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【サイケデリック学探究記】11792-11799:2024年1月8日(月)



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タイトル一覧

11792. 氷点下の世界の朝に

11793. 今朝方の夢

11794. 前超の虚偽を超克した一元論と観念主義

11795. 「神秘体験」という社会文化的なラベルを再検証する必要性について

11796. 「物質」についての理解/意識・心・物質の三者関係を大切にして

11797. 瞑想実践の効能を感じて/井筒俊彦先生の全集に立ち返って/物質の共通基盤としての意識

11798. サイケデリック体験と井筒俊彦先生の世界認識とサルトル的体験

11799. ジムでのトレーニングを終えて


11792. 氷点下の世界の朝に  


時刻は午前5時半を迎えた。今の気温はマイナス3度で、午前中一杯はずっとマイナス3度のままのようだ。日中の最高気温はそこからわずか1度だけ上がったマイナス2度とのことなので、今日もかなり寒いことを覚悟しよう。午後にジムに行く際には暖かい格好をして出かけたいと思う。氷点下の世界に入り、天気が良い日が増えたことは唯一の救いであり、今日も快晴のようなので、見事な青空を楽しみながらジムに行ってこようと思う。明日も明後日も最高気温でさえもがマイナスになる氷点下の日々が続く。その期間は暖房も忙しいであろうが、その働きを頼りにしたい。


昨日、新年最初の書籍の一括注文をし、33冊ほどの学術書を購入した。それはいずれも学術書に定評のある名だたる出版社から出版された生粋の学術書で、ここからは一般書からはますます離れていき、専門書を読むことが増えていくであろう。それは学術論文を執筆するために必要なことである。また、ひとたび学術機関に戻ったら、自分で書籍を購入することは今よりもきっと頻度も冊数も減り、その代わりに大量の論文を読んでいくことになるだろう。今は学術機関に所属していないので、論文の入手が難しく、家にプリンターもないので印刷するのに不便であるから、論文を読む頻度はフローニンゲン大学に所属していた頃と比べると圧倒的に減った。しかしここから再び学術機関に所属することになれば、論文を読む量と頻度は格段に上がるであろうから、今からそれが楽しみである。


昨日購入したオックスフォード大学出版から出版された物理学の書籍の中で、物質に対する興味があったので分子物理学の書籍も購入していた。その書籍の説明欄に、物質は個体、液体、気体以外の遥かに多くの状態を取るという記述があり、大変興味深く思った。人間の意識もウィルバーの大雑把な意識状態の分類を遥かに超えて無数の意識状態を取ることがわかっており、ひょっとしたら脳の物質も実に様々な状態を取り得ることが意識状態の多様さを生み出しているのかもしれないと思った。そうした関心から本書を購入することにし、物質に個体、液体、気体以外のどのような状態があり得るのかについて理解を深めたいと思う。

購入リストの全ての書籍を再度吟味する際には、その書籍の概略を読み直し、目次と中身を見返すということをしていて、それもまた立派な読書体験かと思う。それだけでその書籍の概要が分かり、森を把握した感じが得られることは、ほぼ読書の初読を終えた感じと同じであることに気づく。購入の段階で既にそうした唾をつけるような行為をしているがゆえに、実際に書籍が届けられた後の初読が速やかなのだと思った次第だ。フローニンゲン:2024/1/8(月)05:49


11793. 今朝方の夢 


暖房がせっせと働いてくれている。今日も最高気温でさえもがマイナスなので、暖房の稼働は忙しいものになるであろう。暖房に労いの気持ちと言葉を送りたいと思う。超心理学の研究に基けば、そうした念を持つことは暖房に量子レベルで何かしらの良い影響を与えるであろう。人間や動植物などの生きとし生けるものだけではなく、生命を持たない物質を含めて、全ての存在に良い影響を与えたいと思う。そうしたことを思いながら、今朝方の夢について振り返っていた。


夢の中で私は、ある日本人の知人が高校生の時の様子を眺めていた。その知人の方は高校時代からとても優秀で、とりわけ化学に優れた才能を発揮していた。偶然ながら大学の先生がその知人の高校を訪れ、訪問授業をすることがあった。その時にその教授はその方の化学の才能を見出し、大学に飛び級することを勧めた。そのようなやり取りを眺めていると、次の場面に移行した。


