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【サイケデリック学探究記】11727-11737:2023年12月31日(日)



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タイトル一覧

11727. 2023年最後に行う第23回のシロシビン・セッションに向けて

11728. 大晦日に見た夢

11729. 来るべき新たな年に育みたい心の在り方/今朝方の夢の続き

11730. 第23回のシロシビン・セッションを通じて考えたいテーマ

11731. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)

11732. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)

11733. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)

11734. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その4)

11735. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)

11736. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その6)

11737. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その7)


11727. 2023年最後に行う第23回のシロシビン・セッションに向けて


いよいよ今日は2023年最後の日だ。大晦日の今日が日曜日というのも何か良いものである。世界の雰囲気が穏やかで、日曜日固有の安らぎを通じて年越しを祝えることの幸せを感じている。


先ほど、シロシビン・マッシュルームの栽培の4周目の収穫を終えた。ここ最近は収穫速度が上がっていることに気づく。栽培を再び始めたらすぐにマッシュルームが頭を出し、すくすくと育っていくのである。その成長速度には驚かされてばかりだ。昨日に収穫したものは、17.5時間ほどオーブンにかけて完全乾燥させた。その様子を見ると、もう完全に水分が抜けている状態に思えたので保存が効くだろう。昨日の収穫量は少なかったが、今日の収穫量は非常に多く、両者を合わせると「英雄の服用量」に到達する見込みである。収穫を済ませて、マッシュルームの石突きの部分を包丁で切り落とし、そこからオーブンでの乾燥にかけた。今日も長時間オーブンにかけて完全乾燥させようと思う。


今日はマッシュルームの収穫に加えて、第23回のシロシビン・セッションを行う。前回からのインターバルは1週間で、この期間でどれだけシロシビンへの耐性が抜けているのかを確認したい。またこれまで2回が八丁味噌に和える形での摂取であり、それを再びカカオと共に摂取することによる効果の違いを見たいと思う。マサテコ族の伝統ではカカオが用いられていて、巷でもカカオと一緒にシロシビンを摂取するとその効果が増幅されると言われている。この点に関する科学的な調査をした論文をまだ見つけていないが、マサテコ族のような伝統ある集団が持っている叡智を考えると、そのような効果が本当にあるのかもしれない。実際に自分もそのような効果をプラシーボ効果かもしれないが実感している。


セッションを始めるに際して、今日はコーヒーはフレンチプレス1杯までとしたい。セッション開始1時間半前には飲み終わっておければと思う。セッション中にトイレに行く回数を減らし、体験に集中するためにも、セッションの日の朝はコーヒーを控え目にすることが望ましいというのが前回改めて学ばされたことである。これまでも何気なくそれを意識しており、コーヒーを全く飲まない形で正午からセッションすることもあったぐらいである。今日はとりわけコーヒーを控え目にすることを意識したい。


昨日列挙した項目以外に何か今日のセッションを通じて発見を得たいことはあるだろうか。そのようなことを考えてみたときに、言霊について何か洞察を得られればと思った。言葉に内包されている霊的な力と存在について、何か1つでもいいので気づきが得られたら幸いである。もはや自分の人生に対する方向性などの自分に関することへの気づきにはさほど関心はないが、そう思っていると思わぬ気づきがやってくるかもしれない。サイケデリックセッションというのはそういうものである。フローニンゲン:2023/12/31(日)06:10


