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【サイケデリック学探究記】11691-11697:2023年12月25日(月)



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タイトル一覧

11691. 第22回のシロシビン・セッションから一夜が明けて

11692. 今朝方の夢

11693. 今朝方の夢の続き

11694. 意味構築活動の促進を促すサイケデリクス/サイケデリック研究の面白さ

11695. 無限について/意識と宇宙の関係性

11696. 久しぶりにフローニンゲン郊外を走って

11697. 自然音の恵み/豊かな時間感覚へ/ルーミーの詩から

11691. 第22回のシロシビン・セッションから一夜が明けて


時刻は午前5時を迎えようとしている。昨日の第22回のシロシビン・セッションから一夜が明け(まだ夜明け前だが)、今、清々しい気持ちでこの瞬間に佇んでいる自己がいる。改めて昨日のセッションを振り返ると、非二元の意識状態や悟り・涅槃の体験こそなかったものの、セッションから得られた気づきや洞察としては多大なものがあった。シロシビンを含めたサイケデリクスのセッションの面白さの1つは、体験が毎回異なることを挙げることができるだろう。 セット・セッティング・服用量とその他の要因次第で、体験が千差万別に異なる。どのような体験になるかは誰にもわからず、体験内容をコントロールすることはおそらく不可能だと思われる。もちろんセッション前の事前の意図や目的によって、ある程度体験内容の方向性を形成していくことはできるかもしれないが、往々にしてサイケデリック・セッションはこちらの意図や目的を超えた働きかけをしてくる。だからこそ深層的な治癒や変容が得られる可能性があるのであり、だからこそ気をつけなければならないことがあるのだ。


今日の探究活動においては、昨日の体験をさらに有意義なものにしていくために、体験中に得られたテーマに関する書籍を積極的に読んでいこうと思う。そうした読書に加えて、来年の初旬から動き出しそうなサイケデリクスに関心を持っているある大企業との協働に向けて、デイヴィッド・ナット教授が出版したサイケデリクスの歴史と規制の状況、そしてサイケデリクス全般についてコンパクトかつ見事に解説している“Psychedelics as psychiatric medications”を読み返しておきたいと思う。 


今日の予定としては、本日はジムが休みなので、午後に自宅で筋力トレーニングに励みたいと思う。今日もクリスマスということで閉まっているお店が多く、行きつけのオーガニックスーパーのEkoplazaも今日と明日は休みのようだ。祝日もよく開いているJumboというスーパーも今日は休みのようだ。今日はどこもかしこもお店が休みのようなので、静かに家で過ごしたい。読書に励み、午後に筋力トレーニングに励むような1日とすれば、昨日の体験を地に足をつけることにつながるはずである。フローニンゲン:2023/12/25(月)05:05


11692. 今朝方の夢   


第22回のシロシビン・セッションを終えたその日の夜に見ていた夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、アメリカの俳優ローレンス・フィッシュバーンによく似た男性と話をしていた。本当のローレンス・フィッシュバーンはかなり身長が高いが、その男性は私の腰の高さまでしか身長がなく、とても背が低かった。しかし、顔はもうローレンス・フィッシュバーンと瓜二つで、どこか迫力があった。彼は日本の大学院を卒業しているらしく、現在は日本の会社に勤めていると話をしてくれた。自分も経験しているが、大学院からの留学の場合、学部からの留学と決定的に違うのは、その国の言語を伸ばすのにさらに努力が必要だということだ。その男性も学部からではなく修士課程から日本の大学院に留学したこともあって、日本語を習得するのに相当苦労したそうだった。その話を聞いて、自分自身のアメリカでの大学院留学の際の苦労を思い出し、彼には大変共感した。その共感の思いを彼に伝えると、彼もまた私に共感の念を持ってくれて、とても親密な関係がすぐさま醸成された。そこから私たちは薄暗くなってきた街をぶらぶらと歩いていると、彼の職場に近づいてきて、彼はこれからまたオフィスに戻るとのことだったのでその場で別れた。


