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【サイケデリック学探究記】11777-11783:2024年1月6日(土)



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成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスやその他のテーマについてお話しさせていただくチャンネル「インテグラル・サイケデリックラジオ」はこちらからご視聴いただけます。

タイトル一覧

11777. 今朝方の夢

11778. 意識と超紐

11779. 意識と超紐の相互縁起性

11780. 心の哲学、量子力学、神道・仏教の意識論とサイケデリック研究の統合に向けて

11781. サイケデリック実践を基盤にした仕事と趣味が融合したライフワーク

11782. 量子力学の観点からの意識探究/「インテグラル・サイケデリックラジオ」のこれからの進め方について

11783. 新年最初のゼミナールのクラスと翻訳書のゲラのレビューを終えて


11777. 今朝方の夢


時刻は午前4時半を迎えた。天気予報の通り、今日からは寒さのギアが変わり、今の気温はマイナス1度で、今日の日中の最高気温も0度までしか上がらない。明日から4日間は、最高気温ですらマイナスのようだ。氷点下の世界がやって来たことに伴って、逆に快晴の日が続くことは嬉しいことである。寒さの厳しい日の空は普段より透き通って感じられ、特に夜空の満天の星が見れることは見事としか言いようがない。


今朝方の夢についていつものように振り返っておきたい。今朝方は断片的に幾つかの夢を見ていた。


夢の中で私は、見慣れない研究室の中にいた。そこには大学時代のゼミの恩師に似た先生がいて、先生は食卓のようなテーブルの席についていた。先生の横には眼鏡をかけた若者がいた。彼はギフテッド教育を受け、なんと高校1年生の時に飛び級をして大学の博士課程に進学し、今は高校2年生かつ博士課程2年とのことだった。彼はまだ若いのだが、それにしても少し老けているように思えた。ギフテッドということで知性は高いが、ひょっとしたら老化に関する遺伝子も人とは少し違い、それが彼の顔を老けさせているのかもしれないと想像した。そこからは先生が彼との最近あった面白いエピソードについて紹介してくれた。彼はどうやら同世代の若者が関心を持つものに一切関心がないらしく、電化製品への関心がものすごく高く、先生と街を一緒に歩いている最中も家電屋ばかりに目が行き、家電の話ばかりをしていたとのことである。2人はとても仲が良さそうであり、彼の能力を考えれば、無事に博士論文を書き上げ、博士号を取得できるだろうと思った。


次の場面では、自分はある組織の代表メンバーの1人で、代表4人で集まって話をしていた。ちょうど今からその組織に入ることを希望している人の面接があり、面接官として自分も立ち会うことになっていた。その準備を4人でしていると、気がつけば私は建物の外にいて、街をぶらぶらと歩いていた。しばらく歩いていると、道に迷ったと思われる母と娘の2人の家族がいたので声を掛けた。案の定道に迷ってしまったとのことだったので、道を教えることにした。その時に、母親の女性が手に持っているメモ帳に夫の名前と出身地、そして学歴と現在の所属組織が書かれていた。特に詮索するつもりはなかったが、書かれている内容に目を落とすと、その方の夫は山口県下関市出身で、一橋大学社会学部卒業と書かれていたので驚いた。市こそ違えど私も山口県で育ち、一橋大学を卒業していたので、思わずその話をして、「旦那様によろしくお伝えください」と述べた。ちなみにその方の夫は大学卒業後、名門証券会社に入社し、現在はその証券会社の役員を務めているとのことだった。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/6(土)04:46