11728. 大晦日に見た夢     


今年を締め括る大晦日の朝に見ていた夢について早速振り返りをしておこう。まず1つ印象に残っているのは、欧米の見慣れない街の大学の講演ホールにいた場面である。そこは欧米の大学なのだが、壇上に上がっていたのは日本人の年配の男性で、どうやらその男性が学長のようだった。学長は、最近読んだ書籍の中で面白かったものを学生たちに伝えていた。その中になんと、自分が敬愛する神道家の川面凡児の書籍があったので驚いた。学部長は数冊ほど洋書を取り上げた後に、川面凡児の分厚いハードカバーの書籍を取り出して、嬉しそうにその書籍を紹介し始めた。どうやら学長も川面凡児の神道思想に深く共感しているようで、その共感の思いは自分に匹敵するぐらいに感じられて嬉しくなった。私以外の欧米人の学生たちはもちろん川面凡児など知らないので、きょとんとしながら話を聞いていたが、話の最後の方には川面凡児の思想の魅力が幾分伝わっているようだった。話を終えた学長は学長室に戻っていった。私は続く講演をほったらかしにし、学長に会いに行って川面凡児の話をしたいと思った。学長室をノックすると、快く中に入れてもらうことができ、挨拶として、自分は今神学大学院に所属していて、そこで川面凡児の神道思想について研究していると述べると、学長は満面の笑みを浮かべた。そして、矢継ぎ早に色々と私に質問してきたのである。いずれの質問も洞察が深く、回答するのがこちらもとても楽しく、学長と川面凡児について楽しくおしゃべりをしていた。そのような場面があった。


改めてこの夢について思い出してみると、学長との話は本当に面白く、話が永遠に続けばいいのにと願っている自分がいたぐらいだった。欧米の神学大学院で神道について、しかも川面凡児の思想に特化して研究していることを学長は心底喜んでくれていた。今ハッとしたのは、夢の中の自分が自分を表しているだけではなく、あの学長は未来の自分かもしれないということだった。あの好奇心に満ちた目、いつまでも子供のように旺盛な好奇心と探究心を持つあの在り方、そして欧米の大学に所属して神道の研究をしているという点がどこか自分の未来の姿を思わせたのである。あれだけ以心伝心で会話が途切れることなく弾んでいたのも、きっと今の自分と未来の自分という両者が共に自分だったことに関係しているように思えてくる。未来の自分はいつまでも若々しく、そして依然として学術研究を元気一杯に楽しんでいるようで何よりだった。現実的には自分は学長を務めるような器もなければ、そうした責務ある職につくことも望んでいないが、きっと夢の中のあの学長は未来の自分を映す存在だったように思う。フローニンゲン:2023/12/31(日)06:28


11729. 来るべき新たな年に育みたい心の在り方/今朝方の夢の続き


つい今し方、オーブンで乾燥させているマッシュルームをひっくり返し、満遍なく乾燥させるようにした。そこからモーニングコーヒーを淹れて、今コーヒーの豊かな香りに包まれる形でここにいる。今日は午前10時から第23回のシロシビン・セッションを予定しているので、このフレンチプレス一杯のコーヒーが2023年最後のものになる。そのように考えてみると、今目の前にあるコーヒーの希少性が際立ってくる。しかし、そうした心の在り方は本来絶えず持っておくべきかと思う。今その瞬間に出会ったものと再び出会うことはなく、全て一期一会であるという心持ち。2024年はその心持ちをさらに育んでいきたい。今その瞬間に自分の魂が最も望むことに従事し続けること。逆に魂が望まないことには一切関与しないこと。それくらい徹底させる形で今を楽しみ、今自分がしたいと思うこの世界への貢献活動に従事していく。2024年からはますますこの在り方が先鋭化されていき、より深く育まれていくだろう。今のこの肉体と自己意識を持った人生は一回きりしかないのだから。

大晦日の朝に見ていた夢の続きとして、外国の街の塔の形をした変わった宿泊施設に宿泊していた場面があったことを思い出す。その宿泊施設にはレストランやショップを含め、なんでも揃っており、そこで生活を完結させることができた。部屋で寛いでいると、自分の口の周りに火傷のような跡があることに気づき、それを治そうと思った。ワセリンを塗って保湿させ、そこから霊気の技法を使って手かざしをした。すぐにではなくてもきっと自分であれば顔をまた綺麗な状態に戻せるだろうと思った。