彼と別れた後、オフィス街の路地裏を引き続き歩いていると、100m先ぐらいのところで銃声が鳴り、人が倒れ、近くにいた人たちの悲鳴が聞こえた。目を凝らすと、なんと発砲事件のようで、発砲した人物がこちらに向かって走ってきているのに気づき、すぐさま私はその場から立ち去ることにした。犯人らしき人物は、私を目撃者だと思い、私を追いかけてきているかもしれないと思ったので、全力でその場から立ち去ることをした。無我夢中で走っている最中にも、犯人が追いかけづらいように、入り組んだ道を選んで逃走することにした。しばらく走り続けているともう犯人が追ってこないことに気づいたのでそこで一息ついた。気がつくと私は公園にいて、公園の立派な数本の木の周りに人が集まっていて、何かトレーニングをしているようだった。武術か何かのトレーニングにも見えたのだが、どうやら自己啓発セミナーの一環で身体を鍛えているらしく、講師と思われる男性がどことなく胡散臭く、あまりかかわらないようにしようと思った。するとどういうわけかいつの間にか自分は木の上にいて、参加者と同じトレーニングに従事していたのである。参加者と思われたくなかったので、私はこっそりとその場から抜け出すように空を飛んだ。すると、講師の男性が私に気づいたが、空をもう飛んでいるのでどうしようもないと判断したらしく、私を追ってくることはなかった。そこからしばらく空を飛んで、美しい河川敷にやってきた。そこで地上に降りて散歩をしていると、通りに出た。見るとそこは京都のようで、桜の開花が始まっていてとても美しかった。近くにいた観光客の3人の女性のうち、1人は現地に住んでいて2人の友人のガイド役を務めているようで、「今はまだ満開じゃないけど、もう少ししたらもっと美しく桜一面の景色が広がるのよ」と述べていた。その言葉を聞いて、まだ満開ではない桜でさこのような美しさなのだから、満開になったらどれだけ美しいのだろうかと想像して、想像された美しさに恍惚感を感じ、思わず笑みがこぼれた。フローニンゲン:2023/12/25(月)05:24


11693. 今朝方の夢の続き


時刻は午前7時を迎えた。今、モーニングコーヒーを片手にこの日記を綴っている。コーヒーの味わい深い味と香りに誘われて、今朝方の夢の続きを思い出したので、それについても書き留めておこうと思う。


夢の中で私は、見慣れない会議室のような場所にいた。そこには10人ぐらいのサイケデリック研究者たちが集まっていて、どうやら欧米の大学機関でよく行われている「ジャーナルクラブ」がそこで行われているようだった。ジャーナルクラブというのは、それぞれの研究者が興味深い査読付き論文を持ち寄って、担当者がその論文の内容を紹介し、そこから参加者が侃々諤々の議論を楽しむというものである。その目的としては、先端的な研究を仲間に共有するだけではなく、その研究の問題点などを指摘し合いながら、さらに有意義な研究につなげていくということがある。さらには、それぞれの研究者が自身の研究を発展させていくための新たな観点やアイデアを持ち帰るということも目的の1つである。そうした目的を持つサイケデリック研究者だけが集まったジャーナルクラブに私は参加していた。周りを見渡すと、私が最年少のようであったし、唯一のアジア系のようだった。他の参加者は研究実績の豊富な欧米人の年長者ばかりだった。だが私は少しも物怖じすることなく、自分が選定した論文の紹介をしていた。その紹介が好評を得て、そこからの議論は大いに盛り上がった。その論文が対象にしていたサイケデリクスはアヤワスカで、単に文化人類学的な観点や歴史の観点からアヤワスカを紐解くのではなく、心の哲学との接続や宇宙論との接続の観点で議論が盛り上がったことは印象的であった。そもそもこのジャーナルクラブは自分が発起人であったから、物怖じすることは論外であり、むしろ経験豊富な研究者たちを束ねる若きリーダーとして自分は振る舞っていた。その功績が買われたのか、自分が所属している大学でローンチされた学際的なアプローチでサイケデリクスを研究していくプログラムの主要メンバーに選ばれ、そこでもリーダーシップを発揮することが期待されていた。私はその役割を心底嬉しく引き受けて、これからのサイケデリック研究と実践がさらに加速度的に深まっていくであろうことを確信した。そのような場面があった。この夢が正夢になってくれることを願う。何かその可能性がありそうだという予感がする。この世界のどこかの大学で、自らが主導的な立場となってジャーナルクラブやサイケデリック研究部隊を率いている姿がイメージされる。このビジョンがいつか本当に実現されることに向けて、今日もまた探究活動に打ち込んでいこう。フローニンゲン:2023/12/25(月)07:27


11694. 意味構築活動の促進を促すサイケデリクス/サイケデリック研究の面白さ   


いくつかの実証研究が示しているように、サイケデリクスには創造性を高めたり、自己探求を促進したりする働きがあるのだが、それに加えて、新たなかつ洞察のある意味構築活動を促してくれることは非常に大きな効果かと思う。まさに発達心理学者のロバート・キーガンが述べているように、私たちは意味を構築する生き物であり、意味の構築構造がシフトすることは発達の証であることを考えると、サイケデリクスを通じた意味構築活動の促進は見逃せない。それはサイケデリクスが持つ潜在的な発達効果だと述べていいだろう。当然ながらどのような意味を汲み取り、そしてそれをどのように深めていくのかの継続実践が発達の実現に欠かせないが、サイケデリクスの摂取が現状の意味構築活動の負の連鎖から私たちを脱却させてくれ、新たな意味構築活動の次元に誘ってくれる点に注目したい。