11778. 意識と超紐 


表観と裏観を繰り返しながら、意識について考えている。それは表観すれば個人のマインドとなり、裏観すればますます素粒子の集合体に思えて来る。意識はどこまでいっても物質ではないので、素粒子の集合体とするのは些かおかしく、素粒子を構成している超紐は物質ではなくて観測不可能な物理学上の概念とのことなので、超紐の集合体としてマインドが見えて来ると述べた方が正確かもしれない。超紐で構成される素粒子でさえもが、観察されるまでは可能性の波として存在しているというのは大変興味深いことである。素粒子は可能性としてこのリアリティに存在しており、観察されると粒子としての存在が認められるという不思議な物質だとつくづく思う。個人のマインドもまた超紐で構成される無数の素粒子の創発現象として立ち現れるのだろうか。ここ最近は創発理論を棄却していたが、それは脳の神経細胞の活動が創発的に意識を生み出すということを否定していただけであって、ひょっとしたら脳内に素粒子の活動場が形成されていて、その場から創発的に個人の心が立ち現れて来る可能性はあり得るかもしれないと思った。それであればベルグソン・ハクスリー理論との整合性はどのように考えればいいのだろうかということになる。この理論においては、脳はあくまでも意識の受信機に過ぎず、今自分が述べた仮説と食い違う。ひょっとしたら、個人の意識は自分の脳内の素粒子の活動だけではなく、素粒子はそもそも場所に縛られることがないため、やはり個人の脳を超えて、環境を含めた自分の身体の外側に広がる素粒子との相互作用から創発現象を起こして個人の脳に受信機として意識がキャッチされるのか、はたまた個人の意識の元になる素粒子は多次元宇宙にまで拡張されて存在しているかもしれない。今、意識の元になるのが素粒子だと述べたが、厳密には超紐だと述べた方がいいかもしれないし、超紐が意識の元になっているという発想もまたかつての自分が保持していた物質が意識を生成する方向と似た考えで少し気持ちが悪い。しかし、超紐は物質としての性質を持ちながらもそれは純粋な概念であるため、超紐が意識の元になっているということに対する違和感は、以前のように脳の神経細胞などのより大きな物質単位で考えていた時よりも希薄になっている。どうやらこの宇宙を構成する目には見えない最小の物質単位と意識の構成源は、共通している可能性があるように思えて来ている自分がいる。こうした関心が元になって現在粛々と宇宙物理学や量子力学の書籍を読み進めている。オックスフォード大学出版やケンブリッジ大学出版の書籍はその道のプロの研究者向けに執筆されているため、最高級のレベルだが、逆に言えばそれを理解すれば他の一般書をわざわざ読む必要がなくなるし、先端的な議論がどのような次元で展開されているのかを理解することにもつながる。来週に書籍の一括注文する際には、超紐理論について上記の出版社の学術書を何冊か求めたい。フローニンゲン:2024/1/6(土)05:53


11779. 意識と超紐の相互縁起性     


たった今モーニングコーヒーを淹れていると、その香りが刺激になって、その前に考えていたことについてさらに考えが進んだ。なるほど、これまでの自分は物質領域の次元認識が希薄であり、意識が脳から生まれるということに対する気持ち悪さを持っていたのだが、それは脳というグロスの次元の物質についてのみ考えていたからだと気付かされたのである。

インテグラル理論にあるように、主観領域と客観領域は常に相互作用をしていて、片方がもう片方を生み出すという考え方ではなくて、両者の相互作用によって両者の存在が成り立っていると考えた方がいいのではないかと思う。仏教的な意味での縁起を主観領域と客観領域との相互作用にも当てはめることが可能なのだろう。そうすれば、意識は物質によって成り立ち、物質はまた意識によって成り立つという考えが生まれる。ここで述べている物質も脳というグロス次元の粗いものではなく、さらに微細な素粒子をサトル次元の物質と捉え、素粒子を構成している超紐をコーザル次元の物質と捉えてみると、意識という目には見えないものが客観次元の最も深層にあるコーザル領域における超紐によって成り立ち、超紐もまた意識によって成り立つという相互縁起関係を見出すことができる。なるほど、観測効果というのは後者側の話をしていたのだと気付かされる。また、自分がここ最近は超越的一元論的汎心・汎神論者だと述べていたのもその話とつながる。量子力学の世界では、コーザル次元の超紐、いや素粒子の次元で意識が素粒子を生み出すことがすでに確認されている。厳密には、素粒子は可能性の確率の波として存在していて、観察という意識行為が媒介されると、可能性の波が粒子としての存在を表すのである。それはまさに粒子が意識との関係性によって成り立つという縁起性を示しているように思える。ゆえに、物質が意識を生み出しているとか、意識が物質を生み出しているとか、一方向のベクトルで認識するのは筋違いであり、双方がお互いを支える形で双方を生み出していると考えるのが一番納得のいく説明のように思える。