気がつくともうすっかり顔が綺麗になっていて、部屋を移動して研修室のような場所にいた。そこの机は全て撤去されていて、そこに集まっている人たちが何やら変わった身体操作の練習をしていた。そこに小中高時代の親友(SI)がいて、彼に話を聞いてみるとことにした。すると今まさに古代日本人が持っていた身体感覚を取り戻すことを目的にしたワークショップが行われているとのことで、関心があったので自分も参加してみることにした。まずは準備運動がてら、その場に腰掛けて前転と後転をしていった。それによって地面と触れ合う感触を身体に覚え込ませ、前に回ることや後に回ることへの恐怖を取り除くことが目指されていた。幾分合気道の受け身の練習に似ているなと思いながら、楽しんでワークショップに参加していた。するとあるエクササイズで、親友と意見交換をする必要があるぐらいに難しいものに直面した。彼とあれこれ意見交換をしながら、何度もそのエクササイズにトライすることを通じて、ふと自分オリジナルの技が生まれた。それをワークショップの講師は目撃しており、私のところに近寄ってきて、「見事です。それが狙いだったんです」と述べた。どうやら難解なエクササイズに対して試行錯誤することを通じて、その人独自の技を見出してもらうことが目的だったのだと気付かされた。親友も彼独自の技を見出そうと思ってエクササイズに励んでいたが、オリジナリティーを出そうとするあまりに、エクササイズも技の発明もうまくいっていないようであった。フローニンゲン:2023/12/31(日)07:02


11730. 第23回のシロシビン・セッションを通じて考えたいテーマ


今日の第23回のシロシビン・セッションを通じて考えたいテーマとして、西田幾多郎の「場所」という概念が立ち現れた。ここ数日間は、量子物理学の書籍を旺盛に読んでいて、この分野においても場(filed)は重要な概念として取り扱われている。今日のセッションでは、物理場のみならず意識場について意識の片隅に留めておき、西田先生が述べるところの「場所」の概念についての理解を深めるきっかけにしたいと思う。物理場と意識場の双方の研究は、互いに良い影響をもたらし合い、それぞれの概念の理解がさらに深まるだろう。どちらの場においても、絶対無的な何かと即有が発生するという現象があるように思え、それは本当に興味深い。何もないことと全てがあることが同居している存在の一点。そのような存在がどうやらこのリアリティ宇宙にはあるようなのだ。それに触れるような体験が今日のセッションを通じてできたら幸いであるし、今後のセッションでもそうした直接知覚体験があることを望む。そうした直接体験が自分の思索の出発点となり、根幹になるのだから。

前回のシロシビン・セッションでは宇宙の淵をのぞくような体験があった。自分が宇宙空間上の淵にいる知覚体験があったのだが、厳密にはあの場所は光の届かない空間だったのではないかと思う。つまりそこもまた宇宙とみなされるような場所と言えるかもしれないし、これから光が届いて宇宙として認識される場所であると言えるかもしれない。そのように考えてみると、宇宙は光が照射された空間として捉えることができるのだろうか。宇宙の拡張は光の拡張と共にあるのだろうだろうか。はたまた宇宙は拡張も収縮もしておらず、無限の空間として始まりを持たない太古から存在し続けていて、その空間に偶然生まれた光が運動を続ける中で光の照射領域が広がっていく形で、私たちはそれを宇宙の拡張とみなしているのだろうか。いずれにせよ、あの光の届かない淵を覗けた体験は自分にとって大きなものだった。光が照射されているこちら側の宇宙と光の届かないあちら側の宇宙が垣間見える直接知覚体験ができたことは、今後の宇宙論の探究の糧になるだろう。


今日のセッションでは宇宙というよりも量子の世界に入っていくような体験ができればと思うが、ミクロ宇宙もマクロ宇宙も結局は深層部分で繋がっているのだから、今日もまたマクロ宇宙に関する何かしらの知覚体験が得られるかもしれない。フローニンゲン:2023/12/31(日)08:19


11731. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)


