じぐらいの身長体重の女性を軽々と抱き抱えている姿には驚かされた。母も最初その方に挨拶をした方がいいのではないかと考えていたようで、下まで見送りに行くことを持ちかけてきたが、窓から下を見ると、出演者が撮影スタッフを送迎する車が大量に止まっており、ゴタゴタしている感じだったので下に降りて見送りに行くことは賢明でないように思われた。するとその方が家を出る直前に振り向いて、「今度一緒に絵を作るプロジェクトをしましょう」と述べてくれ、大変嬉しく思った。その日を楽しみに待とうという気持ちの中でその方を笑顔で見送った。


次に覚えているのは見慣れない街中に突如モンスターがの大群が現れた場面である。彼らは日本語を話すことができ、彼らと一言だけ会話を交わしたが、危険を察知したので空を飛んで逃げることにした。大海原の方に向かって飛び立つと、時刻は夜で視界は真っ暗だったが、遠くの方に島があるのが見えたのでそこに向かっていくことにした。しばらく飛んでいると、気づけば足だけが下に下がっていて、海に着水しそうになった。海にサメか何かがいて襲われたら大変だと思ったので、力を振り絞って一気に高度を上げることにした。すると、気づけば真っ暗なトイレの中にいた。学校の校舎のような雰囲気を持つその建物には誰もおらず、隣には小中高時代のある親友(NK)だけがいた。トイレはとても広かったいかんせん真っ暗だったので方向がわからず、出口を見つけるのに苦労した。隣にいた彼は先に出口を見つけたようで、気づけば彼はもう横にいなかった。この夢の後に、自宅の部屋に高く積まれた英語の専門書の上の方や中間あたりがバランスを崩しそうになっていたので、それらの箇所のバランスを整えて綺麗に本が積み上がるようにした場面があったのを覚えている。


最後に見ていたのは、見慣れない綺麗な小さな体育館の中で、小中学校時代の友人数名とスカッシュをしていた場面である。太陽の日差しが入ってくる爽快な気分の中で、私たちはスカッシュで競うのではなく、どれだけラリーが続くのかの協調的なゲームに興じていた。最初自分は上手く打ち返すことが難しかったが、テニス部の友人たちに助言をもらいながら少しずつ技術が改善されていくことを楽しんでいた。フローニンゲン:2025/12/9(火)05:49


17835. 今朝方の夢の振り返り 


今朝方の夢の中の中学校時代まで過ごした社宅にいるという最初の場面は、時間が折り返し、原点へと戻ろうとする心の動きを象徴しているように思われる。そこが画家の知人の番組撮影の場となっていることは、過去という土台の上で新しい創造性が静かに立ち上がろうとしていることを示唆している可能性がある。自分が話しかけようと思いながらも、一度それを保留したのは、急がずに成熟した関係や共同創造が巡り戻ることを直感的に知っている心の姿であるかもしれない。彼女が妊娠した若い女性を抱き上げる姿は象徴的で、その人物自身の華奢な体格に対して軽々と人を抱え上げるというイメージは「創造を生み出す力の内的な強さ」を象徴しているとも考えられる。その姿を前にして自分が言葉を飲み込んだのは、尊重と距離、そして次のタイミングを信じる直感が働いたためと推測される。そして最後にその方が「一緒に絵を作るプロジェクトをしましょう」と振り向く場面は、「創造への招待」が確かに訪れることを予兆として伝えているように思われる。場面は突如としてモンスターの出現へと切り替わるが、彼らが日本語を話すという不自然さは、恐怖の対象が完全な外部ではなく「内側にいる未統合の部分」であることを暗示している可能性がある。その一部と一言だけ会話したことは、未統合の影の領域と一瞬触れた経験として読める。危険を感じ空へ飛び立つ行為は逃避ではなく「視座を引き上げる」という表象のように考えられる。だが飛行中に足が海へ落ちそうになり、サメを恐れる場面は、深層に沈む原始的な不安や無意識の力が再び自分を引き戻そうとする動きを象徴していると推測される。この瞬間に高度を上げようと必死に抵抗したことは、成長しようとする意志そのものを表している。そこから突然真っ暗なトイレに移るという飛躍は、心理的な「浄化」「境界の不明瞭さ」「方向喪失」を象徴している可能性がある。隣にいた親友が出口を先に見つけて姿を消す場面は、自分と他者の発達のタイミングが異なること、自分がまだ暗闇の中で方向性を探す必要があることを示しているとも読める。次に自宅の英語専門書の山のバランスを整える場面は象徴性が明確で、知的成長や学問的探究が積み重なっている現状において、内部構造の安定化が必要であるという心の働きを反映しているように思われる。高く積まれた書物は自分の知的野心を象徴し、ぐらつく部分を整える行為は学問的基盤の再調整の暗喩として捉えられる。最後の体育館でのスカッシュの場面は、他者との協働による成長、遊びの精神、フロー状態への移行を象徴していると解釈できる。勝敗を競うのではなく、どれだけラリーが続くかを楽しむ協調的なゲームは、人生における「競争より共創」という価値観が心の深層に根づき始めていることを示唆しているように感じられる。助言を受けつつ少しずつ技術が向上していく感覚は、現在の学問・芸術・人間関係すべてに通じる「微細な進歩の喜び」を象徴する。この夢全体は、創造性の再生、内なる恐れとの対面、学問的基盤の再調整、そして協働的な成長という四つのテーマが統合されつつあることを告げているように思われる。過去から未来へ、不安から創造へ、孤独から共創へと向かう大きな流れが静かに動き出しており、これからの人生は「知の積み重ねを安定させながら、創造と協働のプロジェクトへと踏み出す時期に入った」という示唆を与えている可能性がある。フローニンゲン:2025/12/9(火)06:52