なのでここまでのところをまとめると、個人の意識ではなく究極意識と呼ばれるものも、宇宙上に広がる超紐と相互縁起関係を結んでおり、究極意識と物理宇宙はお互いにお互いを生じさせていると考えるのが妥当だろうし、個人の意識の生成を脳の次元で考えていくというのはとても粗く、少なくとも素粒子や超紐の次元で考えなければならないと言えるだろう。ここから意識について探究するにあたっては、ますます素粒子と超紐に対する理解を深めていく必要があると実感する。意識研究においてまた明瞭な方向性が見つかったことを嬉しく思う。それをもたらしてくれたのはコーヒーの良い香りだったことを書き残しておきたい。フローニンゲン:2024/1/6(土)06:21


11780. 心の哲学、量子力学、神道・仏教の意識論とサイケデリック研究の統合に向けて


考察の余波が残っている。その余波に誘われる形でまた考えを少し前に進めていた。やはりここからの自分は厳格なサイケデリック実践を自らに課し、そこでの意識拡張体験を元にしながら意識について深く探究していくことを最大の焦点にしようと思った。その際に、心の哲学、量子力学、神道・仏教の意識論を深く深く研究していくことを自らに課したい。この世界には本当に興味深い学問領域がたくさんあって、現在の寿命では全く足りないぐらいだが、自分が中核とするべき学問領域は心の哲学、量子力学、神道・仏教の意識論と明確に設定した方がいいように思えた。哲学全般ではなく、無数の哲学領域の中の心の哲学を1つ選び、物理学の中でも量子力学を1つ選択し、宗教の研究においても無限に研究領域がある中で神道・仏教の意識論を1つ選びたいと思う。これら3つの叡智を統合し、意識とは何かを紐解いていく研究に邁進したい。その研究を拡張させる形でリアリティとは何か、宇宙とは何かについて考えていきたい。リアリティや宇宙側から意識を研究していく方向性もあるが、それは意識に関心を持っている量子力学者や宇宙物理学者に任せ、自分は兎にも角にも自らを実験台にしてサイケデリック実践を通じて観測可能な個人の意識の種々の現象やそこから得られる洞察から出発し、究極的な意識(ultimate consciousness)(絶対的な意識(absolute consciousness)あるいは宇宙的な意識(cosmic consciousness))の研究をしていきたい。


学術論文の執筆に際にしては、それら3つをいきなり統合させるのは難しいだろう。なのでまずはそれぞれの関係の大まかな見取り図を示すような論文を執筆したり、3者の中から2者を選んでそれぞれを関連づける論文を書いていくことが取り組みやすいだろう。とにかく自分は何かを組み合わせたり、佳境させたりするのを好む性向があり、その特性を活かした研究と論文執筆をしたい。心の哲学、量子力学、神道・仏教の意識論(とりわけ日本思想に立脚した神道・仏教の意識論)から2つの組み合わせを選んでまずは3本ほどの論文が書けるだろうし、それを終えてから3者を俯瞰的に関連づけていく論文を1本書く道も見えている。それら3者のそれぞれをさらに広く深く研究していくのは博士論文ぐらいの規模感を持つように思える。これを博士論文のテーマにしてもいいとすら思えて来ている。それではそこにサイケデリクスはどのように絡むだろうか。自らのサイケデリック体験を絡ませることはあまりに主観的なので、多くのサイケデリック体験者が共通体験する究極的な意識に触れる体験現象や、それこそ発達理論の最大の功績である高次元の意識段階や意識状態と関係したサイケデリック体験現象に触れていく形でサイケデリクスを絡ませることができるだろう。このあたりの語りの方法は、オランダ人の哲学者のバーナード・カストラップが見事なので、彼のサイケデリクスの取り扱いを参考にしていきたい。こうして少しずつだが着実に自分の学者としての仕事の方向性が定まって来た。本当に自分は何をやっても遅咲きのようだ。フローニンゲン:2024/1/6(土)06:40


11781. サイケデリック実践を基盤にした仕事と趣味が融合したライフワーク

     