2023年を締め括り、そして来たる新たな年を祝う爆竹の音が鳴り響いている。その音は午前中に比べて数を増し、勢いを増している。


つい先ほど第23回のシロシビン・セッションに一応の区切りをつけ、1階の寝室から2階の書斎に戻ってきた。まだ脳も意識も体験の残りがある。ゆっくりと文章を書きながら、地に足を着けていこうと思う。どこから今日のセッションを振り返っていけばいいのか正直よくわからない。未だかつて経験したことのない深淵な体験世界に誘われ、その体験に言葉当てることが本当に難しい。取り留めもなく、体験中に降ってきた言葉を書き留めておこう。

まずは他の霊への敬意とその霊が住まう宇宙への敬意を忘れないということについてだろうか。1霊1宇宙という形で、1つの霊には1つの宇宙が対応しており、無限の霊と無限の宇宙が知覚されるという体験があった。自分もまた無限の中の1なる存在であり、今日のセッションはとにかく無限について考えさせられる内容だった。無限から出発して無限に至るような体験が何度もあった。無限について過去の偉大な哲学者や数学者たちはどのようなことをどのように考えていたのかが気になる。彼らもまた尊敬するべき霊であり、彼らの考えもまた霊なのだ。分霊というのはそういうことらしい。考えも言葉もまた分霊なのである。本当にそうとしか言いようのない知覚体験があった。


分霊で言えば、2霊の交わりを通じて新たな1霊が生まれるという神道の世界観は本当に見事としか言いようがないように思えた。自分という1霊は、両親という固有の2霊の交わりを通じて生み出された分霊であり、両親もまた分霊なのである。分霊を遡っていくことが無限に続いていき、無限に投げ出される体験があった。無限との非二元的体験は初めてのことだった。無限に投げ出される感覚は全く恐怖感を伴わず、感情的絶対無の状態であった。今日のセッションには恐怖などは全くなく、全てが絶対中庸的なものとして知覚されていた。

1霊は1意識でもあること。個別の霊は個別の意識でもあること。それが明々白々な直接的知覚体験としてあった。霊学の研究。神道とシュタイナーの霊学はやはり傑出しているように思えた。過去見てきた全ての夢と現実世界で訪れた世界各地の風景が渾然一体となって混ざり合い、1つの調和的な宇宙を作っていた。それがどうやら自分という霊の宇宙らしい。 

2023年最後のセッションは、おそらくこれからの人生でも忘れることのできない知覚体験を自らの霊に開示してくれた。それは魂を超えて霊に刻まれる体験となり、記憶となった。フローニンゲン:2023/12/31(日)15:56


11732. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その2) 

 

第23回のシロシビン・セッションを終えて、1つだけ振り返り日記を書いたところで、まだ体験が持続している感じがあったのと、セッションによる1日にファスティングを終えるべく果物を食べ、早めの夕食を摂った。年越しを祝う花火の音を聞きながら、先ほどのセッションについてゆっくり振り返っていきたい。


先ほどの体験を改めて振り返ってみると、無限と光について理解を深めなければならないという思いが真っ先に湧き上がってくる。無限と光について理解を深めないと、霊とは何かがわからないという直感的な問題意識が芽生えたのである。また、神道と言霊学についての理解を深めていくことに加え、自分にとって空海が最も重要な人物であるという直感がこれまた芽生えた。以前よりたびたび関心のあった空海。2020年には実際に高野山に行き、宿坊に宿泊して空海が生きた場所を感じる体験に恵まれた。空海の人となりと思想について解説した洋書を購入してみよう。体験について振り返るよりも先に、無限・光・空海というキーワードから何冊か学術書を探して購入することにした。今日の体験中にも関心事項として現れたブラックホールについても書籍を求めよう。それらの書籍を読みながら、書物に書かれていない事柄について自らの想像力を働かせ、自らの霊的思考力で考えを深めていく。今日の体験は、霊に始まり、霊に終わるものであった。この「霊」という言葉を用いることに違和感が全くなくなったことも自らの霊的成長の証だろう。魂を超えて霊という実在世界における存在を触知する体験を積めば積むほどに、「霊」という言霊を使わざるを得ない自分がいる。果たして霊を表すのにこれ以上の言霊はあるのだろうか。そもそも「言霊」に「霊」という文字が入っている。それだけスピリットは重要な存在なのである。スピリットは命であり、スピリットは宇宙であること。兎にも角にも自分はスピリットを尊重し、そのスピリットに対応した宇宙を尊重している。