日々サイケデリック研究に従事する中で、サイケデリック研究の面白さとして1つ外せないのは、そこに自らの体験を伴う実験的な要素があることだろうか。サイケデリクスを自ら摂取し、その直接体験をもとに研究を進めていけるというまさに実験的学問としての性質が強いのがサイケデリック研究の特徴と言える。もちろんサイケデリクスを摂取しない形でサイケデリック研究に従事することは可能だが、そこには直接体験の欠落による限界があることを指摘しておきたい。逆にサイケデリクスを摂取するという実験的な要素を取り入れる場合には、自らの体験によるバイアスを生むことにも注意が必要である。しかしそうしたバイアスがあるからこそ深い研究が行える可能性もあるので、なかなか難しい問題ではある。いずれにせよ、自分はサイケデリクスを自ら摂取し、実験から得られたことを学問研究の重要な導線にしていく方法を採用している。


その他の面白さとしては、サイケデリクスを摂取した他者の多様な体験談を聞くことによって、自分の体験の振り返りに繋がり、新たな世界観や認識が開けてくることにあると言えるだろうか。他人のサイケデリック体験を聞くことによって、自分の研究の盲点が見えてきたり、新たな研究アイデアが閃くことはしばしば起こる。というよりもほぼ毎回それが起こると言ってもいいだろう。今後も積極的にサイケデリック体験について世間に公開・共有していくことで、サイケデリック体験があるがなかなかそれを話すことができないという人と数多く繋がることができたらと思う。体験について語れないというのは不幸なことであり、体験を抑圧してしまうことによって、せっかくの治癒と変容が逆の効果を引き起こしかねないことを危惧する。現状の日本のサイケデリクスを取り巻く環境はそれを助長している。フローニンゲン:2023/12/25(月)08:00


11695. 無限について/意識と宇宙の関係性       


サイケデリック体験において異なるリアリティに参入する際に、そこに無限の宇宙次元を知覚するのは、そもそもこの宇宙が無数の量子次元を持っているからなのかもしれない。内面宇宙と外面宇宙のつながりを考えさせられる。それで言えば、物理世界で無限が生じるというのはどういうことなのだろうかということをふと思った。宇宙が無限に広いということを思う時、物理的な世界の無限性を身体的に把握することの困難さが生じ、それがまた興味深い。無限を身体的に捉えるにはどうすればいいのだろうか。知的に捉える際には、無限は単に果てしないものという感じを与えるが、それを身体次元で捉えようとすると、どうも無限というのは捉え所のないものに感じられる。物理宇宙が無限に広いというのはどういうことなのだろうかという謎は尽きない。


一方の内面宇宙における無限性は、身体感覚としても掴むことがなんとなく可能である。際限なく湧き上がってくる思念や意識の広さなど、それは無限を体現していて、その無限であれば自分ごととして把握することができる。ここからはきっと、物理宇宙の無限性を自分ごととして捉えられるようになってくることがサイケデリック研究と実践の焦点になりそうである。


宇宙が究極的な意識を生み出したのではなく、究極的な意識が宇宙を生み出したという方向性で考えると、意識は無限な広がりと深さを持つことから、外面宇宙が無限の広がりを持つというのは理解できる。宇宙が意識を生み出したのではなく、意識が宇宙を生み出したという発想は、川面凡児先生の神道宇宙論とも繋がるし、バーナード・カストラップの意識論とも繋がるように思える。物質が意識を生み出したのではなく、意識が物質を生み出したという発想をとれば、物理宇宙が意識を生み出したのではなく、その逆であると考えることができる。このあたりを科学的に証明しようとすると、どのような手続きが必要なのだろうか。仮に既存の研究結果でそれを裏付けるようなものがないかも調査してみよう。フローニンゲン:2023/12/25(月)10:14