次の場面では、私は欧州の見慣れない街にいた。雰囲気としてはドイツのどこかの街のようだった。ちょうど祭りが行われていて、欧米におけるフェスティバルの感じというよりも、日本的な祭りがその街で行われていた。実際に日本の祭りを思い出させるような屋台がたくさん出ていて、屋台巡りをするだけで幸せな気持ちになっていた。すると、屋台の1つに大学時代のドイツ人の友人がいたので驚いた。一体彼はこんなところで何をしているのだろうかと思った。早速彼に話しかけてみると、彼もまた自分がドイツにいることを驚いていて、そこからはお互いの近況報告を含めて楽しい会話をした。話の中で、彼は今友人が屋台に出した店を手伝っているとのことだった。彼の話を聞きながら、そう言えば少し前に、彼のご両親の家に挨拶しに訪れたことがあったことを伝えた。ちょうどその時もドイツを旅行中で、滞在先の町が偶然にも彼の両親が住んでいる町だったので、挨拶に行こうと思ったのである。しかしながら、何も事前に連絡をしていなかったので、彼のご両親の家に到着して呼び鈴を鳴らしても誰もいなかったことを彼に伝えた。すると、彼の横にいたどこかで見たことのあるようなドイツ人の女性が微笑みながら一言述べたが、何と述べたのか聞き取れなかった。


そこで夢の場面が変わり、見慣れない街に自分はいた。自分はその街の住宅地に住んでいて、今から引っ越しをするようだった。そこには、幼少時代によく遊んでいたひとつ年上の友人と小中高時代の親友(HO)がいて、彼らが自分の引越しを手伝ってくれていた。大量の書籍を段ボールに詰め、その段ボールを引越し用のトラックに積むことを手伝ってもらっていた。できるだけ自分が重たい段ボールを運ぶということを彼らに伝え、彼らにはあまり負担をかけないようにしようと配慮していた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/8(月)06:05


11794. 前超の虚偽を超克した一元論と観念主義    


時刻は午前7時を迎えた。辺りは依然として真っ暗で、気温もマイナス3度のままである。そんな中、先ほどモーニングコーヒーを淹れた。いつもコーヒーの良い香りを嗅いでいると、意識状態がシフトし、ちょっとした閃きがもたらされる。それで言えば、かつての自分が保持していた心と物質の二元論的な発想は一体何だったのかと考えさせられていた。純朴な観念主義ではなく、個人の意識を超えた超越的な意識が個人の心と物質を生み出すという意味での超越一元論的な発想を自分は採用するようになった。広義に述べればそれは観念主義に括られるのかもしれない。というのも、物質が心を生み出しているのではなく、究極的な意識が物質を生み出しているという発想を取るからである。しかしそれは繰り返しになるが、純朴な一元論や観念主義ではなく、前超の虚偽を乗り越えた後の一元論や観念主義であることを書き留めておきたい。


意識のハードプロブレムの議論のおかしさは、結局のところ前提に二元論的な発想か物質主義の発想がある点だと思われる。そもそも究極的な意識が個人の心も物質も生み出しているとするならば、どのようにして物質的な脳から意識が生み出されるのかという意識のハードプロブレムのような問題立案は成り立たないのである。意識のハードプロブレムが成り立つ前提条件として、二元論(dualism)と物質主義(materialism)さらには物理主義(physicalism)があるということが見えてくる。以前の自分はある意味、心と物質の双方の存在を認めていたが、第三要因である究極的意識の存在と役割に無自覚であったため、意識のハードプロブレムがそもそも前提からおかしい可能性があることに気づかなかったのである。それこそ今関心を持って研究をしている量子物理学の観点で言えば、関連書籍を読めば読むだけ、素粒子を構成する超紐などはもはや観測不可能で、物理的な概念だということが見えてくる。すなわち超紐は物質というよりも概念としての意識体なのである。そんな意識体から素粒子が生まれ、より大きな物質構造が生まれてくることを考えてみた時に、究極的には物質が意識から生まれてくるということが自ずから見えてくる。最初こうした考え方に違和感があったが、それはこれまでの二元論的なものの見方が邪魔をしていたからだと思われる。発想の枠組みというのは本当に怖いもので、自分の感覚や感性までをも縛る働きをしていて、これまでの自分は二元論的な感覚や感性を通じてこのリアリティを生きていたのだと反省させられる。そのせいで見落としていたことが多々あったであろう。世界をどのように捉えるかというリアリティ認識の枠組みの質的変化のことを意識の発達と呼ぶのであるから、自分は確かに昨年から今年にかけて意識の発達を実現したのだろう。そのことについては素直に喜んでもいいかもしれない。ようやくこれまで長らく掛けていた意識のレンズが新たなものに変わったことを喜び、このレンズもまた意識の発達の途上にあるものだという謙虚さを持って、日々の学習と実践を通じて、さらにレンズを磨いていきたい。フローニンゲン:2024/1/8(月)07:14