今、近所の誰かが打ち上げてくれた花火をずっと眺めていた。時間にして2分から3分ほどの間に次々に打ち上げられた花火を窓辺に近づいてぼんやりと眺めていた。気づけば拍手をしている自分がいた。日本はもう新たな年を迎えている時間である。母国日本では年の瀬を静かに祝うが、こちらでは華やかに祝う。最初は欧米での華やかな祝い方に違和感があったが、さすがにもう12年も欧米社会で生活をする中で、そうした華やかな祝い方が魂に染み込み始めている。しかし、自分の霊は未だに静かに年越しを祝う母国のそれを愛している。フローニンゲン:2023/12/31(日)18:12


11733. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)


再び花火が打ち上がり、また窓辺に近づいて拍手をしながら花火を眺めていた。空(宇宙)に舞う花火がどこか霊の舞いに思えてきて、感慨深いものがあった。今日のシロシビン・セッションから教えてもらったこと。それは無限宇宙の中にある無限の可能性の1つの顕現としての霊の尊さだった。霊を敬い、霊を大切にする教育を取り戻さなければならない。それをこれからの子供と大人に提供していくこと。その大切さを深く思う。魂を超えて霊を大切にするシュタイナー教育への敬意。本来は礼だけではなく霊を大切にしていたであろう神道の精神が体現された太古の日本の教育。現代の時代精神とコンテクストに迎合する形ではなく、調和する形で霊を大切にする神道的な教育を取り戻せないだろうか。そのようなことを考えていた。あえて「日本的」や「和的」と表現しなかったのは、それでは霊への敬意が足りず、霊を育むことができないと思ったからだろう。「カミの道」としての神道という言葉をもう一度取り戻さなければならない。それはもちろんかつての国家神道的な意味ではなく、時代区分でいえば縄文時代にまで遡るような宇宙論と意識論が体現された神道の世界観を体現したものである。今日のセッションで何度縄文時代と縄文人のことを思っただろうか。彼らの世界観と生き方、そして彼らの霊について何度ビジョンが知覚され、何度触知的体感があっただろうか。取り急ぎ、無限、光、空海、ブラックホールに関する学術書以外にも、縄文時代に関する学術書も購入することにした。また、改めて意識と宇宙に関する書籍、鈴木大拙氏の仏教解説書、西谷啓治の宗教哲学に関する書籍を購入することにした。年明け早々に下記の23冊の書籍を注文しよう。


1. Kukai On The Philosophy Of Language

2. Kukai: Major Works

3. The Weaving of Mantra

4. Consciousness and Quantum Mechanics (Philosophy of Mind) 

5. Consciousness and the Universe: Quantum Physics, Evolution, Brain & Mind

6. Studies in the Lankavatara Sutra

7. The Lankavatara Sutra: A Mahayana Text 

8. Outlines of Mahayana Buddhism 

9. Consciousness: Creeping Up on the Hard Problem

10. The Religious Philosophy of Nishitani Keiji: Encounter with Emptiness

11. Ancient Jomon of Japan 

12. Prehistoric Japan: New Perspectives On Insular East Asia

13. Japanese Prehistory: The Material and Spiritual Culture of the Jōmon Period

14. The Future of the Mind: The Scientific Quest to Understand, Enhance, and Empower the Mind 

15. Infinity: A Very Short Introduction

16. Nothing: A Very Short Introduction

17. Black Holes: A Very Short Introduction

18. Brief History of Infinity: The Quest to Think the Unthinkable

19. The Infinite (3rd ed)

20. Infinity and the Mind: The Science and Philosophy of the Infinite

21. Beyond Infinity: An expedition to the outer limits of the mathematical universe

22. What is Light?: Wave Theory of Light and Origins of Ether in Science

23. The Edge of Infinity: Supermassive Black Holes in the Universe

フローニンゲン:2023/12/31(日)18:26


11734. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その4) 