11696. 久しぶりにフローニンゲン郊外を走って 


時刻は午後4時を迎えた。先ほどジョギングから帰ってきてシャワーを浴びて今に至る。今日はクリスマスということでジムが休みだったので、久しぶりにフローニンゲンの街をランニングした。街の中心部は見慣れた景色なので、今日は郊外の方に向かって走って行った。具体的には、フローニンゲン大学のザーニケキャンパス(ノーベル賞を受賞者のフリッツ・ザーニケ(1888-1966)の名前が付けられたキャンパス)に走って向かった。そこはかつてフローニンゲン大学の期末試験の会場となっていた場所でもあり、イノベーションセンターでかつて研究インターンをしていた時もそこがオフィスだったのでとても懐かしく思えた。今日は祝日ということもあり、キャンパスに向かうまでの道のりで人に会うことは少なく、行き交う車もほとんどなかった。なので大変走りやすい環境であった。ジムでは室温がコントロールされていて、外の気温よりも高いので、ランニングを終える頃にはかなりの汗をかくのだが、外は相当に冷えていたこともあり、発汗量はジムよりも少なかった。しかし良い汗を流せたことは間違いない。距離としてもジムでのランニングマシンよりもさらに長くし、時間も15分ぐらい長めに走った。ジムでのランニングは景色が一定だが、外では景色が変わることもあり、飽きることなく気がつけば時間が経っていたという感じになる。たまには外で走るのも良いものだと思った。もちろん外だと天候や空気の綺麗さなどの問題があり、車の排気ガスを吸ってしまって健康にあまり良くない側面もある。また、信号機などで捕まる場合にはリズムが乱れてしまうという難点があるのは確かだが、天気が良く、空気が綺麗できちんとランニングコースがある環境であれば、今後も積極的に外で走りたいと思うような体験だった。少なくとも元旦もまたジムが休みなので、その日も雨が降っていなければ今日と同じコースを走りたいと思う。


ランニングの前には、自宅で上半身に焦点を当てて筋力トレーニングをした。有酸素運動の前に筋力トレーニングをするのがコツであると聞いたので、その通りの順番をいつも採用している。木曜日には今年最後のパーソナルトレーニングがあり、そこでは年末最後なので体を限界まで追い込んでこようと思っている。それに向けて今日は少し軽めの筋力トレーニングにして、先週の木曜日のトレーニングの筋疲労を回復させることを意識した。上半身は自宅での筋力トレーニングで刺激を入れ、下半身はランニングで鍛える形となった。ランニングの距離も時間もジムでのものより長かったので、カロリーは結構消費されたであろうから、今夜の夕食も非常に美味しくいただけるに違いない。自分の足で走ることによって、昨日のシロシビン・セッションの体験がまた地に足のついたものになったように思う。フローニンゲン:2023/12/25(月)16:14


11697. 自然音の恵み/豊かな時間感覚へ/ルーミーの詩から


小鳥たちがクリスマスを祝福するかのように日没前のこの時間に美しい鳴き声を上げている。彼らの泣き声は本当に心を落ち着かせてくれる。それで言えば、今日から昨日のシロシビン・セッションで得られた気づきを早速実行に移し始めた。端的には、書斎での探究活動におけるBGMをクラシック音楽から自然音に変えたのである。森の音や海の音の心地良さに身を浸しながら読書をすると、集中力がさらに高まった状態でそれを行えているように感じた。自然音には人の手で作曲された音楽にはない程よい複雑性がある。その複雑性が脳に心地良く、気がつけば読書に没頭しているような状態で時間が進んでいった。今後も自然音の恵みに木浴したい。


時間の観点で言えば、今後のシロシビン・セッションでは、セッション中の超越体験における時間に対して、「時間感覚が消失している状態」と大雑把に括るのではなく、超越的な時間、非線形的な時間、円環的な時間など、もっと豊かな語彙で捉えていこうと思う。そのためには時間に対するより微細な感覚が必要となり、時間に関する哲学を学んでいく必要がある。さらには音楽や踊りといった時間に関係する芸術作品もより意識的に親しんでいこうと思う。


今日は午後にルーミーの詩集を久しぶりに眺めていた。その中でルーミーが、「もし超越的な存在と共にいないのであれば、あなたは孤独である。しかしもし超越的な存在と共にいれば、あなたは孤独ではない」というような意味の詩を残していることを知った。この詩に深く共感する自分がいた。超越的な存在と共にいない者は絶えず孤独である。だが自分は、超越的な存在と絶えず繋がっているから孤独を感じないのだ。本当にこの数年間は孤独を感じることはない。孤独を超越し、孤高の境地に入っているような感覚であり、孤高という高みに到達することはすなわち超越的な存在と共にあることと同義のように思えてくる。ここから日が暮れて闇夜がやってきても自分は孤独を感じることはないだろう。自分のそばには常に超越的な存在がいてくれており、また自分は超越的な存在と絶えず一体化しているのだから。フローニンゲン:2023/12/25(月)16:26

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