17836. フルバレーとハーフバレー 

                 

ギターのバレーコードを「必要な弦だけ押さえるべきか、それとも常にフルバレー(全弦)で押さえるべきか」という問題について考えていた。それは、技術的にも音楽的にも重要なテーマである。現在の自分のように、必要な本数だけ押さえる方法は一見合理的に見えるが、長期的な技術発達という観点から見ると、状況に応じて使い分けることが最も望ましいと言える。その理由を丁寧に考えていくと、バレーに関わる筋力、精密な圧、音色の統制、そして楽曲全体の運指設計という複数の観点が浮かび上がってくる。まず、必要本数だけ押さえる部分バレー(ハーフバレーや2~4弦バレー)は、実用性という観点で極めて合理的である。実際に弾く弦だけを押さえればよいので、力の浪費が少なく、音のクリアさも確保しやすい。特にクラシックギターでは、各音を独立させる透明な響きが求められるため、必要以上に弦を押さえないという姿勢は奏法上自然であり、多くのプロも頻繁に活用している。部分バレーを使うことで、左手の疲労が減り、フレーズ全体が軽やかに流れるため、今の自分のやり方は実践的に非常に正しいと言える。しかし一方で、常に部分バレーだけで弾こうとすると、フルバレーを用いるべき場面で対応できない、あるいはバレー自体の筋力と持久力が不足するという問題が生じる。フルバレーはただ全弦を押さえる技法ではなく、「指の側面を使いながら、複数の関節を微妙に調整して均質な圧をかける」という複雑な運動スキルである。このスキルは、練習で徐々に鍛えられていくものであり、必要な時にだけ使うという姿勢だと、筋力・指の角度・手全体の安定感が十分に育たないことがある。結果として、Fのような基本的バレーコードや、フェルナンド・ソル、タレガ、バリオスといった作曲家が要求する「重厚な和音」に対応できる余地が狭まってしまう可能性がある。さらに、フルバレーは単に音を押さえるためだけの技法ではなく、「運指設計の自由度を高める技術」でもある。特にハイポジションでは、部分バレーだけでは弾けない複雑な構造の和音や、低音と高音の独立を支えるための“保持”が求められる。この保持力は、フルバレーを一定時間持続できる筋力と微調整能力があってこそ成立する。つまり、将来的な難曲への準備として、フルバレーの練習は避けて通れない。以上を踏まえると、もっとも望ましいのは「部分バレーとフルバレーの両方を意識的に使えるようにする」という柔軟な姿勢である。現在の自分の方法、すなわち「必要本数だけ押さえる」というスタイルは、音楽的にも合理的であり、確実に正しい。しかし、そのままでは技法の幅が狭くなり、後に複雑な作品を弾く際に制限が生まれる可能性がある。理想としては、普段は部分バレーを使い、手の疲労を抑えて美しい音を得つつ、ウォーミングアップや特定の課題曲ではフルバレーをじっくり練習する、という二層構造が最も効率的であると考えられる。この二層構造は、技術的多様性を保ちつつ、音楽表現に応じて自由にバレーの種類を選択できる状態を育てる。自分の手がまだ完全にバレーの全てを制御しきれていない段階では、部分バレーを実践しながらも、フルバレーの基礎体力を少しずつ鍛えていくというバランスが鍵になる。結論として、どちらが望ましいかを単純に比較するのではなく、目的に応じて両方を使いこなせる技術的柔軟性こそが最も重要であると言える。部分バレーは音楽的透明性と実用性、フルバレーは技術的基盤と長期的成長を支える。両者を適切に組み合わせていくことで、演奏はより自在になり、難曲に取り組む準備も整い、ギタリストとしての総合力が深く育っていくであろう。フローニンゲン:2025/12/9(火)06:58