 

今日のシロシビン・セッションは、本当に未だかつてないほどの深い体験だった。このような体験が人間存在に可能なのかと思わされるぐらいの体験で、それは過大表現も過少表現もしていない。それ以上でも以下でもない中庸表現である。


「目撃者の意識」という言葉が大そう陳腐に思えてしまうほどに、自己が自己として、いや自らの霊が自らの霊として絶えずありありとそこにいる感覚がずっとあった。そしてそれが宇宙に溶け込み、一体化する時間が長く続いた。もう完全に自分は全てを明け渡していた。体験中、仮に肉体の死が訪れてもそれでいいと思っていた。むしろ肉体的な死が訪れても、このありありとした濃度を保つ自己霊の存在は消えないという確証があった。事実、ピーク体験中の自己のグロスボディの感覚は一切なく、霊的身体としての自己霊がただ存在していただけである。


この宇宙は1つではなく、無限個の宇宙が存在していて、それは結局霊の数でもあるのだと思った。また逆に言えば、霊の数だけ宇宙が存在しているという確信があった。結局自分は日々、自らの霊として自らの宇宙を生きながら、他の多様な霊と交流し、自分の宇宙が彼らの霊的宇宙と交差して存在しているのがこの社会的リアリティなのだと分かった。さらには、本来は霊に良し悪しはなく、霊に下級も高級もないという確認があった。霊は霊であり、それは同じ基底価値を持っている。しかし霊がひとたび活動し出すと、霊の下層構造の魂や心の働き、さらには身体の働きによって、質的差異が生まれ、霊にも階層構造が自然と生じることが分かった。どうやらそれは宇宙の摂理らしい。宇宙は階層構造を生み出すように運動しているというのは、複雑性科学の種々の発見事項とも合致するし、心の世界においても質的差異という階層構造が生まれるというのは発達心理学が示す通りである。霊学的な洞察として降ってきたのは、本来は霊に良し悪しもないが、現代社会はどうやら悪霊が跋扈しているらしいということだった。人それぞれに固有の霊は輝きを失い、悪霊に成り下がってしまっている。そうした悪霊を祓うのではなく、悪霊を善霊に浄化していく取り組みに従事するのがどうやら自分の霊的役目だということに気付かされた。表面上は堅牢な形式を採用して行うここからの自分の学術研究も、そしてサイケデリック実践も、そうした霊的使命を全うするためなのだということに大いに眼を開かされた。それは紛れもなく、自らの霊が大いに開かされたことを意味していた。


もう1点、今日のセッションを通じての注意事項は、とにかく謙虚であれということだった。謙虚さを忘れてはらない。霊は本来謙虚な存在である。サイケデリックセッションを通じて意識が拡張し、霊が開かれてくるのは必然的に生じる現象だが、それが自我の拡張にならないように注意が必要である。おそらく霊が開かれるとそれに紐づく自我も拡張されるのは仕方のないことだと思うが、重要なことは肥大化した自我に霊が飲まれないようにすることだ。今日のセッションでは無事に、肥大化した自我に霊が飲まれることはなく、霊の存在濃度がむしろ増す形で絶えず今この瞬間にあり続けていたのが印象的だった。フローニンゲン:2023/12/31(日)18:42


11735. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)   

   

今、机の電気を消して、机の上のキャンドルに灯りを灯してそれを眺めながらこの日記を綴っている。今日のセッションのテクニカルなことと環境設定についても振り返っておきたい。テクニカルな側面としては、今日の服用量は「英雄の服用量」である5.0gを少し上回る5.2gほどの摂取量だった。瓶を開けてみて気づいたのは、今回の瓶のマッシュルームは完全に乾燥されていて、青く変色することなく、シロシビンが死滅していない様子だった。逆に7日前の前回のセッションがなぜそれほど深い体験にならなかったのかと言えば、摂取したマッシュルームの乾燥が不十分で、劣化していたからだと分かったのである。ここでも完全乾燥させることの大切さを思った。オーブンで50度の設定で15時間ほどは乾燥させたほうがいいことが分かったし、可能であればさらに長い時間念には念を押す形で乾燥させることが望ましいことが分かった。完全乾燥させると保存が効き、今日摂取したのは12/10に収穫したもので、収穫から20日経っても完全乾燥であれば全く質的に劣化しておらず、効力は強いままであった。今後のために繰り返し強調しておきたいのは、マッシュルームはこれでもかというほどに完全乾燥させることである。そうすればシロシビンの効力を失うことなく保存が効き、継続的なセッションを組み立てていくのに便利である。