なるほど、自分がサイケデリック哲学・サイケデリック科学・サイケデリック神学と括っていたものの具体的な内容が少しずつ紐解けて来た。それら3つの大まかな括りは昨年の暮れに降って来た直観的なものであった。今それが具体的に何を指し、どのような学問領域をこれから学んでいけばいいのかが明確な形で見え始めている。それは1つ前の日記で書き留めていたように、哲学領域で言えば心の哲学であり、科学領域で言えば量子力学であり、神学領域で言えば神道・仏教の意識論となる。仮に今年の夏からハーバード神学大学院に進学する幸運に恵まれたら、最後の神学領域から着手を始めることになるだろう。この領域のみ、厳密に言えば神道と仏教の2つの宗教の意識論を研究する形になる。なぜ神道だけでも仏教だけでもないかと言うと、それはきっと自分が神仏習合が体現された日本という国に生まれたことと関係しているだろう。それを抜きにしては自分の着眼点や関心を語ることはできない。自らの出自が自分の研究の方向性に対して決定的に重要な役割を果たしているのである。神道の意識論には本当に驚いてしまうような精緻なモデルがある。それは多分に宇宙論とも関係しており、量子力学との関係性で宇宙の研究にも重要な役割を果たすはずである。仏教の意識論と宇宙論の精緻さは言わずもがなである。自分が広げた風呂敷は広いのはわかっているが、それら3つを横断的に探究していくことは一生をかけて行うものななのだと実感する。仕事と趣味の境界線が溶解し、一生従事できる仕事と趣味が見つかったという大きな喜びがある。しかもこの仕事と趣味の背後には、これまた一生かけても探究し切れないであろうサイケデリック実践が存在しているため、サイケデリック実践に下支えしてもらう形で、この仕事と趣味が融合したライフワークにこれから一生を捧げたいと思う。


正式に学術機関に戻るまではとにかく準備に準備を進めていくこと。英語空間に存在しているサイケデリクス関係の学術書のほぼ全ての330冊ほどを購入して読み進めた結果わかったのは、それくらいの書籍を一気呵成に読み進めていくと、その研究分野の全体図が自然と理解され、さらには知識体系も自ずから構築されるということだった。ここからは今のところこれまで本格的に探究していなかった量子力学の探究をしていく。その際に重要なのは、おそらくどこかのタイミングでは数式表現をきちんと理解し、数式が表す意味内容を理解する必要があると思われるが、当面は量子力学の種々の概念を理解することに努め、その概念がどのような実験によって導かれたものなのかを理解していくことに努めたい。そうしたことを少しずつ進めていけば、数式周辺の文章記述の意味内容も頭に入ってくるだろうし、それができたら数式の意味の解析にも取り掛かれるだろう。とにかく量子力学を量子力学として学ぶことをせず、絶えず意識と絡めて研究していく姿勢を持つことが自分にとっては大切になる。


神道・仏教の意識論の研究においても、神道や仏教の学術書を何気なく眺めているだけではダメであり、自分の研究の焦点以外の膨大な研究領域に飲まれてしまうという現象は避けなければならない。むしろこれまではそうした拡散的な学習を長年続けて来たのだから、ここからは本当に博士号の取得に向けて、そして研究者として仕事を進めていくにためにも、焦点を絞った研究を心掛けていこうと思う。フローニンゲン:2024/1/6(土)07:03


11782. 量子力学の観点からの意識探究/

「インテグラル・サイケデリックラジオ」のこれからの進め方について 


気がつけばもう辺りが明るくなっていて、小鳥の鳴き声が聞こえて来た。時刻は午前9時を迎えようとしている。あと1時間ほどで、2024年最初のゼミナールのクラスが行われる。今年最初のクラスは、数えてみると61回目となる。今年も毎週末にクラスを開催し、受講生たちと一緒に着実に学びを深めていきたいと思う。


先ほどまで改めて2階の本の山や1階の段ボールから書籍を取り出して来て、それらを眺めていた。とりわけ心の哲学に関する書籍と、意識を量子力学の観点から紐解いている書籍を再度読み返してみることにした。今日の午後からの読書は特にそれに力を入れる。すでに手持ちの書籍の中で、意識と量子力学を絡めたものがあり、また論文集の中にも当該テーマの論文が収められていたりと、今の自分の関心とつながるものがすでに身近にあったことを嬉しく思う。これも当時の自分にとっては今の自分という未来の自分からの導きがあったとしか思えない現象である。意識と量子力学を絡めた研究は大変興味深いので、さらに追加で書籍を購入することにした。新年最初の書籍の一括注文は、ひょっとしたら40冊を超えて50冊ぐらいの量になるかもしれない。しかしそれもまた博士論文の執筆やその後に続く一生をかけたライフワークの貴重な資源になるということを思えば、少々値が張る貴重な学術書であっても気にせずに購入することができる。とにかく、これから購入する学術書は全て、自分のライフワークにつながるものだという認識を絶えず持っておこうと思う。