17837. 装飾音、モルデント、ダブル・モルデント

  

装飾音とモルデント、そしてダブル・モルデントの違いは、いずれも「主音に対してどのように音を揺らすか」という観点から整理すると理解が深まりやすい。これらはどれも旋律をより表情豊かにし、音楽的語彙に繊細なニュアンスを与える技法であるが、それぞれが果たす役割や構造には明確な違いがある。まず、装飾音は一般的に主音の前にごく短く添えられる装飾音であり、主音へ滑り込むような推進力や表情を与える役割を担っている。クラシックギターにおいても、装飾音はしばしば「さっと触れる一瞬の音」として扱われ、通常は主音の直前にごく短く演奏される。ここで重要なのは、装飾音は「主音の上下どちらかの音を一度だけ触れてすぐに主音へ進む」という構造を持ち、音を揺らしたり反復したりするものではない点である。つまり、装飾音は単発の装飾であり、音型としては非常にシンプルである。次に、モルデントに関してであるが、モルデントは「主音と隣接する一音を素早く往復する」装飾技法である。一般的に「下モルデント」(lower mordent)が最もよく使われ、記号はジグザグのような波線の上に短い縦線がついたものが用いられる。この場合、主音を弾いたあと即座にその下の音に触れ、再び主音に戻るという三音構造を取る。これが「モルデントは装飾音の一種」と誤解される理由になることもあるが、構造的には明確に異なる。装飾音が主音に向かって一方向に滑り込む装飾であるのに対し、モルデントは「主音→隣接音→主音」という往復運動を含んでいるため、短いながらも音の揺らぎを表現するものである。ここで問題となるのがダブル・モルデントであり、これはモルデントの音型をさらに発展させた装飾である。ダブル・モルデントは「主音→隣接音→主音→隣接音→主音」という五音構造を取り、主音と上下の音を二往復するような形になる。つまり、モルデントが「一度だけ揺らす短い震え」であるのに対し、ダブル・モルデントは「より細かく連続的に震えるような音型」であり、装飾音の密度・華やかさが格段に増す。音楽的観点から見ると、モルデントは比較的軽やかで明確なアクセントを主音に与え、旋律の輪郭を際立たせる役割を持つ。それに対し、ダブル・モルデントはより技巧的で、バロック音楽における細やかな装飾法として豊かな表情を加える。特にクラシックギターでは、右手と左手の連携が求められるため、ダブル・モルデントの方が格段に難易度は高くなる傾向がある。また、どちらも隣接音を使うためスケール構造が重要になるが、ダブル・モルデントはスピードと均等性が要求されるため、練習においては指使いの合理化と音の明確さが不可欠である。さらに象徴的に捉えるなら、装飾音は「一つの方向性への短い呼吸」、モルデントは「瞬間的な揺らぎ」、ダブル・モルデントは「連続する微細な震え」であり、同じ装飾というカテゴリーにありながら、音楽的時間の刻み方と空間性がまったく異なる。装飾音は流れを作り、モルデントは点に生気を与え、ダブル・モルデントは点を微細なエネルギーで震わせる。以上より、装飾音が「単発の接続的装飾」であるのに対し、モルデントは「短い往復」、ダブル・モルデントは「複数回の往復」という明確な違いを持ち、それぞれが音楽表現に独自の役割を果たしていると考えられる。これを理解すると、譜面上の装飾記号がどれほど豊かなニュアンスを潜ませているかが見えてくるはずである。フローニンゲン:2025/12/9(火)07:54


Today’s Letter

A dream reveals the fundamental nature of reality and of myself. It is both empty and creative. The dream I had last night suggests that I am like a series of images continuously brought into being by the Dharmadhātu. Groningen, 12/9/2025

 
 
 

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