摂取の仕方に関して言えば、前回と前々回は白湯に八丁味噌を加えたものと和えて摂取していたが、今回はマサテコ族の伝統に則り、オーガニックのカカオパウダーを白湯に溶かしたものに和えた。これまでと少し違う工夫としては、そこにヘンプパウダーと蜂蜜を加えたことである。糖がシロシビンの効力を弱めてしまうと聞いていたので、蜂蜜を使うことにこれまで抵抗があったが、どうやら砂糖の糖と蜂蜜の糖は種類が異なるらしく、前者はショ糖であるのに対し、後者は果糖とブドウ糖が主たる糖分で、そのため蜂蜜を加えても効力が減じることがなかったのだと思う。むしろ今回はカカオの力のおかげか、本当に深い体験に誘われた。今後のシロシビン・セッションにおいては、確かに八丁味噌との組み合わせは味として抜群だが、カカオ・ヘンプ・蜂蜜の三位一体の組み合わせを採用していきたいと思う。

最初にカカオ・ヘンプ・蜂蜜のドリンクを作って、そこに刻んだマッシュルームを入れるという順番を採用することによって、シロシビンがより活性化される形で体内に取り入れられたのではないかと思う。シロシビンは72度以上のお湯をかけると死んでいってしまうので、ぬるいぐらいの(50~60度ぐらい)のお湯でドリンクを作り、そこに刻んだマッシュルームを入れていく形が最善かと思う。今日はそうしてみて結果的に非常にうまくいった。

それと環境設定で重要な音楽の観点で言えば、今日は結局自然音のプレイリストではなく、宇宙に関する音楽のプレイリストをかけた。結果的にそれは大変功を奏し、過去最も深い体験が得られたように思う。かつての5回のアヤワスカ体験を遥かに凌ぎ、LSDやDMTの体験をも凌ぐものだったように思う。それだけ意義深く、これ以上にない宇宙的な体験をさせてもらった形で年の瀬を迎えることができた幸せに感謝したい。フローニンゲン:2023/12/31(日)19:10


11736. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その6) 


今日のセッション中、自分は意識・宇宙及び霊と霊的世界の探究のためなら、肉体的な死さえ惜しくないと思った。もちろんこの肉体は重要なのだが、肉体後にも存在する霊の存在に目覚めてからは、肉体を霊の宿る器として大切にしながらも、いずれ来るであろう肉体的な死の前に、霊的存在への目覚めを完全確立させておく必要があると思った。シロシビン・セッションは自分の命をかけた実験的実践である。肉体は確かに大切な存在なのだが、仮にそれが霊的存在の顕現や霊的世界の探究の足枷になるようだったら、肉体を喜んで差し出す覚悟がある。肉体に宿る命を超えた霊にありありと宿る命を捉えている自己がいる。


今日は無限への目覚めと光への目覚めがあった。無限の哲学と光の哲学の探究、さらには無限の神学と光の神学の探究に自然と誘われる。存在は全て霊なのだが、興味深いことに今日のセッションで降ってきた直観及び直感はそれに加えて、存在は無限であり、光であるということだった。まずは無限について哲学と数学の観点から研究を進めるべく、いくつかの学術書を購入することにした。また、そもそも光とは何ぞやということについて自分は全く理解していないと思ったので、光については物理学のテキストを購入することにした。もちろんそれらの学術書を読むだけでは無限と光の全てを知ることはできない。学術的な研究に加えて、継続的なシロシビン・セッションを通じた直接体験を積むことと、体験を咀嚼する内省の実践がとにかく重要になるだろう。