11795. 「神秘体験」という社会文化的なラベルを再検証する必要性について   

   

朝の身体実践や創作活動もひと段落し、心の哲学に関する調べ物も終えたので、ここから朝の読書に取り掛かろうと思う。今日はまず、厳格なサイケデリックプロトコルに基づいて意識の探究を進めてきたオランダ人の哲学者バーナード・カストラップの書籍の再読を進めたいと思う。再読と言っても既に全ての書籍を2回読み返しているので、今回は3回目の読み返しということになる。彼はコンピューターエンジニアリングと哲学の2つの博士号を取得しており、量子力学と心の哲学の双方に造詣が深いので、彼の専門領域は今の自分の関心と非常に合致している。書籍だけではなく、彼のインタビュー動画も全て視聴しようとしていて、その数が膨大なので時間はかかっているが、ゆっくりと彼の全インタビュー動画の視聴も進めていこうと思う。


サイケデリック・セッションにおいては、宇宙を含めた超越的な存在と一体化したり、自我が溶解して世界と一つになる体験をよくするのだが、そうした体験が神秘体験と呼ばれていることに少し違和感を感じている自分がいた。すると、実際にその呼び名はおかしいということをカストラップが指摘しており、その指摘に大変共感している自分が先ほどいた。人はそれを神秘体験と言うが、実際のところはそれは神秘でもなんでもなく、人間の脳と意識に最初から備わっている自然な現象として捉える発想をカストラップと自分は持っている。また、サイケデリック哲学者のクリス・リズビーも自然主義的な発想からこの考え方に賛同する主張を展開している。確かに私たちは意識の発達過程において二元論的な発想を取るようになるし、そもそも自我は境界線を引き、境界線の内側と外側を通じて存在を認識し、保存しようとする性質を持つ。そうした性質から、超越的な存在や世界そのものと一体になることは、一見すると難しいように思えるかもしれないが、自我のそうした性質に自覚的となり、自我への囚われから徐々に解放されていけば、別にサイケデリクスを摂取しなくても全てと1つになれるという非二元体験をする頻度が高まり、非二元体験が特別なものではなくごく自然なものだという認識が育まれていくはずである。成人発達理論の分厚い研究が明らかにしているように、意識の発達の方向性は間違いなく、自己を超えて超越的な世界や存在と一体化する方向に向かっているのだから、これまで神秘体験と括られていた現象を自然現象とみなすことが重要なのではないかと思う。でなければ、意識の発達が停滞したり、抑圧されたりしてしまうのではないかと危惧している。「神秘体験」という言葉を当てることによって、その体験が何か特別なものであるという思い込みや、いかがわしいものであるという思い込みを醸成してしまいかねない恐れもある。サイケデリクスの摂取は最も分かりやすいが、その他にも瞑想実践に打ち込んだり、愛に基づいた深い性的交わりやスポーツや芸術におけるゾーンの体験など、自我の境界線を取っ払い、世界と一つになる方法はたくさんある。そこでの体験を神秘体験と括るのではなく、自然体験として捉え直すことが必要なのではないかと思う。さもなければ、人間の本質や生きることの意味や生きていることの充実感を感じさせてくれるそうした体験が抑圧されてしまうことになりかねない。社会文化的なラベルを再検証する必要性について先ほど考えていた。フローニンゲン:2024/1/8(月)07:44


11796. 「物質」についての理解/意識・心・物質の三者関係を大切にして 


昨日、物質(matter)に関するオックスフォード大学出版から出版されている書籍を購入して本当に良かったと思う。意識について探究をしていく際に、そもそも物質とは何かを理解する必要があるという問題に突き当たり、改めて物質とは何なのだろうかという問いに対して自分なりの考えを深めていきたい。また、“matter”と“substance”の違いが何かについても考察を深めていく。後者は日本語では、同じく「物質」と訳されたり、「実質」と訳されたりする。今の自分の中で、意識は“material”ではないが、「意識体」という造語を直感的に使っている自分からすると、“matter”と“substance”の観点から意識を考察していくことはさほど違和感なく進めることができるのではないかと思う。極小の物質からボトムアップ的に意識を捉えていくことは、結局のところ意識のハードプロブレムの発想と似たような側面があることに注意が必要であり、逆に究極的意識ありきでトップダウン的に考察を進めていくことにも何か落とし穴があるかもしれないので、その点には細心の注意を払いたいと思う。そもそも意識について考えるあらゆる発想の角度も枠組みも、人間中心主義的なものになっていないかの検証も絶えず意識したいと思う。