そのようなことを考えた後に、「インテグラル・サイケデリックラジオ」のこれからの進め方について考えていた。自分としてはもっと学びの濃いラジオを届けたいという思いがある。これまではその場で思いついたテーマについて話を進めていたが、今年は課題図書を決めて、それを1章1章取り上げていく形で毎回の放送を進めていくのが良さそうである。課題図書を決め、毎回1章ずつ取り上げながら、それをある種対話のスキャフォールディングとして機能させ、それに則って即興的に対話をしていくことが可能になるだろう。これまでは全く何もないところからの即興対話だったが、何かを基盤に据えて即興的な対話を行なっていくことの方が学びが深まり、より有意義なラジオを届けることができるように思う。とにかく今の自分は深い学びを求めている。これはラジオのお相手を務めてくださっている早田航さんに相談しなければいけないが、サイケデリック体験を紐解く際に心の哲学の素養は不可避に要求されるので、心の哲学に関する入門書を取り上げるのが良いだろうか。例えば、”Philosophy of mind: A contemporary introduction”か、量子力学にも触れた箇所がある"Theories of consciousness: An introduction and assessment”のどちらかの書籍が良さそうである。取り急ぎ、今日のゼミナールのクラスが始まるまでに、どちらの書籍がいいかを判断したいと思う。フローニンゲン:2024/1/6(土)09:07


11783. 新年最初のゼミナールのクラスと翻訳書のゲラのレビューを終えて


時刻は午後4時を迎えた。今日は午前中から昼前にかけて、新年最初のゼミナールのクラスがあった。昨年の年末から少人数のクラスが続き、むしろそれが加藤ゼミの醍醐味でもあるので、充実した対話が実現されていることを嬉しく思う。今日もまたそのような回だった。ここから2週間はインターバルとしての位置付けで、課題図書を扱うのではなく、受講生の方と近況報告から派生した対話会のような形でクラスを進めていきたい。今月末からは再び課題図書を扱うようにし、神道の意識論と宇宙論から人間発達やリアリティに関する理解を深めていきたい。それに付随して、神道の意識論と宇宙論の観点からサイケデリック体験を紐解くという隠れた目的もある。古神道の奥深い意識論と宇宙論について理解を深めることは、自分としても今後の学術論文執筆の基礎を作る大事な事柄になる。

午後に仮眠を取った後に、今日のクラスの振り返りの音声ファイルを作ったり、それ以外にシェアしておきたい事柄についての音声ファイルを作成した。それを終えて読書の続きに取り掛かろうかと思ったがそれをやめて、オットー・ラスキー博士の翻訳書のゲラのレビューをすることにした。こうしたレビューは思い立った時に一気呵成に完了させるというのが自分のスタンスで、本書の分量は多いのだが、先ほど無事にレビューを終えた。編集者の方と監訳者の中土井僚さんの仕事が大変素晴らしく、追加で修正をお願いする事柄はほとんどなかったことに大変感謝している。事前打ち合わせの段階で、自分がレビューする回数を極力減らしてもらうことをお願いしており、今回は本当にそのお願い通りに仕事を進めてくださったことに感謝している。編集者の方曰く、2月末か3月初旬には出版できそうとのことなので、今から11年前に翻訳した本書が世の中の書店に並ぶことがとても楽しみである。


今日はこれから夕食準備までのもう少しの時間を読書に充てたい。量子力学と情報の観点から意識について論じている論文を読み進める。明日は午後に時間を取って、今年最初の書籍の一括注文をしようと思う。改めて購入予定のリストに上がっている書籍を最初から最後まで中身検索をしていき、自らのライフワークとしての研究に今後長く貢献してくれるかどうかという観点で生粋の学術書を厳選して購入していこうと思う。40冊ぐらいで注文が収まれば幸いである。フローニンゲン:2024/1/6(土)16:31

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