光の神学に関しては神道がその説明が最も詳しいように思う。神道は経典を持たないが、川面凡児先生を含め、一流の神秘神道家はみんな光について語っている。彼らの光と霊を関連付けた洞察は本当に秀一である。当面は川面神道神学を骨子に据えて、自らの霊と光がより輝くように、川面神道神学をゆっくりと深掘りをしていく。その過程で、光と霊を体現した在り方と生き方がさらに醸成されていくであろう。国粋的に響くかもしれないが、やはり自分という霊が日出ずる国に生まれた深層的な意味があることを深く実感させられたセッションだった。無限にある可能宇宙の中の1つの宇宙の中にある日本という国に自分という霊が舞い降りたのだというこれ以上にない実存的・霊的感覚が得られたことは一生の財産であり、今後の人生の大きな実存的・霊的支柱になるだろう。フローニンゲン:2023/12/31(日)19:24


11737. 第23回のシロシビン・セッションの振り返り(その7)


先ほど入浴を済ませ、この日記を書いたら今日はもう就寝しよう。2023年最後の入浴は深く寛ぎを与えてくれるものであり、来たる2024年への禊になったように思う。就寝前に、今日のシロシビン・セッションの最後の振り返りをしておきたい。兎にも角にも過去30回強ほどのサイケデリック・セッションの中で、今日ほど霊的で、今日ほど深い体験は未だかつてなかった。再三それを述べているが、それほどの体験をさせてもらったことに対して天へ感謝したいし、その体験を通過した自己の霊にも感謝したい。


自分の学術研究を表観すれば、意識・宇宙・サイケデリクスという三位一体を哲学・科学・神学という三位一体を通じて研究することだと言える。これを裏観すれば、霊・光・無限という三位一体を霊学という学問を通じて研究することだと言えることに気づかせてもらったのは、今日のシロシビン・セッションの最大の贈り物の1つだった。当面はあえて「サイケデリック学者」と名乗って研究と実践を続けていくが、真意は常に「霊学者」であり、自らは「霊学徒」だという自覚を忘れないようにしたい。現代社会おいては、サイケデリクスという言葉への社会的スティグマに加え、霊という言葉への社会的スティグマが根強くある。そうした現状を鑑みて、あえて今は後者の言葉は心の中で温め、前者の言葉はすでに積極的に公共空間で使っている自分がいるため、引き続きサイケデリクスという言葉は活動の前面に出していく。 


この物理的現象世界で多様な存在と触れ合うというのは、霊の交わりであり、霊的交流であるということ。食物をいただく際には食物という霊との交流があり、他者との対話においてはそこにも他者の霊との交流がある。全てはスピリットの交流であり、自分はその遊戯に興じているのだ。その交流が全ての存在及び霊にとって最良のものになるような取り組みに従事していくこと。それが自分の使命である。


今日のセッションで印象的だったのは、自分の意識が完全に過去の記憶世界と過去の夢の世界と融和したことだった。そんな現象があるのかと驚かされたが、意識という器はそれを抱擁できるぐらいに広く深いものだったのだ。おそらく今夜もまた何か夢を見るだろう。2023年と2024年を跨ぐ時間に見る夢もまた、その体験は夢の世界に留まらず、こちらの世界に融和流入してくるだろう。


自分の意識はこれからも拡張を続けていく。その拡張に終わりはなく、無限に拡張していく。そうした拡張する意識の一点根幹に自分の霊がいる。それは永遠に不滅のもので、輪廻転生からも脱却した存在だと自覚された。おそらくこの自覚がない場合に、霊の下位階層の魂が輪廻転生を繰り返していくのだろう。とにかく自分の霊は永遠と無限を体現していることを教えてもらえたことに深い感謝の念を抱く。その念を抱きながら就寝に向かおう。フローニンゲン:2023/12/31(日)20:49

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