どうやら意識、心、物質の三者関係で意識そのものとリアリティについて考えていく必要があると分かり始めた。これまでは、意識(consciousness)と心(mind)を同義語として捉えていたが、どうやらその分類は粗いものであることが意識研究の先端的な論考から明らかになってきた。哲学領域の1つである「心の哲学(philosophy of mind)」もひょっとしたら「意識の哲学(philosophy of consciousness)」と呼び方を変えなければならないかもしれない。いずれにせよ、神道の三神構造の発想を用いながら、意識、心、物質の三者の関係について考察を深めていく。今のところ、心と物質の背後に、あるいは土台に意識を据えるという発想で考察を進めている。心と物質の実在を認めながら、心も物質も意識が生み出しているという考えでこのリアリティを捉えていくことを継続させていこう。


昨日33冊ほどの書籍を購入したが、バーナード・カストラップが寄稿している論文が収められた書籍を含め、もう数冊ほど目を通しておきたい学術書を見つけたので、今夜それらについても注文をしておきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/8(月)08:38


11797. 瞑想実践の効能を感じて/井筒俊彦先生の全集に立ち返って/

物質の共通基盤としての意識


昨日の日記で書き留めていたように、今日からは瞑想を夜寝る前だけではなく、午前中と夕方にも行うことにした。午後の仮眠もまたある種の瞑想であると考えると、1日に4回ほどに分けて瞑想実践を行う形になる。先ほど朝の瞑想をしていると、やはり瞑想はとても気持ち良いものだと思った。脳の疲労回復にもつながるし、何よりも定期的なシロシビン・セッションがもたらす知覚体験を緩やかに再体験させてくれることにもつながるという効能がある。先ほども実際に内的なビジョンを知覚していたし、そこでやって来る洞察は自分の研究上非常に大切なものだと改めて思った。夕方にジムから帰ってきてもまた瞑想を少しばかり実践させよう。この1日に4回ほど小分けに瞑想をするということはこれからの習慣として定着させたい。学術研究上も多大な恩恵があるだろうし、何よりも心身がより健康なものになっていくであろう。


瞑想の前に1階に降りて、井筒俊彦先生の全12巻の全集のうち、7冊を2階に持って上がってきた。現在、日本思想に関する研究を進めていて、確かに井筒先生の英文書籍は数冊ほど存在するが、それらの書籍では書かれてないことが日本語の全集にはあるので、7冊ほど自分の研究内容と直接的に関係するものを書斎に持ってきた。とりわけ井筒先生の意識論と形而上学的な神秘思想は自分にとって重要な研究であり、それらに関する文献は日本語で執筆されたものだが、慶應技術大学出版会のものなので、英語の論文で引用しても問題ないかと思う。今から一気呵成に読めるところまで全集を読み進めていこうと思う。7冊の全集に目を通すのはここから数日間か1週間ぐらいかけてもいいだろう。日本語の本書を読みながらも、川面凡児先生の全集と同じく、英語のリサーチノートを執筆していこうと思う。ここで書き留めたリサーチノートはいつかきっと英語での論文執筆に役に立つであろうから。


時間は前後するが、井筒先生の全集を1階から持って上がってくる前に、素粒子の1つである光子の大変興味深い性質について考えていたことを思い出す。2つの光子AとBがどれだけ物理的に距離が離れていようが相互に影響し合っているというのは実に興味深い性質である。そうした相互依存的な関係が成立するためには、それぞれの光子には何か隠れた性質がありそうだということは量子力学でも議論されているらしいが、それが何かについてはわかっていないようである。意識を研究している者からすると、まさに光子が共有しているものこそが意識なのだと思われる。アインシュタインはかつて、量子が距離を越えて相互に影響を与え合う様を「不気味な遠隔作用(spooky action)」と呼んでいたが、量子が空間を持たない意識を共通基盤に持っていると考えれば、それは不気味でもなんでもなく、自然な現象だということが見えてくる。このように意識の研究は量子力学と密接に繋がっており、量子力学の種々の発見事項や考え方は意識研究を後押しする意味でも非常に重要なことが見えてくる。意識哲学と量子力学を横断しながら意識についての探究を深めていこうと改めて思った次第だ。フローニンゲン:2024/1/8(月)09:51


11798. サイケデリック体験と井筒俊彦先生の世界認識とサルトル的体験  


英語でのリサーチノートを取りながら、井筒先生の全集を読み進めている。ちょうど先ほどから2冊目に取り掛かり始めた。その書籍の中で、井筒先生の対談話が掲載されており、非常に興味深いことを先生が述べておられることに目が止まった。井筒先生の世界認識として、この現実世界がソリッドなものではなく、夢のように手応えのなく、儚く、そしてブヨブヨしたものだという認識を持っていることに改めて注目した。これは自分のサイケデリック体験中における世界認識に関する直接知覚体験と合致する。カール・プリブラムが提唱しているように、宇宙はホログラムで構成されており、私たちの存在も現実世界もホログラムで構成されているという認識を最近強めている。こうしたホログラフィックな性質をサイケデリククスを通じて知覚するとき、現実世界が本当にブヨブヨとして、千変万化を繰り返す儚き存在に思えてくる。それは絶えず変化しており、非常に流動的でダイナミックな性質を持っている。1つ1つのホログラムもまた実在として捉えられるのだが、それが本当に光の速度で変化するため、現実世界は一瞬の手応えこそあれど、本質的に無限に生成されるホログラフィックな映像として捉えられるという感覚がある。それとほぼ同義の感覚を井筒先生がお持ちであることを改めて思った。


また、言語に対して、言葉に対して非常に強い執着心を持っていた井筒先生の若かりし頃の「サルトル的体験」と表現される体験がまた興味深い。それは言葉が全て脱落し、言葉の生成の根源である絶対無分節の混沌世界に投げ出される体験として記述される。まさにこうしたサルトル的体験もまたサイケデリック体験の中で生じることである。そもそもサイケデリクスの摂取によって、言語を司る脳の活動が抑制され、それに加えて自我の機能を司る部位の活動も抑制されることによって、存在を規定し、存在を生み出す絶対無分節の混沌世界を知覚することは、サイケデリック・セッションではよくあることかと思う。このように、井筒先生の意識の形而上学、意味論、意識論をサイケデリクスの観点から紐解いていくと、実に様々な発見や洞察が得られそうだという実感がある。その実感に基づいて、ここからも他の英文書籍と並行して日本語の井筒先生の全集を読み返していきたいと思う。いつか井筒先生の思想とサイケデリクスを絡めた形での英語論文の執筆も自ずから形になってきそうな予感がする。フローニンゲン:2024/1/8(月)11:14


11799. ジムでのトレーニングを終えて     


時刻は午後5時を迎えた。今日もジムで爽快に汗を流してきた。今日は本当に寒く、ジムまでの特に行きにおいて寒さが厳しかった。とは言え、準備運動がてらジョギングをしてジムに行くにはちょうど良い寒さでもあり、帰りはジムでの運動のおかげでそれほど寒さを感じることはなかったが、それでも氷点下の世界特有の刺すような寒さがあったことは確かである。


毎週木曜日がパーソナルトレーニングの日で、その日は1時間を筋力トレーニングに集中的に充て、そこから30分ほどの有酸素運動を行うのが日課である。筋力トレーニングの前にも準備運動とジークンドーの稽古を20分ぐらい取り入れているので、木曜日は2時間弱をトレーニングに充てていることになる。一方月曜日は少しトレーニング時間を減らし、集中してトレーニングを行うようにしている。木曜日のトレーニングに向けての調整として程よく筋肉に刺激を入れるのが月曜日のトレーニングの大きな目標になっている。また、その前の週の木曜日で鍛錬した方法とは違う方法で筋力を鍛えることによって、筋肉に違う刺激を入れることも月曜日のトレーニングの主眼になっている。一方、有酸素運動に関しては、気持ち時間を多めに取っているのが月曜日のトレーニングの内容になる。週に2回のジムでのトレーニングは生活に良いリズムをもたらしてくれており、これからも引き続き週に2回は集中的な筋力トレーニングと有酸素運動を行っていきたいと思う。


今通っているジムはそれほど遠くなく、歩いて15分ほどの距離にある。しかし、寒さや雨などの天候条件によって少し面倒なこともあるので、今度引っ越すことがあれば、ジムが付いている集合型のマンションに住もうと計画している。そうすればわざわざ移動する必要もなく、好きな時に好きなだけマンションのジムを活用することができる。もちろん専門的なジムの方が豊富な種類の器具を置いているのは確かだが、工夫次第で筋力は如何様にも鍛えられることをこの1年間のトレーニングを通じて学んだので、今後はジムが併設しているマンションに住みたいと思う。そのようなことを考えながら帰路についた。また、帰り道にはいつものように学術研究で考えを深めたいトピックやテーマについてぼんやりと考えていた。ジムでのトレーニング中のインターバルにおいても同様に、瞑想の意識状態の中でぼんやりと研究上のトピックやテーマについて考え事をしていることが多い。時折良い閃きが降ってくることがあるし、ぼんやりとした考え事が時間差で良い閃きを生むことがあるので、やはり身体を動かすことの学術研究上のメリットを感じる。フローニンゲン:2024/1/8(月)17:14

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